名所訪問

「  中山道を歩く 板橋宿 」

( 板橋宿から戸田川舟渡し )

かうんたぁ。


中山道を板橋宿から戸田川まで歩く。
板橋宿は、江戸四宿の一つで、東海道の品川・甲州街道の内藤新宿・ 奥州街道の千住とともに、主要街道の重要宿場であった。 
日本橋から二里半(約10キロ)の距離で、次の蕨宿までは二里十町である。 
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には、 宿内人口2448人、家数573軒、本陣1、脇本陣3、旅籠54軒と記されている。 
板橋宿と蕨宿の間を流れる荒川は、江戸時代には戸田川と呼ばれ、 幕府は橋を架けず、船渡りであった。


◎ 板橋宿

中山道の最初の宿場町は、板橋宿である。

「 板橋宿は、江戸日本橋を出発すると、中山道の最初の宿場町である。
宿場は、平尾宿と仲宿(中宿)と上宿の三宿で、構成されました。 
宿場開設当初は仲宿が主体だったが、その後、上宿に伸び、 更に平尾宿に拡張していった。 
宿内人口2448人、家数573軒、本陣1、脇本陣3、旅籠54軒と記されている。 」

中山道は、庚申塚通りを歩き、都営荒川線庚申塚駅を右手に見て進む。
堀切交叉点で左右は明治通り、それを越えると、北区滝野川六丁目になる。
滝野川銀座の右側に、亀の子束子西尾商店がある。 
亀子たわしは棕櫚製で、創業者が発明し、登録商標になっている。 
さらに歩いて行くと、JR山手線と交叉するところになり、その先は板橋区板橋1丁目に なる。 
このあたりが、中山道の板橋宿の入口で、当時は 日本橋から二番目の平尾の一里塚があったようだが、表示も説明板もない。 

「 慶応六年(1868)、新撰組隊・長近藤勇が、 平尾宿脇本陣で、二十日留置された後、 平尾の一里塚近くの馬捨場(現在の北区滝野川)で斬首された。 」

JRの線路の手前九十メートルにある交叉点を左折すると、 板橋駅のロータリーに出る。 
左側の奥に、近藤勇の墓所がある。 

「新選組隊長近藤勇の墓所」   
慶応四年(1868)四月二十五日、近藤勇は平尾一里塚付近の刑場で、 官軍により斬首処刑され、首級は京都に送られた。
胴体は少し離れたこの場所に埋葬された。 
石柱に囲まれた境内にある大きな石柱の正面に、近藤勇¥ケと、 函館五稜郭で戦死した土方歳蔵の名が刻まれ、右側面に戦死者四十名、 左側面に病死者・切腹・変死・隊規違反で処刑された人、六十四名の名前が書かれている。 
これは、「近藤勇と新選組隊士供養塔」 と呼ばれるものである。
明治九年(1876)、元隊士の長(永)倉新八が建立したものである。 
塔の左には無縁仏があり、右隣には、慶応四年に作られた近藤勇の墓、そして、 塔の建立者の永倉新八の墓と、永倉新八の肖像が刻まれた石碑がある。 
また、土方歳蔵の供養碑がある。 」

先程の所に戻り、 JRを越えると、江戸時代の板橋宿の平尾宿(下宿)である。 

「  板橋宿は、日本橋から二里半(約10キロ)、 次の蕨宿までは二里十町の距離であった。 
中山道で旅立つ人は、わざわざ、日本橋にまで行く人もいないので、 板橋から出発し、見送る人もここまでが普通であった。 
板橋宿には、酒楼や茶屋もあり、遊女(飯盛り女)もいて、 賑わいは中山道で第一であった。 
即ち、板橋宿は宿場の機能だけでなく歓楽街として繁昌していた町である。 
昭和三十年代に、売春禁止法が制定され、板橋遊郭が無くなるまでは、 その姿が残っていたが、今はその面影は残っていない。 」

板橋宿の平尾宿(下宿)は、板橋本町商店街のあたりである。
左右に小さなマンションと近代的な店舗が並んでいる。 
板橋一丁目交叉点を過ぎると、国道17号と交叉する。 
交叉点を渡った左側のりそな銀行板橋支店辺りが、中山道と川越街道との追分である。 
道右側のガストの手前、小路を入ると東光寺がある。 
門内の左側にある、説明板の両脇に、石仏と石碑が並んで建っている。 

