『 中山道を歩く (2) - 蕨宿・浦和宿  』





(2) 蕨宿(わらびしゅく)

都営地下鉄三田線本蓮沼駅から少し行くと右側に南蔵院という古い寺がある。 
境内には庚申塔や馬頭観音など、多くの石仏が祀られていた。  

説明板 「南蔵院」  
「 真言宗、寶勝山蓮光寺と号する。 本尊は十一面観世音菩薩、弘法大師がお護摩の灰 をもってご自作された自像、また行基菩薩作の阿弥陀像と伝えられる各像を安置する。  当寺はもと荒川の近くの志村坂下に創建され、開基を新井三郎盛久の一族が戦国の 戦乱を避けてここに土着し建立したという。 享保七年(1722)、八代将軍吉宗が 戸田川(荒川)で鷹狩りを行った時御膳所と定められた由緒ある寺であるが、度重なる 荒川の氾濫のため寺宝の一切を失ってしまった。 享保九年(1724)、この水禍を避ける ため、氏神と共に現在丘上に移った。 神仏混交の時代、この寺が別当していた氷川 神社を俗に「十度の宮」と呼んでいた。 出水の都度流失し、社殿が移転した結果の 呼称である。 その後、隣寺金剛院を合併し現在に至る。       平成四年三月   板橋区教育委員会   」

志村警察前を過ぎると、志村警察署前(志村一里塚)交叉点の手前の道の両側に 一里塚が残っている。 

 * 志村一里塚は日本橋から三里目の一里塚である。  両側にほぼ完全な姿で残っている一里塚は稀で、都内では北区西ヶ原のものと 二ヶ所のみである。 国の史跡に指定されていて、現在の榎は三代目だというが、 わりと大きく育っていた。 

国道を上ると道の左側に志村坂上の商店街が拡がり、飲食店もある。 その先が 志村坂上交叉点。 右斜めの高台に総泉寺があり、「清水薬師如来」の石碑がある。   

 * 総泉寺の場所に江戸時代には大善寺という曹洞宗の寺院が あった。 八代将軍、徳川吉宗がこのあたりで鷹狩をした時、この寺に立ち寄り、 境内に湧き出す清水を誉め、本尊の薬師如来に清水薬師と命名した。 江戸名所図会 でも紹介されていて、信仰と憩いの場所として賑わったが、昭和初期に総泉寺が 移転してきて、大善寺と一緒になった。 総泉寺の境内の奥に庭園があり、 薬師水があるが、清水坂はここからきているのだろう。 

南蔵院
     志村一里塚      総泉寺
南蔵院(庚申塔や馬頭観音など)
志村一里塚
総泉寺


志村坂上交叉点に戻る。 中山道はここで国道と分かれ、左斜め、白く変わった 建物の志村坂上交番とみずほ銀行の間の道に入り少し行くと左側に 公文式志村坂上教室があり、電柱の脇に「清水坂」の石柱がある。 

 * 説明板 「清水坂」  
「 日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所、隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と時代とともに その名を変えました。 この坂は急で、途中大きく曲っていて、街道で唯一富士を右手 に一望できる名所であったと言われています。 坂の下には板橋宿と蕨宿を繋ぐ 合いの宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡し が増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。 この辺りは 昭和三十年代までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通など 都市化の波によって姿を変えました。  平成十二年三月 板橋区教育委員会  」  

ここから坂が急になるが、その角の庚申庵の前には道標と庚申塔が立っている。  ここは中山道と富士大山道が分岐する追分であった。 

 * 説明板 「富士大山道と庚申塔」  
「 この場所は中山道から富士、大山道の分岐する場所でした。 
向かって左側の道標(道しるべ)は寛政四年(1792)に建てられたもので、 正面には 「是より大山道 并(ならびに)ねりま 川こえ(川越)みち 」と刻まれて います。  右側の庚申塔は万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に 「是ヨリ富士山 大山道」とあり、練馬、柳沢(西東京市)、府中への距離が示されて います。 この二基の石造物は江戸時代の交通や信仰を物語る貴重な存在であり、昭和 五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。  平成十七年三月板橋区教育委員会  」  

