鹿島神宮の祭神は武甕槌大神である。
神代の昔、天照大御神の命を受けて、 香取神宮の御祭神である経津主大神と共に、
出雲の国に天降り、 大国主命と話し合って、国譲りの交渉を成就し、
日本の建国に貢献した神である。
神武天皇が東征の途中、思わぬ窮地に陥ったが、 武甕槌大神のご霊剣の神威により、
救われた。
この神恩に感謝された天皇は、即位の皇紀元年に、大神をこの地に勅祭された、
と伝えられている古社である。
鹿島神宮は、香取神宮と息栖神社共に東国三社と呼ばれ、
関東以北の人が伊勢参宮の後、禊の下三宮巡りを参拝したと伝わり、
また、江戸時代の利根川の改修で船便が発達し、江戸の人の鹿島詣でが流行した。
松尾芭蕉も鹿島詣でに出かけている。
江戸時代、松尾芭蕉は舟で行徳に行き、そこから木下街道(きおろし街道)で、 八幡、釜ヶ谷、白井、木下まで歩き、木下から舟で利根川を下り、 神崎、香取、息栖(いきす)を経て、鹿島に至り、鹿島神宮を御参りしている。
江戸時代の名所図会には
「 香取神宮より津の宮の船場に行きて又船に乗じて、
風に吹かれて漕ぎ行くほどに、はるか向うの波間にちひさき鳥居見えたり。
これなん、息栖の社と云う。
息栖より鹿島まで、舟路三里である。
息栖より、又、船を浮かべて、鹿島にこころざす。
川の幅次第に広くしてなお行くに、白浪天に浮かぶ。
この入海は、箕浦江といい、銚子口ともいい、大洋の海口なり。 」
とあり、香取神宮を御詣後、舟で、息栖神社と、鹿島神宮を御参りした。
「
茨城県神栖市息栖に鎮座する息栖神社は、香取神宮、鹿島神宮とともに、
東国三社と呼ばれた。
関東以北の人が、伊勢参宮の後、禊の下三宮巡りを参拝したと伝わり、
江戸時代の利根川の改修で、船便が発達し、
江戸の人の東国三社詣でが流行した。 」
鹿島神宮が鎮座する地は、三笠山(みかさやま)、
境内は、日本の歴史上重要な遺跡として、国の史跡に指定されている。
境内入口にある大鳥居は、四本の杉を用い、
高さが約十メートル、幅が約十五メートルである。
「
元々は、笠間市産の御影石を用いた石鳥居だったが、
平成二十三年の東日本大震災で倒壊し、
神宮境内の杉の巨木を伐り出して、再建されたものである。
大鳥居は、二本の円柱の上に、丸太状の笠木を載せ、
貫のみを角形として、柱の外に突き出させる等の特徴があり、
この形式は、「鹿島鳥居」 と称されている。 」
境内の参道には、西面して楼門がある。
「 この楼門は、日本三大楼門の一つで、
寛永十一年(1634)、水戸藩初代藩主・徳川頼房の命による造営である。
三間一戸・入母屋造の二階建て、屋根は、元は檜皮葺(現在は銅板葺)である。
総朱漆塗りであるが、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという、控え目な意匠。
扁額の鹿島鳥居の文字は東郷平八郎の書である。
楼門左右の回廊は楼門と同時の作であるが、のちに札所が増設されている。
楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財である。 」
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鹿島神宮鳥居 | 楼門 |
楼門をでると、参道は真っ直ぐ東へと、伸びる。
「 鹿島神宮の祭神は武甕槌大神である。
神代の昔、天照大御神の命を受けて、
香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、
大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に貢献した神である。
神武天皇が、東征の途中、思わぬ窮地に陥ったが、
武甕槌大神のご霊剣の神威により、救われた。
この神恩に感謝された天皇は、即位の皇紀元年に、大神をこの地に勅祭された、、
と伝えられている古社である。
古代の香取神宮と鹿島神宮は、「蝦夷の入口」 という地形的に重要な地に鎮座し、
古代の関東東部は、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む、一帯に、
「香取海」 という内海が広がっていいた。
この香取海は、ヤマト政権による。蝦夷進出の輸送基地として機能した、
と見られている。
両神宮の分霊は、朝廷の威を示す神として、東北沿岸部の各地で、祀られた。 」
鳥居の先に、社殿(拝殿・幣殿・石の間・本殿)が、
右に伸びた形式で建てられている。
社殿が、北面しているのは、北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる。
「
社殿は、拝殿の後方に幣殿、本殿と幣殿の間を石の間と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。
いずれも、江戸時代初期の元和五年(1619)、
江戸幕府第二代・徳川秀忠の命による造営で、幕府棟梁の鈴木長次の手による。
拝殿は、桁行五間・梁間三間・一重・入母屋造・向拝一間・檜皮葺。
幣殿は、桁行二間・梁間一間・一重・切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する。
幣殿と拝殿は、本殿や石の間と異なり、漆や極彩色がなく、
白木のままの簡素な意匠である。
石の間は、桁行二間・梁間一間・一重・切妻造・檜皮葺で、前面は幣殿に接続する。
本殿同様、漆塗りで、極彩色が施されている。
本殿は、三間社流造・向拝一間・檜皮葺で、前面は石の間に接続する。
漆塗りで、柱頭や組物等に極彩色が施されている。
本殿は北面だが、内部の神座は、本殿内陣の南西隅にあって、
参拝者とは相対せず、東を向いている。
これらの建物は、国の重要文化財に指定されている。 」
本殿の背後の杉のご神木は、樹高四十三メートル、根回り十二メートルで、
樹齢約千年といわれる。
その後方の玉垣を介した位置に、
直径八十センチメートルの 鏡石(かがみいし) があるが、
「神宮創祀の地」 とも伝えられている。
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鳥居の先は拝殿 | (左奥に向って)幣殿、石の間、本殿 |
