館山城は、里見氏九代目の里見義康により、
天正十八年(1580)に築城された城である。
館山城の竣工は、天正十八年(1580)の夏で、
豊臣秀吉の小田原攻めの時は普請の最中であった。
里見義康が、本拠である安房刻の岡本城を出て、小田原に着いたときは、
小田原城が開城間近で、義康の遅参は秀吉の怒りに触れ、北条氏が滅亡した後、
上総の地は没収され、安房一国に減された。
そのため、上総の久留里城から安房の館山城に入った。
館山城は、館山湾に面した小高いところにあり、現在は城山公園になっている。
坂を上っていくと、「館山城址」 の木柱の先には、
広々とした風景が広がっていた。
館山城址は、空地になっていて、浅間神社や、「里見城跡」 の石碑・
「里見の千力猿」の碑が建っている。
桜の木の脇に、「里見桜の由来」という説明板が建っている。
説明板「里見桜の由来」
「 里見氏は、戦国時代の房総に君臨した一族です。
里見氏はもともと安房武士ではなく、上野国の出身です。
今の群馬県高崎市(旧榛名町)に里見という地名があります。
そこから、戦国時代初期に安房に現れたのが、房総里見氏の祖となる、
里見義実(さとみよしざね)です。
豊臣秀吉の時代に、館山城を拠点に、栄華を誇った里見氏でしたが、
江戸時代になり、外様大名を取りつぶす政策にのまれ、
慶長19年(1614)9月、安房国十代の里見忠義は、安房領地を没収され、
鹿島三万米の替え地として、倉吉(鳥取県倉吉市)に移され、八年後、
29才の若さで、亡くなりました。
忠義公と八人の家臣の墓は、倉吉市の大岳院にあり、滝沢馬琴の
「南総里見八犬伝」のモデルといわれています。
この桜は、里見氏の所縁で交流のある、倉吉市の有志が苗木を育て、また、
里見氏発祥の榛名町の有志と館山市の有志らにより、
植えられました。
その由来により、「里見桜」と名付けました。 」
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天守閣からは、館山市街地が一望できた。
下に降りて、見つけた、「館山城跡 解説 」 と書かれた石碑の中味は、
城の歴史をしっかり説明していて、よかった。
「館山城跡 解説 」
「 館山城は、里見氏九代当主義康が築いた名城である。
この地は、鏡ヶ浦に臨んだ標高七三・九米の独立した小丘であって、
要害の地であるので、既に、保元(1151〜1159)の昔、
沼ノ平太こと、平ノ判官貞政が居館した所。と伝えられている。
里見氏代々記によると、この頃、里見氏の居城であった岡山城(富浦町岡山)は、
位置に恵まれず、八代義頼の時から、館山築城を計画していた。
義康は、父の遺志を継いで、天正十六年、築城にかかり、
二年半を費やして竣工し、館山城と命名した。
房総里見誌に「 石塁峨々として築き上げ、堀は深満に等しく、矢倉高く、
蒼天を仰ぎ、郭を真倉といい、大手を根来下、搦手を藤井という。
並びに、上・中・下と、町割して、四天とも、日々、群集し、繁昌す。 」
とあるように、
城郭・堀・楼閣・武家屋敷・城下町など、計画造成され、
城そのものは、地積約四十三万平方米(約十三万坪) の壮麗、堅固な平山城であった。
かくして、館山城は、武門の誉れ高い房総里見氏の居城として、
鏡ヶ浦湾頭に、その威容を誇ること、二十七年、
十代忠義の時、外祖父 小田原城主・大久保忠隣(ただちか)
の罪科に関係ありとして、安房国を没収、(九月九日)
伯耆国倉吉に国替されると共に、惜しいかな、
城は破却され、十代百七十年の栄華の夢は空しく、
今はただ残塁、破壁を残すのみとなった。
時は、慶長十九年(1614)九月三十日のことである。 」
豊臣秀吉の小田原城攻めで、北條氏に加担した、北総を支配した千葉氏は滅亡。
里見氏は遅参したとの理由で、南総が召し上げられ、徳川家康に与えられた。
その為、里見氏は南総の大多喜城から安房に本拠を移すことになった。
関ヶ原の戦いで、徳川氏に付いた里見氏には南総を与えられ、南総と安房の二国の
領主になったが、
徳川家康は、外様である里見氏を危険視していたようである。
「 小田原藩主の娘を十代忠義が嫁にしたのが仇となり、大久保長安の不正を契機に、 小田原大久保家、そして、安房の里見家に罪科ありの嫌疑を懸けられ、 慶長十九年(1614)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなり、館山城も廃城となり、破却された。 」
なお、安房地区は、養老二年(718)までは、上総国の一部であった。
従って、安房国が存在したのは、養老二年(718)から明治四年までである。
江戸時代の初期、里見氏が改易されて以降、旗本領と天領になったが、
天明元年(1781)、館山藩主に、稲葉正明が任命され、館山に入ったが、
城を再建されることはなかった。
二代目の正武は、城の麓に、館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。
現在、城跡に建つ天守閣は、昭和五十七年(1982)、
福井県の丸岡城を模して建てられた、模擬天守である。
館内は、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)になっている。
城山公園の殉死者の供養塔は、室町時代の五輪塔であるが、
里見氏への思いは伝わる。
館山は、東京湾への入口で、第二次世界大戦では、
機関銃の陣地として要塞基地になり、館山市は米軍による爆撃の対象になったので、
館山城の遺構は、ほどんど残されていない。
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館山城(八犬伝博物館)へは、館山駅からバスで10分
訪問日 平成二十六年(2014)七月四日