千葉市若葉区金親の大宮神社前にある市教育委員会の説明板
御成街道(東金御成街道)
「 御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37q)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、慶長十八年(1613)、
徳川家康が東金への鷹狩りを第一目的に、佐倉藩主・土井利勝に命じて
造らせたものである。
家康の命令を受けた利勝は、沿線96ヶ村の名主を召集して、
村ごとに工事区間を分担させて、昼夜兼行で造ったので、別名、一夜街道とか提灯街道と呼ばれている。 」
◎ JR四街道駅から金親宿
前回終了した六方五差路に行き、御成街道のある鎌池交差点を目指す。
西松屋、その先にケイヨーD2の先にある交叉点を左折し、
その先を右折すると、自衛隊砲兵学校の正面に出る。
ここを左折すると佐倉街道に出るので、
右折して少し行くと、右手に自治会の建物があり、その前には出羽三山供養塔や、秩父三十四番供養塔などが祀られていた。
鎌池(かまち)交差点はその先にある。
「 御成街道は、前回、長沼原町交差点で途切れてしまったが、 江戸時代には住友重機などの企業地と自衛隊志津駐屯地を横断して真直ぐ、 ここまで続いていた。 」
鎌池交差点を東に向うと、
千葉市若葉区が建てた「御成街道 若葉区若松町」 という道標が建っている。
この道標はかなり大きなもので、この先、千葉市境まで、しばしば見ることができる。
東にむかって真っ直ぐに続く御成街道を四百メートル進むと、 総武本線の踏切がある。
「 江戸時代には、踏切を渡った右手に焼塚一里塚があったといわれる。
街道を造成した時、直線を見通すため、塚上から狼煙を上げたり、白旗を掲げて、
直線測量を補助したといわれる。 」
踏切の先の右側に樹木が茂る小高いところがあったが、 案内がないので、焼塚なのかどうかは確認はできなかった。
「 御成街道は、この先の金親宿までは、
ゆるやかな起伏を繰り返しながら、下総台地をとおりぬけていく。
かっては雑木林が茂っていたと思われる原野も、
南方に高架鉄道のタウンライナーが出来たことにより、分譲住宅地が開発され、
街道沿いは年毎に住宅地が広がっていく。 」
左側にある若松小学校の手前に、「御菓子司 麻布 菊園」 という和菓子屋があり、 店前の駐車場からは車が出入りしていて、かなりの繁昌ぶりである。 小生は菊最中をお土産として購入した。
いただいた 「菊園銘菓の栞」 によると
「 先代菊園店主は、金沢の出身で、
大正・昭和を通じて、宮中において和菓子を作っていたという。
宮中の御儀式及び両陛下宮様方御日常のお菓子をはじめ、
宮中の秘果銘菓を謹製してきたが、昭和三十年、職を辞する際、
時の侍従長・入江相政より、菊園の屋号をいただいた。 」
とある。
宮中伝統の菓子としては菊最中の他、菊焼残月や皇居のかほり、練り羊羹があり、
菊園独自のお菓子としては特産のピーナッツを使った千葉銘菓「房州御成街道」を販売している。
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鎌池交差点 | 御成街道の標識 | 麻布 菊園 |
その先で県道51号と交差する。
八百メートル行くと左側に植草学園大学がある。
ここまで歩いてきた街道の左右には大学、高校から小・中学校にいたるまで学校があった。
四百メートルと行くと四街道徳州会病院があり、この数百メートルだけは四街道市の領域である。
その先の御成台1丁目の交叉点には「御成街道 若葉区千城台東 」の標識があるが、
道はこの先狭まり、車がすれちがうのがやっという狭い道になる。
「 御成街道へのアクセスはこの南方にタウンライナーの千城台駅があり、 そこから八街市の沖十文字まではおまごバスという地域バスが一時間に一本くらいでているが、 そこを過ぎた八街市から東金市までの区間は地域バスが一日三本と陸の孤島化する。 」
道は急激に下り、また、上るのだが、向ってくる車がスピードを緩めないので怖い。
道の両側に林が広がっているが、右側の小高いところに「御成公園」という標示がある。
林そのものが公園のようで、広場は少なく、
「御成公園」というからすごい公園という期待に反した。
右側の池を越え上っていくと小高く盛り上がった林がある。
御成公園の東北隅に位置する場所で、「千葉市の散歩道 御成街道コース」の標識があり、コースの地図を見るとどうやらここが提灯塚一里塚である。
「
ちょうちん塚は街道を造成した時、塚の上に昼間は白旗を立て、
