名所訪問

「 日本100名城 水戸城  」

かうんたぁ。


水戸城は徳川御三家の一つ・水戸藩の居城である。
水戸城は、北部を流れる那珂川と、南部に広がっていた千波湖を天然の堀とし、 丘陵の上に築城された連郭式平山城である。 
平成十八年(2006)に、日本100名城の第14番 に選定されました。


JR水戸駅から、県道232号を北に向う。
三の丸ホテルを過ぎると、左右が高台になっている切り通しに出る。 
右側の石段を上っていくと、土塁に柵が設けられている。
右に向って進むと、  「茨城百景 弘道館と水戸城址」と書かれた大きな石碑と、その先に 水戸市教育委員会が作成した、 説明板「茨城県指定史跡 水戸城跡(塁及び濠)」 がある。

説明板「 茨城県指定史跡 水戸城跡 (塁及び濠) 」
「 水戸城は、平安時代末期頃、常陸国大掾国香の子孫、馬場資幹(すけもと)が、 この地(水戸一高)に館を構えたことに始まり、後に常陸国大掾となって、 府中(石岡市)に本拠をもったことから、 水戸地方も馬場氏のほかに、吉田氏・石川氏など、大掾氏の一族が栄えたのである。 
十五世紀のはじめ、応永二十三年(1416)、藤原氏の族、河和田城主・江戸通房が、 馬場氏を追放し、代わって居城した。 
それまでの本城の外に、 宿城 (のちの二の丸、現在、茨城大学附属小・水戸二中・ 水戸三高) を築くなど、、城郭を拡張して、約百六十余年間、水戸地方を支配したが、 太田地方を本拠として、常陸北半を領した源氏の族・佐竹氏は、天正十八年(1590)、 豊臣秀吉の小田原城攻めに功績が認められと、一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。 
こうして、五十四万余石を領する佐竹義宣の本城になり、城郭も一段と拡張させ、 城下町も太田から移された商人によって栄えた。 
ところが、秀吉の死後、義宣は石田三成と組んで家康に抗したため、慶長七年(1602)、 秋田に国替えを命じられ、わずか十三年間で、水戸を去った。 
その後は、家康の子、信吉・頼宣が、一時期封せられたが、 慶長十四年(1609)に、第十一子・頼房が藩主(二十五万石)に、 第三代・綱條の時から、三十五万石となってから、代々、その子孫が継いた。 
頼房は、二の丸に居館を築き、三の丸を造り、三重の濠と土塁を巡らして、 武家屋敷や商人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、 第二代・光圀以来、尊王の学風を興して、天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。 」 

県道を跨ぐ大手橋の手前には 「大手門跡」 の説明板がある。

説明板 「大手門跡」
「 大手橋に接して、ここにあった二階造りの大手門は、 佐竹義宣が、慶長六年(1601)に建てたものであったが、 徳川氏の代になっても、水戸城の入口の門で、前に「下乗」の札、後に番所があった。 
楼上では、太鼓または鐘を打って知られたこともあったが、 明治初年にとりこわされた。 」

水戸城は、明治維新後、ほとんどの建物はとり壊された。
解体を免れた三階櫓は、国宝に指定されていたが、 第二次大戦の水戸空襲により焼失したので、城跡を示すものは、 この周辺に残る土塁と濠跡のみである。 
標高約三十二メートルにあった本丸が、水戸第一高校、 東二の丸が第一高校のグランド、 二の丸が水戸第三高校・第二中・茨城大付属小、 三の丸が三の丸小というように、ほとんどが学校の敷地になっている。 
水戸第二中の前に、「大日本史編纂之地」 と書かれた大きな石碑、 その左下に、 「彰考館跡」 の石碑がある。

「 水戸第二代藩主義公光圀は、明暦三年(1657)に、 大日本史(412巻)の編集を始めた。 
寛文十二年(1672)に、その編集所を 彰考館 と名付けた。 
最初は江戸小石川の藩邸内にあったが、元禄十一年(1698)に、水戸城内に移した。 
その場所は、現在の第二中学の一角といわれ、 明治四年(1871)の廃藩置県までの百七十二年間続いた。 」 

本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり、橋が掛けられていたが、 明治期に二の丸と三の丸の間の堀は、道路(県道232号市毛水戸線)として、 本丸と二の丸の間の堀は、鉄道(JR水郡線)として、転用された。 

