名所訪問

「  成田街道を歩く D 」

( 臼井宿 〜 酒々井宿 )


かうんたぁ。


江戸幕府が、佐倉街道、あるいは佐倉道と、命名したのは、 水戸街道の新宿から佐倉城までの道である。 
佐倉宿は、城下町であると共に、成田街道の宿場町になった。
佐倉から北東十二`あまりのところに成田山新勝寺があり、 江戸時代文化年間頃から成田山の参詣が盛んになった。 
それに伴い、佐倉街道を経由して成田山へ向かう道は、 成田道あるいは成田街道と呼ばれるようになった。 


臼井宿から佐倉城下

成田街道は中宿交差点で右折して国道296号線を進むと、 右側に、「浄土宗長源寺入口」 の看板があり、その奥に本堂がある。

「 龍澤山長源寺は、浄土宗千葉小弓、大源寺末弁長の鎮西派で、 増上寺一世・西誉聖聡の白旗流、創建は元亀元年(1570)12月。  開基は千葉氏一族の生実城主・原式部大輔胤栄。 
開山は道誉上人(貞把)、本尊は阿弥陀如来です。 」

臼井郵便局があり、京成電鉄の踏み切りを渡る。 
踏み切りを渡ると 「 右折 千葉四街道 県道64号 左折 成田佐倉市街  国道296号 」 
の標識がある三叉路に出る。 
三叉路の右手の山裾に、黒い御影石の説明石と、四つの石碑が並んで建っている。 

左側にある黒い御影石の説明石には、 
「みちしるべ(道標)」
江戸時代の中頃までは佐倉街道と呼ばれていたが、 成田山の参詣が盛んになるにしたがい、街道の名称も成田街道、成田道へと移る。 
「西 江戸道」 
文化三(1806)年に品川新宿の商家によって建てられた。 
「さくら道」 
年号は記されていないが、大きな道標よりも古いものと推定される。 」 と刻まれていて、右側の道標の説明板である。 

説明石の右隣の大きな石柱の正面に、「西 江戸道」とあり、 右側に 「南飯重生ケ谷道」、左側に 「東 成田道」 と刻まれている。
その右隣の石碑には仏像が刻まれていて、その下に 「さくら道」 と確かに彫られている。 
この石碑が建立された当時は成田道の呼称はなかったことを示す貴重な資料である。 
もう二つの石碑はどういうものか確認できなかった。

三叉路を左折すると、すぐ右側に入る道があり、坂を上ると時宗の光勝寺がある。 

「 光勝寺は当初は真言宗の寺院で臼井氏一族の菩提寺として崇敬されていた。 
臼井城主の臼井祐胤(うすいすけたね)が、 藤沢の遊行寺二世・真教上人が当地を廻国した時に、 真言宗から時宗に改宗したと伝えられる。 
天正十八年(1590)に臼井城が落城した後、道場作の地から現在地に移転した。 」 

道標
     光勝寺
成田道道標とさくら道道標光勝寺


光勝寺には、「臼井八景」 の一つ、「光勝寺の晩鐘」がある。
上ると左側に鐘堂があった。
光勝寺は印旛沼が望める台地の上にある。 
脇に 「  けふも暮れぬ   あはれ幾世をふる寺の   鐘やむかしの   音に響くらん  」 という石碑が建っている。  
街道に戻ると、国道296号は楕円形を描きながら、 ゆるやかなに坂を上ると、竹林のきり通しにさしかかる。 
聖隷病院入口交叉点手前左側の石段になっている先には、  「南無妙法蓮華経」 と彫られた大きな供養碑が建っている。 

