中山道を大宮宿から上尾宿まで歩いた。
上尾宿は大宮から二里。江戸から五番目の宿場である。
上尾宿の宿場の長さは十町十間(約1.2キロ)であった。
天保十四年編纂の中山道宿村別帳によると、宿内人口は793人、
家数182軒、本陣が1軒、脇本陣は3軒、旅籠は41軒であった。
大田南畝の壬戌(じんじゅつ)紀行には 「 上尾の駅舎ひなびたり 」 とあるが、
宿場女郎が大勢いたことや六斎市が開かれたので、川越藩士たちもよく遊ぶに訪れた、
とあり、近隣の人で宿場は繁盛していたようである。
上尾宿は、江戸時代末期の安政七年(1860)の大火で、ほとんどが焼け、
遺構は残っていない。
◎ 大宮宿から上尾宿
大栄橋交叉点の東方に東光寺がある。
その先は土手町で、東武野田線北大宮駅で、東武野田線とJR東北線の下をくぐる。
県道164号を進むが、歩道が狭く、歩きにくい。
大宮郵便局北交叉点の先の左側にファミレスCOCOSがあり、
駐車場の出入口に、 大山御嶽山道標が建っている。
大山御嶽山道標
「 大山御嶽山道標は 「 大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道 」 と
彫られている追分道標で、安政七年(1860)に建てられた。
川越道は、中山道とここで西に別れ、レストランと魚屋の間を通り、
大成町2丁目の普門院の東側へ通じ、与野に至っていた。
大山とは、神奈川県伊勢原市にある阿夫利神社のことで、江戸時代には
男子が15〜20歳になると、大山にお参りをすると、一人前という風習が生まれた。
最初は、成人を迎える神事であったが、この頃には娯楽化していたようで、
これを滑稽に描いたのが落語の大山詣である。 」
スーパーマルエツの向かいの小さな交叉点を入った突き当たり右側に小さな祠に 八百姫大明神と刻まれた石碑が祀られている。
「 八百姫比丘尼(やおひめびくに)は人魚の肉を食べて、八百歳まで生きたといわれ、 ここにしばらく滞在していた、という伝説が残る。 」
北区役所入口交叉点を左折し、少しは入った左側に石鳥居があり、
新しい鳥居の横には石上神社の石柱がある。
鳥居と石柱は立派だが、社(やしろ)は小さく、貧弱だった。
教育委員会の説明板
「 石上(いそのかみ)神社は、
江戸時代の中山道の絵図にも載っている古い神社である。
疱瘡(ほうそう)の伝染が大変恐れられた時代に、
「ホウソウの神様」 として、信仰を集めてきた。
昭和三十年代までは、家々からもち米と小豆を持ち寄り、小豆入りの餅を搗きあげ、
子供に食べさせた。 」
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中山道に戻ると、北区役所入口交叉点の右側、歩道上に 二体の石仏が、離れて建っている。
「 一つは、「安永六年(1777)・・ 南無三界萬霊供養塔 上尾」 と、刻み込まれた、地蔵像で「右原市道」、もう一つは、 「供養塔」と刻まれた、馬頭観音で、「此方 せいふ(菖蒲) きさい(騎西)五り半」 とあり、道標を兼ねていた。 」
北区役所バス停の手前右側の道脇に、
「享保二年(1802)二月吉日 下鴨野村」 と刻み込まれた、馬頭観音が祀られている。
花が活けられているので、今もなお地元の人に信心されているのだろう。
新幹線のガードが見えてくると、手前百メートルの左側に、赤い鳥居があり、
お堂の中に、「青面金剛像」と「二鶏」、「三猿」が陽刻された庚申塔が祀られている。
地元で 長い間、大事にされてきたものである。
説明板「東大成の庚申塔」
「 これは、東大成(ひがしおおなり)の庚申塔といわれるもので、
高さが百四十二センチ、幅が四十五センチ
の大きさ。 元禄十年(1697)、井上、清水、黒須、吉田、小川などの十四名と、
おまつ、お加めなど、二十二名の女性の名が刻まれ、
平方村(上尾市)の石屋、治兵衛に注文され製作された。
地元では、耳の神さん、眼の神さん、と大事にされている。
大宮市教育委員会 」
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県道164号で、新幹線のガードをくぐると、東大成町交叉点があり、国道17号を横断する。
左側に高い住宅団地が聳えている。
