埼玉(さきたま)古墳群は、九基の大型古墳からなる古墳群である。
埼玉県の県名の発祥とされる、埼玉(さきたま)の地にあり、
前方後円墳が八基と、円墳一基の大型古墳が残り、
昭和十三年(1938)に、国の特別史跡に指定された。
かっては、大型古墳の周囲に、
陪臣の小型古墳が円墳三十五基、方墳が一基あった、とされる。
昭和初期に、周囲の沼地の干拓の際、取り壊されてしまった。
五世紀から七世紀にかけて造られたもので、
だれの墓なのか、不明のようであるが、当地を支配する国造の墓だろうと推察される。
日本書記には 「 安閑天皇より、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)を
武蔵国造に任命していて、笠原(現鴻巣市)を本拠地としたことから、
武蔵国造の墓とする説、
知々夫(秩父)国造の墓とする説、などがあるようである。
さきたま古墳群の駐車場に車を置き、西に向うと、さきたま古墳群案内板があった。
忍城の駐車場から南東に三キロ位、車で十分程のところである。
![]() |
最初に石田三成が忍城の水攻めを指揮したという、
丸墓山古墳がある方向へ歩いていった。
道の左側に「史跡 埼玉村古墳群」の石碑があり、
その先に丸い形をした、丸墓山古墳がある。
また、歩いてきたこの道は、石田堤の一部である。
「 丸墓山古墳は、直径105メートル、
高さ18.9メートルの円墳である。
墳丘表面を覆った葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などが出土していて、
六世紀前半の築造とされる。
天正十八年(1590)の小田原征伐の際、
忍城攻略を命じられた石田三成は、この古墳の頂上に陣を張り、
忍城を水攻めにするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を築いた。
丸墓山から南にまっすぐ伸びる道は、この堤の名残りである。 」
周囲にある桜は、六十年前に植えられたものっで、桜の季節は美しいようである。
古墳の周囲は葦が繁っていたが、ここは沼の名残りのようだった。
丸墓山古墳の右手に見えるの稲荷山古墳で、前方後円墳である。
手前は芝生になっているが、かってはここに陪臣の小さな円墳が多くあったといわれる。
「 稲荷山古墳は、埼玉県で第二位の大きさの大型前方後円墳である。
造営時期は五世紀の後半と考えられている。
稲荷山古墳は、大坂堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵と治定されている)の四分の一の大きさだが、
墳形がほぼ同じであるとあることから、大仙古墳をモデルとした、と見られている。
墳丘は二段に築造されていて、方形をした二重の周濠を持ち、
濠の深さは地表面から一メートル八十センチである。
また、墳丘の長さは百二十メートル、後円部径六十二メートル、高さ約十二メートル、
前方部の幅は七十四メートル、高さ約十一メートルである。
後円墳の頂上には、埋葬施設の復元模型があり、階段を登れば見ることができる。
墳頂部に稲荷社が祀られたことから、その名がついた。
昭和四十三年(1968)に発掘調査が行われ、後円部より金錯銘鉄剣と、画文帯神獣鏡、
勾玉などが出土した(一括して国宝に指定された)。 」
稲荷山古墳の右手には将軍山古墳があり、将軍山古墳展示館がある。
「 墳丘の長さは九十メートル、後円部径三十九メートル、
高さ八メートル四十センチ、前方部の幅は六十八メートル、
高さ九メートル四十センチである。
築造の時期は古墳時代の後期の六世紀末と考えられている。
出土品は馬具、武器、須恵器などがある。
また、古墳東麓に将軍山古墳展示館がつくられ、古墳の内部に入ることができる。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
引き返すと、前述の案内図の先の左側に天祥寺があり、 その先の左の三叉路に愛宕山古墳がある。
説明板「愛宕山古墳」
「 全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
最小ではありますが、他の前方後円墳と同じく、
周囲には長方形の掘が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。
墳丘内部は未確認であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、
詳しいことはまだ分かっていません。
出土した遺物は、円筒埴輪のほか、
人物・太刀・盾・きぬがさ(貴人の傘)などを表現した形象埴輪があります。
円筒埴輪は、高さが40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
古墳が造られた時期は、出土した遺物から、6世紀前半と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会 」
天祥寺の脇の道を進み、天祥寺の裏に出ると、大きな古墳が見える。
天祥寺の裏の道は、古墳からかなり離れているが、
ここに「二子山古墳」の説明板がある。
説明板「二子山古墳」
「 全長138mの前方後円墳です。
かっての「武蔵国」(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で、最大の古墳です。
周囲には、長方形の掘が中堤をはさんで二重に巡り、
墳丘くびれ部と中堤には造出し(つくりだし)と呼ばれる張出しがあります。
