名所訪問

「 千葉氏の居城 猪鼻城(いのはなじょう) 」


かうんたぁ。


猪鼻城は千葉常重が大治元年(1126)に築城した城で、千葉城と称されていた。 
大治元年(1126)から文明年間(1469-1486)に本佐倉城へ本拠を移されるまで、 千葉氏の居城になっていたが、史料が残されていないため、 城の内容は分からないようである。
城跡には史実に合わない、天守閣の郷土資料館が建てられている。


JR千葉駅から、千葉都市モノレールに乗り、 県庁前駅で降り、県庁前を通り過ぎ、その先の三叉路を右折する。 
その先の交叉点を直進すると、左側にあるのが、馬加康胤の開基と伝えられる、 智光院である。 
その先の石段を上っていくと、「千葉開府890 1126〜2016」の幟がある。

千葉氏誕生の歴史
「 千葉氏は、桓武天皇の曾孫・高望王を祖とする。 
平安時代の初期、高望王は、千葉県の中央部を治める役人・上総介に任命される。
任期が終えても、都に戻らず、土着し、次々に私有地を広げていった。 
子の国香・良兼・良将・良正・良文たちは、関東を中心に、各地を支。 
平清盛は国香の子孫、平将門は良将の子である。 
良文の孫・平忠常(ただつね)は、上総国府や安房国府を攻撃し、 朝廷の命令に背いて乱を起こす。 
「平忠常の乱」 と呼ばれるものだが、源頼信に降伏し、乱は終わる。 
忠常の子孫は許され、房総半島各地に土着し、領地を拡大していく。 
一族は両総平氏と呼ばれたが、前九年合戦や、後三年合戦で、源氏に加わり、 源氏との結びつきを強くしていく。 
平忠常の曾孫・常兼(つねかね)は、上総国大椎を本拠地として、 下総国一帯に勢力をふるい、大椎氏を名乗り、 その後、先祖代々の土地を院に寄進し、千葉庄を成立させ、 千葉介と称するようになる。 
その子の常重(つねしげ)が家督を継ぐと、大治元年(1126)に、 を千葉の猪鼻に拠点移し、新たな武士団をつくった。 
その子・常胤(つねたね)は、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、 房総半島に逃れたとき、彼を助け、下総国府の平家を討ち、 鎌倉幕府の成立後、有力な御家人になった。 
常胤には六人の子があり、総領の胤正(ためまさ)は千葉氏、 弟の師常は相馬氏、胤信は大須賀氏、 胤通は国分氏、胤頼は東氏、日胤(にちいん)を含めて千葉六党と呼ばれ、 下総・上総、・陸に領土を拡大させていった。 
千葉氏は、胤正の子の時代に、上総千葉氏と下総千葉氏に分れる。
上総千葉氏は次の代で終わり、下総千葉氏が続き、千葉宗家となる。 」

千葉市の「千葉開府870年」 は、千葉介常重(つねしげ)が、 拠点を千葉城に移した年を起点とする。 
その先には、千葉市立郷土博物館が建っている。 
千葉市立郷土博物館は、三階建ての天守閣の形をしている。

「 猪鼻城は、今から八百九十年前の大治元年(1126)、 千葉常重が上総大椎城(千葉市緑区大椎町)から、千葉の猪鼻に拠点を移し、 築城した。
この場所は、千葉常重が猪鼻城を築城したところと伝承されるところである。 」

天守閣の前にある銅像は、千葉介常胤である。 

智光院
     模擬天守閣      千葉介常胤
馬加康胤の開基・智光院
郷土博物館(模擬天守閣)
千葉介常胤像

猪鼻城は、延宝二年(1674) の 水戸光圀による、甲寅紀行の中に、
 「 千葉の町を出づるところの左の方に古城あり。 伊野花という云ふ 」 
とあり、この頃は 「いのはな」 の名称で呼ばれていたことが分かる。 