「  ここは、江戸時代に江原刑場があったところで、 佐倉藩の蘭方医が刑死者の遺体解剖を執行したと伝えられる。 」

鐘堂
     江原刑場跡
光勝寺の鐘堂江原刑場跡



◎ 佐倉城下町

「  佐倉城は、鹿島川とその支流高崎川を外堀として、鹿島台地に築かれた城である。 
戦国時代の天文年間(1532-1555)に、千葉氏二十四代・千葉親胤が、本佐倉城に代わる、 新たな居城として、鹿島幹胤に命じて築かせたのが最初の城で、鹿島山城とも呼ばれた。 
しかし、千葉親胤は、家臣に暗殺され、築城は中断。 
二十六代の千葉邦胤も、この地に本城を移そうとしたが、 天正十三年(1585)に、家臣に殺害され、果たせなかった。 
その後、千葉氏は豊臣秀吉の小田原攻めで、北条氏の傘下で戦ったため、改易になる。 
江戸幕府を開いた徳川家康が、この地の要害に注目し、 土井利勝に命じて、慶長十六年(1611)から、七年間を費やして、城を完成させ、 佐倉城 と名を改め、城下町を整備した。 
土井利勝は、佐倉藩主として、二十四年間在位し、古河藩に転封し、大老の職に上りつめた。 
以来、佐倉城は江戸の守りとして、また、老中格の譜代大名の城になった。 
延享三年(1746)、堀田氏が入城し、その後、六代百二十六年間世襲し、 明治維新を迎えた。 
佐倉城は、明治の初めに、天守閣を含めて、すべて取り壊された。 
明治六年(1873)には、旧佐倉城内に陸軍の歩兵連隊(歩兵第二連隊、 歩兵第五十七連隊など)が設置され、 佐倉の町は、第二次世界大戦終了までは、軍都として栄えた。 」 

交叉点を越えて国道296号を進むと、 右手に栗嶋神社、更に行くと左側に八幡宮神社がある。
その先の鹿島川に架かる鹿島橋を渡ると、佐倉市城内町になる。 
交叉点を直進すると、右側に大きく入口を構えるのは、 佐倉城の田町門跡から、国立歴史民俗博物館に通じる道である。 

「 江戸時代には、田町門跡の土塁から、愛宕坂を上っていくと、 佐倉城の天守閣と銅櫓に囲まれて本丸があった。  」

博物館の南側には、コの字型の約121mX40mX3mの馬出し空掘があるが、 復元されたものである。 
一の門跡に入ると、四面が高い土塁で囲まれた広い場所が本丸跡である。 

「  本丸には、 天守閣 ・ 銅櫓 ・ 角櫓があり、 一の門 ・ 二の門 ・ 三の門 ・ 大手門がほぼ一直線上に配置されていた。 
本丸の西南の隅には、三層の天守があったが、文化十年(1813)に焼失、 その後は再建されなかった。 
なお、佐倉城には水堀はなく、土塁を築いた城だったという。 」

佐倉城図
     銅櫓跡
佐倉城図銅櫓跡

本丸跡は子供達が走りまわる広い空き地になっていた。
正岡子規は、明治二十七年(1894)に、 本所から佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして、佐倉にやってきた。 
その時詠んだ 「  常盤木や 冬されまさる  城の跡  」  
という句碑が、本丸跡の近くに建っていた。 
三の丸には、寛政十一年(1799)に、御殿が新設され、城主はここに居住していた。 
公園の散歩道は、三の門跡・大手門跡を通り過ぎて、宮小路にでる。 
大手門跡には説明板がある。

説明板「大手門跡(追手門)」
「 大手門は総曲輪の表門。 この門の西側には、広小路。中下町・大下町といった 武家屋敷地が整備され、三の丸御殿・会所なども、置かれていた。
中央に、広小路の通りと、重臣屋敷の塀が写されている。   佐倉市  」

句碑
     大手門跡
正岡子規の句碑大手門跡


街道に戻り、国道296号を歩く。
巴屋菓子舗の前の三叉路で、濠に沿って右に入り、 すぐに左折して、茅葺屋根の民家が一軒だけ残る、 田町を進む。 
「海隣寺坂」 と表示された急坂を上ると、佐倉市役所前の交叉点で、 国道と合流する。 
「市役所通り」 と標記されている道を進むと、 海臨寺のあたりから並木町で、 その先に三叉路がある。
三叉路の正面に、佐倉町時代の 「佐倉町道路元標」 が残っている。 
道路元標の上に、道しるべがあったが、「ここは商家町です!!」とあった。 

茅葺屋根の民家
     佐倉町道路元標
茅葺屋根の民家佐倉町道路元標

並木町に入ったところに、ピーナッツ屋があったり、商店もあったが、 「ここは商家町です!!」 とあった道しるべは その意味ではなく、江戸時代には商人の多い町だったということだろう。 