夜は提灯を掲げて直線工事の見通しを図ったことにより、名付けられた。 」
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植草学園大学 | 御成台1丁目交叉点 | ちょうちん塚 |
◎ 金親宿
少し行くと工事中の立派な道が現れてきた。
その道をおかしいなあ?と思いながら歩いて行き、畑で作業中の人に聞くと、
御成街道は手前の左側に入る狭い道という。
よく見ると、バイパス工事により、御成街道の一部が曲げられて、
バイパスと繋がっている。
御成街道は、前より狭い道になり、車がすれ違うのに一時止まらないと、
いけない場所もあるが、車は当たり前のように進入してくるので、身の危険を感じる。
道脇に「御成街道 若葉区金親町 」の標識が建っている。
道の両側に、松や椎の古木が茂っていて、古い街道の雰囲気が残っている。
少し行くと右側に田野造園の看板と、奥に大きな大きな建物がある。
「
江戸時代には、田野造園の向かいの田野家の前に、高札場があったようである。
今は垣根に囲まれた庭しかないが・・・
このあたりは、江戸時代、金親宿があった場所である。
宿場として小さいので、次の中田宿と継ぎ立て業務を分担し、
相宿の役割を果たしていたといわれる。 」
その先に、漆喰が一部剥がれた土壁の長屋門が、二軒ならんでいる。
共に、石井家で、旧金親村の名主を勤めた家柄である。
このあたりは、街道の風情を色濃く残している。
道向かいに、「大宮神社裏参道」 の標示があり、
その脇に冒頭に記した「御成街道」の説明板が建っていた。
約三百メートル歩くと、県道53号と合流する金親交差点がある。
、
交叉点を左折すると、奥まった所に、金光院があった。
「
金光院は、正応二年(1289)に、貞成上人によって開基された、真言宗豊山派の寺院で、
本尊は薬師如来である。
入口にある朱色の山門は、御茶屋御殿の裏門を移築された、と伝えられる。
徳川家康が東金の鷹狩りの際に立ち寄ったとされ、
その時使用した什器や着物などが残されているという。 」
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石井家の長屋門 | 御成街道の説明板 | 金光院の山門 |
◎ 千葉御茶屋御殿跡 ・ 継立場の中田村
街道に戻り、東金方向へ約四百メートル行くと、
「御殿入口」 という三叉路の交叉点がある。
県道53号は直進するが、右折するのが御成街道で、セブンイレブンの先に「御成街道 若葉区御殿町 」 の標識が建っている。
三百メートル先にある林の中に、 「御茶屋御殿跡入口」 と、
書かれた小さな木柱がある。
気がつかないと通り過ぎるところである。
その傍に、教育委員会が建てた、大きな 「御茶屋御殿跡」 の説明板があった。
説明板「御茶屋御殿跡」
「 徳川家康が、東金への鷹狩のための休息所として造営したものであるが、
寛文年間(1661-7)に、取り払われたと考えられるが、 跡地は良く旧態を止めています。
御殿跡は、一辺約110mの方形で、周囲に幅5mの薬研掘の空堀と、
高さ約2.5mの土塁をめぐらし、 南北2ヶ所に出入口があって、
その内側に、枡形土塁が構築されていました。 」
林の中の小道を進んでいくと、 土塁と思われるものがあり、 その先には、広い空地が現れた。
「
これが、御茶屋御殿跡地で、この場所に、番所が四つ、
玄関・広間・主殿・休息所・大長屋・鷹部屋・井戸などが、配置されていた。
家康の鷹狩には、鷹匠・家臣や侍医、賄い方をはじめ、側室・女中など、
総勢百人を越す人数だったので、それに対応する規模の施設だったと、想像できる。
徳川秀忠も、鷹狩りのために、御成街道を何回か通行したが、
寛永七年(1630)を最後に、東金での鷹狩りは行われなくなり、
御成街道は、幕府役人の通行道、民間の物資輸送路、また、一般庶民の生活道となった。 」
街道に戻り、直線の道を1キロ程歩いて行く。
このあたりは、江戸時代には左は林、右手には幕府の馬放し場が広がっていたという。
やがて、道は二つになるが、御成街道は右側の下って行く狭い道である。
林の中をくぐると、県道66号のバイバスに出るが、横断して、
S字のカーブを下ると、宮田入口交叉点がある。
県道66号を横切り平川に架かる中田橋を渡ると集落が現れる。
「
ここは、江戸時代に継立場があった中田村の稲葉集落である。
わずか九軒しか人家はなかった。
中田村は、隣村の金親村と、人馬継ぎ立て業務を分担していた。
この為、旅籠や茶屋などなく、町場は形成されず、間の宿的要素が強かった。
幕末の文久二年(1863)、名主をしていた弥八が、問屋役を兼ねていた。
