中山道を蕨宿から浦和宿まで歩いた。
浦和宿は、蕨から一里十四町の距離で、江戸から三番目の宿場である。
幕府の天領で、宿の長さは十町四十二間(約1.2km)である。
現在のさいたま市浦和区高砂、仲町、常磐がそれにあたる。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、
宿内人口1230人、家数273軒、本陣1、脇本陣3、旅籠15軒とある。
その規模は、武蔵国にある九宿の中で、七番目であり、
決して大きくなかったのである。
隣の蕨宿の方が繁盛していたし、浦和には氷川女体神社があるとはいえ、
大宮の氷川神社とは比べるまでもなかったので、浦和宿はぱっとしなかったようである。
◎ 蕨宿から浦和宿
錦町三丁目交叉点から国道17号を歩く
歩道がないので、車に注意しながら、道の右側を歩く。
辻一丁目交叉点で外環自動車道をくぐるが、道の右側の防音壁をバックに、
辻一里塚公園がある。
公園内には、江戸から五里目の 「辻一里塚跡」の石碑と、
左隣に、弁財天の小さな祠がある。
「 太田南畝が、 「 辻村の立場をすぎ一里塚(榎)をこえて 」 と、
記している一里塚である。
傍らの弁才天の石碑には、 「 昔、この辻地区は湿地が多く、村人達は大変難儀した。
この水難を守る為、水の神弁財天を安置し、地区の守り神とするとともに、
中山道を旅する人々の安泰を願った。
由来伝記の為、有志相計り、保存会を結成し、祠を再建して、ふる里の道しるべとする。 」
と記されている。
辻一里塚で、外環の高架をくぐり、熊野神社を通り、六辻水辺公園のT字路に 突き当たら、右折する。
「 熊野神社は、木曽名所図会に、「 辻村に熊野権現のやしろあり 」
と書かれている神社である。
六辻水辺公園は、どのような公園かと入ったら、用水路のようなものが公園だった。
ここは浦和市辻2丁目、旧六辻村で、六辻交差点の交番の右端に、
小さな 「六辻村道路元標」 がある。
国道17号線と交差するが、直進し、次の信号のY字路を 「中山道」 の道標に従って、
左折する。
ここからしばらくは上り坂になる。
蕨から浦和に向う途中にある、焼米坂である。
信号交叉点を二つ越えると、坂の頂上の遊歩橋の下左に、「焼米坂」 の石碑があり、
その下には武蔵野線が通っている。
「 焼米は、ここにあった茶屋の名物で、焼き米というのは籾のままの米を焼き、
それを搗いて殻をとったもの。
米の古い食べ方で、備蓄食の一種。
そのまま食べられるが、煎り直したり、湯に浸して食べる。
おそらく、旅人の携帯食になったのであろう。
現在でも、春の種籾の残りを焼き米にし、田の神に供える。
これを砂糖蜜でからめると、オコシである。
地名が食文化を語っているのは面白い。 」
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しばらく行くと、右手に緑濃い森が見える。 その中にあるのは、
平安時代の古社、調神社(つきじんじゃ)である。
広い神域には、樹齢百年の欅などの樹木が、茂っている。
「 調神社は、別名、調の宮(つきのみや)あるいは 月の宮 ともいい、延喜式に残る古社である。
壬戌日記に 「 左に若葉の林しげりあひて、林の陰に茶屋の床几などみゆ。
月の宮廿三夜堂なりとぞ 」 と記されている神社である。
うさぎの石像を狛犬代わりにしている国内唯一の神社である。
江戸時代には、「 月の宮、二十三夜堂 」として信仰されていたことは、
木曾路名所図会に、 「 調宮みつぎのじんじゃ ー
浦和の南岸むらにあり、延喜式内社なり。 これを二十三夜祠と称す 」 と
あることから分かる。
「 調は「租庸調」の調ぎ物(年貢)のことである。
武蔵国の調はここに集荷され、東山道を経て、朝廷に届けられた。
宝亀二年(771)に、武蔵国が東海道に編入されたため、役目を終了した。
その後、調(つき)は 月信仰と結びつき、
兎をその眷族とし、 狛犬の代わりに、境内の入口に鎮座させることとなった。