その方角に宮原駅がある。
太田南畝の壬戌日記にも、 「 左に社あり、人家あり。 天神橋の立場といふ 」 と、記されているところであるが、
今や、立場茶屋があった面影は
無く、バス停に「天神橋」の名が残るだけである。
なお、左側の石鳥居の奥にある木造の小さな祠は、
菅原道真を祭った天満宮(天神社)である。
「天神社(バス停「天神橋」のところ)」
「 ここには、川が流れ(今は暗渠) 天神橋という石橋があった。
立場茶屋が置かれ、「天神橋の立場」と呼ばれていた。
茶屋は、島屋と福島屋の二軒が有名で、特に島屋は
参勤交代時の加賀前田家の休憩所に使われた。 」
三百メートル先の右側にあるのは加茂神社である。
「木曾路名所図会」 に、「 賀茂村に賀茂祠あり 」 とある神社である。
「 加茂神社は、京都上賀茂神社を勧請したと、伝わる加茂宮村の
鎮守で、 御祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)と、菅原道真である。
神社の創建はさだかではないが、文政七年、幕府によって作られた、
新篇武蔵風土記稿にもあることから、かなり古い神社であることは間違いない。 」
境内には、本殿の脇に、三峰神社や天王様を祀る神輿殿があり、 また、「宝暦三年(1753)」、「弘化二年(1845)」 と刻まれたものや、 「文政十年(1827)御屯宮」 と、刻まれた石灯篭がある。
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上尾宿は大宮から二里。 江戸から五番目の宿場。
渓斎英泉の描く「木曽海道六十九次」の上尾宿の光景には、
右端に「加茂大明神」と書かれた幟(のぼり)が何本もあり、
街道沿いの茶屋のような家の前では、一家総出で、
米を玄米と籾に仕分ける、収穫風景が描かれている。
加茂神社の緑に包まれた森が旅人の格好の休み所になっていた。
加茂神社を出ると、国道16号の下をくぐる。
このあたりは、さいたま市北区宮原地区の中心地で、宮原小学校、
その先の右手には宮原中学校がある。
吉野交叉点を通過すると、右側の諏訪公園の入口に、
南方(みなみかた)神社がある。
「 赤い鳥居の南方神社は、江戸時代の 五街道細見独案内 に、 「諏訪神社」として登場する神社で、旧吉野村の鎮守で諏訪社とも呼ばれたが、 明治四十年、近隣にあった九つの神社を合祀して、現在の名前になった。 」
つつじヶ丘公園(西)交叉点付近は、自動車も人も多い。
左側に、「魂霊神」 という石柱があり、社(やしろ)の中には、石像が祀られている。
このあたりから上尾市になる。
馬喰新田バス停の左側に、庚申塔がある。
「 青面金剛像が描かれた下の台座には、「 足立郡馬喰新田
講中二十名 」 とある。
碑の右側面には、「 寛政十二年十二月 」、左側には
「 是より秋葉へ壱里十二町、ひら方へ壱里八町、川越へ三里 」 と、
地名と距離が刻みこまれて、庚申塔は道標を兼ねている。 」
三叉路の左側の狭い道が川越道であり、平方河岸を越えて川越へ続いていた。
街道の追分の面影がないので、気を付けないと通り過ぎてしまうほどである。
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◎ 上尾宿
下上尾バス停を過ぎると、左側に横浜ゴム物流センターがある。
上尾陸橋交叉点を右折すると、緑の多い上尾運動公園、
その先にさいたま水上公園がある。
上尾陸橋交叉点を越えると、左手に高い木が見えてくるが、その中に、
明治四十三年(1910)に、東町から移築されてきたといわれる愛宕神社がある。
境内は駐車場になっているが、南角の道との境の鳥居近くに、庚申塔がある。
「 庚申信仰は、神道・仏教・道教・陰陽五行などが、
融合して出来た民間信仰である。
長野県や群馬県では、庚申等の文字が刻まれたものの他、
青面金剛という文字や、青面金剛像が刻まれたものも多い。
仏教による庚申の御本尊は青面金剛とされ、ここにあるものは、
三猿と、二鳥の上に、青面金剛が乗っているという図柄である。
青面金剛は、庚申様と道祖神とが一体となって、信仰されてきた、土着の神である。
道祖神は夫婦(めおと)神で、村の外れで、