説明板 「東光寺」  
「 御本尊阿弥陀如来、宗派浄土宗、丹船山薬王樹院、
創建年次は不明ですが、寺伝によると、延徳三年(1491)に入寂した天誉和尚が、 開山したといわれています。 
当初は、船山(現板橋三−四二)あたりにありましたが、 延宝七年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って、現在の場所に移りました。 
移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び、賑やかであったようです。  
しかし、明治の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、 度重なる火災や区画整理のため、現在では、往時の姿をうかがうことはできません。 
なお、山号の丹船山は、地名の船山に由来しています。
 (以下略)              
      平成九年三月  板橋区教育委員会   」   

境内には、貫文二年(1661)の庚申塔と、石造地蔵菩薩と、宇喜多秀家の墓などがある。 

「 左から二つ目にあるのは、青面金剛像を刻んだ庚申塔で、 高さが二メートル近くある大きな石塔である。 
東光寺の僧と宿場の旅籠の主人達が、寛文二年(1661)に建立した。
塔には、日像・月像・二童子・四夜叉・一猿一鶏・ニ鬼のすべてが刻まれている。
境内にある、全高三メートルの六道利生の地蔵尊(通称、平尾追分地蔵)は、 享保四年(1719)に建立されたもので、 礎石部分の寄進者の名前には、板橋宿や加賀下屋敷関係者の名が見られる。 
もとは、平尾追分に安置されていたが、明治に入りここに移された。 
宇喜多秀家の供養塔は、慶長五年(1600)、、関ヶ原の戦いに敗れ、 八丈島に流された秀家の子孫が建立したものである。 

西尾商店
     近藤勇の墓所      庚申塔
亀の子束子西尾商店
新選組隊長近藤勇の墓所
(中央)青面金剛庚申塔

このあたりは、板橋宿不動通り商店街である。
右側に、観明寺があり、門柱の左奥に、屋根と板囲いで保護された庚申塔がある。 

説明板 「観明寺と寛文の庚申塔」  
「 当寺は真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。 
御本尊は観世音菩薩である。 
創建年代は暦応元年(1381)と伝えられていますが、不明です。 
「新編武蔵風土記稿」 には、延宝六年(1677)十月に入寂した、 慶浄和尚が開山とあります。 
江戸時代、板橋宿の寺として、多くの信仰を集めました。 
明治六年、当時の住職・照秀和尚が、 町の繁栄祈願のために、千葉成田山新勝寺から 不動尊の分身を勧請しました。 
現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。 
不動通りの名称は、この不動様に由来します。 
境内に鎮座する稲荷神社は、 もと、加賀藩下屋敷に祀られていた三つの稲荷神社内の一社で、 明治になって、陸軍造兵廠が建設された際に、当寺に遷座されました。 
また、参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)八月に、建立されたもので、 青面金剛像が彫られた庚申塔としては都内最古です。 
昭和五十八年度に板橋区のして文化財になりました。  」  

右側にある花の湯は、屋根の形が面白い。 
戦災に遭っているはずなので、戦後に 建てられたものだが、現役で活躍しているのがうれしかった。 
花の湯の次の道を入ってすぐ、マンション前に、 「板橋宿平尾脇本陣跡」の石柱が建っている。 
平尾宿の庄屋を勤めた豊田市右衛門が遍照寺の先で、 脇本陣を営んでいた、とあるので、その跡なのだろう。 
その先の旧中山道仲宿交叉点の左右の道は王子新道である。
右折すると、金沢橋南を経て王子神社に達する道である。 
江戸時代、宿場の中心は仲宿で、 ここには問屋、本陣、脇本陣1軒、荷物貫目改所などがあった。 
中宿商店街に入ってすぐ、右側にある「弘法大師旧跡」の石柱を入ると、 遍照寺がある。
参道左側に、馬頭観音が祀られている。 

