江戸時代後半になると成田詣での参拝客が増えた。
それまで、江戸と佐倉藩城下を結ぶ街道・佐倉道があったが、
その道を成田山まで延長し、成田道、あるいは、成田街道と呼ぶようになった。
江戸周囲は運河が発達していたので、成田詣でや鹿島詣でに、船便も利用された。
日本橋小網町で船に乗り、小名木川・新川の運河を通り、本行徳へ上陸。
行徳街道を北上して、八幡宿や船橋宿に出る。
また、鹿島詣での旅人は、八幡宿や船橋宿から木下街道を歩いて利根川に出る。
そこから船便で、鹿島神宮を目指して行った。
◎ 小岩市川渡から八幡宿(やわたしゅく)
小岩と市川の間に流れる江戸川に、江戸時代には橋が架けられず、
小岩市川の渡しにより、渡っていた。
現在の成田街道の歩きでは、渡しが残っていないので、
国道14号の市川橋を渡る。
対面では、京成電車や反対側に走る総武線の電車が、絶え間なく鉄橋を渡っている。
約四百メートルの橋を渡り、左の土手道に入った所に、
「市川 関所跡」 の石碑が建っている。
説明板「市川 関所跡」
「 江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。
奈良・平安時代には、この周辺に井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、
都と下総国を往来する使者が、渡し船と馬の乗り換えを行った。
室町時代の連歌師・宗長が、 東路の津登で、 市川に渡りがあったことを記している。
江戸時代に入ると、旅人を調べる定船場が設けられ、それが関所に変わった。
市川・小岩関所 と呼ばれた関所は、両岸の小岩村と市川村が役割分担。
幕府役人が、旅人を調べる建物は、小岩側にあったので、
市川村は名主の能勢家が緊急時の補佐をした。
市川村は、街道を旅する人々のため、二〜三隻の船を常備し、番小屋を建てて、
二十人前後の船頭や人夫を雇っていた。
度重なる江戸川の護岸工事で、
関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。 」
「江戸名所図会」 の 「利根川根本橋市川渡口」 には、 左下に小岩の関所、右側に市川宿、 そして、川の上流に根本橋・根本村。 その先に総寧寺道・国府の台と続くことが、 描かれている。 」
土手の道は遊歩道になっている。
平日だからか、 散歩している人はまばらだった。
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市川関所跡 | 江戸名所図会 |
江戸名所図会にある国府台へ立ち寄る。
国府台は下総台地の西端、江戸川に面した台地上に位置する。
市川関所跡から、江戸川に沿って北へ一キロ程行くと、右側に里見公園がある。
訪れた時は、躑躅が開花してきれいだった。
境内には、「国府台城跡」 の石碑と、隣に説明板が建っている。
説明板「国府台城跡」
「 鎌倉大草紙によれば、文明十年(1478)、 、
扇谷上杉氏のの家宰・太田道灌が、下総国府台に陣取り、
仮の陣城を構えたとあり、 これが国府台城の始まりとする説がある。
康正二年(1556)、千葉自胤は、 兄の実胤と共に市川城に立てこもって、
足利成氏方に抵抗していたが、
簗田出羽守らによって城が落され、武蔵石浜に逃れていった。
太田道灌は、武蔵(石浜城)にいた千葉自胤を助け、
敵対する千葉孝胤と戦うために、ここに陣取り、
境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
この市川城と太田道灌の陣城が同じものか否かは不明である。
天文七年(1538)の合戦は、 北条氏綱が古河公方足利高基の子・春氏を担いで、
里見義堯(よしたか)らを率いた高基の弟・足利義明(小弓公方)と戦い、
北條氏が勝利し、足利義明は戦死した。
これは、小弓に拠を定めた義明と、北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。
永禄六年(1563)の戦いは、北条氏綱の子・氏康と、
これに抵抗する里見義堯の子・義弘の戦いである。
この合戦も、北条氏が圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など、