中山道最初の難所の清水坂を右そして左と曲がりながら下っていく。 
江戸時代、この辺りで唯一富士山が右手に見えるということで名所になっていたが、 周囲は住宅が密集し、また富士の姿を見ることはできなかった。 
道が左に大きくカーブすると次の三叉路で右折するが、ここに先程と同じ、「 清水坂」と道標が立っていて、右は戸田、左は板橋と彫られている。 

道標「清水坂」
     道標と庚申塔      道標「清水坂」
道標「清水坂」
富士大山道道標と庚申塔
道標「清水坂」と説明板


中山道は国道に合流するが、次の志村三丁目交叉点で国道を歩道橋で渡ると、 志村坂公園があり、その奥に妙徳寺、北方に總泉寺がある。 
中山道は左右の環状8号線を越え、国道17号の右側に並行している道である。 
この道は五百メートル程で、国道に合流し、志村坂下交叉点に至る。  江戸時代、板橋宿と蕨宿の合の宿(間の宿ともいう)にあった志村名主屋敷や立場茶屋 などはの表示や足跡は残っていないが、この道の両側か、国道と合流した後の志村坂 下交叉点の先に三軒屋や二軒屋のバス停名などがあるので、この辺りに茶屋が点在 していたことが考えられる。 

国道17号に進み、河岸川に架かる志村橋を渡ると道はかなり下りになる。  JRの線路が接近してくるとJR浮間舟渡駅も近く、戸田橋の入口に到着する。 
江戸時代には戸田の渡しで戸田川を渡り、蕨宿に向って行った。 
板橋宿と蕨宿の間に流れる荒川は戸田川と呼ばれ、幕府は江戸を護るために橋を架 けず、渡船であった。 浮世絵師の英泉が描いた戸田川の渡しは今の戸田橋より 百メートル下流である。 
現在、「戸田渡し場跡」の碑は河岸を行き、JRの線路を越えたあたりにあるようだが、 訪れていない。 
戸田橋の上に「東京都板橋区」の県境を示す表示板と「日本橋まで16q」の表示 がある。 

志村坂公園
     三軒屋バス停      戸田橋
志村坂公園
三軒屋バス停
戸田橋を渡る


戸田橋を渡り、川岸一丁目交叉点を右折すると正面に堤防が見える。  車道を越え、石段を上っていくと荒川の遊歩道に出て、その先に見えるのが荒川 である。 荒川は江戸時代には戸田川と呼ばれていた。  幕府は江戸を護る ため、戸田川に橋を架けず舟渡しであった。 
「戸田渡船場跡」の石碑は探して川縁に降りたが、石碑は見つからない。  堤防まで戻り、下の車道の方を見ると、車道の先の民家の前に石碑と説明板が あった。 

 *  説明板 「戸田の渡し」  
「 (前略) この渡しは資料によると戸田の渡しは天正年中(1573〜1591)より あったとされ、その重要性は近世を通じて変らなかったといいます。 渡船場の管理 は下戸田村が行っており、天保十三年(1842)では家数46、人口226人でした。  その中には組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。 舟の 数は寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加に伴って天保13年 には13艘と増えています。 
また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能を有し、戸田河岸場と して安永元年(1772)には幕府の公認の河岸となっています。 天保3年(1832)には 5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。 これらの 渡し場の風景は渓斎栄泉の「木曽街道六十九次、蕨駅戸田川渡」の錦絵に 描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。 やがて、明治になり中山道の交通量 も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成、ここに長い歴史を もつ戸田の渡しが廃止になりました。 」

大田南畝は、戸田渡りのことを 「 明はてぬるまにやどりを出て、元蕨をこえ 堤村をへて戸田川を舟にてわたる。  この川上は入間川にして末は隅田川なり。 」 と記している。 
説明板には、渡し場は戸田橋より百メートル下流にあったとも記されていた。 
下の道を右折すると小公園があり、「歴史のみち中山道」の説明板があり、旧中山道 が赤線で記されているので、当時の道筋がわかった。 

