名所訪問

「  中山道を歩く 蕨宿(わらびしゅく) 」

( 戸田橋から蕨宿 )


かうんたぁ。


中山道を戸田橋から蕨宿まで歩いた。
板橋宿と蕨宿の間を流れる荒川は、江戸時代には、戸田川と呼ばれ、 幕府は橋を架けず、船渡りであった。
蕨宿は、板橋宿から二里十町、江戸から二番目の宿場で、 南北十町(約1090m)の宿場町である。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口2223人、家数430軒、本陣2、 脇本陣1、旅籠23軒であった。 


◎ 戸田橋から蕨宿

荒川に架かる戸田橋を渡ると、埼玉県である。
川岸一丁目交叉点を右折すると、正面に堤防が見える。 
車道を越え、石段を上っていくと、荒川の遊歩道に出る。
その先に見えるのが荒川である。 
荒川は江戸時代には戸田川と呼ばれていた。 
幕府は江戸を護るため、戸田川に橋を架けず、舟渡しであった。 
「戸田渡船場跡」 の石碑を探して、川縁に降りたが、石碑は見つからない。 
堤防まで戻り、下の車道の方を見ると、車道の先の民家の前に、石碑と説明板があった。 

説明板「戸田の渡し」
「 (前略) 
資料によると、戸田の渡しは、天正年中(1573〜1591)よりあったとされ、 その重要性は近世を通じて変らなかったといいます。 
渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保十三年(1842)では、 家数46、人口226人でした。 
その中には、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。 
舟の数は寛保2年(1742)に、3艘だったものが、中山道の交通量の増加に伴って、 天保13年には13艘と増えています。 
また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能を有し、 戸田河岸場として、安永元年(1772)には、幕府の公認の河岸となっています。 
天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。 
これらの渡し場の風景は、渓斎栄泉の 「木曽街道六十九次、蕨駅戸田川渡」  の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。 
やがて、明治になり、中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に、 木橋の戸田橋がついに完成、ここに長い歴史をもつ戸田の渡しが廃止になりました。 」

大田南畝は、戸田渡りのことを
「  明はてぬるまにやどりを出て、元蕨をこえ、堤村をへて戸田川を舟にてわたる。   この川上は入間川にして、末は隅田川なり。  」
と記している。 
説明板には、渡し場は戸田橋より百メートル下流にあったと、記されていた。 
下の道を右折すると、小公園があり、「歴史のみち中山道」 の説明板があり、 旧中山道が赤線で記されているので、当時の道筋がわかった。 

説明板 「歴史のみち中山道」 
「 (前略)  
戸田渡船場から北に200m程残る中山道の道筋には、 文化三年(1806)に作成された中山道分間延絵図にも現存する地蔵堂とともに描かれています。 
渡し場には、渡船取り仕切る川合所がおかれ、 その西方には、かっての羽黒権現がありました。 
街道筋には、渡船に携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが立ち並んでいました。 
江戸と京都を結ぶ主要街道として、大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861) 最後の大通行といわれる、皇女和宮の下向にも利用されました。 
しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は、現在はまったく失われてしまいました。 
旧中山道は、しばらく北上した後、 昭和初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、 ほぼ現在の国道17号に沿っていました。 
国道とオリンピック通りとの交叉点付近には、 一里塚跡でないかといわれる場所もありました。 
そして、再び、 旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、 戸田市に残る旧中山道につながっていきます。 
            戸田市教育委員会  」 

近くに、中山道分間延絵図にも記されている、戸田地蔵堂がある。 
戸田地蔵堂は、蕨市最古の木造建造物といわれる建物で、 正徳三年(1713)の銘がある半鐘や、享保十六年(1731)の庚申塔が残されている。 

戸田渡船場跡碑
     地図      戸田地蔵堂
戸田渡船場跡碑と説明板
旧中山道が記された地図
戸田地蔵堂

戸田地蔵堂の裏側に、水神社(すいじんしゃ)がある。
境内には舟型の石が置かれている。 
「戸田市指定有形民俗文化財 川岸の獅子頭」 の大きな柱の隣に 「水神社」 の説明板がある。 