現在、遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。
内堀は、今は水堀になっていますが、
古墳が築造された当時は水はなかったと、考えられています。
本格的な発掘調査がされていないため、埋蔵施設の形や大きさ、
副葬品の内容など、詳しいことはわかっていません。
出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。
平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会 」
説明板があるのは張出し部の下方向にある道である。
「 二子山古墳は二つの山があることから名付けられ、
墳丘の長さは百三十二メートル余り。
後円部径六十七メートル、高さ十一メートル七十センチ、
前方部幅八十三メートル二十センチ、
高さ十三メートル七十センチである。
墳形は、稲荷山古墳、鉄砲山古墳と同様、大阪府の大仙陵古墳に類似する。 」
また、張出し部の上方の緑で表示されている部分が中堤で、
確かに遊歩道になっていた。
従って、遊歩道から説明板のある道の間に、今は芝生になっているが、
かっては堀があったということになる。
![]() |
![]() |
![]() | ||
愛宕山古墳にもどり、駐車場脇を通り、左手の車道を渡り、
さきたま史跡の博物館方面に向う。
左側に、埼玉県名発祥之碑があり、その先に移築民家がある。
説明板 移築民家「旧遠藤家住宅」
「 県東南部の幸手市千塚にあった大きな稲作農家で、
江戸時代の終わりころに建てられたものです。
通常の農家より広い土間と六間の部屋を持ち、右手には厩がついています。 」
その先に、さきたま史跡の博物館があった。
![]() |
![]() |
![]() | ||
移築民家の脇の道を右に進むと、「さきたま古墳公園 案内図」がある。
その隣に「← さきたま史跡の博物館・瓦塚古墳・愛宕山古墳・丸墓山古墳・稲荷山古墳・将軍山古墳 鉄砲山古墳・中の山古墳→」 の道標が建っている。
このあたりは、幼い子でも遊べる広場になっている。
近くに、「奥の山古墳」の説明板がある。
説明板「奥の山古墳」
「 墳丘全長66mの前方後円墳です。
奥の山の名前は、古墳群を東から見たとき、
戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。
発掘調査により、それまで一重と考えれていた周掘りが二重であることや、
墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
後円部墳丘西側には張出し部があり、
子持壺や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。
こうした出土遺物から、6世紀中ごろから後半にかけて、
つくられた古墳と考えられています。
平成24年(2012年)3月 埼玉県教育委員会 」
奥の山古墳の脇を歩き、南東に向うと鉄砲山古墳がある。
「 墳丘の長さは百九メートル、後円部径五十五メートル、
高さ九メートル、前方部幅六十九メートル、高さ十メートル十センチである。
また、周濠を含めた全長は百六十一メートルで、古墳群の中で、
三番目の大きさの前方後円墳である。
この古墳は、全国的に珍しい三重の掘を有していることが確認された。
鉄砲山の名前は、江戸時代に忍藩の砲術演習所(角場)があったことに由来する。 」
鉄砲山古墳の奥に、中の山古墳がある。
「 中の山古墳の墳丘の長さは七十九メートル、
後円部径四十二メートル、
高さ五メートル、前方部幅四十四メートル、高さ五メートル四十センチである。
六世紀末から七世紀初めの築造で、埼玉古墳群にある前方後円墳の中では、
最後に築造されたと、考えられている。 」
鉄砲山古墳から遊歩道に出て、移築民家に向って進むと、左手に瓦塚古墳がある。
説明板「瓦塚古墳」
「 全長73mの前方後円墳です。 他の前方後円墳と同じく、
周囲には長方形の掘が二重に巡り、
墳丘のくびれ部には、造出し と呼ばれる張出しがあります。
また、造り出しの正面の外堀には、通路と見られるブリッジ状の掘り残しがあります。
整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中堤には、琴を弾く男子・踊る男女・
武人などの人物埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など、
多数の埴輪が立ち並べられていたと、推定されています。
墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、
詳しいことはまだ分かっていません。
古墳が造られた時期は、出土した遺物から、
6世紀前半から中頃と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会 」
以上で、古墳群はすべて見学できた。
なお、古墳に登れるのは丸墓山古墳と稲荷山古墳のみである。
![]() |
![]() |
![]() | ||
さきたま古墳群へは、JR高崎線吹上駅(北口)から朝日バスで10分、
産業道路バス停下車、徒歩15分
JR行田駅(東口)から観光拠点循環コースで25分、埼玉古墳公園下車、徒歩2分
秩父鉄道行田駅南口・朝日バス新町1丁目(埼玉りそな銀行前)から
「佐間経由吹上駅行き」で8分、産業道路バス停下車、徒歩15分
訪問日 令和三年(2021)十月九日