多くの戦死者を出し、安房に敗走した。
二度の敗北により、里見氏は衰退した。
現在の国府台城跡は、この合戦のなかで、激突する両軍の争奪の場となり、
戦後、北条氏の手により、規模が拡大強化され、
初期のものから戦国期城郭に進化したとする説がある。
天正十八年(1590)の北条氏討伐の後、 徳川家康の江戸入封に従い
、江戸俯瞰の地にあたる国府台城は廃城となった。
その後、里見八景園 という遊園地となり、その後、陸軍用地となり、終戦を迎えている。 」
上述の説明板が懇切丁寧であることから、少し、分かりずらいが、 ここは、天文年間と永禄年間の二度にわたり、 北条氏と安房国の里見氏が戦った、 「国府台合戦」 の舞台になったところである。
公園内には、 江戸時代に造られた、
里見軍の慰霊のための供養塔 「里見群亡の碑」 がある。
その隣の 「夜泣き石」 は、
戦死した里見広次の娘が、父の霊を弔うため、安房から訪ねてきて、幾日か泣き続け、
傍らの石にもたれるように息絶えた。
以来、夜になるとこの石から悲しそうな声が聞こえるという伝説の石である。
公園の北東に総寧寺(そうねいじ)がある。
建物は古くはないが、関宿から移された小笠原政信夫妻の供養塔である二基の五輪塔がある。
「 総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳三年(1383)、通幻禅師を開山として、
近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
ところが、天正三年(1575)、小田原城主北条氏政が、
寺領二十石を与えて、下総国関宿に移した。
その後、しばしば水害を被ったため、寛文三年(1663)に、
徳川四代将軍・家綱に願って、国府台に移った。
徳川家康は、総寧寺を全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じ、
住職には十万石大名の格式を以って遇し、小石川には邸が与えられた。 」
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国府台城跡碑 | 小笠原政信夫妻の供養塔 |
弘法寺に向う。
ここの石段は背の高く、急である。
上ると仁王門があり、その先に弘法寺の建物が建っている。
境内には、「伏姫桜」 という枝垂れ桜がある。
「 弘法寺は、国道14号の市川駅の反対にある大門通りの奥にあり、
国府台地の上に建っている。
奈良時代の天平九年(737)に、僧の行基が真間の地を訪れたとき、
手児奈の霊を供養して建てた、と伝えられる寺で、
求法寺(ぐほうじ)と名づけられた。
弘仁十三年(822)、弘法大師空海が、七堂伽藍を整備して、真間山請弘法寺と改めた。
その後、問答合戦で負けて、日蓮宗に改宗、
江戸時代には紅葉の名所として、江戸から多くの人が訪れた。
明治二十一年(1890)の火災により、諸堂が焼失したが、
明治二十三年(1892)に再建された。 」
仁王門から急な石段を降り、歩いていくと、
左側に 「手児奈霊堂」 と書かれた石碑がある。
中に入って行くと、赤い幟がひらめく先に、お堂があった。
「 手児奈霊堂は、むかしむかしのずうっとむかしに、
この真間の里に住んでいた、 手児奈 という美しい少女を祀ったお堂である。
手児奈(てこな)は、絶世の美人だったようで、
男たちが手児奈をめぐって、争いを繰り広げたということです。
心優しい手児奈は、自分のために争い傷つくのを厭って、真間の入り江に、
身を投げ、死んでしまった。
そのお墓の傍らに、 文亀元年(1501)、
日与上人が、手児奈の霊を弔うため、建てたのが手児奈霊堂である。
美女の悲運伝説は、その後、山部赤人他多くの歌人に詠われた。 」
手児奈が水くみをしたという真間の井は、 手児奈霊堂の道をへだてた向かいの亀井院の庭に残っている。
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弘法寺仁王門 | 手児奈霊堂 |
その先には「つぎはし」と書かれた石碑と、赤い橋がある。
「つぎはし」 とは、継橋 であり、
通行のために、入江の杭に、継板を渡した橋のことである。
