桶川宿から鴻巣宿まで歩いた。
桶川宿から鴻巣宿へは、一里三十町(約7.3km)の距離である。
慶長七年(1602)、現在の北本市の本宿村の宿場を移して、鴻巣宿としたものである。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口2274人、本陣1、脇本陣1、
旅籠58軒であった。
江戸時代の旅人は健脚で、夜明けとともに出発し、日暮れ前に宿場に入るスタイルで、
男子は一日三十キロ〜四十キロ、女子でも二十キロ〜三十キロ歩いたといわれ、
一日目の宿を鴻巣あたりでとることが多かったので、
中山道でも旅籠の数も多かったといわれる。
◎ 桶川宿から鴻巣宿
桶川の北の「木戸跡」 の碑を過ぎると、緑多い快適な道が続く。
二ツ家の交差点で、右に天神道、左が松山稲荷道と、分かれる。
松山稲荷道とは前述の東松山市にある箭弓稲荷神社へ向かう道のことで、
天神道とは、加納天神に向かう道のことである。
「 加納天神は、国道17号を越え、緑川高校入口交叉点を左折すると、
八百メートルにある氷川天神社である。
平安時代、貞観十一年(869)の創建と伝えられる古社で、
正徳弐年(1712)に、上加納村の鎮守として、菅原道真を祭神とする、
加納天神社になった。
明治八年(1875)、上加納村と下加納村が合併した際、
下加納村の鎮守である、氷川神社も、合社したので、
氷川天神社と呼ぶようになった。
両村は、現在は桶川市に編入されている。 」
道の両脇には、最近多い郊外店が軒を並べている。
北本温泉という、日帰りの湯があった。
千五百メートル程歩くと、本宿交叉点。
本宿とあるのは、江戸時代の始めまで、ここに宿場があったからである。
「 江戸幕府は、中山道を開設した当時、北本に宿場を開設したが、
その後、宿場を鴻巣に移してしまった。
その後は、立場茶屋として、明治まで続いた。 」
街道を歩いても、その痕跡は見られないが、左側の立派な白壁の塀の家は、
時代が違うだろうが、雰囲気があった。
交叉点から五百メートル程の多聞寺交差点で右折すると、
少し奥に入ったところに、多聞寺と天神社がある。
「 多聞寺(たもんじ)は、万治四年(1661)の開基で、
本尊は毘沙門天立像。
本堂は建て変えられているが、鎌倉や室町時代の古い板碑が、
十数基残されている。
また、境内の樹齢200年以上のムクロジの木は、県指定天然記念物である。
ムクロジ(無患子)の実の黒い種は、
正月に遊んだ羽根つきの羽の先についている玉になる。 」
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隣の天神社の御神体は、菅原道真坐像である。
社殿の隣の建物では、笛と太鼓の合奏が行われていたが、
お祭りの練習のようであった。
天神社には、明治二十四年の算額が奉納されている。
説明板「算額(さんがく)」
「 算学は、中国から伝来した数学をわが国の関孝和らによって、
改良発達された、独自の学問である。
県内で算学が行われるようになったのは、天明年間(1781〜88)頃からと推定され、
これら算学を学ぶ人々が、問題の解法などを記録して、
神社、仏閣に奉納したものが算額である。
当神社に奉納されている算額は、時代をぐっと降って、明治中期のものである。
これには、 「 奉献額 関流算法 明治廿四年四月吉日 発起者
当所 清水和三郎 林専蔵 」 として、市内十一名、市外一名の計十二名による、
問題と解答が記録されている。
算学は、明治五年(1877)の学制で採用されなかったが、
この算額は、前代に引き続いて、
民間ではかなり盛んであったことを証明する資料として貴重である。
昭和五十七年三月 北本市教育委員会 」
中山道は、多聞寺前から左斜めに、北本駅前を通過し、
JR高崎線の東間踏切のあたりで、線路の両側に出るルートであった。
そのルートはないので、北本駅前交叉点を左折し、高崎線の北本駅に出る。
北本駅東口の手前の右斜めの細い道が、中山道の名残りと思われる。
その道を行くと、北側に東間浅間神社がある。
説明板 「東間浅間神社の由来」
「 当社の祭神、木花開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)は、
大山祇命の御女にして、天孫にぎにぎのみことの妃として、
