氷川神社は、孝昭天皇三年四月創建 という、武蔵国足立郡の古い神社で、
八世紀頃には、武蔵国一の宮と定められ、延喜式神名帳にも記されている。
源頼朝が、平家討伐の旗挙げの時、氷川神社に祈願し、勝利した後、神領を寄進、
徳川家康が江戸に幕府を開くと、朱印地三百石を寄進し、社殿を造営した。
明治天皇は、東京遷都で、明治元年(1868)十月十三日、東京に到着なされたが、
四日後の十七日、勅書をもって、氷川神社を勅祭社と定められ、
二十八日には自ら行幸され、祭祀を行われている。
明治に入り、官幣大社となった。
さいたま新都心駅前交叉点を過ぎると再びケヤキ並木が現れ、ケヤキ並木を
進むと大宮氷川神社の赤い鳥居が見えてくる。
道の右側に赤い鳥居と「武蔵国一宮」石柱が立っている。
この鳥居が氷川神社参道の一の鳥居で、この参道は中山道の古道である。
「 当初、この参道を中山道に使用していたが、 街道が神域を通るのは 不敬であると、寛永五年(1628)に現在の直進する中山道が造られ、それに 伴い、宿民を移転させて大宮宿が造られた。 」
この古道に入くと、しばらくすると、「氷川神社入口」交叉点があり、
大宮駅近くの東光寺の門前の道を東に進でてきた道と交差する。
ここに、二の鳥居がある。
「 表参道は、十八町(約2km)の長さで、
吉敷町の一の鳥居から、氷川神社まで続く。
、
途中で広い道に分断されたり、中央が車道になっている区間もあるが、緑も多く、
快適に歩くことができる。 」
鳥居の左側に、「大宮氷川神社参道ふるさと並木道」の説明板がある。
説明板「並木道」
「 この並木は約二キロ、ケヤキ、スタジイ、
エノキ、クス等の多様種類の樹種で並木が形成されているところに特徴がある。 」 などと記されている。 」
二の鳥居の近くにあった常夜燈には、正面に 「武蔵国一宮 東国總鎮守 氷川両宮」、側面に 「文化十四年 御垣之内村 其外近遠氏子信心中」 と刻み込まれていた。
「大宮氷川神社」
「 氷川神社は、孝昭天皇三年四月創建 という、武蔵国足立郡の古い神社である。
八世紀頃には、武蔵国一の宮 と定められ、延喜式神名帳にも記されている。
源頼朝が平家討伐の旗挙げの時、氷川神社に祈願し、勝利した後、神領を寄進している。
徳川家康が、江戸に幕府を開くと、朱印地三百石を寄進し、社殿を造営した。
明治天皇は東京遷都で、明治元年(1868)十月十三日、東京に到着なされたが、
四日後の十七日、勅書をもって、氷川神社を勅祭社と定められ、
二十八日には自ら行幸され、祭祀を行われている。
これ等の歴史に残る出来事は、この神社が古くから、人々の信仰を集め、
為政者も、これを崇めることによって、民衆の支持を得ようとした証拠といえよう。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
三之鳥居を越えると、氷川神社の広い境内で、神池があり、
朱色の神橋の先に朱色の楼門がある。
楼門をくぐると舞殿があり、その奥に拝殿、廻廊内に本殿がある。
広大な神域に、朱塗りの神門や社殿が、清浄で厳かである。
「 神社がある地は、昔は見沼原と呼ばれ、
見沼低地を望む大宮氷川神社(男体宮)と、氷川女体神社(さいたま市宮本)と、
中山神社(簸王子宮・さいたま市中川)の三社が並立していた。
これらの三社で、氷川神社一体をなしていたという説があり、
明治維新の神仏分離で、女体神社が衰退し、氷川神社が政府の保護でこれらを統合し、
今日に至っている。 」
参拝後、裏参道を通り中山道に出る。
出たところの交叉点に、 「官幣大社氷川神社 是ヨリ八丁」、
裏面に 「大正6年10月」 と書かれている。
裏参道は、東山道で、寛永五年(1628)、伊奈備前守忠治が、新道を作る迄は、
中山道であった。
![]() |
![]() |
![]() | ||