二十三夜講、二十三夜待などともいい、二十三夜の月の出を待ち拝むために、
講を作ったものが集まり、祭神の前で勤行をし、飲食を共にするものであるが、
江戸後半になると娯楽化していったようである。 」
権現造りの本殿は、安政六年(1859)の建立である。
境内の一角にある赤い鳥居の稲荷社は、 調神社の旧本殿で、
享保十八年(1733)に建立された、一間社流造りの建物で、
兎の彫刻は月神信仰との関係を知る上で貴重である。
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◎ 浦和宿
その先に進んでいくと、浦和駅西口交叉点に出る。
その左側に「浦和宿」の石碑が建っている。
西口交叉点を左折し、埼玉会館の前を通ると、右側に中央公園、左側に平安時代、
弘法大師により開かれた古刹の玉蔵院地蔵堂がある。
説明板 「玉蔵院地蔵堂」
「 (構造・規模)三間四方、入母屋造り、一間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行き
とも八・三四メートル。
(概要) 軸部はケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、
柱上三手先の斗拱で桁を受ける。
中備は十二支の蟇股を配している。 軒は二重繁だるきとなる。
内陣は裏側壁面から半間出して来迎柱を建て、来迎壁に須弥壇を付けている。 、
内陣の天井は花鳥などを描く格天井となっている。
他に、欄間の彫刻、外陣天井の画など装飾が多い。
内陣蟇股墨書銘により、安永九年(1790)の建立であることが知られる。
三間仏堂ではあるが、本格的な造営を受けた仏堂建築で、
しかも、建立年代が明らかで
あり、保存価値がきわめて高いと言える。
平成五年七月 浦和市教育委員会 玉蔵院 」
(ご 参 考) 玉 蔵 院
「 玉蔵院は、平安時代に弘法大師により創建されたと伝えられる古い寺で、
真言宗豊山派に属する。
天正十九年、徳川家康より寺領十石の寄進を受け、
江戸時代に入ると、豊山長谷寺の移転寺(由緒ある寺院)として出世した。
元禄十二年十二月、一宇も残さず焼失したので、
現在の堂宇は江戸期以降に再建されたものである。
地蔵堂は、内陣蟇股墨書銘により、安永九年(1780)の建立であることが分かる。
内陣の天井は、花鳥などを描く格天井となっていて、
欄間の彫刻や外陣天井の天女像など装飾が多い。
玉蔵院の施餓鬼(せがき)の起源は、1800年頃と言われ、関東三大施餓鬼の一つと称される。
昭和二十年代に、区画整理が行われ、墓地は市内他所に移転しているが、
境内は広く、緑豊かである。
地蔵堂の前の地蔵二体も江戸期にものである。 」
浦和の名は、応永三年(1396)の記録に、登場する。
戦国時代には、岩槻城主・太田氏の支配を受けたが、北条氏の進出により、
両者の抗争に巻き込まれ、北条氏の支配するところとなった。
江戸時代に入ると、幕府直轄地の天領になり、その他、玉蔵院領が十石あった。
玉蔵院から市民会館うらわに向うと、建物の前に「明治天皇行在所記念碑」が建っている。
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市役所通りの交叉点を越え、次の交叉点を右折すると、右側の幼稚園の隣に
仲町公園がある。
ここに、「明治天皇行在所址」の碑と、「本陣跡」の説明板が建っている。
説明板 「浦和宿本陣跡
「 中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で、浦和宿は日本橋を出て三番目の宿駅です。
浦和宿には、本陣1・脇本陣3・旅籠15(江戸時代後期)があり、
ここは本陣の跡です。
本陣は、大名などの宿泊や休憩にあてられた家です。
浦和宿では、星野権兵衛家が代々勤めていました。
ここには、222坪(7356u)の母屋をはじめ、表門・土蔵などがありましたが、
明治時代になって、家は途絶え、全ての建物が取り払われました。