水は流れていなかった。
江戸時代には、江戸湾の水がここまで流れ込んでくる入江だったとは、
現在の姿からは想像することはできない。
それに因んで、「万葉集にちなんだ歌」 という説明板が建っていた。
万葉集の第14巻 3349に
「 葛飾の 真間の浦廻を 漕ぐ船の 船人騒ぐ 波立つらしも 」
という歌が掲載されているが、
「真間の浦廻」 とは、入り組んだ海岸線(入江)を指したものである。
万葉集の頃、このあたりは、「真間の浦廻」 という土地だった。
下総国府が置かれた国府台を含めた下総台地の前面には、
東西に長く市川砂州が続き、
台地と砂州との間には、 真間の入江が奥深く入り込んでいた。
今の市川は、 市川駅より南方まで埋め立てられ、
真間のこの地には、 その先に真間川が流れているだけである。 」
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継橋(つぎはし) | 万葉集にちなんだ歌 |
真間川に架かる入江橋を渡り、大門通りを市川駅に向って進む。
大門通りには万葉集にちなんだ歌を到る所に掲示していた。
国道14号のある市川公民館の脇にでて、成田街道の旅を再開する。
市川西消防署を過ぎ、て少し歩くと、道脇の空地の角に、庚申塔を兼ねた道標が建っている。
「
正面に 「青面金剛」 とあり、その下に、三猿がいるので、庚申塔であることが分る。
左側の側面には、「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」 、
右側の側面には、 「東 八わた十六丁、中山一里」 、
と刻まれていて、天明元年(1781)の建立である。
江戸両国とは、元佐倉道の行き先である。 」
その先は新田地区。
左側の路地を見ると、到る所に、黒松の姿が目に入る。
「 明治から昭和まで、市川は東京にも近く、
白浜と黒松が生える高級住宅地で、文人達も住んでいた。
松は、市川海岸の松原の名残りと思われ、保存地区に指定されている。 」
左側に新田胡録神社があったが、江戸川を渡った市川橋の先にも胡録神社があったが、 この地には胡録神社が多いのだろうか?
京成本線菅野駅に入る道の入口には、 「左宮久保山道」 と、
もう一つの道標は読みづらいが、寛政十一年(1799)の建立で、
「左春可能道」(左すかの道) と刻まれ、
菅野村へ至る道を示している、という。
平田地区に入ると、左右に黒松が立ち並ぶ、細い参道に、
「諏訪神社」の石柱が建っていた。
参道を進むと、諏訪神社が黒松の木々の下にあった。
東隣りは囲いで覆われ、外環高速道路の建設工事が行われていた。
これらの黒松景観は 「松平田緑地保全地区」 として保護されている。
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庚申塔道標 | 二つの道標 |
諏訪神社を過ぎると、前方に高いビルが見えてきて、街道の雰囲気とは違ってくる。
交叉点に出ると、地下が都営新宿線本八幡駅。
右手にはJRの本八幡駅があり、多くの人が行き交っていた。
「 八幡(やわた)は、東京に近い住宅地で、
商業の町というイメージが強いが、
やわたの地名の由来となったのは葛飾八幡宮で、
その門前町として発展してきたという歴史がある。
八幡宿は、このあたりから市川市役所の先の真間川あたりまでだったようである。
八幡宿には本陣、脇本陣もなく、わずかに数軒の旅籠があったのみという規模だった。
隣の船橋宿が遊郭で賑わったので、成田詣での旅人の多くは次の宿を目指し、
八幡宿は通過するだけだったといわれる。
昭和の中期までは、黒松に囲まれた閑静な御屋敷街としての風情も残り、
永井荷風・水木洋子・岡晴夫などが暮らしていた。 」
八幡二丁目の歩道橋の手前に、「葛飾八幡宮」の案内板が建っている。
京成線の踏切を越えると、銀杏並木のうしろに、朱色の随神門があらわれる。
元は仁王門だったが、仁王が左右大臣に入れ替わった時に、門の名前も替えられた。
「 葛飾八幡宮には、伊豆から安房に上陸して、
下総国府に入った源頼朝も参詣にきた。
境内には多数の樹幹が寄り集まった、 千本公孫樹 とよばれる銀杏の大樹が、
目通し周囲十メートルをこす重量感で他を圧倒している。 」
