中山道を深谷宿から本庄宿まで歩く。
本庄は、武蔵七党の武士団・児玉党の一派、本庄実忠が城を築いたところで、
慶長十七年(1612)に、下総の古河に移封になるまでは、城下町であった。
本庄宿は、江戸から十番目の宿場で、深谷から二里半七町の距離である。
本庄宿の町並は十七町三十五間、城寄りから、本町、仲町、上町と西にあり、
寛文三年(1663)から宿の東西に市神が祀られ、二と七の日に市が立ち、
大いに繁栄した。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内4554人、家数1212軒、本陣2、
脇本陣2、旅籠70軒と、旅籠も多く、豪華な宿場で、
飯盛り女が100人以上もいた。
◎ 深谷宿から岡部駅入口
中山道は、仲町交叉点から県道265号になる。
呑龍院を過ぎて、最初の信号交叉点を過ぎたところの三叉路に、清心寺の案内がある。
左折して、JR高崎線の踏切を渡ると、清心寺の山門の両脇に、石碑群が祀られている。
庚申碑が多いが、「馬頭尊」と刻まれた石碑も多い。
馬方にとって、命の次に馬が大切だったのだろう。
山門に入ると、すぐの左手に、「平忠度の墓」の石柱と、「清心寺」の説明板がある。
説明板 「清心寺(せいしんじ)」
「 この地は、荒川扇状地の末端で、湧水が豊富で、
古代より人が住み、六〜七世紀古墳が多く築かれました。
十二世紀、源平一谷の戦いで、岡部六弥太忠澄が、
平家きっての智勇にすぐれた、平薩摩守忠度(たたのり)を討って、
その菩提を弔うため、忠澄の領地の中で、一番景色の良いこの地に、
五輪塔を建てました。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前で挿した桜が、
紅白の二花相重なる夫婦咲きとなり、 忠度桜 として有名です。
戦国期、深谷上杉氏の三宿老・皿沼城主・岡谷清英は、
天文十八年(1549)、萬誉玄仙和尚を招いて、清心寺を開きました。
江戸期、幕府から、寺領八石の朱印状が下付されました。
境内に、忠度供養塔・腕塚。千姫供養塔・秋蚕の碑・谷繁実の墓がある。
昭和五十七年三月 深谷上杉顕彰会 」
塀の奥には供養塔がある。
「
岡部六弥太が、好敵手の忠度の菩提を弔うため、
自領で最も景色の良いこの土地に五輪塔を建て、墓前には忠度桜を植え、
その死を惜しんだ、と伝えられる。
「源平盛衰記」 に纏わる、こころ暖まる話である。 」
街道に戻り、街道を進むと次の信号交叉点の先の右手にあるのは、
萱場稲荷神社である。
社の前の狐の石像がなければ、お稲荷さんとは気が付かない。
この辺は、萱場集落であるが、
源平一の谷の戦いで、平忠度を討った岡部六弥太の所領だったところである。
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道は右に大きくカーブして行き、宿根交叉点で、また、国道に交差する。
直進すると、右に滝宮神社がある。
岡部南交叉点を過ぎると、右手に正明寺がある。
入口に、十二夜塔や馬観音などと刻まれた石碑が点在している。
岡部北交叉点を過ぎると、右側に「曹洞宗 玉鳳山源勝院」の看板があり、
「岡部藩主 安部家菩提所 明治天皇御休憩跡」 とあるので、入って行く。
山門は、室町時代の様式を残す、江戸時代のものである。
説明板 「源勝院」
「 源勝院(曹洞宗)は、
岡部の地を領地とした、 安部家(あんべけ) の菩提寺としてつくられた寺で、
境内墓地の一角に、二代信盛(のぶもり)から十三代信寶(のぶたか)まで、
十二基の屋根付位牌形の墓碑が、東向きに、南から北へ世代順に並んでいる。
天正十八年(1590)、徳川家康の関東入国とともに、
初代安部弥一郎信勝に、岡部領が与えられた。
信勝は、亡父・大蔵元真(もとざね) 追福のため、
人見村(現深谷市) 昌福寺八世・賢達和尚を招き、源勝院の開基とした。
初代の信勝は、当時、徳川家康と石田三成との対立が激しくなったので、
家康に従い、大坂城に詰めていた。