問屋には昼夜に限らず、人馬2人と2疋が常備されていた。
多くの人馬を要する場合には、隣村の金親村がその業務を担当し、
近郷の村に助郷を要請した。 」
道の右側にある「デイサービスのどか」(杉山家)が、弥八時代の問屋跡である。
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御茶屋御殿跡入口 | 御茶屋御殿跡 | 中田宿問屋跡 |
その先の左側に「真光寺」の標示があったが、その入口付近に高札場があった。
「
その先、右に入る三叉路は、江戸時代、二十二軒あった集地集落に通じる道で、
その角に郷蔵があり、村人はこの蔵へ年貢米などを納めていた、といわれる。
真光寺は,]最初は真言宗の寺院で、本乗寺と称していたが、
寛文十二年(1672)、日精上人が日蓮正宗に改宗し、堂宇を造営され、真光寺に改名し、
寺を開基した。
本殿は平成元年に改築された新しい建物で、
勾配のきつい大屋根がひときわ目立つ建築物である。 」
坂を下ると鹿島川で、その先は上りになる。
「 御成公園からここまで何度となく上り下りを繰り返してきたが、 これが下総台地の特色なのだろう。 」
上りきったところに、「御成街道 若葉区富田町」 の標識が建っていた。
ここにも金親宿のような大きな長屋門があった。
「 富田集落は、江戸時代の宮田郷で、
二十軒の人家があったといわれる。
その家の主人に出逢って話を聞くと、長屋門は他の村にあったもので、
倒産した家から譲り受けたものという。
維持するのが大変とこぼしておられた。 」
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真光寺入口 | 真光寺 | 大きな長屋門 |
◎ 風景谷(ふがさく)から東金へ
富田新田バス停の先の民家に大きな椎の木があるのに気付いた。
「
覗きこむと切られた枝が置かれているが、見上げた木は立派である。
樹齢は四百年以上で、市の保存樹木に指定されている椎の古木である。
江戸時代には一里塚があったところという。 宮田一里塚跡である。 」
森林の中を進むと右側に袖ヶ浦CC新袖コースがある。
坂を下ると、道が大きく左にカーブするところで、千葉市から八街市に変わる。
これまで若葉区の標識により、御成街道が確認できていたが、
八街市に入ると苦戦する。
八街市に入った正面は壁のようになっていて、そこには八街市教育委員会が建てた、
説明板が立っている。
説明板「御成街道跡」
「 御成街道は、徳川家康が、初代の佐倉城主・土井利勝に命じて造らせた街道で、
船橋・東金間、約40キロメートル余をほぼ一直線に結んでいた。
現在は、殆どが舗装され、旧道の面影を残している部分は、
八街市沖地区と東金市滝地区のごく一部となってしまった。
八街市内では、この後の山林中に、わずかに昔の面影を止める地区があり、
市の指定文化財(史跡)に指定されている。
ここから、西の四街道方面に走る街道は、御成街道を舗装したもので、
陸上自衛隊志津駐屯地で一部途切れるが、
船橋市まで続いている。 」
この先に、旧道が残っている筈であるが、樹木と竹や塀に囲まれていて、 入ることはできないのであきらめて、 カーブの車道を上って行く。
「 江戸時代の御成街道は、八街市が建てた説明板のあたりを直進し、
雑木林の中を上るようになっていた。
この登り坂はかなりな急だったので、家康は駕籠をおり、馬に乗り換えて登ったが、
上り切った台地上から、一望できる下総の壮大な景観に、
家康はいたく感動したことから、
この坂道を 「風景谷(ふがさく)の険」 と呼ぶようになったという。 」
坂を上りきると、左手は住宅地で、右側に、
おまごバス 「風景谷」 のバス停がある。
地域バスの 「おまごバス」 は地名に由来する。
「
この地・沖地区は、江戸時代に野馬を放牧していた、小間子(おまご)牧で、
その中に御成街道が通っていた。
明治維新後、鍋島氏の佐賀藩家臣・深川亮蔵が、
藩の士族や窮民を救済するため、この地を購入し、開墾を開始。
昭和十八年(1943)、県により、八街市沖地区の区画整理が行われて、
御成街道の二キロに及ぶ道は消滅した。 」
バス停からの風景谷の風景は、前方に畑が広がり、 その奥を雑木林が取り囲んでいた。
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宮田一里塚 | 御成街道跡説明板 | 風景谷 |
県道を七百メートル進むと、沖十文字交差点に出る。
沖十文字交差点で右折し、県道289号に入り、四百メートル程行くと、
道の左側の運送会社の駐車場の一角に