道の脇に 「旧平井家」 と書かれた提灯を掲げた、旧家がある。 
その先の新町交叉点を右折すると、右側に、 麻賀多(まかた)神社 がある。 

「  麻賀多神社の祭神は稚産霊命で、延喜式にも記載された古社である。 
佐倉の総鎮守、産土(うぶすな)神と知られ、 毎年十月の例祭には神輿・山車が佐倉囃子の調べにのって町内を練り歩く。 
社殿は、天保十四年に、藩主の堀田正睦(ほったまさよし)が再建したものである。 
なお、堀田正睦は、幕末に筆頭老中としてハリスとの条約交渉に全力を注ぎ、 日本を開国へと導いた人物である。 」

旧平井家
     麻賀多神社
旧平井家麻賀多神社

その先の閑静な、 鏑木小路 に入ると、江戸時代の武家屋敷が、三軒並んで建っている。 

「 このあたりは佐倉藩の武家屋敷だったところで、 明治には軍人屋敷として使われたという。 
現在保存されているのは、「川原家」、「但馬家」 「武居家」で、 それぞれ、禄高に応じた居住の制に従い、大・中・小屋敷を代表している。 
居住の制は、建坪の広さだけでなく、門・玄関・畳の種類まで決められていたという。 
土塁を築き、植栽を施した垣根は、佐倉によく見られた武家屋敷の佇まいである。 」

成田街道は新町交差点の三叉路で左折するが、この通りは 新町通り である。 

「  新町通りは、江戸時代、佐倉宿の中心街だったと思われ、今も佐倉市一番の繁華街である。 
銀行、三谷呉服店、佐倉市立美術館がある。 
佐倉市立美術館は、旧川崎銀行佐倉支店の建物で、 佐倉ゆかりの画家浅井忠の作品などを収蔵している。 」

その先の左側に、 明治の呉服屋・駿河屋 (今井家住宅) がある。 
ここは、江戸時代の旅籠・油屋の跡で、 油屋には、桂小五郎や清河八郎などが泊ったといわれる。 

武家屋敷
     今井家住宅
武家屋敷明治の呉服屋・駿河屋


その先には「佐倉新町おはやし館」があり、その先には佐倉市立図書館がある。 
そのまま進むと、突き当たりになり、左手に浄土真宗本願寺派の延覚寺があり、 突き当たりには佐倉新町局がある。 
ここは、江戸時代には鉤形だったところと思える。
右折して進むと、左にカーブする三叉路になり、 左折すると、「蘭学通り」 である。 
弥勒町に入ると、厚生園入口バス停がある交差点にでる。

「 ここを右折して南下すると、 「佐倉ゆうゆうの里」 という老人ホームがある。
老人ホームの敷地の奥に、 佐倉藩最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の屋敷が、 残されている。 」

少し行くと、右側に古い建物が建っている。 
これは、佐倉市有形文化財の 三谷家住宅 である。 
道の反対側には、三谷綿店の新しい店舗がある。 

「 袖蔵は、明治十七年の建築で、座敷屋は昭和十年頃のものである。 
近代の佐倉における有力商家にふさわしく、造形が優れた建物であり、 出桁造りの主屋と並んで、袖蔵が建つ当時の商家の様子をよく残している。 」 

佐倉新町おはやし館
     三谷家住宅
佐倉新町おはやし館三谷家住宅

左側に日蓮宗の妙経寺、その先の久保町バス停からは上り坂。 
その先の本町交叉点の手前、右側に、冠木門をかまえているのが、 「佐倉順天堂記念館」 である。 

「 藩主堀田正睦の招きを受けた蘭方医佐藤泰然が、 天保十四年(1843)に開いた蘭医学の塾が、順天堂の始めである。 
佐藤泰然は、当時人気のあった華岡流とよばれる麻酔を用いる手術を危険として採用せず、無麻酔手術を行った。 
西洋医学による治療と同時に医学教育が行われて、 佐藤尚中を始め、明治医学会をリードする人を輩出しました。 
現在、安政五年(1858)に建てられた建物の一部が残り、これを記念館として公開している。 」 

妙経寺
     佐倉順天堂記念館
妙経寺佐倉順天堂記念館



◎ 佐倉宿から本佐倉城址

本町交叉点を越えて進み、慈光幼稚園を過ぎると藤沢町である。
道は左に、そして右にカーブすると 「酒々井町(しすいちょう)  の標識が現れ、ここからは酒々井町本佐倉である。 
その先の変則交叉点は直進し、左側の道に入ると左側に 「南無妙法蓮華経」 の髭文字の石標があり、その奥に妙胤寺がある。 
本佐倉バス停を過ぎると「本佐倉城跡」 の道標があったので、 本佐倉城跡を訪れることにした。 
なお、本佐倉城跡の道標が行き先毎に現れるので、迷子になる心配はない。 

