鉢形城は、関東管領、山内上杉氏の家臣・長尾景春が、
文明八年(1476)、荒川の河岸段丘上に、
深沢川の谷も取り入れて築城したのが、始めである。
北条氏三代目の北条氏康は、天文十五年(1546)、 川越城を包囲した上杉朝定・
上杉憲政を河越夜戦で勝利する。
これにより、北条氏は、武蔵国における覇権を確立させた。
北条氏康の四男・氏邦(うじくに)は、永禄七年(1564)、鉢形城へ入城し、
城を整備拡張する。
以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となる。
その後も、戦略上の重要性から、この地は、甲斐・越後・武蔵・上州を巡る、
攻防の場となった。
永禄十二年(1569)には、武田信玄による攻撃を受け、
天正二年(1574)には、上杉謙信が城下に火を放っているが、城は落ちなかった。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めが起きる。
その時、豊臣方の三万五千人の大軍(前田利家・上杉景勝・島田利正・
真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉・本多忠勝・鳥居元忠の連合軍)が、
鉢形城を攻め、城を包囲した。
北条氏邦の老臣・黒澤上野介ら三千人が、約一か月の籠城戦を戦い抜いた。
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氏邦は、城兵の助命を条件に城を明け渡し、戦いの後、間もなく廃城となった。
昭和七年(1932)、
関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城の一つとして、
国の史跡に指定された。
その後、鉢形城公園として整備され、
園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置された。
日本100名城の第18番に選定さている。
車を鉢形城歴史館の駐車場に入れた。
日本100名城のスタンプは駐車場正面入口にあるポストの中に置かれているので、
まずスタンプを押す。
「
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する手前の二つの川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地している。
その縄張りは、唯一、平地部に面する南西側に、
三つの曲輪(大手と外曲輪、三の曲輪)を配し、
両河川の合流地点である北東側に向かって順に、
二の曲輪(二ノ丸)、・曲輪(本丸)・笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっていた。 」
鉢形城歴史館のあるところは、城を拡張した時、築かれた外曲輪跡である。
城の中心に向っては、深沢川が流れている。
水量は少ないが、深い谷を形成しているので、堀切の役割を果たしている。
現在は歴史館の先から降りる道があり、木橋が架かっているので、
そこを渡り、対岸の道を登っていく。
「← 伝御殿曲輪、二、三の曲輪」、「↓ 鉢形城歴史館、深沢川」、
上ると、「鉢形城歴史館、外曲輪 →」の道標が建っていて、
左手には、町指定天然記念物の氏邦桜がある。
「 一旦伐採された二本幹の株元から、
十二本の芽が成長した珍しいエドヒガンで、鉢形城主の北条氏邦にちなんで、
氏邦桜 と命名された。
氏邦桜は、エドヒガン桜なので、一般的な桜のソメイヨシノより、
開花期が早いと思われる。
樹齢は約百五十歳と推定され、樹高は十八メートル、枝張りは東西二十三メートル、
南北二十一メートルである。
枝が笠鉾状に広がり、見事な樹形を呈している。 」
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深沢川のある谷 | 氏邦桜 |
車道に出ると、左手に、「城山稲荷神社」 の標柱がある。
その先に鳥居があるので、その小道を歩いたが、これは土塁の跡のようである。
この土塁は、土山を堀り残して造った、といわれる。
左の広い空地の一角に、「二の曲輪」 の標柱が建っている。
「 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているため、 東・南・北は堅固だが、西側は開けているため、 城主の居館や上級武士の館があった本曲輪から、西側に何重にも深い堀切を行い、 ニの曲輪・三の曲輪などの曲輪を造成し、その外側に寺院を配置し、 寺町として防備を厚くした。 」
ニの曲輪は、平成九年の発掘調査で、掘立柱建物跡・工房跡・土杭・溝などが、
発見された。
工房は三軒で、発掘されたものから、鍛冶工房 と判明したという。
ニの曲輪の先には三の曲輪がある。
その間には堀が掘られ、周囲を囲んでいる。
「 堀は最大上巾約二十四メートル、 深さ約十二メートルの大規模なもので、堀の底には、畝と呼ばれる高まりがあり、 北条氏の障子堀に似ている。 」
このニの曲輪と三の曲輪の堀に沿って、土塁が造られていた。
この土塁は、堀を掘った土を盛土したもので、堀と土塁の間に広く長い土地があり、
敵に攻められた時、城兵が守備につく空間と思われる。
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城山稲荷神社の右手の道で、神社の裏に出ると、木橋がある。
それを渡った先に、井戸と「馬出」の説明板がある。
説明板「馬出」
「 馬出は、虎口(出入口)を守るとともに、
内部の城兵の動きを悟られないようにすることで、
出入りを安全かつ円滑に行うことを目的に造られた施設である。
鉢形城には、馬出と考えられる遺構が多く残っている。
この遺構は、伝承では、御金蔵と呼ばれていたが、
その形状や調査の結果、馬出と判明したものである。
西・東・南の三方を薬研堀で掘り切り、北側は荒川の崖になっている。
堀の深さは、西側で約七・四メートル、