「下総国総鎮守葛飾八幡宮」 のパンフレットによると、
「 御創建は、平安朝の昔、寛平年間(889−898)、宇多天皇の勅願により、 下総の国総鎮守八幡宮として御鎮座。 以来歴朝の御崇敬篤く、代々の国司・郡司をはじめ、国民の信仰深く、 下総国における葛飾文化、八幡信仰の中心となり、なかでも平将門の奉幣、 源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇修復後、 徳川家康の御朱印地社領52石の寄進等、その尊信は篤いものでありました。 また、御主神応神天皇の御事蹟により、文教の祖神、殖産興業、 殊に農業守護の神として近郊の信仰をあつめております。 」 とある。
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本八幡交叉点付近 | 葛飾八幡宮 |
参道には川上翁遺徳碑が建っていた。
この地に梨栽培をひろめた川上善六の顕彰碑である。
市川から船橋、鎌ヶ谷などで、今も梨栽培が盛んである。
川上翁遺徳碑の隣に、市川小唄、八幡音頭の歌碑もあった。
また、少し離れたところに、岡晴夫之碑もある。
「 市川から八幡にかけての地は、
砂浜と真間の湿地で、畑作に向かない不毛の地であった。
川上善六は、貧しい農民の生活を脱するためには、
土地に合った特産品を作り出す他はないと、梨の栽培に没頭するもうまくいかない。
明和七年(1770)、善六は美濃国を訪れて、接ぎ穂を得て、持ち帰った。
その後、葛飾八幡宮の別当寺法漸寺(現在は廃寺)の境内で、梨の栽培を本格化させる。
江戸に持って行き、八幡梨として世に広めた。
明治四十五年、八幡町が中心になって行った耕地整理の結果、真間川が改修され、
スゲなどの密生していた菅野にも、耕地が広がり始めました。
菅野には、太平洋戦争後、永井荷風、幸田露伴などの文士が居住し、
この地は彼らの終焉の地になった。 」
街道に戻る。
道の反対側にある竹薮は、八幡不知森である。
「八幡の藪知らず」 として、古くから知られ、
いったん入り込むと出てこられない、という伝承がある。
真間川をわたると鬼腰2丁目で、左に鬼腰駅に入るT字路がある。
左の道は県道59号で、木下街道(きおろしかいどう)である。
また、その手前三叉路の右の道は、行徳への道である。
「 芭蕉が、鹿嶋神社に詣でたときは、行徳まで舟で来て、
行徳からここまで歩いてきた。
その後、木下街道を歩き、利根川に出て、舟で鹿島詣でをしている。 」
木下街道に入ったとことの左側に、鬼越霊園がある。
案内には 「 安政元年(1855)の地震と津波の被災者を収容したのが始まり・・・ 」 とあった。
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川上翁遺徳碑 | 木下街道入口 |
◎ 八幡宿から船橋宿
街道を進むと人通りの多い中山駅前交差点に出た。
右側には総武本線の下総中山駅があり、左折すると京成中山駅がある。
駅横の踏切を越えると、中山参道総門があり、その先には法華経寺への参道が続いている。
法華経寺は、通称 中山法華経寺 といわれる、日蓮宗の寺院である。
当寺の由来
「 日蓮聖人は、布教活動の中で幾度となく迫害を受けたが、
千葉氏の被官・富木常忍や太田乗明が、八幡庄に迎えて保護した。
日蓮の没後、富木常忍は出家し、自邸の法華堂を法花寺と改め、
初代住持・常修院日常となった。
太田乗明の子・日高は、父の屋敷を本妙寺とし、二代目住持となった。
日高以来、代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺を兼務するが慣わしがあったが、
天文十四年(1545)、 古河公方足利晴氏より、 「諸法華宗之頂上」 という称号が贈られ、
法華経寺という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせて、一つの寺院になった。 」
中山参道総門は高麗門形式の門で、別名は黒門。
山門の朱塗に対し、黒塗のためにこの通称名がついたという。
「
木造で屋根は切妻、銅板葺き、門扉は最初からつけた跡がなく吹き通しで、
控柱の上にも小さな屋根がついている。