説明板 「水神社」
「 創立などの詳しいことは分かりませんが、 正面の「水神宮」の碑に、寛政八年(1796)の銘があります。 
古くは荒川端にあったもので、新堤防が出来てから移され、 川岸に住む人々の氏神的のようになっています。 
境内の正面には 「水神宮」 「船玉大明神」 「船の守り神」 と刻まれた、 大きな石碑(舟型の石)が鎮座しています。 
また、「山王大神」 や、 茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神) などの石碑も、合祀されています。 
この神社の祭礼は、七月十四日、十五日ですが、 最近ではその日に近い日曜日に行われています。 
この祭礼のときに飾られる獅子頭は、 もとは、荒川のそばにあった羽黒社に古くから伝えられるものです。 
色や形、大きさとも、威容を誇る獅子頭で、 市の指定文化財となっています。 
       (以下略)   
  平成八年三月  戸田市教育委員会  」   

中山道は消滅しているので、地蔵堂の右側の道を北上し、菖蒲川を渡る。 
河岸交叉点で、オリンピック通りに出て、左折する。
川岸三丁目の交叉点で右折して国道に入る。 
入ってすぐの左側にすみれ幼稚園がある。
このあたりが、江戸から四里目の一里塚があった場所といわれる。 
下前歩道橋交叉点で右折し、次の下門公団通りを左折し、下戸田一丁目交叉点に出る。
交叉点を横断して、左斜めの道を進むと、国道に合流する。 
下戸田一丁目交叉点に、下戸田ミニパークがあり、 先程の「歴史の道中山道」と同じ説明板と石のオブジェがある。 
この辺りは、枡形になっていたようである。 
国道を進み、蕨警察署入口交叉点を過ぎ、 五十メートル程の右のマンションの奥の駐車場の大きな樹蔭に、 庚申塔を祀った祠がある。 

水神社      下戸田ミニパーク      庚申塔
水神社
下戸田ミニパーク
庚申塔


◎ 蕨 宿

さらに国道を行き、錦町一丁目交叉点の三叉路にあるシエル石油のスタンド前に、 「中仙道蕨宿」の石碑が建っている。
中山道は右の道を行く。 
入口には、 「中山道蕨宿」 と書かれた石柱が建っている。
路面には、 「中山道蕨宿」 のマンホールや、 中山道の宿場の浮世絵のタイルが、点々と、道に沿って敷かれている。 
旧街道沿いには商店街が続き、古い家もちらほらある。 
左側に蕨市立歴史民俗資料館の別館がある。 

「 この建物は、 明治時代、織物買継商をしていた家で、敷地は五百十六坪(1705u)、 建物の床面積は九十五坪(313u)で、木造平屋・寄棟造りで、 中山道に面した店部分は明治二十年(1887)に作られたものである。 」

別館の先、左側に創業二百数十年の老舗うなぎ今井がある。
いいにおいが煙とともに漂ってくる。 
鰻屋の濃い緑の暖簾の下に、
「 当店は、中仙道が整備された江戸時代初期(1604頃)、 土橋(現蕨市中央2丁目)から、この場所に移り、旅人を相手に、 茶屋渡世孫右衛門の店として開業したと伝えられ、現在に至っています。 」
という、木札が立て懸けられていた。 

古い家も残る      蕨市立歴史民俗資料館      うなぎ今井
蕨宿には古い家も残る
蕨市立歴史民俗資料館別館
うなぎ今井

中山道蕨宿本陣跡交叉点の手前、中央5丁目あたりが、宿場の中央だったようである。
鰻屋から少し行った左側に、脇本陣跡、その先に、蕨市立歴史民俗資料館と、 蕨本陣跡がある。 
脇本陣だったという薬局の前には、「脇本陣」  という文字の入った灯籠が置かれていた。 
「蕨市指定文化財 蕨宿本陣跡」の石標と復元された門があり、 隣に歴史民俗資料館がある。 
本陣跡には、谷口吉郎による本陣をイメージしたモニュメントがある。
また、「  行く春や  旧本陣の  お宿帳  」  の句碑もあった。
敷石の木漏れ日が美しいなあと感じた。 

