国府台城は、
扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が、下総国国府台に陣取り、仮の陣城を構えたのがはじめとする説がある。
国府台城は、京成国府台駅の北方にある、里見公園周辺にあったとされる。
里見公園に着くと、「国府台城跡」 の標識を発見。
近くにあった 「 国府台城跡 」 の説明文は分りやすく、
城の歴史を伝えている。
「鎌倉草紙」 によれば、「 文明十年(1478)に、
扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が、下総国国府台に陣取り、仮の陣城を構えた。 」 とある。
これが国府台城のはじめとする説である。
道灌は、武蔵石浜にいた千葉自胤を助け、敵対する古河公方側の千葉孝胤と戦うために、ここに陣を取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
これより以前の康正二年(1456)、
千葉自胤は、兄の実胤とともに、市川城に立ち籠り、
足利成氏方に抵抗していたが、
簗田出羽守らにより、城を落され、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。
この市川城と太田道潅の仮の陣城との関係が注目されるが、
同じものなのかどうかは不明である。
以上が「国府台城跡」の説明文である。
(補足説明)
千葉自胤は、武蔵千葉氏第3代当主で、
室町幕府から、千葉氏当主と認められていた。
一方、千葉孝胤(たかたね)は、重臣団の後押しを受け、千葉氏の当主を自称したが、室町幕府は認めなかった、。
孝胤は、千葉輔胤の子で、酒々井町の本佐倉城を本拠としていた。
孝胤は、古河公方の足利成氏側に付き、勢力の拡大を図り、
古河公方から、千葉氏と認められた。
孝胤は、勢力の弱い古河公方が、室町幕府と講和すると、
千葉氏当主を自称できなくなるため、名目的には、成氏を主君としながら、
城を追われた成氏が古河城への帰城を阻止する方針を固めていた。
室町幕府と古河公方の話し合いが進み、講和を反対する勢力を一掃するため、
行われたのが、上記の境根原合戦である。
千葉孝胤は、長崎城が維持できなくなり、敗退し、
臼井城に籠城したが、文明十一年七月に落城し、
上総と下総の大半は千葉自胤軍の制圧を受けた。
上総と下総の大半を制圧した千葉自胤であるが、
下総には千葉孝胤を支持する将士が多く、
同地に代官を置いたのみで、長期支配を確立することができなかった。
文明十四年(1482)の室町幕府と古河公方の和睦、その四年後に、
太田道灌が暗殺されたため、後ろ盾を失い、下総の支配を失ったまま、千葉自胤は
明応三年(1493)頃、亡くなる。
以後、武蔵千葉氏の下総への進攻はなくなり、
千葉孝胤の下総千葉領の支配は固まった。
国府台は標高20〜25メートルの下総台地の西の端で、
江戸側に平行して、南に張り出した大きな舌状の丘陵であり、
現在の里見公園の中に、土塁状の城郭遺構が現存する。
また、公園の北に向って、城郭の遺構らしいものが確認できる。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城時期を想定するのは難しいが、
太田道灌の時代よりは後に属するとする推測もある。
この地は、その後、天文と永禄の二度にわたり、
小田原の戦国大名北条氏と安房国の里見氏らにより行われた合戦、
いわゆる国府台合戦の舞台になっている。
天文の合戦では、小弓公方の足利義明が戦死している。
公園には、この戦いで戦死した足利義明の 「戦死図」 があった。
「 天文七年(1538)の戦いは、北条氏綱と小弓公方足利義明・
里見義堯等が戦かった。
小弓(千葉市)に居を定めた小弓公方足利義明と、
北条家が担ぐ本家筋の古河公方の戦いである。
天文七年(1538)、足利義明・里見義堯らは、江戸川を渡って、
攻めてきた北条軍と戦い、
足利義明はこの地で戦死し、里見方は国府台城から退却した。
その後、里見方は、国府台城を奪い返した。 」
次の戦いは永禄七年(1564)の戦いである。
前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)
着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、
これに抵抗する、里見義堯・義弘らの戦いであった。
「 (
永禄七年(1564)、里見義弘は国府台城に籠城し、
下総進出を狙う北条方を迎えうった。
