名所訪問

「  中山道を歩く 桶川宿 」

( 上尾宿から桶川宿 )

かうんたぁ。


中山道を上尾宿から桶川宿まで歩いた。
桶川宿は江戸から六番目の宿場で、大宮宿から三十四町(約3.6km)と短い。 
また、日本橋から八里余で、健脚であった江戸時代の 人々のほぼ一日の行程に当ったので、この宿場か、次の鴻巣宿へ泊まる人が多かったのだろう。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、桶川宿の宿内人口は1444人、 家数319軒、本陣1、脇本陣2、旅籠36軒であった。 


◎ 上尾宿から桶川宿

JR北上尾駅入口交叉点を北上すると、 久保西交叉点にある、緑に囲まれた立派な塀に囲まれた屋敷は、 紅花の仲買問屋であった須田家である。 

「  中山道は、旧久保村を経て、桶川宿に入る。 
この辺りは旧久保村で、武州紅花の産地であった。 
立派な塀で囲まれた屋敷の須田家は、江戸時代、 後期の久保村(現上尾市)の豪商。 
南村(現上尾市)の須田家の分家で、醤油醸造・質屋を営み、 本家と共に穀物紅花の取引を行っていた。 
今も紅花関係の資料がたくさん残されているという。 」 

左右の通りはべにばな通りと、BS通りで、 左折するとブリジストン上尾工場がある。  
町屋バス停の先の三叉路を左に入ると、線路近くに雷電神社がある。 

「 この神社は、以前は街道脇にあったのだが、 明治時代にここに移転した。 
雷電神社が群馬県と栃木県に多いのは、 北関東や埼玉に雷が多いことと関係があるのだろうか? 
その中で、左甚五郎の彫刻がある群馬県板倉町の板倉雷電神社が、 関東の総本社といわれ、有名である。 」 

そこから少し歩くと、道の右側に小さな祠(ほこら)があり、 明和六年の庚申塔が祀られていた。 

須田家
     明和六年の庚申塔
須田家
明和六年の庚申塔



◎ 桶川宿

道の右側の小さな祠の中に、お地蔵様が祀られているところを過ぎると、  富士見通り交叉点が、上尾市と桶川市の境である。 
県道川越栗橋線の交叉点の右側に、「旧跡 木戸跡」 と書かれた、石柱が建っている。 
これは、桶川宿の南の木戸跡である。 

「 桶川宿は江戸から六番目の宿場で、 桶川宿から上尾宿までは三十四町(約3.6km)と短い。 
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、桶川宿の宿内人口は、 1444人、家数319軒、本陣1、脇本陣2、旅籠36軒である。 
この地は、桶川えんじの産地で、その紅花の大半は中山道を通って京都に運ばれた。 
また、この地方は染料の藍を栽培していて、武州藍として江戸に送られた。 」

看板も無くなった二階家の瓦屋根の頂上に、何か小さなものを見つけた。 
よく見ないと分からないが、煉瓦造りの小さな鐘馗(しょうき)が乗っている。 
鬼門を守る屋根神に一種で、珍しいなあと思った。 
道沿いに古い家がかなり残っていて、右側に元旅籠の武村旅館がある。 

「 武村旅館は、江戸時代の旅籠紙屋半次郎だったもので、 明治時代に、板橋宿で旅館をやっていた先代が、紙屋を買って始めた旅館で、 大正時代に改築したが、間取りは、皇女和宮が江戸下向した、 文久元年(1861)の当時まま引き継がれていて、 国の有形登録文化財に指定されている。 
今も、ビジネスホテルとして営業している。 」

南木戸跡
     元旅籠の武村旅館
南木戸跡
元旅籠の武村旅館

武村旅館の次の道の左側奥にあるのは淨念寺である。
天文十五年(1546)の開基と伝えられる寺で、 赤い仁王門(鐘楼門)の奥に本堂がある。
境内には、京都紅花商人・吉文字屋彦市ゆかりの墓がある。 

説明板 「淨念寺・仁王門(鐘楼門)・仁王像」  
「 淨念寺のシンボルというべき、この朱塗りの門は、  新編武蔵国風土記稿 に、
「 仁王門ハ鐘楼ナリ 楼下二仁王ヲ安シ 上に鐘ヲ懸ク 元禄十四年ノ銘アリ 」
と記されてあるように、元禄十四年(1701)に再建されたものであります。
この仁王門の上には、梵鐘が建っています。
淨念寺のかっての梵鐘は、寛保元年(1741)に鋳造されたもので、 淨念寺のご詠歌に、
 「 淨念寺鐘響きや 法の音 子安の誓い 深き桶川 」 と、呼ばれているように、
その美しさ音色は、人々に時を知らせるために、桶川宿の隅々まで鳴り響いたと、 いわれています。
残念ながら、この梵鐘は、第二次大戦の際、求めに応じて供出され、 現存しておりません。
現在の仁王門に懸かっている梵鐘は、 昭和四十年に鋳造されたものであります。
仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。 
明和五年(1768)に開眼されました。
口を開けてているほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい、 外から進入しようとする法敵から、仏法を守護しております。 」 