慶長五年(1600)、大坂城詰所で死亡し、大阪の鳳林寺に葬られた。
安部家は、初代以降、岡部の地を領し、大字岡部の一角に、陣屋を置いた。
源勝院表門を入ってすぐ左手に、安部家の祖・安部大蔵元真(信勝の父) の碑がある。
安部氏は、信州諏訪の出で、駿河国(静岡県)安部川の上流・安部谷に移り住み、
元真の時はじめて、安部氏を名乗った。
元真は、はじめ、今川義元に仕えたが、後に徳川家康に仕え、
甲斐の武田信玄・勝頼と戦い、おおいに戦功をあげた。
安部氏歴代の墓、及び、安部大蔵元真の碑は、町の指定文化財となっている。
平成三年三月 埼玉県 岡部町 」
安部氏は、大身旗本五千石で、岡部に陣屋を構えた。
その後、数回にわたり、加増を受け、二万石余の大名になった。
加増された所領は、愛知や和泉など数ヶ所に分かれているが、
大名であるので、この地名をとって、「岡部藩」と呼ばれる。
山門の右側にある大きな石碑は、明治天皇が東海北陸行幸したとき、
この寺で、休憩された記念碑である。
岡部北交叉点の左側に、「高島秋帆の幽閉地入口」の石柱が建っている。
左折して、百七十メートル行き、右側に石柱が建っているところを、
右折すると、畑の中に 「高島秋帆の幽閉碑」 がある。
このあたりに、岡部陣屋があったようで、それを示す石碑が立っている。
また、陣屋の長屋門は、全昌寺に残っているという。
国道に戻り、十分程行くと、普済寺交叉点があり、右側に普済寺がある。
入口に、馬頭観音や庚申塔が並んでいる。
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普済寺の開基は、岡部六弥太忠澄である。
本堂は新しく建て替えられているが、
本堂前の御影堂に、岡部六弥太忠澄の像が安置されている。
なお、明治六年十月十七日 普済寺本堂に、
学校が開設され、「普済寺学校」 と称したのが、現在の岡部小学校である。
「 猪俣六太夫忠綱が、岡部の地に館を構え、
岡部氏と称するようになって、三代目にあたるのが岡部六弥太忠澄である。
武勇に優れ、情け深かったと伝えられる人物である。
彼は、治承・寿永の乱(1180〜1185)で、源氏方に付き、
一の谷の戦いで平忠度を討ったことは、平家物語に登場する。 」
忠澄の墓は、寺の裏の畑の中にある小さな公園にある。
「 墓所の中には、五輪塔は六基あるが、
北の三基の中央が忠澄の墓で、左が夫人、右が父行忠と伝えられる。
五輪塔が削られ変形しているなあ、と思ったら、
「六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれる」 という伝承があるので、
形がこのように変形してしまったのである。 」
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中山道は、その先で国道と分かれて、右側の細い道に入って行く。
右手にあるのは、島護産泰神社である。
太田南畝の壬戌紀行に、 「 榛沢郡惣社
島護大明神、 天津彦火瓊々杵尊としるせり。 」 と、書かれている神社である。
説明板 「島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)」
「 当社の創立年代は明らかではないが、
旧榛沢郡内の開拓が当社の加護により進められた為、
郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。
この為に当社の再建及び修築等は郡内各村からの寄付によりなされた。
祭神は、瓊々杵尊(にぎにぎのみこと)と、木花咲耶媛(このはなさくやひめ)という。
当社を島護と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、
ことに深谷市北部に位置する南西島・北西島・大塚島・内ヶ島・高島・矢島、・洗島・
伊勢島・横瀬・中瀬の地名をもつ地域 (四瀬八島) は、
常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによる、