説明板 「本陣跡」
「 蕨宿の本陣は、加兵衛家と五郎兵衛家の二家が代々勤め、 蕨宿の中央部に向かい合うようにして建っていた。 
ここは、一の本陣 と呼ばれた、岡田加兵衛の本陣跡で、 昭和四十八年、建築家谷口吉郎により、 本陣をイメージして建てられたモニュメントである。 
慶長十一年(1606)、蕨城主・渋川氏の将、岡田正信の子・正吉が初めて 蕨宿本陣・問屋・蕨宿の名主の三役を兼ねた、と伝えられ、 その後、その役目は子孫に受け継がれ、明治維新まで続いた。 
文久元年(1861)、皇女和宮が、御降嫁の折、 ご休憩の場となり、明治元年(1868)と同三年には、 明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
隣接して建てられた民俗資料館には、 宿泊した大名の名簿や本陣跡を詠った詩などが展示され、 旅籠の様子や食事、大名の食事が復元されている。 
もう1軒の本陣は、岡田五郎兵衛が営み、五郎兵衛本陣と呼ばれたが、 この前にあり本陣の他、問屋と塚越村名主を兼ねていた。  」 

脇本陣跡      本陣跡      民俗資料館
脇本陣跡
蕨本陣跡
蕨市立歴史民俗資料館

中山道蕨宿本陣跡交叉点を右折して、 市役所を越えた先に小さな社(やしろ)の和奈備神社があり、水盤と宝しゅ印塔がある。 
柄杓で身を清め、お参りを済ませた。 

説明板「和奈備神社」
「 水屋に置かれた水盤が安山岩製の大型のもので、寛永寺旧在ともいわ れる。
和楽備(わらび)神社は、明治四十四年(1911)、 町内にあった十八の鎮守社を合祀したときに、現在の名前になった。
以前は、上の宮という名の八幡社だった。 」

なお、蕨の地名の由来は、藁を焼く火の様子から、藁火村という説や 植物のわらびから名付けたという説があるが、はっきりしないようである。 
神社の隣に、御用堀 という堀があり、きれいに整備されている。 
その先は、蕨城址公園で、公園の一角に、「蕨城址」 と書かれた記念碑が建っている。 

説明板 「蕨城跡 
「  蕨城は南北朝時代に、渋川氏が居を構え、大永四年(1524)、 北条氏綱によって攻撃され破壊されたと言われています。 
江戸時代になると、徳川家康が城跡に御殿を置きました。 
蕨城の遺構は、現在はわずかに、堀跡が残っているだけですが、 江戸時代の絵図によれば、東西が沼、深田で囲まれた帯状の微高地上に、 幅六間半(約11.8m)の囲堀と、幅四間半(約8.2m)の土塁をめぐらし、 堀の内側の面積は一町二反三畝余坪(約12200u)でした。 
また、南側に、堀と土塁をめぐらせた二町一反八畝八坪 (約21650u)の外輪地があり、北側にも、堀と土塁の構が見られます。 
いまわずかに堀跡と御所踊・枡形・要害・高山・堀内・防止などの俗名を残すだけです。 
昭和36年11月、本陣跡に、文学博士・諸橋轍次撰書 の 「蕨城址碑」 が建てられた。 」
なお、和楽備神社は城の境内社だったのである。  