 *  説明板 「歴史のみち中山道」  
「 (前略)  戸田渡船場から北に200m程残る中山道の道筋には文化三年(1806) に作成された中山道分間延絵図にも現存する地蔵堂とともに描かれています。  渡し場には渡船取り仕切る川合所がおかれ、その西方にはかっての羽黒権現がありました。  街道筋には渡船に携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが立ち並んでいました。  江戸と京都を結ぶ主要街道として大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861) 最後の大通行といわれる皇女和宮の下向にも利用されました。 
しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は現在はまったく失われてしまいました。  旧中山道はしばらく北上した後、昭和初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら 横切り、ほぼ現在の国道17号に沿っていました。 国道とオリンピック通りとの 交叉点付近には一里塚跡でないかといわれる場所もありました。 そして再び、 旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、戸田市に残る 旧中山道につながっていきます。 戸田市教育委員会  」 

近くに中山道分間延絵図にも記されている戸田地蔵堂がある。 
戸田地蔵堂は蕨市最古の木造建造物といわれる建物で、 正徳三年(1713)の銘がある半鐘や享保十六年(1731)の庚申塔が残されている。 

戸田渡船場跡碑
     地図      戸田地蔵堂
戸田渡船場跡碑と説明板
旧中山道が記された地図
戸田地蔵堂


戸田地蔵堂の裏側に水神社(すいじんしゃ)があり、境内には舟型の石が置かれ ている。 「戸田市指定有形民俗文化財 川岸の獅子頭」の大きな柱の隣に 「水神社」の説明板がある。 

 *  説明板 「水神社」  
「 創立などの詳しいことは分かりませんが、正面の「水神宮」の碑に寛政八年 (1796)の銘があります。 古くは荒川端にあったもので、新堤防が出来てから移され、 川岸に住む人々の氏神的のようになっています。 境内の正面には「水神宮」 「船玉大明神」「船の守り神」と刻まれた大きな石碑(舟型の石)が鎮座しています。  また、「山王大神」や茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神) などの石碑も合祀されています。  この神社の祭礼は七月十四日、十五日ですが、最近ではその日に近い日曜日に行われ ています。 この祭礼のときに飾られる獅子頭は、もとは荒川のそばにあった羽黒 社に古くから伝えられるものです。 色や形、大きさとも威容を誇る獅子頭で、 市の指定文化財となっています。 (以下略)   平成八年三月   戸田市教育委員会  」   

中山道は消滅しているので、地蔵堂の右側の道を北上し、菖蒲川を渡る。  河岸交叉点でオリンピック通りに出て、左折して川岸三丁目の交叉点で右折して 国道に入る。 入ってすぐの左側にすみれ幼稚園があるが、このあたりが江戸から 四里目の一里塚があった場所といわれる。 
下前歩道橋交叉点で右折し、次の下門公団通りを左折し、下戸田一丁目交叉点に出て、 横断して左斜めの道を進むと国道に合流する。 下戸田一丁目交叉点に下戸田ミニ パークがあり、先程の「歴史の道中山道」と同じ説明板と石のオブジェがある。  この辺りは枡形になっていたようである。 
国道を進み、蕨警察署入口交叉点を過ぎ五十メートル程の右のマンションの奥の駐車場 の大きな樹蔭に庚申塔を祀った祠があった。 

水神社      下戸田ミニパーク      庚申塔
水神社
下戸田ミニパーク
庚申塔


さらに国道を行き、錦町一丁目交叉点の三叉路にあるシエル石油のスタンド前に 「中仙道蕨宿」の石碑が立っていて、中山道は右の道を行く。 入口には「中山道 蕨宿」と書かれた石柱が立っていて、路面には「中山道蕨宿」のマンホールや中山道の 宿場の浮世絵のタイルが点々と道に沿って敷かれている。 
蕨宿は板橋宿から二里十町、江戸から二番目の宿場で、南北十町(約1090m)の宿場町で ある。 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口2223人、家数430軒、本陣2、 脇本陣1、旅籠23軒であった。 
旧街道沿いには商店街が続き、古い家もちらほらあるところである。 
左側に蕨市立歴史民俗資料館の別館がある。 この建物は明治時代、織物買継商をして いた家で、敷地は五百十六坪(1705u)、建物の床面積は九十五坪(313u)で、木造 平屋、寄棟造りで、中山道に面した店部分は明治二十年(1887)に作られたものである。  別館の先、左側に創業二百数十年の老舗うなぎ今井があり、いいにおいが煙ととも に漂ってくる。 
鰻屋の濃い緑の暖簾の下に「当店は中仙道が整備された江戸時代初期(1604頃) 土橋(現蕨市中央2丁目)からこの場所に移り、旅人を相手に茶屋渡世孫右衛門の 店として開業したと伝えられ、現在に至っています。 」という木札が立て懸け られていた。 

