名所訪問

「 東国三社の一つ 香取神宮 」


かうんたぁ。


香取神宮は、初代神武天皇十八年の創建と伝える、全国でも有数の古社で、 下総国の一の宮であった。
関東地方を中心に、全国にある、香取神社の総本社である。
香取神宮・息栖神社・鹿島神宮の三社は、東国三社と呼ばれた。
関東以北の人が伊勢参宮の後、禊の下、三宮巡りしたと伝わり、 江戸時代に入ると、利根川の改変により、船便が発達した結果、 江戸の人の東国三社詣でが流行した。 
芭蕉も詣でている。 


香取市の 忠敬橋の道を東に向って進むと、左に八坂神社と山車会館があり、  更に進むと香取神宮の門前町で駐車場がある。 

「香取神宮の社伝」
「 香取神宮は、千葉県北東部の利根川下流右岸の丘陵・亀甲山(かめがせやま)に、鎮座する。
初代神武天皇十八年の創建と伝える、全国でも有数の古社で、 下総国の一の宮である。 
日本神話の大国主の国譲りの際に活躍する、 経津主神(ふつぬし)を祭神とする神社である。 
神護景雲二年(768)、藤原氏の氏社として、奈良に春日大社が創建されたが、 その際、祭神の経津主神が春日大社へ勧請され、第二殿に祀られた。 
延長五年(927)編纂の延喜式神名帳には、 下総国香取郡に 「 香取神宮 名神大 月次新嘗 」と記載され、式内社(名神大社)に列している。 
中世以降も、武神として神威は維持され、 源頼朝・足利尊氏の寄進に見られるように、武将からも信仰された。 

その先に二の鳥居がある。

香取門前町
 二の鳥居
香取門前町二の鳥居

江戸時代の名所図会には、
「 香取大神宮は、大禰宜を香取上総介、少判官を緒方弾正と云う。 
社地広くして常に詣人多く、門前の商人、茶屋軒をならべ、また旅宿も多し。 
夏秋の頃は芝居相撲ありて、この所賑ひとなれり。 
まづは当国の大社のして、これにつづく宮居もなし。 」 
とある。
関東に入った徳川家康は、天正十九年(1591)に千石を朱印地として与え、 江戸幕府を開いた後の慶長十二年(1607)に大造営を行っている。 
楼門は、元禄十三年(1700)、五代将軍・徳川綱吉の命により、造営されたものである。

「 三間一戸の入母屋造で、屋根は、とちぶき(現在は銅板葺)の 純和様の様式で、壁や柱は丹塗で、楼上の額は、東郷平八郎の筆である。 
また、楼門内の随身像は、正面向かって右像は、武内宿禰、 左像は、藤原鎌足と伝えられている。 」

拝殿は、昭和十一年(1936)から昭和十五年(1940)の大修築に際して、 造営されたもので、木造平屋建てで、檜皮葺である。 

「  拝殿正面の上に、千鳥破風に唐破風を重ねた屋根をのせ、 これまでの拝殿(旧拝殿)は丹塗だったが、 この造営において、足元から頭貫下端までの軸部には黒漆塗、 組物と蟇股には極彩色が施され、本殿に釣り合った体裁に改められた。 」

楼門
     拝殿
楼門拝殿

拝殿の奥には幣殿と本殿があり、それらが連なった権現造である。 

「  本殿は、元禄十三年(1700)に、五代将軍・徳川綱吉の命により造営された、 三間社流造、 檜皮葺の建物で、桃山様式が各部に見られるが、 慶長期の手法も取り入れられている社殿としては、最大級の建物である。 
壁や柱は黒漆塗で、黒を基調とした特徴的な外観で、屋根は現在檜皮葺であるが、 かつては柿葺であったとされる。 」

拝殿の右手奥にある祈祷殿は、元禄十三年(1700)の造営された旧拝殿である。

「  昭和十一年(1936)から昭和十五年(1940)の大修築の際、南東に移築され、 昭和五十九年(1984)に現在地移された。 
間口五間、奥行三間、入母屋造の建物で、壁や柱は丹塗で、 屋根は当初は栩葺(とちぶき)だったが、昭和四十年(1965)に銅板葺に改められた。
拝殿としては比較的大規模なもので、彫刻等の随所に造営時の様式が残っている。 」

昭和の大修築では、拝殿の左手にある神饌所も造営された。 
上記のうち、本殿と楼門は国の重要文化財に、祈祷殿は千葉県指定文化財に指定、 現拝殿は国の登録有形文化財に登録されている。 

本殿と幣殿
     祈祷殿
本殿と幣殿祈祷殿

訪問日     令和元年(2019)一月二十九日



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