皇室の始祖・大御母と仰ぎ奉る大神なり。
今日の日本の基礎を築き給いし功徳は、日本女性の範と敬仰し奉らる。
古来、山火鎮護、農蚕の守護神 又 婚姻子授、安産祈願の霊徳神なり。
初山に詣でる赤子は額に神宝の朱印を戴き、無病息災を祈願し
、出世を願ふに崇敬極めてあつし。 」
東間浅間神社は、この地方の人々の崇敬を集め、 東村せんげんの森 といわれた神社で、天神社・八幡社・弁天社も合祀されている。 」
小高い丘の初山に、築後二百年の本殿があったが、
小生が訪れた一年前、不審火で焼かれ、小さな仮祠があったが、
平成十七年に再建されたようである。
浅間神社の入口には、小さな社があり、庚申像が祀られている。
三猿の上にいるのは、猿田彦(さるたひこ)で、旅の守護神である、と書かれていた。
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◎ 鴻巣宿
東間踏切の近くに、馬室原の一里塚がある。
神社の横の道が、突き当たった線路の向こう側に、一里塚はある。
踏切がないので、大回りをする。
神社横の道を北上すると、鉄道の線路につきあたる。
ここは左折し、東間踏切まで歩き、踏み切りを渡り、
右側にある小田急マンションの前の道を右折すると、
二百メートルほど先に、原馬室一里塚入口の矢印がある。
案内に従い、農道に入ると左側に、一里塚がある。
説明板 「一里塚」
「(前略)
幕府は、慶長六年(1601)には、東海道各駅に、翌慶長七年(1602)には、
中山道各駅に、伝馬の制が発せられ、その後、伝馬制の実施に当たり、
便宜をはかるよう、また、旅行者通行人に対する通行の目安とも、
憩いの場ともなるように一里塚を築くに至った。
六十間を一町(約110m)、三十六町を一里(約4km)とし、
街道一里毎に、その両脇に五間(約10m)四方の塚が築かれ、
頂上に、榎等が植えられた。
中山道一里塚は慶長十七年(1612)に構築されている。 (
中略)
この一里塚は、当時の中山道をはさみ、両側に築かれたもののうち、西側の塚で、
東側の塚は、明治十六年(1883)、高崎線の敷設の際に、取り壊されてしまった。
現存する西側の塚は、
旧中山道の道筋を知る上で貴重な存在になっている。
平成元年三月 鴻巣市<教育委員会 」
なお、中山道のルートは、その後、浅間神社の前を通る道に変わったので、
古い一里塚はもとの位置に残ったのである。
塚に上ると名は分からないが、
大きな木があり、その下に小さな祠と石碑があり、
石碑に、 「 埼玉県足立郡馬室村大字原馬室 」 と、記されていた。
元治元年創業の梅林堂という菓子屋に入り、塩豆大福を二個買い、
これをポケットに入れて、県道164号を北に歩く。
国道17号があるのに、ひっきりなしに車が走り、
一人分しかない狭い歩道を、自転車が行き来している。
その度に、道を譲らなければならないのには参った。
深井二丁目交叉点で、鴻巣市に入る。
鴻巣は、大宮台地の北部にあり、旧荒川と荒川の低地に囲まれている扇状地にある。
地名の由来については諸説あるようだが、鴻巣市は、
「 古代、 武蔵(天邪志) 国造(むさしくにのみやつこ) の 笠原直使王 (かさはらのあたいおみ) が、 現在の鴻巣市笠原のあたりに住み、 一時、この地が武蔵の国府となったことから、 「 国府の州 (こくふのす) 」 と呼ばれたのが始まりとされ、 それが 「こふのす」 となり、 後に 、 「コウノトリ伝説」 から、鴻巣の字をあてはめるようになった、 と云われている。 」
という説を、採用している。
(ご参考) 「コウノトリ伝説」
「 木の神と呼ばれる大樹があり、人々に災いをもたらしていたが、
コウノトリが住み着いてからは、害をなすことがなくなったので、
大樹のそばに、社を造って、コウノトリを祀った。
祀った社を鴻の宮、 この地を鴻巣と呼ぶようになった。 」
ここからは県道57号に変わる。
人形町バス停の右側に
金剛院の石柱があり、その先に、八幡神社の入口がある。
その先の左側に、吉見屋人形店があり、雛屋歴史資料館を開いている。
「 鴻巣は、江戸時代より雛人形の産地で、
江戸の十間店(じつけんたな)・武州越谷(こしがや)とともに、
、関東三大雛市の一つとして、繁栄して来た。