城の範囲は、元禄二年(1689)の 「涌谷伊達氏文書」 に 
「 千葉城跡 高さ二十間程、長さ拾丁程、本丸、二の丸あり  西の端に伊勢の宮あり 」 
と記述されているとのことから、 台地先端部の神明社・亥鼻公園から、千葉大学医学部の敷地までの猪鼻台地上だったと考えられている。 
郷土博物館(天守閣)があるところが二の丸の跡である。
神明社があるところには、物見台だったようである。 
神明社の一角に、 「史跡猪鼻城跡」 の石碑が建っている。
ここでは、城跡を示す土塁や空掘等は見られなかった。 
猪鼻城の仕様などは、記録に残っていないようで 、神明社から下に降りる崖に、その面影をしのぶだけである。 
当日、天守閣で会った六十五歳〜七十歳の二人ずれの男性の話では、 彼らの小学校時代には護国神社だったという。 
調べたところ、千葉護国神社は昭和十二年に創建され、千葉空襲で焼けたが、 再建され、昭和四十二年に他に移転していた。 
当然のことだが、当時、天守閣などあるはずはない。 

猪鼻城の歴史
千葉常重が大治元年(1126)、猪鼻城に拠点を移し、千葉宗家となった。
室町時代に入り、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏との間で内紛が生じる。
、 千葉一族も、その争いに巻きこまれて、両派に分れて争った。 
康正元年(1455)、上杉派の千葉胤直・胤宣親子は、 公方派の叔父の馬加康胤や、重臣の原胤房に、居城の千葉城(猪鼻城)を急襲された。
千葉胤直・胤宣親子は、千葉城を捨てて、千田庄(香取郡多胡町)に逃れたが、 叔父の馬加康胤(まぐりやすたね)は、千葉胤直一族を追い、これを滅ぼし、 十三代、三百三十年間続いた千葉宗家は滅亡した。 
その後、千葉介を継いだ馬加康胤の子孫が、本拠を本佐倉城に移したため、 千葉城下は荒廃した。 
水戸光圀が記した甲寅紀行は、その様子は分からないが、当時の城は土作りであったので、 との程度残っていたか、気になるところである。」

近くにある東禅寺は、千葉貞胤が嘉暦二年(1327)に建立したと伝えられる寺院である。 
猪鼻城のある猪鼻台から、東に続く台地には、尾根中央部を通る道がある。 

「 江戸時代頃から土気往還、東金街道と呼ばれ、 千葉の町(登戸付近)からお茶の水・病院坂・千葉大学医学部前を通って、 青葉の森公園に至っていた。 
その先、土気地区を経て、大網・四天木方面に繋がる土気往還、 大宮から野呂、中野を通って東金街道・二本の幹線として、千葉と外房を結ぶ性格を持っていた。 

「 江戸幕府は、千葉市域は江戸に近いため、大大名は置かず、 小大名領と旗本領、天領に、細かく分割支配していた。 
市内に唯一陣屋を持ったのは、生実藩の森川氏で、明治まで続いた。 」

江戸時代、佐倉藩や、成田山や、木更津等の町は大きかったが、 登戸は、房総の米や魚を江戸に運ぶ海運で、栄えていたが、所詮、小さな町だった。 
明治になり、印旛県と木更津県が合併して、新たな県が誕生した際、 県庁を何処にするか?が課題になる。
印旛県は、佐倉に適当な土地がなかったことと、 東京に近い市川などに、県庁を置きたかったようであるが、 これも土地がなかったので断念。 
最終的には、印旛県と木更津県の境となる千葉城のあった、 現在の本千葉に決まったといわれる。
しかし、千葉を県名に採用した理由は分らなかった。 

神明社
     史跡猪鼻城址碑      千葉大学医学部
神明社
史跡猪鼻城址碑
千葉大学医学部

猪鼻城へは、千葉駅前バスターミナルから、京成バス千葉大学病院行き、または、 南矢作行きで、「郷土博物館・千葉県文化会館」で下車

訪問日     平成二十八年(2016)三月二十九日



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