「田中モーターズ」 の立て札があり、
その前に 「←お成街道跡→」 の道標がある。
道標は、御成街道が、県道に対して、ほぼ四十五度の角度で通っていたように、
置かれていた。
この先の狭い十字路に、 沖中バス停があり、
次の狭い十字路を左折し、数百メートル行くと、左側に墓地が現れる。
墓地の先から、道は右に曲がっていくが、
曲がり角に。先程と同じ、「お成街道跡」 の道標が建っていた。
消滅した御成街道が復活し、ここから、東金市滝まで残っている。
「
このあたりは、下総台地の谷になっていて、
蛇田谷の険 と呼ばれていたところである。
道は狭く、車が一台通れる程の狭さで、
谷の上り下りを繰り返しながら、行かなければならない。 」
その先の頭上に、「止まれ」 の標識があり、
そこを横断すると急な下り坂になる。
坂を下る途中の左側に、 ロック技研工業の事務所があるが、
その対面の左側に、「一里塚」の説明板がある。
気がつかないと通り過ぎるところで、良く見ると塚状の膨らみがある。
説明板「上砂(かみいさご)一里塚」
「 この塚は、慶長十八年(1615)に、
徳川家、康が佐倉城主・土井利勝に命じて造らせた一里塚である。
船橋から東金に至る御成街道には、八ヶ所の一里塚があった、とされるが、
現存するのは、ここ、上砂と千葉市千城台東、富田の三ヶ所のみである。
これらの一里塚は、まっすぐ街道を結ぶための目印として築かれた、と考えられており、それぞれの塚の距離は、約4.7kmである。 」
その先に「御成街道」 というバス停があったが、一日三本のみである。
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お成街道跡の道標 | 御成街道入口の墓地 | 上砂一里塚 |
墓地からの先は急な下り坂で、進んでいくと、左右に畑地が広がる平地に出る。
防風林を兼ねているのか、奥にある雑木林が視界をさいぎる。
ここの現在の地名は滝台であるが、昔は太郎坊(たらんぼう)だった。
「 天正十年(1582)、東金城主・酒井小太郎と土気城主・酒井胤治父子が、 椎崎城主の椎崎三郎軍の侵入を防いだところから、 「太郎防」と地名がつき、後に「太郎坊」になったといわれる。 」
その先には民家が現れ、交叉点の手前の民家に、
八街市教育委員会が建てた、御成街道の説明板がある。
交叉点を左折し、五百メートル行くと、四木(しもく) 地区に入る。
左に入ったところに、小間子馬(おまごうま)神社がある。
「
正式には、「八街太郎防大津東町分霊小間子馬神社」 という神社である。
江戸時代の地名「太郎防」と、神社の勧請地の滋賀県大津東町を冠した、
珍しい社名である。 」
神社創建百周年記念碑には、
「 小間子は、佐倉七牧の一つで、明治維新によって鍋島家の所有となった。 ・・・・・ (以下省略) 」
とあり、神社は明治になり、建立されたものである。
街道に戻り、畑の中の一本道を五十メートル程進むと、右手に池が現れる。
道を隔てて、産業廃棄物処理場、池の周りは金網に囲まれているが、
ビンダライ池である。
「 昔は景勝の地であったようで、徳川家康が駕籠からおりて休憩し、 この池の水をビンダライ(髪を整える時に水を入れる小さなタライ)に入れて、 顔を洗ったり、髪の乱れを直したりしたことから、 「ビンダライ池」 と呼ぶようになった、と伝えられる。 」
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滝台 | 小間子馬神社 | ビンダライ池 |
◎ 東金御殿へ向かう
その先の圏央道をくぐると、たつみ産業の脇に出る。
県道301号を横断して細い道(土道)に入ると、
両側は整地され太陽光発電所になっている。
突き当たりは国道409号で、道の両側はモーテルである。
道が続くので、モーテルの先まで行くと、畑の先で草が茂り行けなくなっていた。
御成街道はここで途切れている。
国道に戻り、国道を進むと左側に県立東金高等技術専門校があり、
その先のカーブの先の右側に林がある。
林の中に入ると、「東金御成街道の関係史跡」 という大きな説明板があり、
終点の東金御殿に至る両ルートの道筋と、主要な史跡が記されている。
見わたすと、近くの樹木に 「御成街道(油井コース)」 の道標があり、
その下に小さな祠がある。
「 祠の中には、道祖神が祀られていて、 像の正面に「是より下ハ東金道 是より上ハ左倉道」 、右面には「油井村」、左面には「是より西 江戸道」 と書かれている。 」
東金市の観光協会でいただいた御成街道最終ルートMAPには
油井説(ゆいせつ)、大豆谷説(まめざくせつ)、日吉神社説の三つが書かれている。
