佐原は、北総の小京都といわれる。
江戸時代の家並や、香取神宮などの名所がある。
江戸時代も中期以降になると、庶民も豊かになり、遠くへ出かけるようになった。
大山詣でや秩父巡礼などと共に人気であったのが、鹿島、香取神宮と成田をセットにした旅行である。
その時に利用されたのが舟運である。
江戸から舟で行徳まできて、木下街道を歩き、木下に出て、
利根川を下り、佐倉から香取神宮や鹿島神宮にお参りが出来た。
佐原の江戸情緒を残す観光名所は佐原町内の狭い面積の中にあった。
街並み案内図があったが、小野川川を挟んだ、長さ200m程の区域であった。
「 佐原は、古くから、香取神宮の門前町であった。
江戸時代に利根川の改修工事が終ると、水運を中心とした、商業の地として繁栄する。
当地出身の伊能忠敬が、日本全土を測量し、大日本全図を完成させたのもその時期である。
小野川沿いには、当時の面影を残す建物が軒を重ねている。
関東で、最初に、重要伝統的建造物保存地区に指定されました。 」
伊能記念館がある。
伊能忠敬記念館では、忠敬が地図作成を始めるきっかけやその生涯を知ることができる。
![]() |
![]() |
|
街並案内図 | 伊能忠敬記念館 |
伊能忠敬記念館と小野川をはさんで建つ伊能忠敬旧宅との間には 樋橋(とよはし)、通称ジャージャー橋が架かっている。
「 もとは灌漑用水を渡すための樋の橋だった。
樋からあふれた水が川にジャージャー落ちたことから、その名が付いた。
樋橋から流れ落ちる水の音は「残したい”日本の音風景100選”」に選定されている。 」
伊能忠敬旧宅内には灌漑用水跡があるが、ここを流れて樋橋を渡っていた。
「
伊能忠敬旧宅は、
伊能忠敬(1745〜1818)が十七歳から五十歳まで三十年余りを過ごした家で、
醸造業などを営んでいた伊能家の土蔵造りの店舗のほか、
炊事場、書院、土蔵が残っていて、国の史跡に指定されている。
伊能家は佐原の有力な商家の一つで、酒造業や米穀売買業などを営んでいたが、
宝暦十二年(1762)に忠敬は伊能家に婿養子に入り、
寛政七年(1795)に江戸に出るまでこの家に住んでいた。
伊能忠敬旧宅は、平屋造の瓦葺で、母屋は玄関、書斎、納戸などの五部屋、
建坪は二十四坪で、店舖は店および居間などがあって建坪三十二坪である。
店舗と正門は忠敬が来る前に建てられ、書院は忠敬が設計したと伝えられる。 」
![]() |
![]() |
|
樋橋 | 伊能忠敬旧宅 |
旧宅の南側の奥にある土蔵は、
観音開きの戸が広まる以前の引き戸形式の戸を持つ古い様式を残していて、
かつては忠敬の遺品の多くが納められていたという。
小野川に面した旧宅の正面には、「だし」 と呼ばれる荷揚げ場があり、
今は観光船の乗り場になっている。
利根川図志(1855)には
「 佐原は下利根附第一繁昌地なり。
村の中程に川有りて、新宿と本宿の間に橋を架す。
米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、
両岸の狭さをうらみ、蔵に水陸往復の群衆、昼夜止む暇ない。 」
と、佐原の賑わいを伝えている。
![]() |
![]() |
|
土蔵 | 荷揚げ場跡 |
江戸時代の佐原は、小江戸と呼ばれ、忠敬橋の東は本宿、西は新宿だった。
この周辺の町並には、県有形文化財のそば屋を営む小堀屋本店や、
正文堂書店を始め、土蔵造りの古い商家があり、
国の重要建造物保存地区になっている。
江戸時代の特徴を残す結果、どの道も道幅が狭く、一方通行になっているので、
車を使用しないで、駐車場に車を停めて、歩く方が良い。
小野川の共栄橋を過ぎると川の向うにある建物はいかだ焼と焼き蛤を扱う正上である。
「
天保三年(1832)の建築で、寛政十二年(1800)から醤油製造、
戦後は佃煮の製造、販売を主となった。
明治初年に建築された袖蔵を含め、建物のほどんどが建築当時のままという。 」
![]() |
![]() |
|
忠敬橋の西側(右奥正文堂、小堀屋本店) | 佃煮の製造、販売の正上 |
訪問日 令和元年(2019)一月二十九日