古い家も残る      蕨市立歴史民俗資料館      うなぎ今井
蕨宿には古い家も残る
蕨市立歴史民俗資料館別館
うなぎ今井


中山道蕨宿本陣跡交叉点の手前、中央5丁目あたりが宿場の中央だったようで、 鰻屋から少し行った左側に脇本陣跡、その先に蕨市立歴史民俗資料館と 蕨本陣跡がある。 
脇本陣だったという薬局の前には「脇本陣」という文字の入った灯籠が置かれ ていた。 
「蕨市指定文化財 蕨宿本陣跡」の石標があり、復元された門があり、隣に 歴史民俗資料館があった。 
本陣跡には谷口吉郎による本陣をイメージした モニュメントがあり、また、「行く春や旧本陣のお宿帳」の句碑もあった。  敷石の木漏れ日が美しいなあと感じた。 

 *  説明板 「本陣跡」  
「 蕨宿の本陣は加兵衛家と五郎兵衛家の二家が代々勤め、蕨宿の中央部に向かい 合うようにして建っていた。 ここは一の本陣と呼ばれた岡田加兵衛の本陣跡で、 昭和四十八年、建築家谷口吉郎により、本陣をイメージして建てられたモニュメント である。 慶長十一年(1606)、蕨城主渋川氏の将、岡田正信の子、正吉が初めて 蕨宿本陣、問屋、蕨宿の名主の三役を兼ねた、と伝えられ、その後、その役目は子孫 に受け継がれ、明治維新まで続いた。 文久元年(1861)、皇女和宮が御降嫁の折、 ご休憩の場となり、明治元年(1868)と同三年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の 際の御小休所となった。 隣接して建てられた民俗資料館には宿泊した大名の名簿や 本陣跡を詠った詩などが展示され、旅籠の様子や食事、大名の食事が復元されて いる。 もう1軒の本陣は岡田五郎兵衛が営み、五郎兵衛本陣と呼ばれたが、 この前にあり本陣の他、問屋と塚越村名主を兼ねていた。  」 

脇本陣跡      本陣跡      民俗資料館
脇本陣跡
蕨本陣跡
蕨市立歴史民俗資料館


中山道蕨宿本陣跡交叉点を右折して市役所を越えた先に小さな社(やしろ)の 和奈備神社があり、水盤と宝しゅ印塔がある。 
説明板に 「 水屋に置かれた水盤が安山岩製の大型のもので、寛永寺旧在ともいわ れる。 」 と、書かれていた。 柄杓で身を清め、お参りを済ませた。 

 *  和楽備(わらび)神社は明治四十四年(1911)に町内にあった十八の 鎮守社を合祀したときに現在の名前になったが、以前は上の宮という名の八幡社 だった。 なお、蕨の地名の由来は藁を焼く火の様子から藁火村という説や 植物のわらびから名付けたという説があるが、はっきりしないようである。 

神社の隣に御用堀という堀があり、きれいに整備されている。 その先は蕨城址 公園で、公園の一角に「蕨城址」と書かれた記念碑が建っている。 

 *  説明板 「蕨城跡」  
「  蕨城は南北朝時代に渋川氏が居を構え、大永四年(1524)北条氏綱によって攻撃 され破壊されたと言われています。 江戸時代になると徳川家康が城跡に御殿を 置きました。 蕨城の遺構は現在はわずかに堀跡が残っているだけですが、江戸時代の 絵図によれば東西が沼、深田で囲まれた帯状の微高地上に幅六間半(約11.8m)の囲堀 と幅四間半(約8.2m)の土塁をめぐらし、堀の内側の面積は一町二反三畝余坪 (約12200u)でした。 また、南側に堀と土塁をめぐらせた二町一反八畝八坪 (約21650u)の外輪地があり、北側にも堀と土塁の構が見られます。 いまわずかに 堀跡と御所踊、枡形、要害、高山、堀内、防止などの俗名を残すだけです。 
昭和36年11月、本陣跡に文学博士諸橋轍次撰書の「蕨城址碑」が建てられた。 」 なお、和楽備神社は城の境内社だったのである。  