「茨城百景 弘道館と水戸城址」
    大手門跡    彰考館跡
「茨城百景 弘道館と水戸城址」の碑
大手門跡
彰考館跡

三の丸には、水戸藩藩校だった、弘道館(国の重要文化財、特別史跡) がある。 

説明板「弘道館」
「 弘道館は、第九代藩主・徳川斉昭が、 四十一才の天保十二年(1841)に、創設した藩校である。 
創設時、正庁・至善堂を中心として、文館・武館・医学館・天文台等が配置され、 梅林の中には、鹿島神社・孔子廟・八卦堂、・学生警鐘(鐘楼) 等があり、 藩士に文武両道の修練を積ませようと、武芸一般はもとより、 医学・薬学・天文学・蘭学など、幅広い学問を採り入れた、 いわば総合大学というべきものだった。 
明治元年(1868)の弘道館戦争の際の兵火により、文館・武館・医学館等を失った。 
その後、広大な敷地は、県庁・三の丸小用地として割譲され、規模は縮小、 昭和二十年(1945)の戦災で残っていた鹿島神社・孔子廟・八卦堂が焼失したが、 正庁・至善堂・学生警鐘(鐘楼) は、奇跡的に戦災から免れた。 
昭和二十八年(1953)から、八卦堂・孔子廟の復元、 正庁・至善堂の修理を行い、弘道館公園として現在に至る。 
明治五年(1872) 藩校としては閉館されたが、同八年 公園となり、 大正十一年(1922) 史跡、 昭和二十七年(1952) 特別史跡、 十一月 弘道館として、 昭和三十九年(1964)  正庁・至善堂及び正門が、国の重要文化財に指定させた。 」  

幕末には、水戸藩の藩論が分かれ、  改革派の天狗党と、保守派の諸生党の対立が起きた。 
元治元年(1864)、 天狗党が筑波山で挙兵する天狗党の乱が起る。 
この対立は明治維新まで続き、戊辰戦争の明治元年(1868)、 水戸城下で戦闘が行われ、  弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。 
この際、城内の多くの建物が焼失した。 

弘道館入口で観覧料を支払い、入館すると、 国の重要文化財に指定されている本瓦葺き四脚門の正門がある。 
これは戊辰戦争の際、燃失を免れたものだが、 城側から撃たれたと思われる弾痕の跡が残っている。 
その先にある門をくぐると、その先にあるのが正庁・至善堂である。 
正庁は弘道館の管理棟で、玄関の戸や板壁に弘道館戦争の傷跡が残っていた。 
正庁の東北に位置する四室は至善堂と呼ばれ、 藩主の控え室、その子弟の学習の場として使用されたという。 
襖や壁には和歌の扇面を掲げたといわれるが、 現在の襖には、要石歌碑の碑文を記した掛け軸が掲げられていた。 
学生警鐘(鐘楼)は、弘道館内の時刻を知らせるためので、 背面には、斉昭の 「 物学ぶ 人の為にも清かにも 暁告げる 鐘のこえかな 」  の自筆があるという。 
学生警鐘(鐘楼)は、昭和二十年(1945)の戦災を免れたが 、現在、 鐘のコピーが作られ、弘道館内に展示されている。 
なお、慶応三年(1867)の大政奉還の後、徳川慶喜は江戸から至善堂に移り、 謹慎したとある。 
敷地には、約六十種八百本の梅が植えられており、偕楽園とともに梅の名所となっている。 
三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしていた。 

弘道館正門
   弘道館正庁    要石歌碑の碑文
弘道館正門
弘道館正庁
要石歌碑の碑文

(補足) 水戸城の構成について

「 水戸城は、北部を流れる那珂川と、 南部に広がっていた千波湖を天然の堀とし、 丘陵の上に築城された連郭式平山城である。 
初代藩主・徳川頼房は、城と城下町を拡充し、 本丸の西側に二の丸を配し、居館を構えたが、 天守は造らず、破風などの飾りのない三階櫓(内部は五階建て)を二の丸に建造し、 その西側に三の丸が配し、それぞれを空堀で仕切った。 
水戸城の城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されたこと、 櫓や多聞(長屋)も極端に少なく、塀を多用したのが水戸城の特色で、 この質朴さが水戸徳川家の家風をよく表しているといわれている。 」

水戸城へは、JR常磐線水戸駅から徒歩約10分 

訪問日     平成二十八年(2016)八月十日



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