「御成街道おあし坂入口300先」 と記した標識があるので、
御成街道(油井コース)を歩くことにした。
左側の施設は、アグリチャレンジファーム(県農業大学校)で、
それに沿って進むと、道は回りこむようになってのびている。
かっては直線だったものが付け替えられたものと思われる。
右側に住宅分譲地があり、
更に進むと、右側の林の中に 「御成街道 おあし坂入口→」 の木札が懸けられている。
入口はうっすらとした藪のような雰囲気だが、
思い切って降りると、V字形の深い切り通しの下り坂である。
足元は落ち葉で柔らかいので、滑らないよう気を付けて降りたが、
二百メートルほどで明るいところに出た。
この短い坂が、現在も残っている、御成街道油井コースのおあし坂である。
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道標と小さな祠 | 道祖神 | おあし坂 |
坂を出ると、パッと視野が広がる。
ここに、東金市教育委員会が建てた、「おあし坂」の説明板がある。
説明板「おあし坂」
「 切り通しの急な坂道のため、歩幅を広く取り、
大足で上がり下りしなければならないことから、おあし(大足)坂と呼ばれた。
滝からの東金御成街道は、既存の道路を整備したといわれ、
家康の御成り以前から、生活道路として使用されていたと思われる。 」
谷津田の畦道を百メートル行くと、交叉点を右折するまがり角に、
「御成街道」 の道標がある。
油井集落の民家の手前の左側に、「 御成街道(御成表道) 油井一本松跡 左おあし坂 千葉船橋 右油井大豆谷 東金 」 の立札がある。
「 数十年前までは、高さ二メートル程の塚があり、 塚上に一本の黒松が植えられていたといい、一里塚の跡である。 」
道なりに進むと、国道126号に出るが、
その手前の所に、 「御成街道(油井コース)」 の道標があるので、左折して進む。
この道は、旧東金市街道である。
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おあし坂の説明板 | 谷津田の畔道 | 御成街道の道標 |
油井集落の民家が続くが、右側の油井公民館を過ぎると、
再び国道に出そうになる。
ここでも、国道の手前を左折すると、道はS字形にまがっていくが、
道の両側には田圃が広がる。
道は車が一台通るのがやっとという道。
S字の真ん中あたりの左側にすれ違いが出来るスペースがあり、
そこに 「御成街道」 の道標が建っている。
このあたりの左手に、十六石殿(じゅうろっこくどん)と呼ばれた、
早野家があるはずであるが、どの家かわからなかった。
家康が、休憩に立ち寄り、そのお礼に、家の前の田圃十六石を賜った、という家である。
その先で国道126号に出て、国道を歩き、台方一丁目のGSで左折し、旧道に入る。
そのまま進むと、砂郷入口交叉点の先の左側に、ナショナルショップ岡田屋がある。
その手前の空地の一角に、「東金御殿表門跡」 と刻まれた石柱が建っている。
「 東金御殿は、 ここから、北方の県立東金高校のあたりまであったようだが、 今は私有地になっていて通れない。 」
商店街を進み、「八鶴湖入口」の標識で左折する。
正面に湖が見えてきたが、これが八鶴湖である。
「 八鶴湖はもともとは鴇(とき)池という小さな池だった。
文禄三年(1594)、本漸寺と最福寺の朱印地の水田の灌漑と、
東金市街の防火用水確保のために拡張され、
更に、東金御殿の構築により、
上池と谷(やつ)池(御殿前池=八鶴湖)に、分けられたという。 」
湖の先に白く見える建物は県立東金高校である。
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十六石殿付近 | 東金御殿表門跡 | 八鶴湖 |
◎ 東金御殿
八鶴湖の右手にあるのは安国山最福寺である。
山門脇に、千葉県が立てた「最福寺」の説明板がある。
「 寺伝によると、大同二年(807)、天台宗最澄による創建と伝えられるが、
文明十一年(1479)、日近上人の時、顕本法華宗に改宗し、西福寺と改め、
昭和二十二年に再び最福寺になった。
酒井定隆の檀那寺で、その守護神社は日吉神社だったため、社務一切は本寺が司った。
天正十九年(1594)に、徳川家康より寺領三十石を賜り、上総十ヶ寺の一つである。 」
参道を上っていくと、大黒堂がある。
祀られている大黒天は、運慶 の作と伝えられている。
客殿の前にある石碑には
「 この客殿玄関は、中山鬼子母神で、
有名な日蓮宗大本山法華経寺本院鬼子母神堂の正面玄関だったもの。
