名所訪問

「 続日本100名城 菅谷館(すがややかた) 」


かうんたぁ。


菅谷館は、武蔵国男衾郡(現在の埼玉県嵐山町)にあった城で、 都幾川と槻川の合流点北側の低台地に築かれた平城である。 源頼朝の御家人・畠山重忠が居館した所と伝えられている。
長享二年(1488)の須賀谷原合戦の前後に、山内上杉氏の家臣・太田資康が、 扇谷上杉氏の川越城の押さえとして、菅谷の旧城を再興した。 
戦国時代の十六世紀前半までは、山内上杉氏の拠点として、使用された。
その後、北条氏の城となり、戦国末期までは使われていた。 
菅谷城(すがやじょう)とも呼ばれ、昭和四十八年(1973)、国の史跡に指定された。
続日本100名城の第118番に選定されている。


国道17号の天神二丁目交叉点から県道27号を走り、 その後、右折して、県道66号(第264バイパス)を走り、 菅谷館跡の駐車場に駐車した。 

「 菅谷館は、館の付近を鎌倉街道が通っていた交通の要衝にあった。 
源頼朝の御家人であった畠山重忠が、 鎌倉時代の文治三年(1187)頃、居館したと伝えられている。 
重忠の父・重能は、大里郡畠山荘の荘司で、重忠も同荘内に館を置いていた。
その後、鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移り、館を構えた。 
元久二年(1205)、重忠が武蔵国二俣川で戦死した後、 菅谷館がどうなったのかは不明である。 
長享二年(1488)の須賀谷原合戦の前後に、山内上杉氏の家臣・太田資康が、 扇谷上杉氏の川越城の押さえとして、菅谷の旧城を再興した。 
戦国時代の十六世紀前半まで、山内上杉氏の拠点として、使用された。
その後、武蔵に進出した北条氏の城となり、戦国末期までは使われていた。 
現在の城跡は太田資康以降のものである。  」

菅谷館
菅谷館縄張図


埼玉県立嵐山史跡の博物館 は、菅谷館の三の郭跡に建てられている。
博物館の裏に廻ると、「建物跡と井戸跡(三ノ郭)」の説明板がある。
その前に、、建物の柱跡と、 「井戸跡」を示す石柱が建っている。 

説明板 「建物跡と井戸跡 (三ノ郭) 」
「 史跡の博物館の建設に先立つ発掘調査で、 三ノ郭では、掘立柱建物跡4棟、井戸跡3か所、溝跡などが発見されました。 
現在、これらの遺構のうち、掘立柱建物跡1棟と、 井戸跡1か所の位置が、示してあります。 」

博物館脇の遊歩道に戻る途中に、「国指定史跡 菅谷館跡」 のモニュメントがある。
モニュメントには館の姿が表示され、その下に
「 菅谷館跡は、鎌倉時代の初めに畠山重忠が居館した所と伝えられています。 
その後、戦国時代までに拡張されて、現在のような、 5つの郭を持つ大規模な城郭となりました。 」
と、書かれていた。 

三ノ郭跡(嵐山史跡の博物館)      井戸跡と掘立柱建物跡      菅谷館跡モニュメント
嵐山史跡の博物館(三ノ郭跡)
井戸跡と掘立柱建物跡
菅谷館跡モニュメント

遊歩道を進むと、「←本郭 二ノ郭 埼玉県立嵐山史跡の博物館 入口 →」 の道標がある。
三叉路の左奥の空地前に、「二ノ郭(にのくるわ)」 の説明板がある。 

説明板「二ノ郭(にのくるわ)」
「 本郭の西側から、北側を囲むように、造られた平場があり、 江戸時代から、二ノ郭と呼ばれています。 
三ノ郭とは、高さが6mもある土塁と堀で、隔てられていました。 
目の前の道路は、堀を埋めたもので、植栽の部分に土塁があった、 と考えられています。 」

二ノ郭の道の反対に、「埼玉県指定史跡 菅谷城跡」 の石柱と、 「国指定史跡比企城館跡群 菅谷館跡」 の説明板が建っている。 

説明板「国指定史跡 比企城館跡群 菅谷館跡」
「 菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が、 文治2年(1187)までには、住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。 
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが、 鎌倉時代の記録 「吾妻鏡」 に、書かれています。 
また、室町時代の漢詩文集 「梅花無尽蔵」 によると、長享二年(1488)に、 山内上杉氏と、扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、 馬は数百匹が倒れた、と記され、 この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。 
現在の遺構は、本郭・二ノ郭・三ノ郭などと、 それらを防御する土塁・空掘などからなり、 このような姿になったのは、 戦国時代(十五世紀後半〜十六世紀前半) のことと考えられます。 
昭和48年(1973)に、「関東の有力豪族である畠山氏の館に 起源をもつ城館跡」 として、国の史跡に指定され、 平成20年(2008)3月には、「比企城館跡群菅谷館」 と、名称が変更されました。 」

