久留里城は、室町時代に、上総武田氏の武田信長により、築かれた山城である。
天文年間(1533〜1555)に、安房国から上総国に進出した里見義堯(よしたか)は
久留里城に本拠地を移し、安房と上総を統治した。
久留里城は、土屋氏三代目の頼直の改易により、廃藩になり、城は壊された。
寛保三年(1743)から、延享三年(1746)にかけて、再藩した黒田直純が城を再築した。
JR久留里線の久留里駅から、国道410号に出て、南東へ進むと、
「久留里城入口」 の案内板があるので、細い道に入る。
トンネルを抜けて、登っていくと、標高百二十八メートルにある、
久留里城址資料館に到着する。
久留里城址資料館は、久留里城の二の丸跡に建っている。
「 久留里城は、室町時代、上総武田氏の武田信長によって、
築かれた山城で、信長の子孫の真里谷氏が。上総の地を支配していた。
天文年間(1533〜1555)、里見義堯(よしたか)が、安房から上総に進出し、
本拠地を久留里城に移し、里見氏が安房と上総を統治した。
「 小田原北条氏の安房・上総・下総への進出が始まり、
天文二十二年(1553)から天文二十四年(1555)にかけ、北条氏の攻撃を受けている。
永禄三年(1560)には、久留里城は包囲され、落城の危機に瀬したが、
里見氏の要請を受け、上杉謙信が関東に進出したため、
北条氏は、軍を引き、里見氏は危機を脱した。
四年後の永禄七年(1564)、里見氏は、下総国府台の戦いに敗れ、
久留里城も、一時、北条氏の手に落ちた。
天正五年(1577)、里見義堯の子・義弘は、北条氏と和睦する。
里見義弘の死後、家督を継いた頼義は、安房の岡本城に本拠を移し、
久留里城には城番を置いた。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、里見頼義の子・義康は、
遅参した科で、久留里城を含む上総の所領を没収される。
徳川氏の関東移封により、徳川家康より、
大須賀忠政が、三万石を与えられ入城したが、
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの功により、駿河国横須賀城に六万石で転封し、
代りに、土屋忠直が二万石で入城した。
土屋氏三代目の頼直はうつ状態から、延宝七年(1679)に改易となり、
久留里藩は廃藩となり、翌年、廃城になった。
寛保二年(1742) 譜代大名の黒田直純が三万石で入城し、再び、久留里藩を立藩し、
幕府より五千両を拝領して、三年の歳月をかけて、城を再興した。
その間の六十年間は、幕府の直轄地(天領)であった。
九代目直養の時、明治維新を迎え、明治五年(1872)に廃城になった。 」
薬師曲輪からは、眼下に城主の居館があった三の丸跡などが見下せる。
今は田畑になっている。
資料館前に新井白石の銅像が建っている。
「 新井白石は、江戸時代の有名な学者で、政治家。
幼少より、青年期まで、二代目の藩主・土屋利直に仕えていた。 」
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坂を上って行くと、途中の草むらに、「男井戸、女井戸」 の説明板がある。
説明板「男井戸、女井戸 (おいど、めいど)」
「 この二つの 溜め井戸 は奈良時代の僧良弁によって掘られ、
金剛水とか、胎蔵水と呼ばれた。
里見義堯は、敵対する北条氏の攻撃を何度となく受けるが、
この井戸により、籠城して耐えた。
江戸時代、藩主の黒田直亨(なおゆき)の頃から、
藩士の婚礼の際、新郎新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いを交わしたと伝わる。 」
坂の上の本丸跡に、昭和五十四年(1979) 浜松城の天守をモデルにした、
RC構造の三層四階の模擬天守が建てられた。
模擬天守の左手の土壇に、「本丸・天守跡」 の説明板がある。
「 この土塁は、寛保三年(1743)から、延享三年(1746)にかけて、
黒田直純が城を再築した際、築いたと思われる天守の跡である。
礎石の配列から判断して、建物は二層二階だったと推定され、
近世初期の望楼風天守に類似していたように、思われる。 」
天神曲輪の説明板があり、ここでの曲輪の意味は他とは違うなあと思った。
説明板「天神曲輪」
「 曲輪とは、城郭を呼ぶ場合がありますが、
ここにおいては、城内の平らの一区画をいい、城の附属施設を作ったり、
戦いの時、兵士を配備したりした場所をいいます。 」
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久留里城へはJR久留里線久留里駅から徒歩で35分
圏央道木更津東ICから車で20分
訪問日 平成二十六年(2014)七月五日