参道の左に少し入った、右側にあるのは、 国の重要文化財である仮殿(かりどの)である。
「
仮殿は、元和五年(1619)に、現在の本殿が造営される際、
一時的に神霊を安置するために使用された社殿で、
権殿 とも記され、本殿同様、幕府棟梁の鈴木長次の手によって建てられたものである。
桁行三間・梁間二間・一重・入母屋造・向拝一間・檜皮葺で、
仮殿であるため、比較的簡素な作りであるが、
一部には漆彩色が施されている。
なお、造営当初は拝殿の左前方にあって、西面していたというが、
その後、何回も移転し、昭和二十六年(195)に、
拝殿の右前方に、南面した現在の位置になった。 」
社殿を過ぎると、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、
鬱蒼とした樹林の中を歩くことになる。
境内の広さは、約七十ヘクタールで、
そのうち、約四十ヘクタールは、鬱蒼とした樹叢というから、うなずける。
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仮殿 | 鬱蒼とした樹林 |
参道から左に入ったところに、「神鹿苑」がある。
「
古くから、鹿は鹿島神宮の御祭神・武甕槌大神の使いである、と言われてきた。
これは、国譲りの神話で、天照大御神の御命令を伝えに来たのが、
鹿の神霊であるとされる、天迦久神(あめのかくのかみ)であったことによる。
奈良に春日大社が創建された際、鹿島神宮の御分霊を神鹿の背で運ばれたことから、
奈良の神鹿の起源は、鹿島神宮と伝えられる。
なお、神鹿苑の鹿は、昭和三十二年に、奈良と神田神社から迎えられたものという。 」
河合曽良は、鹿島神宮を詣でた時、
「 ひざ折るや かしこまり鳴 く 鹿の声 」
と詠んでいる。
その先に、「親鸞上人旧蹟跡」 の立て札がある。
「 かって、鹿苑を中心とした一角の土堤内には、
鹿島山金蓮院神宮寺、降魔山護国院があったが、 廃仏毀釈で姿を消している。
鹿島には、貴重な書籍や経典などがあったようで、
親鸞上人がしばしば訪れた、と伝えられている。 」
更に奥に進むと、右側に、奥宮(おくのみや)がある。
「
奥宮は、本宮本殿同様、北面して鎮座する境内摂社で、祭神は武甕槌大神荒魂である。
「吾妻鏡」に、仁治二年(1241)の火災で、
「 不開御殿奥御殿等は焼かず 」という記録があり、
不開御殿(あかずのごてん)は本殿、 奥御殿は奥宮を指すとして、
鎌倉時代には、すでに奥宮が存在した、と見られている。
現在の社殿は、江戸時代初期の慶長十年(1605)に、徳川家康により、
関ヶ原戦勝時の御礼として、建てられた本殿を
元和五年(1619) 徳川秀忠により、社殿が造替された際、
現在地に移され、奥宮本殿となった。
三間社流造で、一間の向拝を付するが、
のちの修理の際に、現本殿に倣って、改造が施されたようである。
総白木作りの簡素な意匠だが、彫刻には桃山時代の大胆な気風も見える。
境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されている。 」
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神鹿苑 | 奥宮(おくのみや) |
近くに、BS時代劇 「塚原ト伝」 撮影ロケ地の看板があった。
「
塚原ト伝(つかはらぼくでん)は、鹿島神宮の神官・卜部吉川座主の二男朝孝として、
常陸国鹿島に生まれ、五〜六歳の頃、塚原安幹の養子となり、
実父の吉川覚賢からは、鹿島古流(鹿島中古流とも)を、
義父の安幹からは、天真正伝香取神道流を学び、
鹿島新当流を開いたという人物である。
永正二年(1505)に元服して、新右衛門高幹と名を改め、第一回廻国修行に出発し、
翌年、京都清水で、初の真剣勝負し、
各地を転々とし、永正十五年(1518)頃、帰国したが、この頃から、卜伝と号した。
大永三年(1523)から第二回廻国修行にでていたが、天文元年(1532)に帰国し、
翌天文二年(1533)に塚原城主となり、四十五歳で妻を娶る。
なお、塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家で、土佐守、または土佐入道とも称し。
卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)に由来とする。
弘治三年(1557)、城主を養子幹重に譲り、第三回廻国修行に出発し、
永禄四年(1561)には伊勢多芸御殿で、北畠具教に指導、
秘伝一之太刀(ひとつのたち)を授ける。
永禄七年(1564) 伊勢より信州・甲斐を訪れ、
永禄九年(1566) 上野・下野・江戸崎を経て、帰国。
元亀二年(1571) 亨年八十三歳で死去。
その戦績は、「 十七歳にして、洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、
五畿七道に遊ぶ。
真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、
木刀等の打合、惣じて、数百度に及ぶといへども、
切疵、突疵を一ヶ所も被らず。
矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具にあたることなし。
凡そ、仕合、軍場共に立会ふ所に、敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り 」 と伝えられ、後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。 」
その先に、「大大神楽講中」 の道標があり、その前の案内板には、 左は御手洗池、右は「要石」とある。
「 要石は、地震を起こすとされる鯰を石で押さえている、とされるもので、 御手洗池は、かっては、神宮を御参りする人々が身を清めたところである。 」
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塚原ト伝ロケ地の看板 | 大大神楽講中の道標 |
訪問日 令和元年(2019)一月二十九日