和奈備神社      蕨城址碑      御用掘
和奈備神社
蕨城址碑
御用掘

交叉点にもどり、直進すると、店舗は新しいが、 昔は茶屋で、十代以上続く老舗せんべいの萬寿屋がある。 

「 江戸時代には、このあたりから先程の本陣の先あたりまでに、 旅籠が多かったようである。 
太田南畝は、蔦屋庄左衛門の宿に泊まり、
「  あすは故郷かへるまうけとて、従者も髪ゆひ頂そりなどしてさわぎあへる 」
と記している。
、 蕨宿は、江戸へ戻る者、或は入る者にとって、最後の宿であり、 ここで身なりを整え、花のお江戸に入っていったのである。 

せんべい屋の横の「地蔵小道」と呼ばれる参道を歩くと、真言宗の三学院がある。 
関東七ヶ寺の役寺として格式が高く、子育地蔵で知られ、仁王門も立派である。

「 三学院は、金亀山極楽寺という真言宗智山派の寺で、 天正十九年(1591)11月、寺領二十石寄進の朱印状を与えられ、 幕末まで宿内に寺領を持ち、関東七寺の役寺で格式が高い寺であった。 
本尊の十一面観音菩薩は、平安中期の作の慈覚大師作と伝えられる。 

山門の右脇に、梵字馬頭観世音塔。 
山門に入って右手に、立派な屋根の木柵で囲われた地蔵堂がある。
地蔵堂の前に、「仏足石」と、常夜燈二基、仁王門に入ると、水舎・鐘楼・三重塔・ 本堂がある。 
地蔵堂には子育て地蔵尊・六地蔵石仏・目疾地蔵尊が祀られている。 

説明板「地蔵堂」 
「 子育て地蔵尊は、火伏子安地蔵といい、元禄七年(1694)、 三学院の中興の祖、第十一世秀鑁の勧進により、多くの人の協力によって造立された。 
丸彫りで、身丈七尺余り(約2.4m)もある石仏で、 江戸浅草橋の石工・紀国屋平兵衛により造られた。 
初めは、中山道の三学院入口角にあったが、 明治元年、明治天皇の氷川神社行幸の折りに参道の中ほどへ移されるなど、 度々移動した。 
六地蔵石仏は、寛文〜元禄年間(1661-1704)にかけて造立された。 
市内にある六地蔵のうちで、最古最大である。 
右から三番目の石仏が、最初に造られ、のちに五体の石仏を造り、 六地蔵にしたものと思われる。 
目疾地蔵尊は、万治元年(1658)、念仏講を結んだ十三人の人々が、安楽を祈願して、 建立したもので、1.9mの大きな地蔵である。 
一つの石で、蓮台と地蔵菩薩立像と舟形光背を彫り上げている。 
目病地蔵 と呼ばれ、目に味噌を塗ると、目の病気が直る、 あるいはかからないといわれ、今でも信仰の対象になっている。 」  

せんべい屋まで戻り、左側に行くと、「中山道ふれあい広場」がある。
その裏は交番で、国道17号が斜めに走っている。 
この交叉点が蕨宿の京方の入口で、 江戸方の入口と同じ二本の柱と、「中山道蕨宿」 の石柱が建っている。 
ふれあい広場の街道から一本入ったところに、徳丸家があり、 水路(堀)には、蓋が架けられているが、徳丸家が使用したはね板が残っている。 

「 江戸時代の蕨宿は、堀で囲まれ、堀に面した家には、 はね橋があった。 
早朝には下ろされ、夕刻には全部の家ではね上げられた。 
また、蕨宿は上下二つの木戸も閉ざされ、 堀は宿内の用水と防備を兼ねていた。 」

錦町三丁目交叉点で国道と合流するが、蕨宿はここで終わる。 

三学院入口      六地蔵石仏      蕨宿入口
三学院入口
六地蔵石仏
二本の柱と「中山道蕨宿」の石柱

蕨宿(わらびしゅく) 埼玉県蕨市中央 JR京浜東北線蕨駅下車。 

(所要時間) 
板橋宿→(40分)→志村の一里塚→(1時間30分)→戸田橋→(1時間40分)→蕨宿



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