和奈備神社      蕨城址碑      御用掘
和奈備神社
蕨城址碑
御用掘


交叉点にもどり、直進すると店舗は新しいが、昔は茶屋で十代以上続く老舗 せんべいの萬寿屋がある。 

 *  江戸時代にはこのあたりから先程の本陣の先あたりまでに旅籠が 多かったようである。 
太田南畝は蔦屋庄左衛門の宿に泊まり、「 あすは故郷かへるまうけとて、 従者も髪ゆひ頂そりなどしてさわぎあへる 」 と記しているが、 蕨宿は江戸へ戻る者、或は入る者にとって、最後の宿であり、ここで身なりを整え、 花のお江戸に入っていったのである。 

せんべい屋の横の地蔵小道と呼ばれる参道を歩くと真言宗の三学院がある。  関東七ヶ寺の役寺として格式が高く、子育地蔵で知られ、 仁王門も立派である。

 *  三学院は金亀山極楽寺という真言宗智山派の寺で、天正十九年 (1591)11月、寺領二十石寄進の朱印状を与えられ、幕末まで宿内に寺領を持ち、 関東七寺の役寺で格式が高い寺であった。 本尊の十一面観音菩薩は平安中期の作 の慈覚大師作と伝えられる。 

山門の右脇に梵字馬頭観世音塔、山門に入って右手に立派な屋根の木柵で囲われ た地蔵堂があり、地蔵堂の前に「仏足石」と常夜燈二基、仁王門に入ると水舎、鐘楼、三重塔、 本堂がある。 
地蔵堂には子育て地蔵尊、六地蔵石仏、目疾地蔵尊が祀られている。 

 *  説明板「地蔵堂」  
「 子育て地蔵尊は火伏子安地蔵といい、元禄七年(1694)、 三学院の中興の祖、第十一世秀鑁の勧進により多くの人の協力によって造立された。  丸彫りで、身丈七尺余り(約2.4m)もある石仏で、江戸浅草橋の石工、紀国屋平兵衛に より造られた。 初めは中山道の三学院入口角にあったが、明治元年、明治天皇の 氷川神社行幸の折りに参道の中ほどへ移されるなど、度々移動した。 
六地蔵石仏は寛文〜元禄年間(1661-1704)にかけて造立された。 市内にある六地蔵 のうちで最古最大である。 右から三番目の石仏が最初に造られ、のちに五体の 石仏を造り六地蔵にしたものと思われる。 
目疾地蔵尊は、万治元年(1658)、念仏講を結んだ十三人の人々が安楽を祈願して 建立したもので、1.9mの大きな地蔵である。 一つの石で蓮台と地蔵菩薩立像と 舟形光背を彫り上げている。 目病地蔵と呼ばれ、目に味噌を塗ると目の病気が直る、 あるいはかからないといわれ、今でも信仰の対象になっている。 」  

せんべい屋まで戻り、左側に行くと「中山道ふれあい広場」があり、その裏は 交番で、国道17号が斜めに走っている。 この交叉点が蕨宿の京方の入口で、 江戸方の入口と同じ二本の柱と「中山道蕨宿」の石柱がある。 
ふれあい広場の街道から一本入ったところに徳丸家があり、水路(堀)には蓋が 架けられているが、徳丸家が使用したはね板が残っている。 

 *  江戸時代の蕨宿は堀で囲まれ、堀に面した家にははね橋が あった。 早朝には下ろされ、夕刻には全部の家ではね上げられた。  また、蕨宿は上下二つの木戸も閉ざされ、堀は宿内の用水と防備を兼ねていた。 

三学院入口      六地蔵石仏      蕨宿入口
三学院入口
六地蔵石仏
二本の柱と「中山道蕨宿」の石柱


錦町三丁目交叉点で国道と合流するが、蕨宿はここで終わる。 




(3)浦和宿

錦町三丁目交叉点から国道17号を歩くが、歩道がないので車に注意しながら 道の右側を歩く。 辻一丁目交叉点で外環自動車道をくぐるが、道の右側、 防音壁をバックに辻一里塚公園があり、公園内には江戸から五里目の「辻一里塚跡」 の石碑と左隣に弁財天の小さな祠がある。 