説明板の手前を右に入ったところにある土塁上に、階段で登る。
そこには、畠山重忠の銅像が建っている。 

「 畠山重忠は、平安時代後期〜鎌倉時代初期の武将で、 坂東八平家の一つである、秩父氏の一族である。
武蔵国畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族に江戸氏・川越氏・豊島氏などがいる。
畠山重忠は、源頼朝に仕え、猛烈果敢な武将で、鎌倉幕府創業の功臣として、 重きをなしたが、頼朝亡き後、初代執権・北条時政の策謀により、 一族もろとも滅ぼされた。
深谷市等、勇壮な騎馬像が多いのだが、ここにある像は、 直垂姿で、鎌倉を望む姿は珍らしい。 」

二ノ郭跡      菅谷城跡石柱と説明板      畠山重忠の銅像
二ノ郭跡
菅谷城跡石柱と説明板
畠山重忠の銅像

階段を降り、案内板の右手の道を進む。
左側は草が茂っているので、 深さはわからないが、空堀と本郭の土塁があり、本郭を守っている。 
本郭の土塁の高さは九メートル、これから向かう二の郭の西側の土塁の高さは、 十一メートルである。 
遊歩道を進むと、道の左、少し小高くしたところに、木が生えていて、 傍らに、「出枡形土塁(でますがたどるい)」の説明板が建っている。 

「 目の前にある本郭を守る高い土塁には、 凸字状に突き出た箇所があり、「出枡形」 と呼んでいます。 
出枡形土塁は、敵が侵入した際、横から矢を射かけるなど、 効果的に防げるようにしたものです。 」

道の右手は、一面、草が生い茂っているが、ここは二ノ郭跡である。 
二ノ郭は、本郭を囲うように、本郭の北部から西部にかけて、造られていた郭である。
先程の二ノ郭説明板付近の北側と、この西側の空地部分で、構成されている。 

本郭土塁と堀      出枡形土塁      二ノ郭跡
(左側)本郭土塁と堀(道路側)二ノ郭跡
出枡形土塁
二ノ郭跡

道の右側に東屋があり、休憩している人がいた。 
東屋を越え、南郭に向って直進すると、階段があり、下りていく。
二ノ郭より一段低いところにあったのが、 南郭で、 今は左右に草が生い茂っている。 

「 菅谷館は、本郭・二ノ郭、北に、三ノ郭、西に西ノ郭があり、 面積は十一万平方メートルである。 
館跡の三方の堀は、今は池や水田などになっているが、 東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖で、 その上に、南郭や本郭があった。  」

「南郭(みなみくるわ)」の説明板があり、
 「 この郭は、本郭の南側に位置し、他の郭より一段低くなっています。 
今のところ、どのように利用されたかは、よくわかっていません。 」
と書かれていた。

東屋      南郭に向う      南郭
東屋
南郭に向う
南郭

「←左都幾川 南郭  埼玉県立 嵐山史跡の博物館→」と書かれた。道標があった。 
南郭は、他の郭に比べると、小さい。 
三日月形をした郭で、南に都幾川の河川敷があり、崖が郭を守っていた。 

林の中を進み、右側に土塁があるのを確認しながら、進む。 
本郭と南郭の境を確認しながら進んだが、虎口を確認しないまま, 本郭に入ってしまった。
本郭は、横に長い形をしていて、右側は都幾川の崖が郭を守っていた。 
また、生門があったようである。 
広い空地の中央部に三叉路があり、 左折すると、左に「本郭」の説明板が建っている。

説明板「本郭(ほんくるわ)」
「 堀や土塁、郭が何重にも取り巻く城跡の中心部分の平場は、 江戸時代以降、本郭 と呼ばれています。 
城の中心的な建物があったと考えられます。 」 

現存する菅谷館は、戦国時代に整備拡張されたものである。 
中央のやや南寄りに、平面長方形の本郭があり、 本郭を中心に、二の郭・三の郭・西の郭・南郭の五つの郭が、 クモの巣の様(扇形)に並ぶ輪郭式の縄張りをしていた。 
畠山重忠の館もおそらく、本郭の中につくられたのでしょう。 