と伝えられている。
また、当社は安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、
この際には底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。
四月十日の春祭には里神楽が奉納される。
平成三年三月 埼玉県 岡部町 」
坂の上の集落は岡上である。
ここで寄り路。
平坦になったと思えるところを左折し進んでいくと、
国道に出る手前に岡上屋台庫があり、その奥に岡廼宮(おかのみや)神社がある。
こじんまりとした建物だが、美しい彫刻を残している。
江戸時代、大田南畝が壬戌紀行に
「 岡村の人家すぐ。 右に聖天あり。又寺あり。又社あり。 」
と書いている聖天宮は、これであり、
明治時代に周辺の神社を合祀して、現在の名前になった。
今日の熊谷からの旅はここで終了することにして、岡部駅に行くため、
国道を越え、真っ直ぐ行くと、右側に古墳が見えてきた。
お手長山古墳である。
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◎ 岡部駅入口から本庄宿
昨夜は熊谷に宿泊し、岡谷駅に戻り、再出発。
今日は新町宿までいく予定。
駅から中山道までの距離は一キロ程あり、これまでの駅からの距離で、一番長い。
前回終了したところの先の三叉路で、右側の道を降りて行き、岡西交叉点で、
深谷バイパスを越え、小山川に架かる滝岡橋を渡る。
左の小山川の堤防の道を進み、三叉路を細い道に入る。
県道本庄妻沼線の下をくぐって、県道258号に合流。
信号交叉点の先の左側に、八幡大神社がある。
「 八幡神社は、正式には、牧西八幡大神社である。
建久年間(1195)、児玉党の一派・牧西四郎広末が、
鎌倉鶴岡八幡宮から奉遷し、建立したものだが、
文明三年(1471)の兵火で、消失、廃社になった。
慶長十七年に再興された、という、歴史をもつ神社である。
この神社には金鑽神楽宮崎組が伝えられる。
神楽に使われる面は、正徳年間(1711〜1715)以前の作といわれるので、
それ以前からこの地では神楽が行われてきたことになる。
江戸時代には、信州の上諏訪などに、出かけ奉納してきた。 」
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八幡神社の先は、牧西(もくさい)集落である。
集落の北の入口、子育地蔵を祀る祠の脇に、
庚申塔・西の賽神などの石碑が並んで建っている。
この後、道は左に左にカーブするように進むと、
交叉点の右側に傍示堂集落センターがある。
「
傍示堂は、昔、ここが武蔵と上野の境であったころで、
「傍示堂」 という国境を示す標柱が、建てられたのが、地名の由来である。
「木曾名所図会」には、 「 ここに大市あり。 人数多群集して交易なすこと多し。 」
とあるが、これは、利根川交易が盛んだったころの話で、
今はひっそりとした集落である。 」
中山道は交叉点を左折し、元小山川に架かる新泉(しんせん)橋を渡る。
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◎ 本庄宿
日の出4丁目交叉点で、国道17号を横断し、県道392号に入る。
ゆるやかな坂で、御堂坂(みとうさか) というが、寺のお堂ではなく、
沢の入口などに付けられる、「ミト」 から付いた名前である。
ミトは、本庄台地を切り崩した小さな谷状の出口のことである。
坂の途中のやや引っこんだところに、文化元年(1804)の庚申塔と、宝暦十三年(1763)に
宿内の馬方が建立した馬頭観音がある。
この道は、車が多く、歩道はあるのだが、家に出入りする部分が削られているため、
凸凹していて、大変歩きずらい。
中山道交叉点から本庄駅入口交差点までは、
大正院を頂点として、上り下るゆるやかな坂である。
坂の名前は、中山道交叉点から、南西にある、大正院不動堂から付いたといわれる。