説明板 「遍照寺と馬頭観音」  
「 遍照寺は天台宗の寺であったが、明治四年に廃寺になった。 
その後、成田山新栄講の道場になり、現在は成田山新勝寺の末寺になっている。 
板橋宿の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬や公文書伝達用の立馬、そして、 通継立馬などが繋がれていたところである。 
明治維新で、板橋宿が無くなった後も、 明治中頃まではここで馬市が開かれていた。 」 

境内は狭く、寺院らしくないが、 寛政十年(1798)建立の馬頭観音や、三猿を彫った庚申塔などが多く残っている。 

庚申塔
     花の湯      遍照寺馬頭観音
観明寺庚申塔
花の湯
遍照寺馬頭観音など

少し行くと右側にスーパーライフがあり、右隣の飯田不動産の前に「板橋宿 本陣跡 板橋区教育委員会」の石柱がある。 
道の反対側に仲宿の名主を務める飯田宇兵衛の脇本陣があり、皇女和宮が泊まられた はずであるが、どこにあったのか分からなかった。 
スーパーライフの前の石神医院の入口に「高野長英ゆかりの地(旧水沼広洞宅)」の説明 板があるが、幕末蘭学者の高野長英が幕府から探索を避け、隠れていた所である 。 

*  板橋宿は本陣が仲宿に、脇本陣は平尾宿(下宿)、仲宿、上宿に 一つずつあった。 本陣は飯田新左衛門(仲宿名主の分家)が勤めていて、かってはこの スーパーと隣の飯田家を含む敷地であった。 問屋は本陣の近くにあり、本陣と 脇本陣の四人が交代で、その役を務めた。 

スーパーライフの先を右に入ると、左側に文殊院という寺がある。 

*   本陣の飯田家の菩提寺として、延命地蔵尊のあった境内を広げて、寛永十二年(1625) に文殊菩薩を本尊として建立された寺だが、天保六年に全焼し、安政以降は住職を 置かなかった。  山門の左に延命地蔵堂、境内には閻魔堂や本堂があるが、東京 大空襲後に建てられたものだろう。 

街道を進むと現在の板橋に着く。 板橋宿の名前はここに由来する。  橋から先が上宿で、ここには江戸の入口にあたる城門のような大木戸があり、 「入り鉄砲に出女」は厳しく警戒された。 江戸時代にはここまでが江戸の内と いわれたようである。 
なお、橋本酒屋のあたりに庄屋を勤めた板橋左衛門の上宿脇本陣が あったとされる。 

*  説明板 「板橋」  
「 この橋は板橋と称し、板橋の地名はこの橋に由来するといわれています。 板橋の 名称は鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代に なると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。  そして昭和7年東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。 
板橋宿は前野村境(北)から滝野川村境(南)までの二十町九間(約2.2km)の長さがあり、 この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して 板橋宿と呼びました。 板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、 江戸の地誌「江戸名所図会」の挿絵からこの橋周辺も賑やかだったことが うかがえます。 
江戸時代の板橋は太鼓状の木製の橋で、長さは九間(16.2m)、幅三間(5.4m)あり ました。 少なくとも寛政十年(1798)と天保年間の二度改修が行われたことは 分かっています。 近代に入ると、大正九年に新しい橋に架け替えられましたが、 自動車の普及に対応するため、昭和七年に早くもコンクリート橋に架け替えられ ました。 現在の橋は昭和四十七年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替え られたものです。 」  

石神井川に架けられた現在の橋はコンクリート製ながら欄干に木目模様を施し、 宿場の雰囲気に合わせている。 
橋のたもとに橋の経緯を記した案内板と日本橋から距離を書いた大きな木柱が 立っている。  日本橋までは二里二十五町とあるので、10、6キロの距離である。  このあたりに高札場が置かれていたようである。  また、石神井川の東北東にある帝京大病院周囲が加賀前田家下屋敷跡である。 

橋を渡ると右側に交番があり、その裏の「にぎわい広場」に櫓が建っていて、 正面に「江戸名所絵図の「板橋宿駅」と「乗蓮寺」のレリーフが貼られている。  石柱には「中山道板橋宿ここは上宿」左側面には「これより北約330mまで板橋宿」 右側面には「これより南830m平尾宿」「これより南230m中宿」と書かれている。 

