偕楽園は、水戸藩第九代藩主・徳川斉昭が開園した庭園である。
岡山の後楽園、金沢の兼六園と共に、日本三名園の一つになっており、
国の史跡・名勝に指定されている。
偕楽園の名称は、中国の古典 「孟子」 にある、
「 古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり 」
という、 一節からとったもので、 「偕楽園記」 では
「 是れ余(斉昭)が衆と楽しみと同じくするなりの意なり 」 と述べている。
徳川斉昭が構想した庭園は千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園することであった。
現在、約百種三千本の梅が植えられていて、梅の名所として有名になっている。
徳川ミュウジアムの北東にあるのが、天保十三年(1842)に水戸第九代藩主徳川斉昭が開園した偕楽園である。
日本三名園の一つである偕楽園は梅の名所と知られ、季節になると、
JRの偕楽園前の駅が臨時に開設される。
小生は三度梅の花を撮影に出かけた。
その時は人が多くごったかえしていたが、
今回の訪問はシーズンオフなので、人はほとんどいなかった。
表門から入ると、孟宗竹林が広がる。
公園で好きなところは孟宗竹の竹林。 心がなぜか穏やかになる。
そこを下って行くと、弛まなく水が噴き出る吐玉泉がある。
「 このあたりは昔から湧水の多かったところで、
斉昭は、偕楽園造成に当たり、地形の高度差を利用して集水し、
造園上の景観を考慮した白色の井筒を据えた湧水泉を設置した。
吐玉泉(とぎょくせん)と命名されるもので、この水は眼病に効くといわれ、好文亭の茶室何陋庵の茶の湯にも供された。
現在の泉石は四代目で、常陸太田市真弓山の大理石でつくられ、
寒水石ともいわれる。 」
園内の中程に、好文亭(こうぶんてい)がある。
「 好文亭は、木造二層三階建ての好文亭本体と、
北につながる木造平屋建ての奥御殿から成り全体を総称して、好文亭と呼んでいる。
好文とは、梅の異名で、 「 学問に親しめば、梅が開き、
学問を廃れば梅の花が開かなかった 」 という、
故事にもとづいて、名付けられた。
徳川斉昭は、建築にあたり、 その位置から建築意匠まで、自ら定めたといわれる。 」
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好文亭は、昭和二十年(1945)の空襲で全焼。
昭和三十三年(1958)に復元されたが、
奥御殿と橋廊下は昭和四十四年の落雷により、焼失。
昭和四十七年(1972)に復元された建物である。
中に入ると、一階には菊の間や桃の間・つつじの間がある。
奥に続く、奥御殿と橋廊下が見えた。
「 奥御殿を設けた理由は、万一、城中に出火などあった場合の 立退き場所として備えらためと、当時藩内では管弦など禁制であったので、 城中の婦人たちのため、遊息の場所としたいう、配慮があった、ようである。 」
奥御殿の松の間には、
「藩主夫人がお城から好文亭においでの折、休憩されたところです。 」 と書かれていた。
紅葉の間は、藩主夫人のお付きの御侍女中の主だったものが控えていた部屋である。
梅の間は、明治二年から同六年まで、藩主夫人の居室となり、
明治三十五年、大正天皇が皇太子の時、ここにお泊まりになられました。
また、大正元年、昭和天皇が皇太子の時、
秩父宮・高松宮殿下と、御一緒に、御来亭の折、御休息なされ、
大正十五年には三笠宮殿下が御休憩された部屋である。
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「 斉昭は、好文亭に文人墨客や家臣、領内の人々を集めて、 詩歌や慰安会を催したといわれる。 」
奥の間からは、梅園に続く踏石と植栽が見事に配置されている庭が見える。
「御座の間」は、藩主の間で、藩主斉昭(列公)が、好文亭にお成りの時、
ここで文人・墨客・庶民などに接しました。
部屋は紗張戸を用いた左右が透かして見えるように工夫され、特に床の間は設けず、
簡素に竹の柱だけが下げてありました。
「配膳用昇降機」 の説明板があり、
「 階下の調理室で作ったお膳や酒肴を運搬する、滑車式昇降機です。 」
と書かれていた。 斉昭が自ら考案したとされる一階と二階に手動のエレベーター(食事を運ぶ装置) である。
斉昭は科学者や発明家の才があったのだろうと感じた。
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二階からの展望はすばらしく、眼下の梅林はもちろん、 冬には白鳥が飛来する千波池が目の前に見える。
三階は楽寿楼と称し、部屋は三部屋あり、南に面した八畳が正室で、
烈公が御出座されたところであり、東南西方の勾欄に寄って、
四辺を眺めると、遠近山河の景が、ここに集まる趣である。
竹の床柱は、鹿児島市長から寄贈されたもので、西側の丸窓は、富士見窓で、
烈公が作った陣太鼓の余材が用いられている。
好文亭は、
各所に創意工夫と洒脱さを感じさせる建物である、と思った。
偕楽園の東隣にあるのが常磐神社である。
「 明治初年、義公(徳川光圀)・烈公(徳川斉昭)
の徳を慕う人達によって、偕楽園内に祠堂が創建された。
祭神は、徳川光圀と徳川斉昭である。
明治六年(1873)に、勅旨をもって、常磐神社の社号を賜った。
昭和二十年、戦災により本殿など焼失したが、
昭和三十三年(1958)、社殿が再建。
常磐神社の摂社である
東湖神社は、水戸学を代表する藤田東湖を祀る神社で、昭和十六年の創建である。 」
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訪問日 平成二十八年(2016)八月十日