左の道に入り、道を下って行くと左側に、「金剛吉祥寺」 の標識があり、 田畑の向うに寺院が見えた。 
そのまま進むと三叉路に出るが、その手前右側に庚申塔などの石仏群があった。
その先の小さな祠に、双体道祖神が祀られていた。 
このあたりは根古谷で、本佐倉城の外郭を形成していたところである。 
正面に見える小山に本佐倉城があったのだが、成田街道からここまで一キロ程の距離である。 
三叉路で左折すると、右側の小山の麓に妙見社がある。 

「 妙見様は千葉氏の守り神で、全国にある千葉氏一族が崇拝していたので、 各地にある妙見様は千葉氏が広めたといわれる。 」

石仏群
     双体道祖神
石仏群双体道祖神

本佐倉城にはq、こちら側からは入れないので、 三叉路を右折して山裾を右に1/4周程行くと、 「国指定史跡本佐倉城跡」 の標柱が建っている。 
平坦な土地に水仙が植えられているが、このあたりは本佐倉城の東山虎口だったところである。 
その先に駐車場があり、 その傍に、「国指定史跡本佐倉城跡全体図」 という看板が建っている。 
その先の小道(堀底道)を上っていくと、右側の丘陵に、板状のものが並べられているが、ここは郭があった跡で、板状のものは千葉氏の家紋の楯を意味する。 

「説明板」
「 平成十九年、二十四年の二回にわたり、発掘調査が行われ、門跡の他、 東山虎口から、城山や倉庫跡へ向う通路跡や分岐点、付随する柵列跡が見つかった。  郭には名前が付いていないが、倉跡の虎口施設にあたる重要な郭と推定させる。 」 

標柱
     郭跡
本佐倉城跡の標柱郭跡

郭虎口の右側に、堀跡と堀跡の先に門跡が見つかった、という説明板があり、 当時の様子が予想できた。 

「 本佐倉城は戦国時代の下総国守護千葉氏の居城だったところである。 
千葉氏宗家は千葉胤直・胤宣親子の時代に、 叔父の馬加康胤(千葉康胤) により、滅ぼされた。 
千葉宗家を継いだ千葉康胤の子・千葉輔胤は、 文明年間(1469-1486)に、本拠を千葉の猪鼻城から本佐倉城に移した。 
時代が下って、北條氏の娘を迎えた千葉邦胤が、 天正十三年(1575)に家臣に殺害される事件をきっかけに、 北條氏政の子・千葉直重を養子として送り込んできた北條氏に、家督を奪われ、 千葉邦胤の子・重胤は、人質として、小田原に住んだ。 
本佐倉城は、天正十八年(1580)、小田原の北條氏と命運を共にするまで、 千葉氏九代、百有余年間にわたり、居城として使われ、ここから下総国を統治していた。 」 

門跡を過ぎると三叉路になっていて、突き当たりが奥山、左側は城山である。 
道を左にとると、二メートル程の急坂で、その先は木戸跡である。 
この道は、 大堀切 といい、城山と奥の山を分ける堀切になっていた。 

門跡
     木戸跡
本佐倉城の門跡木戸跡

城山入口の説明板で、左側に入って行く道は、 道幅180cm、何度も蛇行して城山虎口に向う。 
木戸跡から城山虎口までの高低差は七メートル。 
この急な勾配は、容易に城山には上らせなかったという。 

「 城山の入口には門があり、門をくぐると城主が客を迎えたり、 宴会したりする郭で、主殿や会所があり、会所の前には庭があった、という。  
今は広場になっているが、 発掘調査の結果による区割りで、主殿や会所その他四つの建物、櫓跡、門跡、堀跡、 通路跡、庭跡の表示がされていた。 」

城山から奥の山には木橋が架けられ、堀切を渡れたようだが、 今はそこは樹木で覆われ、橋は当然ながら残っていない。 
一旦城山虎口まで降り、「奥の山入口」 の表示に沿って上ると、奥の山に出た。
入口には、 「奥の山」 の説明板が建っている。 