左手に桶川駅があり、その先は、住宅公団が分譲した大住宅団地で、 駅のむこうとこっちでは、歴史に大きな隔たりがあるのを感じた。 
陸橋で駅前を過ぎると、桶川名物「べに花まんじゅう」の看板を出した店や、 古さを感じる嘉永七年の島村茶舗がある。 
このあたりから、桶川宿の中心になり、右側の島村ビルの脇の細い道を入るとあるのが、島村家の木造三階建ての土蔵である。 

説明板 「国登録有形文化財 島村家住宅土蔵」  
「 桁間六間、梁間三間の木造三階建ての土蔵で、 江戸時代後期の天保七年(1836)の建築と、伝えられています。 
島村家は、中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた、穀物問屋木嶋屋の総本家で、 土蔵の屋根の両端にある鬼板には当時の屋号の一字をとった、 「木」の字が刻まれています。
また、この土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、 その報酬によって、多くの民が飢えから救われたことから、  「お助け蔵」 といわれたとの伝承が、残されています。 
現在は、黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、 建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさえる、堂々とした土蔵です。 
              平成十四年九月 桶川市教育委員会    」  

淨念寺仁王門
     島村茶舗      三階建ての土蔵
淨念寺仁王門
島村茶舗
島村家住宅土蔵

その先は、土蔵造りの商家・矢部家である。
明治初期に建てられた重厚な建物で、川越の商家・亀屋と、 同じ棟梁の手によるものである。 

「 矢部家の屋号を「木半」といって、木嶋屋半七に由来する。 
この名前は、稲荷神社にある紅花商人寄進の石灯籠に刻まれている。 」

左側に、材木が立てかけられた家は、国の登録有形文化財に指定されている 小林家住宅である。 

「 この建物は、江戸時代、三十数軒あった旅籠の一つで、 桶川大火の後の建築なので、棟札の子の字から、天保十一年か、 嘉永五年の建築と思われる。 
皇女和宮御降嫁の際、随員十数名が泊まった、と記録が残っている。 
大正初期に、小林家初代が、この建物を購入し、大改造して材木商を営んできた。 
現在は材木商と喫茶店を営んでいる。   」

右側に、木の柵のような大きな門(冠木門)がある。
門の奥にあるのは府川本陣跡である。
、 門の前に、「明治天皇桶川行在所」の石碑が建っている。 
個人宅なので、中に入ることはできなかった。 

「 府川本陣は、度々焼失したにもかかわらず、 その都度再建され、埼玉県に残る唯一の本陣として、指定文化財になっている。 
現在まで残っているのは、上段の間・次の間・湯殿などである。 
この本陣は、代々、府川家が勤め、加賀前田家を始めとする、 参勤交代の大名たちを迎え、文久元年(1861)  皇女和宮の江戸下向の時にも、ここに宿泊された。 

矢部家住宅
     小林家住宅      府川本陣跡
矢部家住宅
小林家住宅
府川本陣跡

中山道宿場館はお休み処・観光案内所(9時〜16時月休、祝日の場合は翌日休)。 
木曽海道六十九次の浮世絵と、街道の資料が展示されている。 
市役所前交叉点の左側の小公園に、 「中山道桶川宿」、 「左上尾宿三十四町」、「右鴻巣宿一里三十町」 と刻まれた 道標がある。 
また、「中山道桶川宿」 の絵図と、「桶川宿こんなところ」 の説明板がある。 

説明板 「桶川宿こんなところ」 
「 桶川宿は、日本橋から八里余で、 健脚であった江戸時代の人々のほぼ一日の行程に当たる。 
宿場の開設当初に近い寛永十四年に、五十八軒、 紅花の取引がされるようになった、寛政十二年(1800)には、二百四十七軒に達し、 幕末に近い天保年間には、三百四十七軒になりました。 」   

左側に東和銀行がある。  江戸時代には、市神社があった。 
その手前の右に行く道は岩槻道で、道の右奥(本陣の斜め裏手)に、 桶川稲荷神社がある。 

「 この地は、昔、芝川が中山道を横切って、この付近を流れていた。  
境内は約四千u、建物は本殿・拝殿・社務所・手水舎・神楽殿などからなる。 
創建は、長承三年(1134)とも、嘉禄年間(1225〜1227)ともいう。 
元禄六年(1693)桶川宿の鎮守となり、明治六年(1873) 郷社となる。 
祭神は宇迦之御御魂命である。 」  