「 畠山重忠が亡くなった後の菅谷城は、 山内上杉顕定の命を受けた太田資康(太田道灌の子)が、 扇谷上杉方の拠点である河越城に対する抑えとして、 また、本拠である鉢形城を守るための城として、この城を復活させた、考えられている。 
以後、十六世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われた。 
戦国時代に入ると、天文十五年(1546)の河越夜戦以降、 この地域に進出した小田原北条氏によって、戦国末期まで使われ、 小泉掃部助が城代となって守備している。 」

南郭道標      本郭跡      本郭の説明板
南郭道標
本郭跡
本郭の説明板

本郭から北に向うと、両側の土塁の間に道が通じていることが分かる。 
ここが本郭北虎口である。 
ここをぬけると、両側は深い堀で、そこを過ぎると、「菅原城址」の石碑の脇の二ノ郭跡に出た。 
続いて、博物館脇の道を北上する。 
道の左側は林が続き、左から奥に続く小道がいくつかある。
その一つに入っていった。
道は右折して北に向い、三叉路に出る。 
この林の一帯は、三ノ郭跡である。 

説明板「三ノ郭(さんのくるわ)」
「 城跡北側の喰い違い虎口を入ると、江戸時代後期から三ノ郭と呼ばれています。 
面積や位置から、武士や騎馬の集合場所として利用されたと考えられます。 」

三ノ郭は、二ノ郭の北部に、横長に展開していた郭で、 博物館の北側に搦手門があった。 
周囲は土塁で囲まれていたが、北側は土塁に加えて掘が築かれていた。 

本郭虎口跡      三ノ郭跡      三ノ郭を防御する土塁
本郭虎口跡
三ノ郭跡
(奥)三ノ郭を防御する土塁

道を進むと左側に、「三ノ郭を防御する土塁(しとみどるい)」 の説明板がある。 
その先のこんもりとした土地が、蔀土塁 なのだろう。 

説明板「蔀土塁(しとみどるい)」
「 堀に面した虎口の内側にある小さな土塁は、 西ノ郭から三ノ郭内の様子を見通せないようにするものです。 
平安時代の邸宅で使用された風雪や日光を遮る道具の 「蔀」 の名前をとって、 視線を遮る土塁を蔀土塁と呼んでいます。 」 

その先は急勾配になっていて、その先に橋が架かっている。
ここは、三ノ郭の虎口跡である。 
その手前の左側に、「正てん(土へんに占という字)門と木橋」の説明板がある。

「 ここは、三ノ郭の出入口で、正てん門と呼ばれ、 幅約5間(9メートル) あります。 
発掘調査の結果、西ノ郭より約1メートル高く盛土していたことがわかりました。 
この盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、 敵軍の侵入を困難になるよう工夫したものと思われます。 
調査によって堀の中段から、 木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されましたが、 現在ある橋は、それをもとに、推定復元したものです。 
しかし、実際の橋がどのようなものだったかは、わかっておりません。 」

三の郭から西の郭へ通じる復元された木橋は、たしかに、傾斜が確認できた。 

説明板と蔀土塁      三ノ郭虎口(説明板)      復元された木橋
説明板と蔀土塁
三ノ郭虎口(説明板)
復元された木橋

橋を渡ると、道端の石に「右 西郭」と刻まれている。
その先の空地は、西ノ郭跡で、北側は土塁が巡っている。 

「 菅谷館では、其々の郭は、土塁と空掘、水堀で防備され、 館の外周は、自然の浸食谷によって、何重にも守られていた。 
また、虎口(郭の出入口)付近は、土塁と曲折によって、 くいちがいを設けるなどの防御の工夫がされていた。 」

西ノ郭は、東に三ノ郭、東南に二ノ郭があり、菱形のような形で、 西側の角に虎口があった。 
道なりにすすむと虎口、谷川に出る。
小さな橋を渡ると、別の駐車場に出た。 
その先は車道で、左にはホタルの里の施設があった。 
車道の対面に「鎌倉街道」と、「山王古墳群」の説明板が建っている。 