表門が、市内大間木の大熊家に移築され、現存しています。
建物などは全く残されていませんが、
浦和宿の本陣の所在地を正確に伝える土地として貴重です。
なお、明治元年(1868)及び三年の明治天皇氷川神社(大宮)行幸の際は、
ここが行在所となりました。 」
本陣の脇に、高札場があったようである。
脇本陣は、中町と上町にあったようであるが、跡地は確認できなかった。
常磐公園入口の市場通りに、野菜を売る女性のブロンズ像と、
「市場通り」の説明石板がある。
説明石板「市場通り」
「 この北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、昭和の初めまで、
毎月二・七の日に市場が開かれていた。
そこでは、農産物や各種の生活必需品が取引されていました。
現在も名残りとして、市神様と市場定杭があります。
これにちなみ、昭和55年9月、 当時の歴史を偲ぶため、
「市場通り」の愛称が付けられました。 」
この奥に常磐公園がある。
説明板「常磐公園」
「 江戸初期、ここは御殿と呼ばれ、徳川家康と秀忠が鷹狩の際、
休憩や宿泊所と居て使用したが、慶長16年取り壊された。
廃止後も、「御殿跡」 「御林」 の名で、幕府により保護された。
明治26年、ここに、浦和地方裁判所が建設され、
赤塀は当時の名残りである。
裁判所は、昭和48年、県庁南の新庁舎に移転し、
跡地は常磐公園として昭和51年に開園した。 面積は1万u。 」
常磐2丁目バス停を左に入ったところに、慈恵稲荷神社がある。
袖鏡に 、「 宿の内、左にいなり社あり 」 と書かれている神社で、
鳥居の手前右に庚申塔の石柱が建っている。
狐の石像がなぜか、金網に入れられて祀られている。
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鳥居の前方に、「慈恵稲荷神社」の石柱と、
「浦和宿二・七市場跡 付市場定杭」の木柱が建っている。
慈恵稲荷神社の先の右の細い道を入ったところにあるのが市場の神である
市神社である。
小さな石の祠があるだけの神社であるが、左手前に、「御免毎月二七
市場定杭」 と刻まれた石柱があり、
祠の奥に、「浦和宿二・七の市場跡」 の説明板が建っている。
説明板「浦和宿二・七の市場跡」
「 浦和に市場が開設されたのは戦国時代頃と思われ、
天正13年には浅野長政から禁制が出されている。
浦和市は毎月二と七日に開かれる。 六斉市という。
江戸時代には盛況をみせ、十返舎一九が、狂歌に
「 代ものを積み重ねしは商人(おきんど)のおもてうらわの宿のにぎわい 」
と歌ったものである。
市場では、農産物や各種の生活必需品が取引されており、
その形態は昭和初年まで続いた。
なお、蕨(一・六)、鳩ヶ谷(三・八)、原市(四・九)、大宮(五・十)
などが近在でもそれぞれ異なる日に市が開かれました。
本史跡は中世から近世・近代にかけての浦和の商業の発展を知るうえで、
貴重な文化財である。 」
(注)
「 室町時代の天正十三年から、毎月二と七の付く日に、六斉市が、立つようになり、
宿場の三つの町(下町、中町、上町)が、交互に市を立てた。
市神社は、六斉市が行われたところにはあった神社である。
残っているところは珍しい。 」
渓斎英泉の浮世絵 「 支蘓路ノ駅 浦和宿 浅間山遠望 」 では、
浦和台地の中央に、街道、 右側にけ、やきと数軒の民家、
左奥に、煙りたなびく浅間山が描かれている。
浦和は、台地の上にある平坦な土地で、周囲に山などはないので、
当時は遠くまで景色が見えただろう。
常磐町郵便局付近を歩くと、左側に古そうな家が一軒残っていた。
写真は大宮側から写したもの。
浦和宿はここで終わる。
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浦和宿 埼玉県さいたま市常磐 JR京浜東北線浦和駅下車。
(所要時間)
蕨宿 →(1時間30分)→ 調神社 →(20分)→ 浦和宿 →(2時間)→ 大宮宿