中山道交叉点から本庄駅入口交差点の中山道には、
花の形をした可愛らしい街灯が建ち並んでいる。
ここから本庄市本庄である。
「 本庄宿は、
江戸から十番目の宿場で、深谷から二里半七町の距離である。
本庄宿の町並は十七町三十五間、城寄りから、本町・仲町・上町と、西に伸びていて、
寛文三年(1663)から、宿の東西に市神が祀られ、
二と七の日に市が立ち、大いに繁栄した。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内4554人、家数1212軒、本陣2、
脇本陣2、旅籠70軒と、旅籠も多く、豪華な宿場で、飯盛り女が100人以上も
いた。
助郷に来た近郷の若者が村に戻らず、役人に取締り願いが出たという話も残る。
太田南畝の「壬戌紀行」にも、 「 本庄の駅舎にぎははし」 とある。
また、「 書店があり。文広堂といふ。 又新古本屋林といふも見ゆ 」と
あって、文化面も高かったようである。 」
本庄駅入口交差点の近くにある、陶磁器小売の戸谷八商店には、「創業永禄三年」 の看板文字があり、裏手の瓦屋根と土蔵造りの建物が、
長い歴史を感じさせる。
また、岸屋も元禄二年(1689)の創業である。
本庄宿の本陣は、本町と仲町、脇本陣は本町に二つあったが、
今は一軒も残っていない。
本庄駅入口交叉点を越えた、右側の埼玉りそな銀行が田村本陣跡である。
その先左側の足利銀行、東和銀行が内田本陣跡である。
右側にある本庄仲町郵便局は、秩父セメントの創始者・諸井恒平が、
昭和九年に建築したもので、木造二階建であるが、外観はタイル張りで
当時世界的に流行したアールデコ調に仕上げられている。
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仲町郵便局の脇の道を右に入ると開善寺があり、小笠原信嶺の墓がある。
「 開善寺は、天正十九年(1591)、本庄城主の小笠原信嶺が開基し、
家光より十五石の朱印地が下された寺である。
数度の火災により、古い建物は残っていない。
境内の古墳上に、小笠原信嶺夫婦の墓がある。
「
小笠原信嶺は、慶長三年(1598)に死去し、
その後を養嗣子の信之(酒井忠次の三男)が継いだ。
慶長十七年(1612)、下総国古河藩へ移封となり、本庄藩は廃藩、
本庄は、幕府の天領として、代官・伊丹播磨守の支配するところとなった。
壬戌紀行にも、 「 御代官榊原小兵衛支配所なり 」 と、記述されている。 」
開善寺前を西に向うと、突き当たりに、
慈恩寺と、本庄市立歴史民俗資料館と、田村本陣の門がある。
田村本陣の門は、ここに移築され、保存されている。
説明板「田村本陣門」
「 この門は、本庄宿の北本陣といわれた、田村本陣の正門です。
本陣とは、宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。
田村本陣は、現在の中央一丁目六の区域で、寛永十九年(1642)から、
宿泊記録が残されています。
本庄市教育委員会 」
その奥にあるのが、本庄市立歴史民俗資料館であるが、 本庄警察署だった建物で、明治の洋風建築物である。
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歴史民俗資料館の裏手にある安養院は、 太田南畝の壬戌紀行に、
「 大きなる寺がありて 楼門たてり 」 と、ある寺である。
この寺の門前には、珍しく纏(まとい)を作る店がある。
安養院の墓地に、小倉家の墓地があり、そこに、江戸時代の文人碑が林立している。
どれも粋を凝らしたもので、墓の主は小倉紅於といい、
江戸末期に、本庄で料理屋を営んだ粋人である。
自像を彫った墓があり、「墓が楽しい」 という変った墓地である。
「 加賀千代尼句碑、芭蕉画像句碑、渡辺崋山書の嵐雪、
基角の句碑など二十七基。
千代尼の句碑は、長めの自然石の下方に、瓢(ひさご) の
一筆があり、「 百生や つるひとすじの 心より 」 とある。 」