外界から邪悪なものが侵入してくるのを防ぐ役目をしている。
二人の仲を邪魔するものは追い出すことから、村の守り神になったというものである。
神道では、庚申の祭神は、猿田彦(さるたひこ)神とされる。
猿田彦は、天宇受売神(あめのうずめのかみ)と夫婦になった神である。
天孫降臨の時、邇邇芸命(ににぎのみこと)の道案内をしたとされる神であること
から、 道中の神 → 旅の神 → 道祖神 となった。
このあたりは現代の我々には分かり難い話である。
武蔵国(埼玉県・東京都・千葉県)には庚申塔が多いが、この後、
中山道を歩いて行くと、碓氷峠を越えたあたりからは道祖神に変っていくので、
確認しながら歩くのも楽しい。 」
愛宕神社を過ぎると、右側にはら内科があり、 その前に上、尾市新道のバス停がある。
「
上尾宿の江戸側の木戸は上尾原市新道付近にあったとされる。
宿場の長さは十町十間(約1.2キロ)と長い。
天保十四年編纂の中山道宿村別帳によると、宿内人口は793人
(男372人女421人)、家数182軒、本陣が1軒、脇本陣は3軒、旅籠は41軒と、
書かれている。
大田南畝の壬戌(じんじゅつ)紀行には 「 上尾の駅舎ひなびたり 」 とあるが、
宿場女郎が大勢いたことや六斎市が開かれたので、
川越藩士たちもよく遊ぶに訪れたとあり、近隣の人で宿場は繁盛していたようである。
はら内科の脇の道を東に進み、 上尾運動公園交叉点を横断して進むと、上尾下に、陣屋というバス停がある。
「 徳川家康の家臣・西尾吉次は、慶長七年(1602)、
原市藩を立藩し、菩提寺妙禅寺を再興したが、その子・忠水の時代に、
上野国白井藩に転封となり、原市藩は廃藩となり、この地は天領となった。
幕府の陣屋は、ここと同時に、上村(上尾市上)にも設けられた。 」
左に上尾駅がある交叉点の周りは、上尾宿の中心であった。
今はビルで、宿場の跡は残っていない。
「中山道上尾宿と本陣」 という説明板を見付けた。
説明板「中山道上尾宿と本陣」
「 上尾市の中心は、中山道に沿った上尾宿をその源にしていますが、
この上尾宿はすでに後北条時代に、宿駅として成立していたようです。
宿駅として整備されたのは、慶長七年(1603) の伝馬制施行以降のことです。
幕府は、中山道各宿駅に、五十人五十匹の人馬を用意され、
主要幹線路としての役割をはたさせました。
また、各宿に、本陣、脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。
中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ、三十四家ほどでした。
上尾宿は、中山道の中では、比較的小さな宿場でした。
江戸時代末の家数は百八十二軒、人口は七百九十三人、旅籠屋は四十一軒でした。
上図は、文化三年(1806) 完成の中山道分間延絵図に描かれた、
中山道上尾宿の中心部です。
中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左側桶川方面になります。
画面下側中央の鳥居が、鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、
その両側に脇本陣が二軒あります。
その右近くには問屋場、さらに右に行くと、道をはさんで、
両側に一里塚があります。
鍬大神宮のすぐ右側に、もう一軒の脇本陣が描かれています。
上尾宿には、本陣が一軒(林八郎右衛門)、脇本陣が三軒 (本陣の右が白石長左衛門、
左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎) ありました。
これらは、主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは 「大名宿」
とも呼ばれました。
脇本陣は、副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。
平成11年3月 上尾市教育委員会 埼玉県北本県土整備事務所 」
上尾宿は、江戸時代末期の安政七年(1860)の大火で、ほとんどが焼け、
遺構は残っていない。
明治以降の建物も、昭和六十年以降の都市化の進展でほとんどなく、