*  石神井川に架かる板橋から環状七号線あたりまでが上宿で、 平成十四年(2002)に中山道伝馬制度四百年を記念して石碑などが立てられた。 

少し行くと右側に小公園と小さな祠があり、数本の榎が植えられている。 ここは 江戸時代板橋宿名所の「縁切り榎」である。 現在の木は三代目、その下には 「榎大六天神」と染め抜いた幟が風にはためいている。 榎大六天神とあるので、 菅原道真公を祀っているのだろうが、祠は大変小さなものである。 

*  江戸時代には中山道を覆うように樹齢数百年という榎が立って いた。 いつのころか、離縁を望む者がこの木に触れるか、樹皮を砕いて相手に 飲ませると離婚の希望がかなえられるという信仰が生まれ、縁切り榎と呼ばれる ようになった。 このため、徳川家に降嫁した五十宮、楽宮の行列はここを避け て通り、孝明天皇の妹和宮が徳川家茂に降嫁のときは榎にこもを被せたと伝えら れている。 

板橋宿の京側の入口は環状七号線あたりとあるが、諸説ある。 

「  城門のような大きな木戸が設けられ、 中山道から江戸に出入りする旅人の「 入り鉄砲に出女 」を厳重に警戒していた。
、時間になると開き、時間になると閉まる門の脇には、 「貫目改所」 という役所が、置かれていた、といわれるが、場所などは分からない。 

文殊院
     板橋      縁切り榎
文殊院
現在の板橋
縁切り榎と祠


◎ 板橋宿から戸田橋

環状七号線を越えて進むと国道に合流する。
その先には、都営地下鉄三田線の本蓮沼駅がある。 
本蓮沼駅から少し行くと、右側に、南蔵院という古い寺がある。 
境内には、庚申塔や馬頭観音など、多くの石仏が祀られている。  

説明板 「南蔵院」  
「 真言宗、寶勝山蓮光寺と号する。 
本尊は十一面観世音菩薩、弘法大師がお護摩の灰をもってご自作された自像、また、 行基菩薩作の阿弥陀像と伝えられる各像を安置する。 
当寺は、もと荒川の近くの志村坂下に創建され、 開基を新井三郎盛久の一族が、戦国の戦乱を避けて、ここに土着し建立したという。 
享保七年(1722)、八代将軍・吉宗が、 戸田川(荒川)で鷹狩りを行った時、御膳所と定められた、由緒ある寺であるが、 度重なる荒川の氾濫のため、寺宝の一切を失ってしまった。 
享保九年(1724)、この水禍を避けるため、氏神と共に、現在の丘上に移った。 
神仏混交の時代、この寺が別当していた氷川神社を俗に「十度の宮」と呼んでいた。 
出水の都度流失し、社殿が移転した結果の呼称である。 
その後、隣寺金剛院を合併し、現在に至る。 
     平成四年三月   板橋区教育委員会   」

志村警察前を過ぎると、志村警察署前(志村一里塚)交叉点の手前の道の両側に、 一里塚が残っている。 

「 志村一里塚は、日本橋から三里目の一里塚である。 
両側にほぼ完全な姿で残っている一里塚は稀で、 都内では北区西ヶ原のものと、二ヶ所のみである。 
国の史跡に指定されていて、現在の榎は三代目だというが、 わりと大きく育っていた。 」

国道を上ると、道の左側に、志村坂上の商店街が拡がり、飲食店もある。 
その先が志村坂上交叉点。 
右斜めの高台に、総泉寺があり、「清水薬師如来」 の石碑がある。  

「 総泉寺の場所に、江戸時代には大善寺という曹洞宗の寺院が あった。 
八代将軍・徳川吉宗が、このあたりで鷹狩をした時、この寺に立ち寄り、 境内に湧き出す清水を誉め、本尊の薬師如来に、清水薬師 と命名した。 
江戸名所図会でも紹介されていて、信仰と憩いの場所として賑わったが、 昭和初期に総泉寺が移転してきて、大善寺と一緒になった。 
総泉寺の境内の奥に庭園があり、 薬師水があるが、清水坂はここからきているのだろう。 」