拝殿の前面に立ち並ぶ石燈籠は、桶川宿の紅花商人の寄進によるものである。
当時の豪商たちの名が刻みこまれている。 

説明板 「紅花商人の石燈籠」 
「 拝殿の前面に立ち並ぶ石燈籠は、安政四年(1857)に、 桶川宿を拠点にしていた、紅花商二十四人が寄進したものである。 
燈籠には、 「紅花商人中」 と書かれた下に、 寄進者の名前があり、中入村矢部半右衛門や、当駅(桶川宿)木嶋屋半兵衛など、 当時の豪商たちの名が刻まれている。 
当時、桶川地方は口紅や食紅の原料になる紅花をさかんに栽培しており、 その紅花は、 「桶川えんじ」 として、全国的に知られていた。 
              桶川市教育委員会  」 

拝殿に向って、右手前に長さ1.25m、下巾0.75m、重量およそ700kgの力石が、 奉納されている。 

説明板 「大盤石(力石)」  
「 大盤石(だいばんじゃく) と、刻まれた石の表面に、 嘉永五年(1852)二月、 三ノ宮卯之助が、これを持ち上げたと、刻まれている。 
併せて、世話人の名前十二名と、石主・石工の名前も刻まれている。 
力石とは、一般的には祭礼などに、若者が力くらべに持ち上げた石をいう。 
  当時、江戸では、祭りや見世物で、力石を持ち上げることが興行として行われていた。 
岩槻出身の卯之助は、桶川にも呼ばれて興行を行ったのだろう。 」 

道標
     紅花商人の石燈籠      大盤石(力石)
中山道桶川宿の道標
紅花商人の石燈籠
大盤石(力石)

その先の左側に、「大雲寺の石柱」 があるので、入っていった。 
曹洞宗のお寺で、正式には、龍谷山大雲禅寺という寺院である。 
本堂に向かって、左側に、子育て地蔵尊の他、馬頭観音などの石仏群があった。 
子育て地蔵尊の隣に、三体の石地蔵があり、 中央の中の一体に、「女郎買い地蔵」の名が付けられている。 

説明板 「女郎買い地蔵」  
「 この地蔵は、夜な夜な、宿の飯盛り女に会いに行くため、、 困った和尚さんが、地蔵の背中に、鎹(かすがい)を打ちつけ、鎖で繋いでしまった。 
寺の和尚さんが、寺の若い僧を戒めるための話と、されているが、 今も一体の地蔵の背中に、鎹が打ち付けられている。 」  

この話から想像すると、江戸時代の桶川宿は飯盛り女が多く、 それが有名で、近隣から多くの客を集めていた、ということだろう。 
墓地は大変広く、本陣の府川家や、宿場開設当時から家の墓などがあった。 

大雲寺前をさらに進むと、北の陸橋の手前に、「一里塚跡」 の標示がある。 
桶川市役所交叉点の左手にある「松山稲荷道道標」は、桶川北小学校の一角にあった。 
道標は、天保七年(1836)に建立されたもので、 魚の字が図案化され、「 松山 いなり道 本小田原町 」 と、刻まれている。 

「 松山稲荷は、東松山市にある箭弓稲荷神社 (やきゅういなりじんじゃ)のことである。 
源頼信が平忠常を討つ前に、 和銅五年(712)の創建と伝えられる、野久稲荷神社に戦勝祈願し、 その後、戦勝報告と同時に社殿を寄進し、現在の名前に変えさせた、 と伝えられる神社である。 
江戸時代に大変繁盛したお稲荷様で、多くの講が作られたが、 ここに刻まれている「本小田原町」は、江戸日本橋のたもとの北側にあった、 魚市場のことで、この道標は魚市場仲間が建てたものである。 
なお、松山稲荷道は、ここから西に折れて、下石村(現北本市)を経て荒川を渡り、 松山に通じていた。  」  

桶川市役所交叉点右の薬師堂の小祠の脇に「木戸跡」の石碑が建っている。
「桶川宿の木戸跡」 の説明板が、家の戸に張り付けられていた。
背後の茶屋と、うどん屋の建物は古そうである。 

説明板 「桶川宿の木戸跡」 
「 江戸幕府は、治安を維持するために、各宿場の出入口に、 「木戸」を設けていました。 
桶川宿の古絵図にも、この木戸は描かれており、文久元年(1861)に、 皇女・和宮の通行を迎える前に、木戸を立て直した記録も残られています。 
現在、木戸のあったことを示す石碑は、  当地と大黒屋化粧品店脇(下の木戸跡) に建てられていますが、 当地の石碑は、道路の拡張等により、以前よりもやや南に移されています。 
「上の木戸跡」は、「下の木戸跡」とともに、 江戸時代の桶川宿の規模を私たちに伝えてくれています。 」  

桶川宿はここで終わる。 

女郎買い地蔵
     松山稲荷道道標      上の木戸跡
女郎買い地蔵(真ん中の大きな)
松山稲荷道道標
上の木戸跡

桶川宿  埼玉県桶川市東・寿 JR高崎線桶川駅下車。 

(所要時間) 
上尾宿→(1時間30分)→桶川宿→(1時間10分)→北本集落→(1時間50分)→鴻巣宿



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