川越は、武蔵国入間郡の地名で、古くは河越とも表示された。
天正十八年()1590)に、川越藩は立藩し、寛永十六年(1639)に、
老中首座の松平信綱が、島原の乱鎮圧の功により、
川越藩主に栄転し、川越城下の町割を行った。
信綱により、城の表玄関として、西大門と南大門が作られ、
西大門を基点に南方に川越街道が江戸まで伸びた。
西大門から西に進む大通りの先に、高札場である「札の辻」が設けられた。
川越が小江戸と呼ばれるのは、江戸や徳川将軍家と深い関わりがあるためである。
◎ 蔵造りの町並
郭町交叉点から市役所に向うと、左側に「川越城中門堀跡」がある。
「 川越城への敵の侵入を防ぐために設けられた堀で、 現在は構築当時の勾配を復元し、土塀などが設置されている。 」
川越市役所の前に太田道灌の銅像が建っている。
その前に、「大手門跡」の標柱が建っている。
その先の交叉点は札の辻、江戸時代には高札場があり、幕府からの禁令などを
町民に知らせていた。
ここから西部新宿線の本川越駅まで趣のある蔵造りの町並が残っている。
「 この蔵造りの町並ができたのは明治時代、
明治二十六年(1893)の川越大火の後、
耐火建築である「蔵造り」が採用されたことによる。
現在も二十軒ほどの蔵造りが軒を連ね、
平成十一年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。 」
大沢家住宅は、川越にある最古の蔵造りである。
寛政四年(1792)、豪商、近江屋半右衛門が、
呉服太物を商うための店舗として建てた商家で、
国の重要文化財に指定されている。
時の鐘は、江戸時代の寛永年間(1624〜44)に、
川越藩主・酒井忠勝によって建てられた。
現在の鐘楼は、明治時代の川越大火の直後に、
再建されたものである。
約三百九十年もの間、時を刻み、今は一日四回(六時、正午、十五時、十八時)、
由緒ある音を聞くことができる。
札の辻交叉点を直進すると、菓子屋横丁がある。
江戸時代には、きしめんを商っている店が多かったようだが、
菓子屋横丁の石畳の道の両側に、昭和の初期には七十軒、
現在は約二十軒が軒を連ねている。
はっかやにっき飴、煎餅、団子などの昔ながらの菓子が売られている。
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◎ 喜多院
この後、江戸城と関係のある喜多院に循環バスで行き、成田山前で下車した。
バス停の前にあるのは、成田山川越別院である。
「 江戸時代末の嘉永六年(1853)、 下総国新宿(現葛飾区)の石川照温が、 廃寺になっていた本行院を成田山の別院として再興した寺で、 本尊は不動明王である。 」
その先の河越歴史博物館前を過ぎると、「喜多院」の説明板がある。
説明板喜多院」
「 喜多院は、天長七年(830)、淳和天皇の勅を受けた慈覚大師円仁が
創建した、本尊阿弥陀如来、毘沙門天などを祀り、無量寿寺と、名付けた寺である。
元久二年(1205)の兵火で炎上したが、
永仁四年(1296)、伏見天皇が、尊海僧正に再興を依頼した時、
宮田五十石を寄進したことから、関東天台宗の中心寺になった。
天文六年(1537)、北條氏綱、上杉朝定の兵火で炎上し、寺院は荒廃した。
天海大僧正が、慶長四年(1599)、第二十七世住職になると、
徳川家康の後ろ盾を得、
慶長十六年(1611)十一月に、徳川家康が川越を訪れたときには親しく接見し、
寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井忠利に工事を命じた。
また、仏蔵院北院を喜多院と改めた。 」
少し歩くと多宝塔が見えてきた。
「 多宝塔は、
寛永十六年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立された。
老朽化が進んだため、明治四十三年(1910)に、
慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に、移築されたが、
移築に際し、大幅に改造されたため、昭和四十八年(197)に現在地に移し、
解体修理を実施し、復元したのが現在の塔である。
総高は十三メートル、方三間の多宝塔で、本瓦葺、上層は方形、上層は円形、
その上に宝形造りの屋根が乗っている。 」
その先にあるのが、慈恵堂(本堂)である。
「 慈恵堂は、比叡山延暦寺第十八代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる喜多院の本堂である。
大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ばれている。
裄行九間、梁間六間の入母屋造り。銅版葺で、
中央に慈恵大師、左右に不動明王を祀っている。
川越大火の翌年の寛永十六年(1639)に、一早く再建された建物だが、
昭和四十六年度から四年間にわたり、解体修理が行われている。 」
堂内には、正安二年(1300)に造られた、国指定重要文化財の銅鐘があり、 年に一度だけ除夜の鐘として、 世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれるという。
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本堂の右手に寺務所、庫裏があり、御朱印と入場料を支払い、書院と客殿に入る。
