川越城は、武蔵野台地の北東端に位置する平山城である。
長禄元年(1457)に、太田道真・道灌父子が築城したのが、始まりである。
太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折、
初雁が来て鳴いたことから、道灌が初雁城と命名したとされ、
川越城の別名は、初雁城とか、霧隠城である。
江戸初期までは、徳川家康などの将軍が、鷹狩などに行ったときに御成御殿として
使用される程度で、本丸と二の丸が堀で囲まれているだけの質素な城であった。
江戸幕府が誕生すると、
川越は江戸城北辺の護りとして、また、豊富な物資の供給地として重要視されたため
、寛永十六年(1639)、智恵伊豆と呼ばれた松平信綱が城主となった。
彼は、何年にもわたり、城を改修拡張し、城下町を整備した。
これにより、近世城郭としての川越城の縄張が完成し、また、
今日の川越の町の繁栄の基になった。
その後は、幕府の大老、老中など、徳川家の譜代大名が代々城主となった。
日本100名城の第19番に選定されている。
川越城へは、JR川越駅前から市内部を循環するバスを利用して、 博物館前バス停で降車。
「 松平信綱により、完成した川越城は、
本丸・二の丸・三の丸・八幡曲輪・中曲輪・追手曲輪・外曲輪・田曲輪・新曲輪・
帯曲輪という曲輪と、本丸の富士見櫓(南西隅)と、虎櫓(北西隅)、
二の丸の二重の菱櫓など三つの櫓、そして、
西大手、南天手、一、二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、新郭、
埋の十三の門からなり、
土塁、水堀を張り巡らした総面積が九万九千坪(約三十二万六千u)余りの規模をもつ立派な城郭に変貌した。
川越城は、現在の初雁公園から、川越市役所に至る広さであったが、
明治維新後、城は壊され、その大半は失われた。
川越城の遺跡として残るのは、本丸御殿・家老詰所・富士見櫓台跡、
堀と土塁の一部のみである。
二の丸跡は、川越市立博物館と川越市立美術館、
三の丸跡は埼玉県立川越高等学校になっている。 」
市立博物館前の三叉路を南に進むと、本丸御殿があり、 そこを含む東部一帯は初雁公園になっている。
「
松平信綱が、城を改修拡張した時、藩主御殿は二の丸に置かれた。
武具方役所も二の丸に、
隠居屋敷は三の丸に、三の丸南には、馬場と馬見所が設けられた。
家老屋敷は外郭に配された。 新郭には米蔵や火薬庫があった。
将軍が使用した本丸御殿は鷹狩が行われなくなった後、解体された。
幕末近い弘化三年(1846)、二の丸御殿が火災で、焼失した。
再建にあたり、御殿の用地は当時空地になっていた本丸が選ばれ、
嘉永元年(1848)、藩主・、松平斉典により、御殿の造営が行われた。
」
再建された本丸御殿は、建物の数十六棟、千二十五坪(約3388u)にも及ぶ、 広大なもので、城主の住まいだけでなく、 城主が政務を行う場や、家臣達が常駐する部屋なども設けられ、 文字通り城の中心となる建物になった。
「 明治元年(1868)、戊辰戦争が進む中、藩主の松井松平家、
松平康英は明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋めた。
明治二年(1869)、川越藩は新政府に、
川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、
城の部分的取り壊しを始めた。
明治四年(1871)、廃藩置県により、川越城の建物のほとんどが壊された。 」
本丸御殿の玄関と広間部分は、入間県の県庁となって残った。
また、広間の南西側に、建物が増築された。
これは、南側にあった大書院などの部材が、再利用されたと考えられる。
「 本丸御殿の玄関と広間部分はは、 その後も、入間郡公会所・煙草工場・初雁武徳殿・市立中学校などになったが、 昭和四十二年(1967)、大規模な修理工事を行い、屋根の修理や、間口の復元を行い、 現在の姿になった。 」
本丸玄関は、巨大な唐破風屋根に、間口三間の広い開口部と、八寸角の太い柱が、
十七万石の大名屋敷にふさわしい威容を感じさせる。
横に長い本丸御殿には、三十六畳の大広間の他、
使者の間や鶴の間など、合計七つの部屋がある。