説明板「奥の山」
「 奥の山は、別名、妙見郭とも呼ばれ、儀式や儀礼のための郭があった。 
発掘調査によって十六メートル四方の基壇が見つかっており、妙見宮の跡と思われる。  本佐倉城主はここで元服しており、妙見様は千葉氏の守護神とされている。 」 

城山
     奥の山説明板
城山奥の山説明板

奥の山は広い空き地で、その奥の樹木が並ぶ一角に、「妙見宮跡」 の石碑がある。
その右側に妙見宮の郭が建っていたようである。 

石碑の裏を回るように左に行くとb、奥の山の西隣は「倉跡」で、 この郭は倉庫群になっていたという。 
坂を下ると先程のW郭跡に出る。 
左手には東光寺ビョウがあり、物見台のようなものがあったようである。 
先程の駐車所の手前まで下ると、郭虎口の右側に東山馬場があるように、 見取り図板に表示されていた。 
しっかりした戦国時代の土の城であった様子を感じることができた。

これで本佐倉城址の見学は終えたので、街道の入口まで戻り、旅を再開する。 

妙見宮跡
     案内板
妙見宮跡本佐倉城見取り図


◎ 酒々井宿

道は上佐倉交叉点で国道296号線に合流し、直進するが、 道路標識には 「 直進は成田 富里 国道296号 , 右折は千葉 左折は宗吾 県道137号 」 とあるので、 成田街道は、次の交叉点で左折して、県道137号線に入る。 
入ったところの左側に、大鷲神社がある。
少し進むと右側に白壁の大きな家があり、 その先にも白壁土蔵造りの旧家が残っていて、 街道の雰囲気がする町並みをみせている。 

「  江戸時代、このあたりが、酒々井宿の上宿で、宿場の中心地だったといわれる。 
酒々井宿は、平安時代に村として誕生し、 戦国時代には千葉氏の本佐倉城の城下町になった。 
天正十九年(1591)、徳川家康の命により、佐倉藩の城が鹿島(佐倉市)に移転するが、 千葉氏の城下町を再編して、酒々井宿が誕生した。 
酒々井宿は、 一里塚(旧成田信用金庫跡)から麻賀多神社まで、  長さ約七百五十メートル、幅約百五十メートルの宿場町であった。  」 

右側にある八坂神社あたりは上宿である。 

白壁の大きな家
     八坂神社
白壁の大きな家八坂神社

JAを過ぎると酒々井宿の中宿になる。 
右側の家に、「酒々井町登録有形文化財 島田長右衛門家 島田政五郎家」  の説明板がある。 

説明板
「 明治二十七年(1894)の日本博覧図に、 酒々井仲宿 島田長右衛門家 島田政五郎家 として、 広い屋敷の様子が描かれている。 
島田長右衛門は、呉服太物足袋卸小売商を営んでいた。 」

その先に高札場があり、右に行く道は銚子道で、この通りが横町だった。 
そこをすぎると麻賀多神社までが下宿だった。 
麻賀多神社の手前にある、丁字路交差点から、一筋南の細い路地を左に入る。
入ると右側は円福院神宮寺の境内で、 そこには 「 伝説 酒々井の井 」 の石碑が建っていて、 その傍には、復元された、 酒々井の井 がある。 

ボタンを押すと、
「 昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。 
父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて、 父親に酒を買っていたんじゃ。 
ところが、ある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、 とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。 
その時、道端の井戸から、何とも良い香りが 「ぷうん」 としてきた。 
井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。 
さっそく帰って、父親に飲ませると、 「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」 とたいそう喜んだ。 
息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。 
ところが、この酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水になってしまうんじゃな。 
「 きっと、孝行息子の真心が、天に通じたに違いない。 」  と、みんながほめたたえた。 
この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるようになった、 ということじゃ。 」 という話が流れてきた。 

「酒々井の井」碑 の右側にある、板碑 は「下総式板碑」 といわれ、 鎌倉時代から室町時代に盛行した供養碑である。 
上面をよく見ると、 蓮花 と 梵字キリーク(阿弥陀如来種子) がある、とあった。 

酒々井宿の下宿の終わりは麻賀多神社である。 
小学校の前のうっそうとした林の中に, 麻賀田神社が佇んでいる。 
道はそのあたりから下り坂になる。

酒々井町登録有形文化財
     伝説酒々井の井
島田長右衛門家 島田政五郎家伝説酒々井の井

訪問日     平成二十六年(2024)十一月二十二日



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