 *  太田南畝が 「辻村の立場をすぎ一里塚(榎)をこえて」と 記している一里塚で、傍らの弁才天の石碑には「 昔、この辻地区は湿地が多く、 村人達は大変難儀した。 この水難を守る為、水の神弁財天を安置し、地区の守り神 とするとともに中山道を旅する人々の安泰を願った。 由来伝記の為、有志相計り 保存会を結成し祠を再建してふる里の道しるべとする。 」と記されている。 

辻一里塚で外環の高架をくぐり、熊野神社を通り、六辻水辺公園のT字路に 突き当たら、右折する。 

 *  熊野神社は木曽名所図会に、「 辻村に熊野権現のやしろあり 」 と書かれている神社である。 
六辻水辺公園はどのような公園かと入ったら、用水路のようなものが公園だった。 

ここは浦和市辻2丁目、旧六辻村で、六辻交差点の交番の右端に小さな 「六辻村道路元標」がある。 
国道17号線と交差するが、直進し、次の信号のY字路を「中山道」の道標に従って、 左折する。 
ここからしばらくは上り坂になる。 蕨から浦和に向う途中にある焼米坂である。  信号交叉点を二つ越えると坂の頂上の遊歩橋の下左に「焼米坂」の石碑があり、 その下には武蔵野線が通っている。 

 *   「 焼米はここにあった茶屋の名物で、焼き米というのは籾のままの米を焼き、 それを搗いて殻をとったもの。 米の古い食べ方で備蓄食の一種。 そのまま 食べられるが、煎り直したり、湯に浸して食べる。 おそらく旅人の携帯食に なったのであろう。 現在でも、春の種籾の残りを焼き米にし、田の神に供える。  これを砂糖蜜でからめるとオコシである。 地名が食文化を語っているのは 面白い。 」   

辻一里塚公園      熊野神社      焼米坂
辻一里塚公園
熊野神社
焼米坂


しばらく行くと、右手に緑濃い森が見える。 平安時代の古社、調神社 (つきじんじゃ)である。 広い神域には樹齢百年の欅などの樹木が茂っている。 

 * 調神社は別名、調の宮(つきのみや)あるいは月の宮ともいい、 延喜式に残る古社である。 壬戌日記に 「 左に若葉の林しげりあひて、林の陰に 茶屋の床几などみゆ。月の宮廿三夜堂なりとぞ 」 と記されている神社である。 

うさぎの石像を狛犬代わりにしている国内唯一の神社で、江戸時代には月の宮、 二十三夜堂として信仰されていたことは、木曾路名所図会に 「 調宮みつぎの じんじゃー浦和の南岸むらにあり、延喜式内社なり。 これを二十三夜祠と称す 」 と あることから分かる。 

 *  調は「租庸調」の調ぎ物(年貢)のことである。 武蔵国の調は ここに集荷され、東山道を経て、朝廷に届けられたが、宝亀二年(771)に武蔵国が 東海道に編入されたため、役目を終了した。 その後、調(つき)は月信仰と結びつき、 兎をその眷族とし、狛犬の代わりに境内の入口に鎮座させることとなった。 
二十三夜講、二十三夜待などともいい、二十三夜の月の出を待ち拝むために 講を作ったものが集まり、祭神の前で勤行をし飲食を共にするものであるが、 江戸後半になると娯楽化していったようである。 

権現造りの本殿は安政六年(1859)の建立である。 境内の一角にある赤い鳥居 の稲荷社は調神社の旧本殿で、享保十八年(1733)に建立された一間社流造りの建物で、 兎の彫刻は月神信仰との関係を知る上で貴重である。 