内部の広さは間口六・五メートル、奥行十二メートルで、
門の礎石や雨落ちの石列、石敷き排水溝などが確認されている。
石積土塁は、北・西・南側に築かれ、西側が最も長く、
全長約十七・五メートル、高さ約二・三メートル、
馬踏(上巾) 約二・三メートル、敷(下巾) 約六・九メートルで、
五段の石積みが施されている。
北側は三段だが、当初五段だったことが発掘調査で判明した。
この馬出は、平面形が四角なため、角馬出と呼ばれ、
後北条氏系の城郭の特徴といわれている。 」
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三の曲輪は、伝承では、北条氏邦の重臣・秩父孫次郎が守った、 秩父曲輪といわれる。
「 この曲輪は、門と土塀、土塁、堀により区画され、
南半分では、階段と門跡、掘立柱建物跡二軒、その右手に通路状の遺構が発見された。
ここでは、囲炉裏の存在を示す自在鉤や、鍋などの生活用品が出土していることから、日常生活の空間だったと考えられる。
現在、門とその南に石組溝、石組土塁が復元されている。 」
北側には庭園があった。
「 池を囲むように石組井戸、掘立柱建物が北側に二軒、
東側に二軒、礎石建物も建てられ、
天目茶碗などの茶道具や、
後北条氏の中核的な支城でしか発見されないカワラケなどが、
出土することから、宴会や歌会などを行う特別の空間だった、と思われる。
現在は、廃城になる直前の時期を基に、庭園と石積土塁、井戸を復元し、
二棟の掘立柱建物を四阿と丸太で表示している。 」
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「北側の石組土塁」の説明板が建っている。
説明板「北側の石組土塁」
「 この曲輪の土塁は、全長約百メートル、高さ約四・二メートルで、
馬踏(上巾)約六メートル、敷(下巾)約十二メートルの規模をもち、
内側には河原石を三〜四段の階段状に積上げ、
雁木と呼ばれる階段も造られていた。
裏込石がなく、高さも一メートル程度で、
江戸時代の石垣では規模や技法で見劣りするが、
関東地方の石積技術の様子や、石積を専門とする技術者の存在を示す発見になった。 」
門を出た先の右手に、「虎口」の説明板がある。
説明板「虎口」
「 虎口とは、出入口のことで、小口とも書かれる。
三の曲輪では、伝秩父曲輪から諏訪神社(馬出)へ至る、
虎口の空間を全面発掘したところ、
伝秩父曲輪は、一段高くなっていて、巾二間半(約5m)で、六段の階段が見付かり、
階段の最上部には、門が確認され、東側はこわされていたが、
礎石の一部と、雨だれによってできた溝が、
確認されたので、間口は一間半(約3m)と想定された。
階段の最下段の西側には、石列が一列確認され、
階段を隠す蔀(しとみ)の一部と思われる。
空間は、畑になっていたため、発掘調査では、上部が削られた石積土塁が発見され、
土塁が北向に折れる部分は、最上位面が広くなることから、
櫓(矢倉)が建てられていた可能性がある。
この櫓と蔀に挟まれた空間は、城兵が一時待機する武者溜と思われる。
ここから土塁の間を通り、諏訪神社(馬出)に向う部分が虎口である。
ここには、門があった可能性が高いが、発掘調査では確認できなかった。
柱穴が確認されなかったため、礎石建ちの門だった可能性がある。
後北条氏城郭の場合、虎口の前に角馬出を設けるのが特徴で、
鉢形城にはいろいろな形の馬出がある。 」
虎口跡の土塁をくぐると、林の中に、諏訪神社がある。
諏訪神社は、馬出の跡で、その先には諏訪曲輪があったと伝えられる。
現在はJR八高線が通っている。
「
鉢形城の大手の位置は城の拡張とともに移動したが、
最終的には諏訪神社の南側にあったと考えられている。
諏訪神社の南側にあった大手には、伝逸見曲輪があり、
馬出の先には池があり、池の中に弁天社跡がある。
その先には、伝大光寺曲輪である外曲輪があったようである。
これらの様子は鉢形城歴史館に鉢形城地形模型や復元された中世の楼門として展示されている。 」
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諏訪神社から車道を歩いて、先程の道標まで戻り、本曲輪に向う。
道の右側に建物があるところは、伝御殿下曲輪跡で、
上級武士の館が建っていたところである。
道の左手の小高い丘が、城主の館があった、伝御殿曲輪跡である。
車道を歩き、右側の施設の入口近くで、左に入る道を行くと、
「伝御殿曲輪」の標柱がある。
上っていくと三叉路で、左に進むと、鉢形城の案内板が建っている。
その先に広い空地があったので、ここに御殿があったのだろう、と思った。
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その右手に、田山花袋の碑が建っている。
そこから下を見ると、荒川の絶壁が続いていて、
荒川側から攻めるのは不可能である。
また、御殿曲輪の東側は、堀切で囲まれているので、
御殿曲輪は、しっかりと、防御されている。
ここからの眺めると、下に広い河川敷があり、駐車場になっている。
また、その先には寄居の町が広がっていた。
先程の三叉路に戻り、反対側に歩いて行くと、かっては、馬出のような地形で、
周囲は堀切で囲まれていて、その先の一段低いところにあるのは笹曲輪である。
現在は車道が通り、左手に荒川を渡る橋が架かっている。
昔は、右側の外曲輪からの虎口と、馬出で守られた搦手口だった。
ここで、鉢形城の探索は終了した。
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鉢形城へはJR八高線・秩父鉄道・東武東上線の寄居駅より徒歩約25分
バスではイーグルバス(元東秩父村営バス)「和紙の里」行きで、
「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分
関越道花園ICから国道140号バイパスで秩父・長瀞方面へ約6キロ、15分
訪問日 平成三十一年(2019)四月二十三日