五浦海岸は、
茨城県の最北端の北茨城市に五浦海岸がある。
五浦海岸には、その名の通り、小五浦・大五浦・椿磯、中磯・端磯という、
五つの入江がある。
「 大小の入江、大小の磯、高さ五十メートルの断崖絶壁など、
太平洋の浪による浸食で造形された地形が続く。
この一帯にある奇岩は、中国の文人画などに登場する岩と同質(炭酸塩コンクリーション)である。
崖の上にはクロマツが生きている。 」
岡倉天心が、日本画の改革を行う地として選んだ要因の一つに、 この風景があった、と思われる。
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五浦海岸 |
岡倉天心は、伝統的な日本の美術とも、ヨーロッパ美術とも違う、新しい美術教育を目指して、 その教育を受けたのが、横山大観・下村観山・菱田春草らである。 。
「 岡倉天心は、二十七歳の時、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の校長になり、
日本画の近代化を図る教育を行ったが、明治三十一年(1898)に、排斥され、辞職する。
同時に、連隊辞職した横山大観らを連れて、東京谷中に日本美術院を設立した。
岡倉天心は、五浦にアトリエを造り、明治三十九年(1906)に、日本美術院の拠点を
五浦に移した。
この団体は、岡倉の活動が減るにつれ、活動が減少したが、岡倉の没後、
大観らにより、再建された。 」
小五浦の北側の海面より少し高い所にある六角堂は、
岡倉天心が、ボストン美術館中国日本部長の任務を終え帰国した後、
明治三十八年(1905)、中国の詩人・杜甫の草堂に倣い、
建築した観潤亭が正式名称である。
平成二十三年の東日本大地震の津波により、土台部分を残して消失した。
翌年、再建された。
下の写真は再建前の建物である。
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六角堂 |
小五浦とその北にある大五浦に間にある岬には、五浦観光ホテルなどの宿泊施設がある。
日本美術院があったのは中磯で、その跡地は天心遺跡記念公園になっている。
天心の墓は、東京の染井墓地にあるが、彼の遺言により、分骨された墓が大五浦側にある。
端磯側にある茨城県天心記念五浦美術館は、平成九年(1997)に開館し、日本画を中心に収蔵。展示している。
「 岡倉天心は、「五浦釣人」と名乗る程、五浦の釣りをこよなく愛していました。
釣り船に乗り、よく釣り糸を垂らしていたといわれる。
五浦周辺には、近くの漁港で水揚げされた新鮮な地魚が味わえる店が多くある。
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所在地、 茨城県北茨城市大津町
JR常磐線大津港駅から、車で五分、勿来駅から車で十五分
常磐道北茨城ICまたは勿来ICより、15分。
訪問日 平成十二年(2000)十一月二十四日