里見方は、緒戦で優勢に戦ったが、北条軍は里見方の油断を付き、
翌朝暁に、国府台城を攻めると、城内は大混乱になり、
義弘は安房に敗走し、国府台城は以後、北条氏の支配下に置かれた。
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、
里見方は盟友である正木氏などの一族などに、多くの戦死者を出し、
安房に敗走する。 」
国府台城は、この合戦のなかで、激突する両軍の争奪の場となり、
戦後、北条氏より、規模を拡大強化され、
初期のものから戦国期の城郭に進化した、という説がある。
天正十九年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐により、
関東に国替えになった徳川家康は、
国府台城は江戸俯瞰の地であることから、廃城にしたといわれる。
「 廃城後の江戸時代には、畑が広がっていたが、
明治に入り、東大が移転する計画が起き、農地を買収。
しかし、移転計画は中止になり、陸軍の用地になり、野砲連隊が置かれるなど、
市川は軍都になった。
里見公園のところには、陸軍の教導団病院(現在の国立国府台病院)が作られたが、
移転。
その後に、大正十三年、浅草の花やしきを模した「里見八景園」が出来た。
しかし、昭和の恐慌のときに倒産したといわれる。
昭和三十三年に、里見公園が作られ、現在に至る。 」
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里見公園には江戸時代に建てられたという「里見諸将群霊墓」「里見弘次公廟」「里見諸士群亡塚」と三つ並んだ墓碑が
残されている。 また、「夜泣き石」もある。
里見公園は遊園地などに使われたこともあり、
国府台城の遺構はほとんど残っていないが、
南西にある「羅漢の井」の上部あたりはその土塁である、と思った。
「 国府台城は利根川(現在の江戸川)により、「守る」のはよく、
「攻める」に難しい土地で、要塞としては適している。
しかし、敵対する勢力が跋扈する武蔵、上総、下総、相模の中心地に位置するので、
独立した城郭には向かなかったのだろう。 」
羅漢の井の案内板には、「 江戸名所図会 羅漢の井 」 の絵に、
井戸から総寧寺方面の風景が描かれている。
今は里見公園になり、直通では行けないが、
里見公園の北部に安国山総寧寺という寺院があり、入口に説明板が立っている。
「 総寧寺はもと近江国観音寺の城主・佐々木氏頼により、
永徳三年(1383)、通幻禅師を開山として、
近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に創建された曹洞宗の寺院であった。
ところが、天正三年(1575)に至り、小田原城主・北条氏政が寺領二十石を与えて、
下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。
関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文三年(1663)、徳川四代将軍家綱に願って、国府台に移った。
その折、幕府は寺領として百二十八石五斗余、山林六万五千坪を与えている。
寺は古くから一宗の僧録に任じられていたが、
徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、
寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、曹洞宗の大僧録に任じた。
歴代住職は十万石大名の格式を以って遇され、江戸小石川には邸が与えられた。
寺の格式の高さは今日残る下馬石によっても分る。 」
少し入った参道の右側に 「曹洞宗里見城跡総寧寺」という石柱が建っていた。
本堂の左方に二基の五輪塔があったが、
これは関宿からの移転の際に移された関宿藩主・小笠原政信夫妻の供養塔である。
里見公園も明治時代に国買収されるまでは総寧寺のものだったようで、
里見公園は昭和三十三年に造られたという。
国府台城は太田道灌や北条氏と里見氏、古河公方と小弓公方の戦いという歴史的な故事が残る城であるが、城の遺跡としては物足りなかった。
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所在地:千葉県市川市国府台3−9
国府台城跡(里見公園)へは京成国府台駅から、徒歩で15分
JR市川駅から、バスで10分「国府台病院」から、徒歩で3分
訪問日 平成二十六年(2014)五月九日