昭和十八年の火災で、建物は焼失したが、屋根裏から下が、奇跡的に残り、
鬼子母神堂正面玄関として使われてきた。
老朽化により、鬼子母神堂が新築された際、当寺が譲り受け、
平成二十二年に、当山客殿を改修する時、
玄関として使用することになり、復元したものである。 」
とあった。
八鶴湖の南岸に建つ、木造三階建て数寄屋造りの建物は、 国登録有形文化財の八鶴亭である。
「
江戸時代末期から昭和にかけて、
東金は、総木綿や九十九里地区の海産物、醸造物や、茶の集積地となり、
東金旦那や、九十九里の網元の寄り合い所として、
明治十八年に創業したのが、八鶴館(現八鶴亭)で、敷地面積二千余坪。
伊藤左千夫、北原白秋、島崎藤村などの文人が多く訪れ、
昭和二十二年には、学習院中等科だった、現天皇も来館されている。
現在は、旅館業は廃業し、料亭として営業を続けているが、
東日本大地震で被害も受け、先行きは厳しいようである。 」
八鶴湖の西端は、 御殿山 と呼ばれる小山になっていて、
その麓にあるのは、東金高校である。
東金高校の正門は、明治時代に造られた、煉瓦造の門柱を使用している。
「 東金御殿は、
前述のナショナルショップ岡田屋の東金御殿表門から、
東金高校までの一帯に建っていた。
ここは、東金城があった場所の東麓にあたり、
家康の命を受けた佐倉城主・土井利勝が、慶長十八年(1613)から翌年にかけて、
東金代官・嶋田次兵右衛門尉重次伊伯に、東金御殿を造営させた。
敷地面積、約六千七百坪で、
玄関・広間・坊主部屋・小姓部屋・書院などの部屋、
別棟には、鷹部屋・長屋・馬屋・大番所などが建てられた。
家康が二回、秀忠が八回、家光が一回利用したとされる。
寛永七年(1630)の大御所秀忠の御成りを最後に、鷹狩りは行われなくなり、
寛文十一年(1671)、東金は、天領から福島の板倉藩領になり、
東金御殿は取り壊された。 」
東金市が発行した「とうがね物語」には、
「 家康がもっとも好んだ獲物は鶴だった。
七泊八日の間に獲た鶴は百十二羽。
東金への来訪を鶴御成りと呼ぶ由縁である。 」
とある。
当時は鶴が多く飛来していたということになる。
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最福寺客殿玄関 | 八鶴亭 | 東金高校正門(東金御殿跡) |
東金高校とその北側の本漸寺との間に、 「御成街道」の道標、「東金城址」と「東金御殿跡」の説明板が建っている。
説明板「東金城址」
「 東金城は、東西約700m、南北約500mの半独立丘陵の山城で、
東金酒井氏の本城として、天正十八年(1590)までは機能していた。
・・・(以下省略) 」
この左側の狭い道を上ると、第二次世界戦争の本土決戦で、 米軍が九十九里浜への上陸に備え、塹壕を掘った遺跡が残る東金城跡に至る。
「
東金城は、室町時代に、千葉氏が築いた 「ときがみね城」 が始まりといわれ、
大永元年(1521)に、酒井小太郎定隆が城主になると、以後五代・約七十年にわたり、
酒井氏の居城となった。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、酒井氏は北条氏についたため、
小田原落城後、廃城になった。
酒井定隆は、築城と同時に酒井氏代々の菩提寺として、
金谷にあった本漸寺を城山の中腹に移した。 」
本漸寺の山門をくぐると墓地、その先に城山を背にして、急な石段がある。
その先には本堂の他、小規模な建物が建ち並んでいる。
本漸寺には、徳川家康お手植えの蜜柑の木がある。
更に北に行くと、日吉神社の石鳥居が建っている。
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東金城址と東金御殿跡 | 本漸寺 | 日吉神社鳥居 |
以下に、裏道を歩いたことを記す。
アグリチャレンジファームの分岐点にあった説明図にある裏道は、
大豆谷 (まめざく) コースである。
県道(東金山田台線)をそのまま進むとS字のい下り坂になる。
コンレイ坂である。
「 天正十八年(1590)、家康軍を防ごうとして戦死した酒井氏の家臣を、 この付近の大木の根元に葬ったことが坂の名前で、 漢字では魂霊坂で、土地の人は近付くのを恐れたというが、 今は広い舗装道路を車が行き交い、その面影はない。 」
ここから先は、宅地開発で、様相を大きく変えている。
北中学校を越えた先の右側に、「高砂部屋創始者高砂浦五郎両親の墓」
という看板がある。
中に入って行くと、右手に藪の中に、説明板と高砂浦五郎の供養塔がある。