説明板「山王古墳群」
「 かってこの付近一帯には、東原・向原・寺山・原・山王など、 大規模な古墳群が点在していた。 
その数も百基以上と推定される。 
現在では、稲荷塚・寺山一号墳を除いては、 ここ、山王の二十基ばかりを残すのみとなってしまった。 
山王古墳群の特色は、径二十メートル未満の小規模な円墳で、 扁平な河原石を積み上げて、胴張りを呈する石室を構築し、 墳丘を算石で覆うところにあり、近隣の古墳群の中でも、 独自の形態を示す点で、注目されている。 
また、その時期は、都幾川を遡上して来た古墳文化の終末期にあたり、 組織的古墳群の造営が、この地で終わりを遂げている、という点でも、 貴重な資料と言える。  
   昭和六十二年三月  嵐山町教育委員会   」 

中に入ると、道の左側に「オオムラサキの森」の説明板があり、 右側に、昭和十一年に建立された 「鎌倉街道」の石碑が建っている。 
この背後に、延長約二百メートルのくぼ地があるが、 これは菅谷館の掘跡といわれている。 
道の両側に、小さな盛り上がっているものがあるが、これが古墳群である。 
以上で、菅谷館の見学は終了したが、続日本100名城のスタンプをもらうため、 博物館に入ると、入口の先に置かれていたので、捺印した。 

西ノ郭跡      山王古墳群      菅谷館のスタンプ
西ノ郭跡
山王古墳群
菅谷館のスタンプ

所在地:埼玉県嵐山町大字菅谷  
東武東上本線武蔵嵐山駅西口から、嵐山駅入口の交叉点を横断し、 国道254号を目指して南に向うと、 三の郭跡に建つ、埼玉県立嵐山史跡の博物館に出る。 1.3km  徒歩で約25分。 
関越自動車道東松山ICからも、関越自動車道嵐山小川ICからも、車で約10分 

訪問日     令和三年(2021)十月九日、


ご参考 「 室町時代の関東の統治について」

「 室町幕府は、関東と周囲12ヶ国を統治する、鎌倉の長官として、 鎌倉公方を設けた。
また、その統治を補佐するものとして、関東管領を設けた。
関東管領を務めたのは上杉氏である。
室町幕府の初代将軍の足利尊氏の生母は、上杉清子で、 上杉家が、室町幕府の関東管領を世襲した。
上杉氏の諸家の一つが、山内上杉家で、鎌倉の山内に居住したことから、 そう呼ばれた。 事実上の宗家で、関東管領をほぼ独占した。
扇谷上杉氏は鎌倉の扇谷に居住したので、そう呼ばれた。
室町時代も八代将軍・足利義政の時代になると、京都では応仁の乱が起きる。
関東では、鎌倉公方の座を巡り、亨徳の乱が起きる。
亨徳三年(1454)、鎌倉公方の足利利成により、山内上杉家の上杉憲忠が暗殺されると、鎌倉公方と関東管領が、全面戦争になった。
関東管領の山内上杉氏と、相模国を中心とする、戦国大名になった扇谷上杉氏が共同して、戦った。
鎌倉公方の足利利成は、下総国の古河まで逃げ、 古河公方として、関東を統治する意思を表明した。
、 室町幕府の足利義政は、関東管領を支持し、古河公方を認めず、 新たに、足利政知を鎌倉公方として、京都から派遣する。
しかし、政知には軍の指揮権などが与えられず、また、 関東の領主たちも、古河公方の側に付いたため、鎌倉に入ることができず、 伊豆国の堀越にとどまった。
その後、室町幕府と古河公方が和睦、足利政知には伊豆国一国のみの 統治が認められ、堀越を本拠地としたことから、堀越公方と呼ばれた。
なお、伊豆国は北条早雲により、乗っ取られ、堀越公方は二代で終わる。
亨徳の乱において、扇谷上杉氏は、太田道灌に命じて、 川越城・江戸城・岩槻城を築城させ、川越に本拠を移した。
文明九年(1477)、山内上杉氏の家臣・長尾景春が、主君・上杉顕定に反乱し、 上杉顕定を上野国に追いやった。
文明十年(1478)、長尾景春に味方した古河公方・足利利成と管領・上杉顕定の間で、 和睦が成立した。
長尾景春の乱は、扇谷上杉家の領国・武蔵に於いて展開され、 扇谷上杉家の主宰・太田道灌が大いに名を上げた。
文明十八年(1486)、太田道灌は、主君の上杉定正により、暗殺される。
その後、関東の領有をめぐり、山内家と扇谷家が衝突し、長亨の乱が起きる。
扇谷上杉家と同名関係にあった古河公方は分裂により、衰亡する。
山内家も、相模の領地が扇谷上杉家と強力関係にあった、 北條早雲(伊勢宗瑞)に切り取られ、支配権を失っていった。
その後、北條氏により、相模も武蔵も征服される。 」



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