調神社      稲荷社      焼米坂
調神社
狛犬代わりの兎
旧本社の稲荷社


その先に進んでいくと浦和駅西口交叉点に出ると、左側に「浦和宿」の石碑が 建っている。 浦和宿は蕨から一里十四町の距離で、江戸から三番目の宿場で、幕府 の天領であった。 宿の長さは十町四十二間(約1.2km)で、現在のさいたま市浦和区 高砂、仲町、常磐がそれにあたる。 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、 宿内人口1230人、家数273軒、本陣1、脇本陣3、旅籠15軒とある。  その規模は武州にある九宿の中で七番目であり、決して大きくなかったのである。  隣の蕨宿の方が繁盛していたし、氷川女体神社があるとはいえ、大宮の氷川神社とは 比べるまでもなかったので、浦和宿はぱっとしなかったようである。 
西口交叉点を左折し、埼玉会館の前を通ると右側に中央公園、左側に平安時代、 弘法大師により開かれた古刹の玉蔵院地蔵堂がある。 

 * 説明板 「玉蔵院地蔵堂」  
「 (構造・規模)三間四方、入母屋造り、一間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行き とも八・三四メートル。 (概要) 軸部はケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、 柱上三手先の斗拱で桁を受ける。中備は十二支の蟇股を配している。軒は二重繁だるき となる。 内陣は裏側壁面から半間出して来迎柱を建て、来迎壁に須弥壇を付けている。  内陣の天井は花鳥などを描く格天井となっている。 他に、欄間の彫刻、外陣天井の画 など装飾が多い。 内陣蟇股墨書銘により安永九年(1790)の建立であることが知られる 。 三間仏堂ではあるが、本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも建立年代が明らかで あり、保存価値がきわめて高いと言える。  平成五年七月 浦和市教育委員会 玉蔵院  」   
  (ご 参 考) 玉 蔵 院    
「  玉蔵院は、平安時代に弘法大師により創建されたと伝えられる古い寺で、 真言宗豊山派に属す。 天正十九年、徳川家康より寺領十石の寄進を受け、 江戸時代に入ると、豊山長谷寺の移転寺(由緒ある寺院)として出世した。 元禄十二年 十二月、一宇も残さず焼失したので、現在の堂宇は江戸期以降に再建されたもの。  地蔵堂は内陣蟇股墨書銘により、安永九年(1780)の建立であることが分かる。  内陣の天井は花鳥などを描く格天井となっていて、欄間の彫刻や外陣天井の天女像など 装飾が多い。 玉蔵院の施餓鬼(せがき)の起源は1800年頃と言われ、関東三大施餓鬼 の一つと称される。  昭和二十年代に区画整理が行われ、墓地は市内他所に移転して いるが、 境内は広く、緑豊かである。 地蔵堂の前の地蔵二体も江戸期にもので ある。   」 

浦和の名は応永三年(1396)の記録に登場する。 戦国時代には岩槻城主太田氏の 支配を受けたが、北条氏の進出により両者の抗争に巻き込まれ、北条氏の支配する ところとなった。 江戸時代に入ると幕府直轄地の天領になり、その他、玉蔵院領が 十石あった。 
玉蔵院から市民会館うらわに向うと、建物の前に「明治天皇行在所記念碑」 が建っている。  

玉蔵院地蔵堂      欄間彫刻      明治天皇行在所記念碑
玉蔵院地蔵堂
地蔵堂の欄間彫刻
明治天皇行在所記念碑


市役所通りの交叉点を越え、次の交叉点を右折すると右側の幼稚園の隣に 仲町公園があり、「明治天皇行在所址」の碑と「本陣跡」の説明板がある。 

 * 説明板 「浦和宿本陣跡」  
「 中山道は江戸と京都を結ぶ街道で、浦和宿は日本橋を出て三番目の宿駅です。  浦和宿には本陣1・脇本陣3・旅籠15(江戸時代後期)があり、ここは本陣の跡です。  本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられた家です。 浦和宿では星野権兵衛家が 代々勤めていました。 ここには222坪(7356u)の母屋をはじめ、表門、土蔵などが ありましたが、明治時代になって家は途絶え、全ての建物が取り払われました。  表門が市内大間木の大熊家に移築され、現存しています。 建物などは全く残されて いませんが、浦和宿の本陣の所在地を正確に伝える土地として貴重です。 なお、 明治元年(1868)及び三年の明治天皇氷川神社(大宮)行幸の際はここが行在所となり ました。 」 
本陣の脇に高札場があったようである。 脇本陣は中町と上町にあったようであるが、 跡地は確認できなかった。  