その先の墓地から、下の道に出ると、県道の下の道で、
「大豆谷隧道」 とトンネルに書かれている。
坂道を降りていくと、左側に小さな滝があり、「新池の由来」という看板があり、
その上に、江戸時代に造られたため池があるようである。
このあたりは大豆谷集落である。
左側に弁財天を祀る厳島神社があり、傍に、大豆谷公民館がある。
「 元禄三年(1690)建立という厳島神社の石鳥居は、
平成二十三年三月の東日本大震災で被災し、同年六月に修復されている。
厳島神社は、元亀元年(1570)に、村人が市杵島姫命を祭神とし、
村の守護神として創建したもので、弁才天と呼ばれている。 」
その先の右側の火の見櫓の手前に、「佐藤信淵(のぶひろ)」の説明板があり、 「佐藤信淵先生実学大成之地」 と刻まれた、大きな細長い石碑が建っている。
説明板
「 佐藤信淵(1769-1850)は医者で、経済学者、農政学者でもあった。
明和六年(1769)、秋田県に生まれ、天明四年(1784)、十六歳で江戸に出た。
寛政九年(1797)、上総市一宮藩の藩政改革に助力したことが縁で、
大豆谷村(千葉県東金市) に、十年間滞在。
その後、阿波藩や江戸で活躍する合間に、二度この地に戻り、
八十二年にわたる長い生涯(江戸所払いも経験)の中で、この地で三回にわたり、
計二十三年間を過ごした。 」
その先は旧道の風情が残る集落が続く。
台方三差路交差点の手前に出た。
ここが大豆谷追分で、先程歩いた御成街道油井ルート(表道)と、ここで合流する。
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高砂浦五郎の供養塔 | 厳島神社 | 佐藤信淵の顕彰碑 |
八鶴湖の北にある日吉神社の鳥居の手前に、
東金市観光協会の案内所があり、
ここで御成街道の最終ルートの一つに日吉神社説があることを知った。
逆ルートになるが、歩いてみた。
少し行くと、さくらトンネルへ行く道と、日吉神社へ向う道との分岐点がある。
案内所でかなりの山道と聞いていたが、日がくれそうになってきたので、少しあせる。
途中に「御成り街道と八鶴湖」の説明板があった。
説明板
「 日吉神社から八鶴湖に通じるこの参道を山王坂といい、
途中からS字状の切り通しとなっている。
この切り通しは、嘉慶十九年(1614) 御成り街道造成の際に、
開さくされたなどの伝えがある。 」
息もあがりながら上って行くと、
左側に「道陸神(どうろくじん)」 と書かれた立て札があり、
石段の先に小さな祠があった。
坂を上り切ると、右側に日吉神社の鳥居があり、
並木道を行くと、日吉神社の社殿があった。
説明板
「 日吉神社は、大同二年(807)、天台宗の開祖、最澄が布教のため、
東国巡行の時、帯同した近江国山王神社の分霊を鎮祭したのが始まりという。
明治維新までは、神仏習合し山王権現と称したが、明治元年に日吉神社になった。 」
日吉神社を出ると風景は一変する。
「日吉台」 と名付けられたこの地は、平に整地された大型分譲地になっていて、
新しい住宅が建っている。
当然ながら、旧道は残っていない。
八雲神社に向って歩くと、ローソンのある交叉点の先で、
先程訪れた、高砂浦五郎の供養塔のところに出た。
日吉神社ルートは裏道(大豆谷コース)とここで合流する。
道の右側に、大豆谷隧道に入る道があるが、
このあたりに旧道が一部残り、道祖神が祀られている小さな祠があるようだが、
見つからなかった。
これで、船橋御殿から始まった、御成街道の旅は終了である。
「 徳川家康の鷹狩の為に急遽造営された御成街道だが、
寛永七年(1630)を最後に鷹狩りは行われなくなり、
寛文十一年(1671)に東金御殿が取り壊されると、
もともと大名が通る道でもないので、公式には将軍の名代として、
鷹匠・同心・鳥見役などの鷹役人が通るだけになった。
その後は、九十九里からの魚類や海産物などの江戸への輸送の道として利用され、
また、上総地方の内陸部の村と村を結ぶ生活道路として使用された。
江戸時代中期から後期になると、
東金は、総木綿や九十九里地区の海産物、醸造物や茶の集積地となったが、
これらの荷物や御用米は旧東金街道を通って、
浜野・曽我野(蘇我)・寒川・登戸などの港に運び、
ここから五大力船で江戸へ送った方が早かったため、
御成街道の利用は少なくなっていった。 」
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山王坂 | 道陸神 | 日吉神社 |
訪問日 平成二十七年(2015)十一月二十九日
(ご参考)徳川実記
「 七日 大御所葛西に御狩あり 」