建築年代は不明だが、様式から江戸時代中頃と考えられている。 」
黒門をくぐると、参道の両側には商店が並び、門前町の雰囲気をただよわせている。
少し歩くと、 「南無妙法蓮華経」 と
日蓮宗独特の髭文字で書かれている石標がある大きな建物がある。
これは法華経寺の山門で、「仁王門」 ともいわれるものである。
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法華経寺・総門 | 山門(仁王門) |
山門をくぐると森の中で、道の両側に無数の寺院がある。
これらは全て、法華経寺の塔頭寺院で、荒行修業の道場もあった。
それらを横目で見ながら進むと、小さな橋があり、
その先之樹木は繁った中に、五重の塔が見えた。
広い敷地に出ると、左前方の大きな建物は祖師堂、建物奥の四脚門の先に法華堂、
その左側には刹堂が見えた。
「 祖師堂は宗祖日蓮聖人を祀るお堂で、
最初の建物は鎌倉時代正中二年(1325)に上棟された五間堂だった。
現在の建物は、江戸中期 延宝六年(1678)に建て替えられたもので、
屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の七間堂である。 国の重要文化財である。 」
法華堂は法華経寺の本堂で、 本尊は釈迦、多宝両尊像である。 これも国の重要文化財である。
「 法華堂は、鎌倉時代の文永年間に、富木常忍が若宮の館に建立し、
後に当地に移したと伝えられるものである。
現在の建物は室町時代後期の再建だが、江戸時代の祖師堂の建て替えに伴い、
少し小高い現在地に移転した。 」
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祖師堂 | 法華堂 |
祖師堂の前を進むと、左手に荒行堂があり、正面に本院がある。
「 中山法華経寺は、なかやま鬼子母神 としても有名。
鬼子母神は、子授け・安産・育児の神として崇拝される現世御利益のある信仰である。
日蓮宗の基本とする法華経において、
「 鬼子母神は、十羅刹女と共に、
法華信仰者の擁護と、法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っている。 」
ことから、日蓮宗では重視され、日蓮宗信者は絵馬を奉納し祈願したり、
礼参りをする風習がある。 」
広場の右奥に見えていた樹木の下には五重塔と大仏があった。
「 五重塔は、元和元年(1622)、本阿弥光室が、両親の菩提を弔うために、
加賀藩前田利光の援助を受けて建立したもので、高さは九十八尺(約30b)。
大仏は、青銅製の丈六像で、高さは356cm、
神田の鋳物師・太田駿河守藤原正義が、享保四年(1719)に完成させたものという。
青銅大仏の威容と繊細な細身の五重塔が対照的な美を競っていた。 」
街道に戻り、東に向って歩き始める。
先程の法華経寺は市川市中山、京成中山駅からは船橋市本中山と行政区域が変わる。
左に妙園寺、吉沢野球博物館の先、 左手に小栗原神輿倉が建っている。
その先の奥にある小栗原稲荷神社の祭礼のもので、四年に一度町内を練り歩くようである。
このあたりは、古くは小栗原と呼ばれたところで、
江戸時代には小栗原藩(栗原藩)があり、神社のある高台には小栗原城があった。
「 徳川家康が関東入国の際、当地四千石を与えられた、
成瀬正成が、関ヶ原合戦後、加増を受け、三万四千石の大名となった。
正成が、尾張藩付家老として、犬山城に移ると、二男の成瀬之成が、
尾張領を除く一万四千石、その後、一万六千石として、栗原藩は継承された。
寛永十一年(1634)、之成は、家光の上洛に従ったが、三十九歳で急逝。
同年に生まれた之虎が、家督を承継したが、五歳で亡くなり、無嗣断絶となり、
寛永十五年(1638)に栗原藩はなくなった。
成瀬氏の菩提寺は西船六丁目の宝成寺で、栗原藩二代目と三代目の墓がある。 」
その先には日蓮宗多聞寺があり、広い敷地の民家は建物はそれほど古くないが、
昔から住人のような気がした。
国道の右側は浜に向って傾斜し、左側の奥は丘陵になっていて、所々に松の木が残っている。
途中の右側に 「二子浦の池」 とあったが、
JR総武線より南はかっては海だったのではないだろうか?