鴻巣人形は、江戸時代に、京都の伏見人形師が移住し、造り始めたのが始まりである。
その後、豪華な衣装を着けた古代雛が作られるようになり、
今でも人形店が軒を並べている。
戦前の最盛期には、二百軒の製造業者があったが、
大量生産の岩槻雛人形に押され、最近ではわずか十数軒に減少している。
吉見屋人形店は、江戸時代創業で、三百年余り続く古いひな人形店の
一つで、 土蔵を使った雛屋歴史資料館には、古い鴻巣雛が展示され、
この地方独特の裃雛(かみしもびな)は、女児の初節句や、養蚕農家の豊年を願う
「お繭さま(おかいこさま)」 に供え、る愛らしい人形である。 」
人形店を過ぎると、本町南交叉点で、この辺りから鴻巣宿が始まる。
本町交叉点の手前左側に、「壇林勝願寺」
と、刻まれた大きな石柱と、山門が見えてくる。
鴻巣宿の入口にある勝願寺は、寺の屋根に、葵の紋瓦のある大きな寺である。
「 勝願寺は、鎌倉時代に、
良忠という僧が、登戸の地に、堂宇を建立したことが始まりとされる淨土宗の寺である。
清厳上人が、天正元年(1573)に、現在の地に再興した。
徳川家康は、文禄弐年(1593) 鴻巣で鷹狩りを行った際、この寺を訪れ、
二世住職の円誉不残上人に感銘を受け、宝物を寄進したといわれている。
しかし、幾度かの災厄により、宝物は殆ど失われてしまった。
山門には仁王像が収まっている。 」
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勝願寺の広い境内には樹木が多く、伽藍は立派である。
本堂の屋根には徳川家の葵の紋瓦があり、
徳川家康の御朱印をいただいていたことを示す。
本堂の前には人形塚があり、右手の墓地には大きな宝篋印塔が並んでいる。
本堂の左には、芭蕉忌千句塚の碑が建っている。
その奥に、戦国時代の武将・仙石秀久の墓がある。
説明板 「仙石秀久の墓」
「 秀久は、信州小諸の城主。 初めは、
羽柴筑前守秀吉の家臣で、阿波国須本城主であったが
天正十八年(1590) 小田原の戦功により、小諸を賜った。
のちに、徳川家康に仕え、慶長十九年(1614)、
出府しての帰途時に、発病し、同年五月六日、当地で没した。
当山にて殯し、同年十一月八日、小諸の歓喜院に葬る。
遺命により、当山に分骨建墓。
本廟は、芳泉寺(長野県上田市)にある。 当山 」
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墓地には、真田小松姫の墓と、信州松代藩主・真田信重夫妻が、並んで建っている。
説明板 「真田小松姫の墓」
「 小松姫は、本多忠勝の女(むすめ)で、家康の養女となり、
真田信之(幸村の兄で、信州松代藩の祖) に嫁し、
元和六年(1620)二月二十四日に没した。
生前、当山の中興二世の貫主・円誉不残上人に深く帰依した。
そのような縁で、元和七年(1621)、一周忌に際し、
信之の二女・松姫(見樹院)が、当山に分骨造塔した。
本廟は長野県上田市の芳泉寺ある。 当山 」
小松姫の夫の真田信之は、真田昌幸の嫡男で、真田幸村の兄である。
徳川四天王の一人と言われた、本多忠勝の娘婿だったこともあり、
関ヶ原合戦では徳川方についた。
一方、石田三成と関係の深かった、大谷吉継の娘を妻としていた、
真田幸村と父昌幸は、西軍に組した。
関ヶ原の戦いの悲劇である。
説明板 「右真田信重の墓 左信重の室の墓」
「 信重は、真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖) の三男。
慶安元年(1648) 二月二十三日、鴻巣で病没した。
母小松姫の縁で当山に葬る。
また、信重の室は、鳥居左京亮の第六女、慶安二年(1649)十二月九日に没した。
長野市松代町の西楽寺には、夫婦の霊屋(おたまや)があって、位牌が安置されている。 当山 」
裏の墓地にある大きな宝篋印塔四基は、関東郡代・伊奈忠次一族の墓である。
江戸川に流れ込んでいた利根川を銚子沖に流すように替えるなどして、
江戸の洪水を防いた功績はすばらしい。
一番左が忠次の墓、その隣が子の忠治の墓である。
説明板 「伊奈忠次・ 忠治の墓」
「 伊奈忠次は、三河国幡豆郡小島の城主・伊奈忠家の嫡子として生まれた。
初め、徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、