「 寛永十五年(1638)、川越大火で現存の山門を除き、 すべての建物が焼失した時、 徳川三代将軍家光が、堀田正盛に命じて復興に取り掛かり、 江戸城紅葉山(現在の皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。 」
庫裏は、現在、拝観者の入口となっている。
「 庫裏は、単層で、屋根は全てとち葺き形銅葺きで、
裄行十間、梁間四間の母屋、裄行東四間、西三間、梁間三間の食堂、
それに、玄関及び広間が付いている。
母屋は一端は入母屋造り、他の端が寄棟造りになっていて、
食堂は一端が寄棟造り、
他の端は母屋につながり、すべて栩葺(とちぶき)形銅板葺。
母屋には、一部に中二階がある。 」
庫裏に繋がるのは、客殿と書院で、渡り廊下で、繋がっている。
庫裏の先の右側には書院が見えた。
客殿は、寛永十五年(1638)、書院、庫裏とあわせ、
江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものである。
「 裄行八間、梁間五間の入母屋造りこけら葺き、
十二畳半二室・十七畳半二室・十畳二室、
二面は入り側、十二畳半のうち、一室が上段の間で、
床と違い棚が設けられている。
室内は壁紙で囲まれた襖と共に、
狩野探幽筆と伝えられる、墨絵の山水画が描かれていて、
格天井の八十一枚全部異なる極彩色の花模様が描かれている。 」
上段の間は、この建物が江戸城にあった頃、
三代将軍徳川家光がここで生まれたということから
「三代将軍家光の誕生の間」 と呼ばれている。
中央の十七畳半の一室には、仏間が設けられ、仏事を営めるように設営されていて、
仏間正面の壁には、豪華な鳳凰と桐の壁画がある。
上段の間の奥には、湯殿と厠が設けられている。
室内は撮影禁止なので、その様子を紹介できないのは残念である。
客殿の右側の庭園は遠州流庭園、左側の庭園は紅葉山庭園で、
三代将軍お手植えの桜がある。
書院は少し薄暗く、また、古びた感じだった。
「 書院は、客殿と畳廊下でつながり、
桁行六間、梁間五間、単層寄棟造り、こけら葺き、
八畳二室、十二畳二室、一部に中二階があり、階段は取り外すことができる。
八畳間の二室には、それぞれの床の間が用意され、
片方の部屋には脇床も設けられている。
これらの部屋は、この建物が江戸城にあった時、
徳川家光の乳母として知られる、春日局が、使用していた部屋で、
「春日局化粧の間」 と呼ばれている。 」
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境内にある五百羅漢は、日本三大羅漢の一つに、数えられているものである。
「 五百羅漢は、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、
天明二年(1782)から文政八年(1825)にかけて建立されたもので、
十大弟子、十六羅漢を含め、五百三十三体のほか、
中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊、普腎の両菩薩、
左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で五百三十八体が鎮座している。
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、
本当にさまざまな表情をした羅漢、
また、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、
観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、
変化に富んでいる。 」
「 正保二年(1645)の建立の、桁行三間・
梁間三間の比較的小さな御堂である。
屋根は、中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺背面一間通し、庇付きである。
祀られているのは慈眼大師天海(天海僧正)である。
寛永二十年(1643)に、上野寛永寺で亡くなったが、正保二年(1645)、
徳川家光の命により、七世紀初頭の古墳の上に
このお堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置された。 」
その奥に、駿府で没した徳川家康の遺骸を、 日光山へ運ぶ途中で、法要が行われたことから建設された仙波東照宮がある。
「 元和二年(1616)、駿府城で徳川家康が亡くなると、
一旦、久能山に葬られたが、
元和三年(1617)、日光山に改葬の途中、
遺骸を喜多院に留めて、天海僧正が導師となり大法要が行われた。
寛永十年(1633)、東照宮が祀られる立派な社殿が造営されたが、
寛永十五年(1638)の川越大火により類焼したため、徳川家光の命により、
川越藩主堀田正盛が奉行となり、寛永十七年(1640)に完成したのが現在の社殿である。 」
喜多院では、上記の建造物に加え、山門・鐘楼門などが、 国の重要文化財に指定されている。
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訪問日 平成三十年(2018)五月十七日