京成東中山駅の入口(?)の路地角に、庚申塔が建っていた。
その先には浄土宗東明寺があった。
中山競馬場入口交叉点で、県道180号と交叉し、左は松戸、右は京葉道路原木ICへ至る。
左側に勝間田公園と葛飾神社がある。
説明板「勝間田公園と葛飾神社」
「 公園のところは、昔は風光明美な勝間田池で、
池のほとりの高台に熊野権現社があった。
大正五年、葛飾村本郷にあった一郡総社の葛飾大明神を当地に奉遷して、
熊野大権現と合祀、郷社葛飾神社と改称して、現在に至る。 」
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五重塔 | 庚申塔 |
右手にはJR西船橋駅がある。
下の写真は昭和四十年代の駅前の様子である。
武蔵野線はまだなく、工事を開始始めた頃である。
当時のJR西船橋駅は競馬が開かれる土日は混んでいたが、平日は通勤客のみで、
駅前の商店街まで空地になっていた。
今のようにごみごみしていなく、商店も駅前以外にはなかった。
今はごみごみしているし、周囲に家がぎっしり建ってしまっているのには驚いた。
左手の京成西船駅の方に歩いて行く。
京成西船駅は、昭和63年までは葛飾駅だったが、
東京の葛飾と混同するという理由で、西船になった。
京成電車は今も立体交差になっていないので、昔の雰囲気は残っていた。
京成西船駅を越えた左側の民家の前に小さな祠があり、地蔵尊が祀られていた。
説明板
「 成瀬地蔵又は木戸内地蔵 −
尾張徳川家の治政に貢献した成瀬正成は、家康よりこの地(栗原)に、四千石を与えられた。
後に尾張犬山藩主になりましたが、この地の四千石は次男之成が受け継いた。
成瀬之成は宇都宮天井事件で連座し、当地まで逃れ切腹したと伝えられ、
之成の怨霊供養のために造立されたという説と
印内村木戸内の女性で作られている念仏講連衆が五才で亡くなった之成の子之虎への供養と合せて夭折した地元の子供のため寄進造立し、念仏供養を続けたという説もある。
小栗原藩(栗原藩)は之成の子之虎の夭折により断絶し、この地は天領になった。 」
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昭和40年代のJR西船橋駅前 | 成瀬地蔵 |
武蔵野線の高架をくぐると、右からJRの地下道を抜け出てきた県道179号船橋行徳線が合流した。
「
このあたりは渋滞が激しいが、左側にはて板塀と門を配した面積の大きな家が続き、
○○左衛門など古い名前の家がある。
江戸幕府の新田開発の政策により、
船橋市域では延宝年間(1670代)に七新田(村)が開かれた。
葛飾・印内・西船一帯も、新田開発により開けた地区と思われ、
武蔵野線の両側はかっては畑だった。
大きな屋敷の人達は当時の地主なのだろうと思うが?! 」
左側の小高い所に山野浅間神社がある。
大したこともないと上って行ったが、急で、社殿まで、距離も長かった。
「 奈良平安時代には、この名前で存在したといい、嘉永三年(1850)に社殿を造営し、 昭和四十七年に増改築したとある。 」
その先の交叉点の右手には西船跨線橋があるが、その右側に龍神社がある。
「
龍神社は西海神村の鎮守で、別名阿須波の神ともいい、海上守護の神である。
この地は、古来から漁業を営んできた漁村で、神社の創建時期は不明だが、
その頃から祀られたと思われる。 建物は明治末年の建立である。 」
国道に戻り進むと、右側の海神派出所の先で、三叉路になる。
国道は右にカーブするが、直進の旧道に入っていく。
「 左手にあるのが龍王山大覚院、あかもん寺とあるが、 先程の龍神社は徳川時代に大覚院が別当となったことから、山号を龍王山と称しているという。 」
その先は総武本線の陸橋である。
陸橋の右側の細い道を行くと、「式内内宮入日神社入口」の看板があり、その奥に見えた。
「 入日神社は、日本武尊がこの地に上陸されたことから、 郷土守護、五穀豊穣、豊漁の神として、建立されたといい、 天照大神と日本武尊を祀り、船橋大神宮意富比神社の元宮と言い伝えられている。 」
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大覚院(あかもん寺) | 式内内宮入日神社入口 |
陸橋の下に地下道があり、 地下道を出ると、右側に念仏堂の案内板があり、鋭角に右に入っている道があった。
「 線路が引かれたため、分りずづらくなっているが、
この道は旧行徳街道である。
ここは成田街道と行徳街道の追分だったところで、かっては陸橋の下に道標が立っていたという。 」
道から少し入ったところに、大小四体の石仏と石碑が祀られていて、
その奥に観音堂があった。
観音堂は、元禄十四年(1701)、江戸神田町の富商高麗屋作治右衛門が建立寄進したもので、