来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋として使用されたものである。
なお、城主との対面は、南側にあった大書院で、行われた。
巨大な建物だった大書院は、明治初期に解体されてしまったが、
本丸御殿南端の柱群には、
書院の部材が入れられていたホゾ穴などの痕跡が残っている。
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入館して左奥の少し下がったところにある建物が明治棟である。
現在はトイレと第一展示室になっている。
大広間の左奥には西続く廊下がある。
右側は、坊主当番詰の部屋で、十二畳、第二展示室になっている。
廊下は、その先で終わっているが、
現在庭になっているところに、江戸時代には大廊下が延びていた。
「 庭に埋め込まれた瓦は、
広間の裏の大廊下の柱の位置を示している。
座敷を取り巻く廊下は、場所によって、床の材質が異なる。
玄関のある東側部分及び中ノ口部分はけやき、
南側から西側の広間西側部分は栂、松などが使用されている。 」
廊下の突き当たりを右折すると、家老詰所がある。
「 家老詰所は、
本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物である。
川越藩主は、参勤交代があったため、藩政は実質的には家老が行っていた。
創建当時の家老詰所は、広間西側から西に延びる大廊下の先にあった。
明治初期に売却され、現ふじみ市の商家に移築されていたが、
昭和六十二年に、現在地に移築された。
家老詰所には、記録方詰所・年寄詰所・ニ之間・家老詰所などがあった。 」
館内には当時の執務風景を再現している人形が置かれている。
もと来た道を戻ると、「中の口」という説明板がある。
説明板「中の口」
「 正面玄関に比べ、間口二間半と一回り小さな玄関である。
正面の壁の柱は、玄関より見た目を整える装飾のための柱で、半柱と呼ばれる。
屋根の荷重のかからない柱である。 」
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本丸御殿の東の天神曲輪跡に、三芳野神社がある。
わらべ唄の「とうりょんせ」の発祥の地といわれる神社である。
「 三芳野神社は、
平安時代初めの大同年間(806〜810)の創建と伝えられ、
三芳野十八郷 の惣社として崇敬を集めた。
寛永元年(1624)、川越城主・酒井忠勝は、幕府の命を受け、
川越城の鎮守として、再建に着手し、幕府棟梁鈴木長次が造営に当たった。
明暦二年(1656)、城主・松平信綱が奉行となり、棟梁木原義人が改修を加えた。
社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りで、屋根はこけら葺き形の銅板葺き、
外部は朱漆塗りを基調とし、内部は軸部を黒漆塗りとしている。
弘化四年(1848)と、大正十一年、屋根が変えられている。 」
訪れた時は改修工事により周囲が覆われていた。
「 川越城内の天神曲輪に再建されたため、
「お城の天神さま」として親しまれ、
七五三参りなどの際には町民も城内に入ることができた、という。
その際、川越城の南大手門から入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、
さらに、天神門をくぐり、東に向う小道を進み、
三芳野神社へ直進する道を通って、お参りした。 」
神社の細い参道が、童歌「とうりょんせ」の歌詞の発祥の地といわれる。
三芳野神社から「とうりょんせ」の舞台となった道を歩き、
三叉路を右折して少し行くと、右手に小山がある。
山頂には、江戸時代、天守の代用となった、富士見櫓が建っていた。
「 富士見櫓は、川越城の櫓の中では最大のもので、 三重三階もしくは二重二階だったと推定され、 基壇の高さは五十一尺(15.4m)、櫓の高さは五十一尺(15.4m)だった。 」
途中に「富士見権現大神」 の鳥居がある浅間神社と、御嶽神社がある。
頂上には、空地になっている富士見櫓跡がある。
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川越城へは、JR川越線・東武東上線川越駅または西武新宿線本川越駅より、 東武バスで、札の辻下車、徒歩10分
訪問日 平成三十年(2018)五月十七日