氷川鍬神社の道の反対側にあったとされる、井上脇本陣は眼鏡屋が、入っているビル、
林本陣(林八郎右衛門)はパチンコ屋のビル、白石脇本陣(白石長左衛門)と問屋場は
藤村病院に変った、とされる。
説明がないので、違っているかも知れないが、
ここに立ち並ぶ大小のビルのどれかであることは間違いない。
もうひとつの脇本陣、細井脇本陣は、神社の手前の埼玉りそな銀行あたりにあったようである。
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ビル街に、「お鍬さま」 と呼ばれる神社がある。
上尾宿の鎮守である氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)である。
「氷川鍬神社」
「 氷川鍬神社は、武蔵国足立郡御鍬太神宮累來 によると、
百九代明王天皇の御代、寛永九年(1632)の御創立と伝えられます。
御祭神は、豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道真・木之花咲耶姫命・応神天皇の神で、
豊鍬入姫命は、悩める人苦しむ人の胸中を知り、
その人のため救いの手をさいのべて下さる神であり、
疫病除け、招福、豊作の神であります。
稲田姫命は、須佐之男命の御妃で、
限りない慈しみと、深い母性の愛を表わされる神であります。
菅原道真公は、学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間山の神様で、
大山祇神という尊い神さまも御子神さまです。
応神天皇は、文化神としてのご神徳を持っておられます。
氷川鍬神社は、上尾宿鎮守として、広く世人の崇敬を集めた古社あり
、通称、お鍬さまと、呼だれております。
氷川鍬神社の名称になったのは、明治四十一年(1908)の神社合祀以後のことで、
それより以前は 「鍬大神宮」 という社名であった。
(以下略)
平成十一年三月吉日建之 宮司 」
鳥居をくぐった先の右手には、「上尾郷二賢堂碑記」と、「雲室上人生祠碑頌」と、 「浅間大神」碑と、「上尾郷二賢堂跡」の標柱と説明板が建っている。
説明板 「上尾郷二賢堂跡」
「 二賢堂(通称「じけんどう」) 天明八年(1788) 学僧の雲室上人が、
上尾宿(現在の氷川鍬神社境内) に開いた、郷学 ともいえる 「聚正義塾」
の学舎の名称です。
雲室が当時親交のあった、林大学頭信教らと相談して、
中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、
我が国の学問の神様ともいわれる菅原道真の二人を祀る意味から、
「二賢堂」 と名付けたものです。
雲室は、信濃国飯山出身の当時有名な学僧で、
江戸の多くの文人たちとも交流がありました。
雲室が、上尾宿で開塾したのは学友の石井永貞とその弟子にあたる
上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
聚正義塾の学舎は、山崎碩茂ら上尾宿や、近隣の村の人々の資金と労力によって、
建てられ、
その意味では、私塾とは異なる郷学の性格を持っておりました。
雲室は四年ほどで、上尾を去りますが、その後、山崎碩茂が引き継いています。
塾は、文政九年(1826)に、碩茂が亡くなって後も、続けられたといわれています。
現在も、氷川鍬神社に残る、林大学頭信教筆の扁額、そして、
境内の「上尾郷二賢堂碑記」と、「雲室上人生祠碑頌」とあわせて、
三件が上尾郷二賢堂跡を物語っています。
平成十一年六月一八日 上尾市教育委員会 」
境内の手水鉢には、元禄八年(1695)の年号と、上尾町 山崎武右門 と、 寄進者の名前が刻まれていて、上尾の地名が残る一番古い石造物といわれる。
「鍬神社の言い伝え」
「 三人の童子が、鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざしながら踊り歩き、
上尾宿に来た。
童子たちは鍬を残し、いずこにか消え失せてしまった。
残された鍬を祭ったのが
神社の起源と伝えられ、ご神体は小鍬である。
地元ではお鍬さまと呼び親しまれている。 」