堂内には三十三体の観音像が安置されている。
観音堂の左前にあるのが、前述した行徳追分にあった道標である。
三角頭の道標には、大きな字で 正面に 「 右 市川みち 左行とくみち 」、右側面に 「 是よりいち川 」 左側面に 「 是より行とく 」 、
後面の中央に 「 元禄七年(1694) 」 右側に 「 海神村 」 、
左に 「 戌 講中間 」 と刻まれている。
「
市川みちとは、佐倉成田道のことである。
行とくみちは行徳街道のことで、
行徳街道はここから船橋志山野町・市川市原木を経て、同市行徳に至る道だった。
行徳は、日本橋と行徳川を川で結ぶ行徳船の発着場で、
行徳と海神を結ぶ行徳道は、楽で早い船旅を好む成田参拝者で賑わいをみせていた。 」
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観音堂 | 行徳追分道標 |
その奥にある建物は海神念仏堂である。
境内には戊辰戦争の戦死者の墓もあった。
説明板
「 開基は不明だが、墓地に明暦三年(1657)の墓があることから、
創建年代はそれ以前と考えられる。
また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって、
浄土宗の寺院の形を整えたものといわれている。
その後は信者が集って念仏を唱えるお堂となり、現在に至っている。
鎌倉時代初期の作と見られる市指定文化財の木造阿弥陀如来立像が安置されている。 」
街道に戻ると、右側に地蔵院がある。
「
この寺は天正三年(1575)に僧長蓮、法印勝誉より、創建したと言われる寺である。
本尊は、勝軍地蔵菩薩で、明治時代には海神小学校の前身である寺子屋があったという。 」
日枝神社がある青少年センター前の交叉点より、
南の国道14号沿いの船橋郵便局にはさまれた一帯が、本町2丁目である。
ここは、江戸時代、遊郭が移転してできた、「新地」 というところである。
「
江戸時代、成田詣での行き帰りに船橋宿に宿泊した背景には遊郭の存在があった。
昭和三十二年の売春禁止法により遊郭はなくなったが、
この地が一大歓楽街として残ったのは近くにある競馬や競輪の存在である。
その客が帰りに立ち寄るということで賑わったのである。
今はビルが建ってその面影はないが、
昭和の時代は船橋というとストリップで、最盛期には五軒もあった。
ひとすじなかに入ったところに若松劇場というストリップ劇場があったが、
昨年八月末閉館して、千葉県には一軒もなくなった。
現在も若松劇場跡周辺には小さなスナックや小料理屋が数多くある。 」
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海神念仏堂 | 青少年センター前交叉点 |
船橋シテイホテルの斜め前にあるお堂は西向地蔵堂である。
「 江戸時代、ここから海老川の手前の本町四丁目までは九日市村で、
海老川の先の五日市村と、船橋宿を形成していた。
ここは船橋宿の西の入口にあたる場所で、
宿場の出入り口に、地蔵を建てたのは、
宿場に疫病、厄災を入り込まないようにという願いがこめられていた。 」
両側にビルが立ち並ぶが左側の細いビルに、
「 いなりや 慶応元年の創業 」 の看板がある。
うなぎやのようで、店頭のメニューを見ると、値段も手ごろなので、一度食べにいこうと思った。
その先は本町交叉点である。
「 江戸時代、この交叉点が、
佐倉・成田道および御成街道と木下街道が交錯する交通の要衝だった。
現在は左に行くと京成線や総武線の船橋駅がある。
西武百貨店(その後閉店になった)や東武デパートを始め、
ロフトやイトーヨーカドーなどがあるので、一番人通りが激しいところである。 」
直進する通りは本町通りで、江戸時代には旅籠などがあったところである。
「 四十数年前までは商家が多くあったが、
それらの多くはビルに変わり、銀行や証券などが進出して、かっての面影はない。
当時の店で残っていたのは左側の中華料理の東魁楼と、
その先にある江戸時代末期創業の和装呉服の森田呉服店である。
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西向地蔵堂 | 江戸時代末期創業の森田呉服店 |
本町通りは国道156号線だが、渋滞して車が数珠つなぎになっていた。
道の反対にあるのは和菓子の広瀬直船堂で、大正初期の古い建物である。
広瀬直船堂の裏手は本町3丁目で、
蜜蔵院、覚王寺、行法寺、最勝院、専勝院、浄勝寺、不動院などのある寺町だった。
不動院の入口には、大仏追善供養記念碑、その奥には石造の釈迦如来坐像が建っている。
説明板
「 石造釈迦如来坐像は、延享三年(1746)八月一日の津波によって、
亡くなった人々の供養のため建立されました。
文政七年(1824)、漁場の境界をめぐる争い中で、船橋の漁師が、