南蔵院
     志村一里塚      総泉寺
南蔵院(庚申塔や馬頭観音など)
志村一里塚
総泉寺

志村坂上交叉点に戻る。 
中山道は、ここで国道と分かれる。
左斜め、白く変わった建物の志村坂上交番と、みずほ銀行の間の道に入る。
少し行くと、左側に公文式志村坂上教室があり、電柱の脇に 「清水坂」 の石柱がある。 

説明板 「清水坂」  
「 日本橋を旅立ち、旧中山道で最初の難所、隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、 時代とともにその名を変えました。 
この坂は急で、途中大きく曲っていて、街道で、唯一、富士を右手に一望できる名所であった、と言われています。 
坂の下には、板橋宿と蕨宿を繋ぐ合いの宿があり、 そこには、志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、 休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に、控えの場所として、利用されていました。 
この辺りは、 昭和三十年代までは旧街道の面影を残していましたが、 地下鉄三田線の開通など、 都市化の波によって、姿を変えました。 
平成十二年三月 板橋区教育委員会  」  

ここから、坂が急になるが、その角の庚申庵の前には、道標と庚申塔が建っている。 
ここは、中山道と富士大山道が分岐する追分であった。 

説明板 「富士大山道と庚申塔」  
「 この場所は、中山道から富士・大山道の分岐する場所でした。 
向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(1792)に建てられたもので、 正面には、 「是より大山道  并(ならびに)ねりま  川こえ(川越)みち  」 と、 刻まれています。  
右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に、 「是ヨリ富士山  大山道」 とあり、 練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。 
この二基の石造物は、江戸時代の交通や、信仰を物語る貴重な存在であり、 昭和五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。 
  平成十七年三月         板橋区教育委員会  」  

中山道最初の難所の清水坂を右、そして、左と曲がりながら下っていく。 
江戸時代、この辺りで、唯一、富士山が右手に見えるということで、 名所になっていたが、 周囲は住宅が密集し、また富士の姿を見ることはできなかった。 
道が左に大きくカーブすると、次の三叉路で右折するが、 ここに先程と同じ、「清水坂」道標が建っていて、 「右は戸田、左は板橋」 と彫られている。 

道標「清水坂」
     道標と庚申塔      道標「清水坂」
道標「清水坂」
富士大山道道標と庚申塔
道標「清水坂」と説明板

中山道は国道に合流する。
次の志村三丁目交叉点で、国道を歩道橋で渡ると、 志村坂公園があり、その奥に妙徳寺、北方に總泉寺がある。 
中山道は左右の環状8号線を越え、国道17号の右側に並行している道である。 
この道は五百メートル程で、国道に合流し、志村坂下交叉点に至る。 

「  江戸時代、板橋宿と蕨宿の合の宿(間の宿ともいう)にあった、志村名主屋敷や、 立場茶屋などはの表示や足跡は残っていない。
この道の両側か、国道と合流した後の志村坂下交叉点の先に、 三軒屋や二軒屋のバス停名などがあるので、 この辺りに茶屋が点在していたことが考えられる。 」

国道17号に進み、河岸川に架かる志村橋を渡ると道はかなり下りになる。 
JRの線路が接近してくると、JR浮間舟渡駅も近く、戸田橋の入口に到着する。 

「  江戸時代には、橋はなく、戸田の渡しで、戸田川を渡り、蕨宿に向って行った。 
板橋宿と蕨宿の間に流れる荒川は、当時は戸田川と呼ばれた。
幕府は、江戸を護るため、橋を架けず、渡船であった。 
浮世絵師の英泉が描いた、「戸田川の渡し」は、  今の戸田橋より百メートル下流である。 
現在、「戸田渡し場跡」の碑は、河岸を行き、 JRの線路を越えたあたりにあるようだが、訪れていない。 」

戸田橋を歩くと、「東京都板橋区」 の県境を示す表示板と、 「日本橋まで16q」 の表示があり、その先は埼玉県になる。 

志村坂公園
     三軒屋バス停      戸田橋
志村坂公園
三軒屋バス停
戸田橋

板橋宿  東京都板橋区板橋・仲宿・本町 JR埼京線板橋駅から徒歩10分。
都営三田線板橋本町駅から徒歩5分。 

(所要時間) 
板橋宿 → (40分) → 志村の一里塚 → (1時間30分) → 戸田橋
 → (1時間40分) → 蕨宿 



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