(注) 上尾地方では、柄の付いた鋤や、鍬を作る職人を棒屋といい、
腕の良い職人がいたといわれる。
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上尾駅の四差路の左は川越道で、南に向うと川越に通じる。
右は岩槻道で、ここから北へ、岩槻を経て、日光街道へいたる。
少し先の上町一丁目の道の右側に、遍照院(へんしょういん)がある。
「 遍照院は、日常山秀善寺と号する、真言宗智山派の寺院で、
本尊は不動明王である。
徳川家康から寺領二十石の朱印地を与えられた。
幕府から御朱印を与えられた寺院が上尾には多い中でも、
寺領二十石は、当地では最高の石高である。
上尾市史には、 「 天保九年(1838)の村絵図では、広大な境内地を持ち、
参道は旧中山道から山門に直進する形で、描かれている。 」とある。
現在の上尾市は、宿場だった上尾宿と、
荒川舟運の要衝として栄えた平方村や、
市場町としての発展をした原市町など、周辺の村が合併したものである。 」
墓地の中央最北端には、歴代住職の墓石が並ぶ。
その近くに、山崎武平治碩茂(やまざきぶへいじせきも)の墓がある。
「 山崎武平治は、氷川鍬神社の隣にあった旅籠の主人で、
天明八年(1788)の春、当地を訪れた、当時高名であった、
学僧雲堂上人に塾の開設を懇願し、 上人を招いて、聚正義塾を開設し、
上人が去った後は、同塾を主宰した。
上尾に開いた学舎を二賢堂(にけんどう)と称し、
氷川鍬神社には、上尾郷二賢堂碑記が残っている。 」
その対面には、上尾宿本陣を勤めた、林家の墓所がある。
墓地の中央付近には、戒名が 「郭室妙顔信女」 と刻まれた、
孝女お玉の墓がある。
墓はなかなか立派なもので、墓参りに来た女性が線香を手向けていたのは印象的
だった。
「孝女お玉」
「 越後の貧しい農家の子・お玉は、家を助けるため、文政三年(1820)、
十一歳の時、上尾宿の飯盛旅籠の大村楼に身を売った。
その後、
美しく気立ても良いと宿場で評判の遊女となったお玉は、
十九歳の時、参勤交代で上尾宿を訪れた加賀前田藩の小姓に見初められ、
江戸に下ったが、二年ばかりで、悪病を患い、上尾に戻されてしまう。
病身のお玉は、それでも、生家を助けるため懸命に働き続ける。
しかし、その努力が報いられることもなく、二十五歳の若さでこの世を去った。
大村楼の主人や同輩は、孝行な娘お玉の死を憐れみ、
遍照寺に墓を建てて、篤く弔ったという。
墓石に彫られた戒名 「郭室妙顔信女」 とともに、
誰からも愛された人柄が偲ばれる。
(上尾市教育委員会) 」
この時代にあって、一遊女のために立派な墓を建てた例は、数えるほどしかない。
たいていはの遊女が死ねば無縁仏となって、小さな石塔に名が刻まれるだけの扱い
であった。
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図書館西交叉点の手前右側の歩道に、上町庚申塔がある。
緑丘地下横断道交叉点の手前右側に、上尾宿の説明板がある。
「彩の国平成の道標と中山道上尾宿」と書かれた標柱が建ち、
掲示板には、上尾宿に関する表示がある。
これらは、国道を管理する国土交通省の管理事務所が建てたものである。
「 上尾の歴史は古く、約二万年前の旧石器時代(先土器時代)
からの遺跡が、市内あちこちにある。
平安時代末期には、武蔵国にも武士集団が結成され、
鎌倉時代には、源頼朝に仕えた足立氏の勢力下にはいったが、
鎌倉幕府滅亡後は、足利尊氏の所領となった。
中山道が開通すると、上尾に宿場が設けられた。 」
上尾車庫のバス停を過ぎると、北上尾駅入口の交叉点である。
この駅は、JR民営化後の昭和六十三年に、上尾高校への通学を目的に作られた。
その後、この地区のベットタウン化が進み、この一帯全てが、住宅でうめつぶされ、
利用者の増加が大きいな駅になった。
以上で、上尾宿の旅は終了である。
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上尾宿 埼玉県上尾市仲町 JR高崎線上尾駅下車。
(所要時間)
大宮宿 → (1時間) → 加茂神社(宮原) → (1時間30分) → 上尾宿
→ (1時間30分) → 桶川宿