相手方の侍を殴打したため、
漁師総代三人が入牢し、うち二人が亡くなるという事件があり、
先の津波で亡くなった霊とともに供養を行うこととなりました。
文政八年(1825)から毎年二月二十八日に行われるこの行事は、
石造釈迦如来坐像に白米の飯を盛り上げるようにつけます。
これは、牢内で食が乏しかったのを償うためといわれています。 」
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広瀬直船堂 | 大仏追善供養記念碑・釈迦如来坐像 |
本町4丁目交叉点に戻り、交叉点の北に向うと正面に御蔵稲荷神社がみえる。
その前の路地を御殿通りといい、家康が鷹狩に行った際に立ち寄った御殿があった。
日本一小さな東照宮といわれるのは二筋目の右手奥にあった。
説明板「船橋御殿跡と東照宮」
「 徳川家康は狩猟を好み、各地に 御茶屋、あるいは御殿と称する、
休憩所や宿泊所を建てさせた。
慶長十九年(1614)、家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、
船橋御殿の建造もこの頃であろうと推測される。
家康は、元和元年(1615)十一月、ここに宿泊した。
家康の宿泊はこの一回だけであったが
、秀忠はその後、狩猟のたびに立ち寄ったと思われる。
将軍家の東金狩猟は、寛永七年(1630)頃に終止した後も、船橋御殿は存続していたが、
寛文年間の終わり頃(1670年代)には廃止となったようである。
船橋御殿の面積は約四百四アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。
その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられて、開墾されて畑地となった。
東照宮は富氏が建立したもので、
この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。 」
江戸時代、船橋宿の宿泊施設は、九日市村側に全てあったようで、
その数は寛政十二年(1800)で二十二軒、天保二年(1831)で、二十九軒だったという。
本陣や高札場跡は残っていないので、様子は分らないが、
本町4丁目が宿場の中心地だったものと思われる。
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御蔵稲荷神社 | 船橋東照宮 |
海老川をわたると、橋の欄干に「船橋」 という地名の由来を記した、 プレートが設置されている。
「船橋の地名の由来」
「 古代、海老川は、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったそうです。
そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、
橋の代わりにしたことから、船橋という名がつきました。
江戸時代には、海老川を挟んで東側では五の日、西側では九の日に市が開かれたことから、
それぞれ、五日市村(現宮本)、九日市村(現本町・湊町)と呼ばれていました。
この二つに、海神村(わたつみむら・現在はかいじんと読む) を加えたところを総称して、
船橋村とか、船橋宿と言われていました。
その地域が明治二十二年に船橋町となりました。 」
海老川の河口が船橋湊で、 この橋は海老川橋だが、別名は 長寿の橋 というそうである。
「
江戸幕府は将軍に献上する魚介を調達する漁場や漁村を 「御采浦」 と呼んでいたが、
九日市村と海神村が漁業集落で、船橋浦が漁場であった。
また、日本武尊が東征の途次、此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、
地元民が小舟を並べて橋の代わりとし、無事向こう岸に送り届けたという言い伝えがある。 」
街道は京成電鉄を越えて、船橋大神宮の鳥居前に出た。
船橋大神宮は、意富比(おおい)神社ともいい、
縁起は日本武尊の東征のころにまでさかのぼる由緒ある神社である。
境内の奥の松の茂みから顔だけ出しているのは、
明治時代につくられた東京湾最古の木造灯台である。
城郭風の建物の上に、洋風の燈塔を頂いて、船橋湊のシンボルだった。
なお、明治維新となる戊辰戦争では、船橋や市川地区で局地戦が行われた。
その際、幕府側の脱走兵が船橋大神宮を拠点としたため、
大神宮や船橋宿や漁師町の大半が焼失させられた、という。
そういうことで、船橋宿の面影は無くなっているのだろう。
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海老川橋 | 船橋大神宮 |
訪問日 平成二十六年(2014)五月八日