(注 葛西は東京都葛飾区青砥にあった青戸御殿のこと)
「 八日 大御所千葉に到らせらる 」
「 九日 大御所東金へ渡らせられ、鶴四狩得たまふ 」
家康は東金に十五日まで滞在し、
「 十六日 東金より千葉に至らせ給ふ 」
「 十七日 大御所千葉より葛西に至らせられ狩し給ふ 」
「注」
徳川実記に記された、
千葉御殿は、前述の千葉御茶屋御殿(千葉郡中田村)ではなく、
千葉市中央部にあった千葉御殿(現在の千葉地方裁判所付近)が有力である。
、
慶長十八年(1613)十二月から、一ヶ月もない期間で、
約三十七キロの街道整備を突貫工事を行っても、
翌年一月九日の東金渡御には間に合わなかったと考えるのが、通説になっている。
その根拠として、當代記などの古文書に、「とけとうかね(土気東金)」
の記述があることを揚げている。
このことから、慶長十九年(1614)一月の鷹狩は、
船橋御所から、千葉御殿へ行き、土気経由で大網に出て、
東金御殿に入ったというコースが導かれ、
家康の慶長十九年(1614)の東金鷹狩りには、
御成街道は使用されなかった、という結論になる。
家康が御成街道を初めて使ったのは、元和元年(1615)十一月と推測され、、
実際の完成はこの頃だったと考えられる。
東金街道(御成街道)は鷹狩りのためだけでなく、
政治的・軍事的な理由から造られたという説があり、
また、家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・
庶民の視察などの目的もあったと言われている。
「 天下統一を控えたこの時期に、徳川家康は、 江戸から遠い小さな東金村へ鷹狩に来たのはなぜか? 」
徳川家康の鷹狩の為に急遽造営された御成街道の建立には疑問が残る。
なんぼ鷹狩が好きだといっても、
幾つもの御殿や道路を短期間で造らせるには他の目的があったはず。
「 徳川家康は天正十八年(1590)、小田原城が陥落後、
駿河から江戸への移転を豊臣秀吉に命じられ、関八州の大名になった。
外敵として越後の上杉や伊達がおり、また、北条や武田の旧家臣が浪人になっていた。
家康は、旧武田の武将を積極的に採用したのも、精悍な武者ということはあったが、
防衛策を兼ねていたと思われる。
家康は、8月1日、関八州の大名として江戸城に入り、
15日には、家臣の諸将を関東各地に配置した。
中でも家康は、安房の里見氏を特に警戒していたようで、
徳川四天王の一人・本多忠勝を上総大多喜に入城させた。
里見氏の系図にはなぞが多いが、
清和源氏新田義貞の子・義俊が、上野国碓氷郡里見郷にあって、
その所領を名字にしたのが始まりであるといわれる。
その後、隆起と没落を繰り返す。
里見義実は、嘉吉元年(1441)の結城合戦に参戦して、敗走。
三浦半島から安房白浜に上陸し、
安房の豪族・安藤景春のもとに身を寄せ、その後、安房四郡を手中に納めたのが、
房総里見氏の始まりである。
小田原攻撃では、九代・里見義康が、三浦半島の侵略に手間取り、
参戦が遅れたことから、秀吉の怒りをかい、
上総・下総の領地を没収され、義康の支配地は安房一国(9万2千石)だけとなり、
家康に属することとなった。
慶長五年(1600)五月の関ヶ原の戦いでは、義康は帰陣後、その功が認められて、
家康から常陸鹿島郡内に三万石の加増を受け、合わせて十二万二千石になった。
しかし、義康は、慶長八年(1603)、三十一歳の若さで他界してしまう。
その子が遺領を継ぎ、慶長十一年(1806)に元服し、将軍秀忠の一字を賜って、
里見忠義と称し、
慶長十六年(1611)、十八歳になった忠義は、相模小田原城主・大久保忠隣の長子・
加賀守忠常の娘を室として迎え入れた。
その後、大久保長安の不正が発覚し、上司の大久保忠隣へ疑惑がもたれるようになった
慶長十八年(1613)に、御成街道の建設が指示され、
大御所・徳川家康は、翌年十九年(1613)正月、完成も待たず、東金に入り、
鷹狩を実施した。
その時、里見忠義は情報がなかったのかは分からないが、
ご機嫌伺いを行わなかった。
同年九月、大久保忠隣の失脚に連座して、忠義は、山陰の倉吉に移封になる。
伯耆倉吉三万石は表向きで、実際は四千石にすぎず、蟄居処分だったといわれる。
その後、その土地も奪われ、失意の中亡くなる。
それに殉死した六人の家臣が、里見八犬伝のモデルといわれる。 」
(結論) 徳川家康は、同年十一月に、豊臣氏の討伐に取り掛かるが、 天下統一を控えたこの時期に、江戸から遠い小さな東金村に鷹狩に来たのは、 外様大名である里見氏の存在が気になり、 房総の様子を視察し、関東の支配を完全なものにしたのではないだろうか?