臼井城は、京成臼井駅から直線にして、
北部に六百メートルの小高い山の上に築かれた城である。
城の配置図を見ると、廻りが崖で囲まれていて、左側から三の丸・二の丸・本丸と、配置されている。
星神社近くに、「臼井城跡」 の説明板がある。
説明板「臼井城跡」
「 永久二年(1114)、千葉氏の一族、臼井六郎常康が、臼井に居を構え、
臼井氏を名乗った。
臼井氏の中興の祖とされる臼井興胤(十四世紀中期)の代に、
この城の基礎が置かれたと伝えられる。
現在の遺構は、十五世紀以降のものと考えられるが、
城跡は本丸・二の丸を中心として、空掘・土塁等の旧態をよく残している。
」
説明板「星神社」
「 妙見は、北斗七星を神格化したもので、
千葉氏一族にとっては、その祖・平良文以来の守護神であり、
一族の家紋 「月星」・「日月」・「九曜」は、この妙見に由来する。 」
星神社の先には 「 太田図書助 」 の墓がある。
「 室町時代の中期、
千葉氏一族は、古河公方と管領上杉氏(足利幕府側)との抗争に巻き込まれ、
二派に分かれて、争った。
文明十年(1478)十二月、上杉方の太田道灌と千葉自胤(武蔵千葉氏)は、
長尾景春の乱に応じて、
上杉氏と対立していた古河公方方の千葉孝胤を討つため、下総国の国府台城に布陣し、
十二月十日に、千葉孝胤軍と、境根原(松戸市)の戦いで破る。
境根原合戦といわれるこの合戦で敗北した千葉孝胤勢は、一族の臼井持胤・俊胤が
守る臼井城へ逃げ帰った。
翌文明十一年(1479)正月、
道灌の弟・太田図書助資忠と千葉自胤の軍勢が、臼井城を包囲したが、
道灌は臼井城が容易に落城しないのを見て、千葉自胤に庁南城・真里谷城・
海上城などを攻めさせ、開城させた。
道灌軍は、七月五日、臼井城を再び攻撃するが、
城の防備があまり堅固なため、一旦引き揚げようとしたその時、
城兵がどっと討って出て、太田勢と激しい戦いになり、結果的には落城させたが、
太田図書助資忠外五十三名がこの戦いで討死した。
千葉自胤は、臼井城に城代を置いたが、まもなく、千葉孝胤により、奪還された。 」
太田図書助の墓の下にある説明板では、 太田図書助が討死したのは文明十一年(1479)正月としている(二説あるようである)
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星神社の手前の道を右に行くと、両脇は、谷のような空掘になり、
その先に 「臼井城跡」 の石碑が建っている。
また、「臼井城跡」 の説明板には、城の配置図が書かれていた。
「臼井城跡」 の石碑から上に上がると、空地が広がっているのが、二の丸跡である。
二の丸と本丸を結ぶ道に、土橋があったが、今は埋め戻されている。
説明板「臼井城跡」
「 空掘によって区切られた本丸の坂虎口と二の丸を結ぶ通路の役目を果たした。
土橋の巾を狭くすることで、一度に多数の敵が渡れなくなる。
更に、曲がった坂をつけて、敵の進む速度を低下させ、
北にある本丸の土塁上から、側面攻撃を受けやすくするように工夫している。 」
土橋跡を渡って、本丸虎口から、本丸跡に入る。
雑木林のようになっていたが、そこを抜けると、
眼下に印旛沼が眺められるところに出る。
下を見ると、北と東も崖になっていて、
敵が容易に登ってくることはできないようになっている。
「 永禄四年(1561)、臼井久胤は、
里見義堯の家臣・正木時茂に攻められて、久胤は結城城に落ちて、
再び、臼井城には戻らなかった。
その後、千葉一族の原氏が城主になったが、
天正十八年(1590)の小田原城の落城により、千葉氏とともに滅亡した。
徳川家康が関東に入部すると、酒井家次が三万石で封じられるが、
慶長九年(1604)に転封になり、廃城になった。 」
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所在地: 佐倉市臼井田
臼井城へは京成本線臼井駅から北へ二キロ強の距離。 徒歩45分
訪問日 平成二十六年(2014)五月十七日