武蔵国鴻巣・小室で、一万石を賜った。
関東各地を検地し、桑・麻・楮の栽培や、水利の便を開く等、
関八州は彼によって富むといわれた。
(中略)
伊奈忠治は、忠次の次子。 元和四年(1618)、関東郡代を嗣ぎ、
武蔵国赤山(現埼玉県川口市) に陣屋を構え、七千石を領し、
父忠次と同じく、新田の開拓・河川の付け替え・
港湾の開さく等に努めた。
その在位は、三十五年の長さに及び、
幕府の統治体制確立の重要な時期に、郡代兼勘定奉行として、
民政に尽くした功績はきわめて大きい。
(以下略)
平成元年三月 埼玉県教育委員会 鴻巣市教育委員会 」
鴻巣宿は桶川から一里三十町の距離で、江戸から七番目の宿場である。
この宿は、慶長七年(1602)、現在の北本市の本宿村の宿場を移して、
鴻巣宿としたもので、
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口2274人、本陣1、脇本陣1、
旅籠58軒であった。
江戸時代の旅人は健脚で、夜明けとともに出発し、日暮れ前に宿場に入るスタイルで、
男子は一日三十キロ〜四十キロ、女子でも二十キロ〜三十キロ歩いたといわれ、
一日目の宿を鴻巣あたりでとることが多かったので、
中山道でも旅籠の数も多かったといわれる。
英泉の 「木祖街道 鴻巣宿」 の浮世絵 は、鴻巣宿の風景ではなく、 吹上から見た富士である。
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左側に木村材木工業と、パーキングこうのすがあり、
「旧中山道周辺名所旧跡案内図」がある。
案内図によると、 「 高札場は、現在の三木屋付近、
この先左に入った東照宮が、家康が鷹狩をために建てた鴻巣御殿跡である。 」 とある。
道の反対 (右側)の伊田ベビー(介護用品) の隣の空地の前の道角に、
「鴻巣本陣跡」 の黒い石柱が建っている。
この奥に入ると、「仲町会館建設記念碑」 と、 「猿田彦神」碑 がある。
このあたりが、仲町六斎市が開かれた場所である。
中山道に面した本町周辺には、昔風の家が残っていたが、
いつまで続くものか心配。
駅前交叉点を過ぎ、鴻神社交叉点の右側に、鴻神社がある。
説明板 「鴻神社」
「 鴻神社は、明治六年に、この地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。
三社とは次の神社である。
氷川社 − 鴻ノ宮氷川大明神、あるいは、端ノ宮ともいい、
鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。
氷川社の神額は、現在も鴻神社に残されている。
熊野社 − 熊野権現と称していた古社で、氷川大明神を端ノ宮と称したのに対し
中ノ宮と呼んだ。
合祀前は社地三千坪を有し、巨木におおわれた森林だったという。
竹ノ森雷電社 - 雷電社は、現在地に鎮座していたもので、
「竹ノ森」 の名があるように付近には竹林が広く存在し、
巨木と竹林によって囲まれた古社であり、
天明期には、遍照寺(常勝寺末寺)となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社で
あった。
現在の鴻神社の社地は、竹ノ森雷電社の社地だったもので、
合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治六年九月二十四日に、社号を鴻三社と定めた。
明治三十五年から四十年にかけては、さらに、
町内に所在した、日枝神社・東照宮・大花稲荷社・八幡神社を合祀して、
明治四十年四月八日、社号を 鴻神社 と改めて、
現在に至っている。
(以下略)
昭和六十三年三月 鴻巣市教育委員会 」
当時の竹ノ森はその名の通り、多くの竹林が点在する竹と高木の森だったようで、
神社の敷地も広い。
鴻巣宿はここで終わる。
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鴻巣宿 埼玉県鴻巣市本町 JR高崎線鴻巣駅下車。
(所要時間)
桶川宿 → (1時間10分) → 北本集落 → (1時間50分) → 鴻巣宿
→ (1時間30分) →氷川八幡神社 → (2時間20分) → 熊谷宿