中山道に戻る。
本庄宿では、寛文三年(1663)から宿場の東西に市神が祀られ、
二と七の日に市が立っていた。
市立図書館入口付近に、「西の市神」 があったはずだが、痕跡も表示もなかった。
「ローヤル洋菓子屋」 という看板を出している、赤煉瓦造りの建物がある。
説明板に 「 明治二十七年に設立された本庄商業銀行が
所有していた繭保管倉庫を取得して、店舗兼工場にしている。
赤煉瓦はイギリス積みで、セメントが貴重品だったので、
漆喰を混ぜたものを使用して造られた。 」 とある。 」
本庄商業銀行は、本庄には周囲から集められた生繭を扱う市場が設けられ、
経済が活発であったことから、設立された銀行である。
銀行が、繭を保管する倉庫を持っていた、のは、珍しく、おもしろい。
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中山道を進むと、右側に、金鑚神社がある。
鬱蒼とした樹木に囲まれ、丹塗の社殿は、極彩色の彫刻で飾られて、実に美しい。
「 金鑚神社(かなさなじんじゃ)は、
寛永十六年(1639)、本庄城主の小笠原忠度が、創建したもので、
神紋も小笠原氏の紋である。
「 金鑽神社の入口の鳥居は、屋根のようなものが付いた珍しいもの
である。
入ったところにある天にも届けといわんばかりの二本の木は、
県指定文化財の大クスノキである。
寛永十六年(1639)、本庄城主・小笠原信嶺の孫、忠貴が、
神社改修に際し献木したものと伝えられ、樹齢三百五十年といわれる。
社殿は、本殿・拝殿・弊殿が一体になっていて、
本殿は享保九年(1724)、
拜殿は安永七年(1778)、弊殿は嘉永三年(1850)に建立されたものである。
幕に書かれた紋は、最後の城主・小笠原家のものだが、
極彩色の彫刻で飾られ、朱塗りの社殿は美しかい。
ここは、金鑽神社の遙拝所として建てられたもので、
本宮はここから数十キロ離れた児玉郡神川村にある。
境内には幾つかの社が祀られていて、その前の常夜灯に、
文久三年と刻まれていた。
横にある総欅造りの大門は、別当寺だった威徳院の総門で、
威徳院は、神仏分離で廃寺になったが、門だけが残されたのである。
太々神楽の舞台もある。 免許を持つ神楽として有名で、
一社相伝の本庄組の 神楽は今でも神社の氏子によって継承されている。 」
本庄宿はここで終わる。
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本庄宿 埼玉県本庄市中央 JR高崎線本庄駅下車。
(所要時間)
深谷宿 → (1時間50分) → 岡部駅入口交叉点 → (1時間50分) → 本庄宿
→ (2時間30分) → 神流川古戦場 → (15分) → 新町宿
(ご参考) 「本庄城について」
中山道交叉点から一つ目の道を右に直進すると、本庄城跡に出る。
この一帯は、現在は城山公園になっていて、奥に、城山稲荷神社が祀られている。
「 室町時代の弘治弐年(1556)、武蔵七党の武士団・児玉党一族の本庄実忠が、
本庄城を築いた。
本庄氏は、山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏に攻められ、北条方となった。
その子・隼人正の時代の天正十八年(1590)、
羽柴秀吉が小田原を攻めた時、この城も攻められて落城。
徳川家康の関東入国で、
天正十八年(1590)、家臣の小笠原信嶺が本庄城主となり、
本庄は、城下町として発展する。
江戸時代に入ると、中山道が開設され、本庄宿が誕生した。
信嶺の死亡後、養嗣子の信之(酒井忠次の三男)が城主となった。
慶長十七年(1612)、小笠原家は、下総国古河藩へ移封となり、本庄藩は廃藩、
本庄は、幕府の天領として、代官・伊丹播磨守の支配するところとなった。
慶長十七年(1612)、小笠原氏は、下総・古河に移封され、本庄城は廃城となった。
本庄は、江戸幕府の天領となり、中山道の宿場で、商人の町となった。 」