常磐公園入口の市場通りに野菜を売る女性のブロンズ像と「市場通り」の 説明石板がある。 

 * 説明板 「市場通り」  
「 この北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、昭和の初めまで毎月二・七の 日に市場が開かれていた。 そこでは農産物や各種の生活必需品が取引されていました。  現在も名残りとして、市神様と市場定杭があります。 これにちなみ、昭和55年9月 当時の歴史を偲ぶため「市場通り」の愛称が付けられました。 」 

この奥に常磐公園があり、その先に慈恵稲荷がある。 

 * 説明板 「常磐公園」  
「 江戸初期、ここは御殿と呼ばれ、徳川家康と秀忠が鷹狩の際、休憩や宿泊所と 居て使用したが、慶長16年取り壊された。 廃止後も「御殿跡」「御林」の名で 幕府により保護された。 明治26年、ここに浦和地方裁判所が建設され、赤塀は 当時の名残りである。 裁判所は昭和48年県庁南の新庁舎に移転し、跡地は常磐公園 として昭和51年に開園した。 面積は1万u。 」 

常磐2丁目バス停を左に入ったところに、慈恵稲荷神社がある。  袖鏡に 「 宿の内、左にいなり社あり 」 と書かれている神社で、鳥居の手前右に 庚申塔の石柱が建っている。 狐の石像がなぜか、金網に入れられて祀られて いる。 

本陣跡      野菜を売る女性の像      慈恵稲荷神社
本陣跡
野菜を売る女性の像
慈恵稲荷神社


鳥居の前方に「慈恵稲荷神社」の石柱と「浦和宿二・七市場跡 付市場定杭」の 木柱が立っている。 
慈恵稲荷神社の先の右の細い道を入ったところにあるのが市場の神である 市神社である。 小さな石の祠があるだけの神社であるが、左手前に「御免毎月二七 市場定杭」と刻まれた石柱があり、祠の奥に「浦和宿二・七の市場跡」の説明板が 立っている。 
室町時代の天正十三年から毎月二と七の付く日に六斉市が立つようになり、 宿場の三つの町(下町、中町、上町)が交互に市を立てた。 市神社は六斉市が 行われたところにはあった神社であるが、残っているところは珍しい。 

 * 説明板 「浦和宿二・七の市場跡」  
「 浦和に市場が開設されたのは戦国時代頃と思われ、天正13年には浅野長政から 禁制が出されている。 浦和市は毎月二と七日に開かれる。 六斉市という。  江戸時代には盛況をみせ、十返舎一九が狂歌に「代ものを積み重ねしは商人 (おきんど)のおもてうらわの宿のにぎわい」と歌ったものである。  市場では農産物や各種の生活必需品が取引されており、その形態は昭和初年まで 続いた。 なお、蕨(一・六)、鳩ヶ谷(三・八)、原市(四・九)、大宮(五・十) などが近在でもそれぞれ異なる日に市が開かれました。 本史跡は中世から 近世、近代にかけての浦和の商業の発展を知るうえで貴重な文化財である。 」 

渓斎英泉の浮世絵 「 支蘓路ノ駅 浦和宿 浅間山遠望 」 では浦和台地の中央に街道、 右側にけやきと数軒の民家、左奥に煙りたなびく浅間山が描かれている。 
浦和は台地の上にある平坦な土地で、周囲に山などはないので、当時は遠くまで 景色が見えただろう。 
常磐町郵便局付近を歩くと、左側に古そうな家が一軒残っていた。 写真は大宮側から 写したもの。 
浦和宿はここで終わる。 

浦和宿二・七市場跡の木柱      市場定杭      古そうな家
浦和宿二・七市場跡の木柱
市場定杭
古そうな家



(所要時間) 
板橋宿→(40分)→志村の一里塚→(1時間30分)→戸田橋→(1時間40分)→蕨宿→(1時間30分)→調神社→
(20分)→浦和宿→(2時間)→大宮宿 

蕨宿(わらびしゅく) 埼玉県蕨市中央 JR京浜東北線蕨駅下車。 
  浦和宿  埼玉県さいたま市常磐  JR京浜東北線浦和駅下車。  




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かうんたぁ。