◎ 新宿(あらじゅく)
中川に架かる中川橋を渡る。
「 江戸時代、隅田川に架かる両国橋以外は、川に架橋を禁じたので、
大川は新宿村により、舟渡しであった。
新宿は小さな宿場だっやので、舟渡し賃は貴重な収入源だったのである。
中川に橋が架けられたのは明治十七年のことで、地元の有志らの寄付金で、
木橋が掛けられた、という。
二代目は昭和八年に架けられたが、
老朽化で、平成二十年(2008)に現在の橋に架け替えられた。
橋の長さは百二十メートル、車幅を拡幅し、さらに橋の両側に歩道が設けられている。 」
中川に架かる橋をのんびり歩くと、信号交叉点がある。
この辺りの地名は新宿で、江戸時代には水戸街道最初の宿場があったところである。
「 新宿の現在の地名は、「にいじぐ」だが、江戸時代は
であった。
、
「あらじく」であった。
新宿は水戸街道最初の宿場で、戦国時代に、
後北条氏がこの地に宿場を設けたのが始めとされる。
天保十四年の宿村人別帳によると、総戸数百七十四軒、旅籠屋大二軒、小二軒、
人口は九百五十六人である。
参勤交代で十四藩の大名が利用したが、千住宿と松戸宿の間にあったため、
休憩だけで、本陣や脇本陣は置れなかった。
小規模な宿場であったが、問屋場は置かれた。 」
中川橋東詰交叉点を越えた先の信号交叉点の左手に、宝蓮寺がある。
「 宝蓮寺は、天文元年(1532)に栄源により開基されたと伝えられる寺で、 本堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊し、明治三年に改築されたものである。 」
宿場に入る道は桝形構造になっているので、水戸街道は信号交叉点を右折する。
「 新宿は、中川橋東詰から湾曲して、南下する筋に、 江戸側から上宿・中宿となっていて、日枝神社から湾曲して、 東に向う筋が下宿であった。 」
南下すると、右側に、「西念寺」 の標柱があり、その先に山門が見える。
「 西念寺は、浄土宗の寺院で、江戸時代には門末七カ寺を擁する本寺だったという。 」
直進すると、右側に日枝神社山王保育園があり、水戸街道はここを左折する。
そのまま直進すると、新宿日枝神社がある。
「
当初はやや西方(山王保育園のあたり)にあったが、
享保十四年(1729)に、中川が改修された時、
現在地に遷座されたといい、新宿(にいじゅく)の鎮守社である。
平成二十年(2008年)に、本殿・神楽殿・山門・鳥居などを一新した。 」
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宝蓮寺 | 西念寺の山門 |
道の両側に、「新宿一里塚」 というバス停がある。
江戸時代にはこのあたりに一里塚があったのだろう。
その先の左側に、 「金阿弥橋」 と書かれた、埋め立てられてしまった、
橋の欄干が残っていた。
ここで、水戸街道へ行く道を探す。
三叉路には、「↑水元 水戸街道 → 」 の大きな道標がある。
水元は水元公園があるところだが、水戸街道は右である。
右に行くと中川大橋東交差点に出た。
道の左右の大きな道は国道6号線である。
「 数年前までは「あづまや」 という蕎麦屋の角に道標があり、 ここで佐倉水戸街道は佐倉と水戸の二街道に分かれたというが、 蕎麦屋も道標もなくなっていた。 」
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金阿弥橋の欄干 | 水元 水戸街道の標識 |
◎ 新宿から小岩の渡し場跡
交叉点を横断してそのまま進むと、北野小学校に出る。
北野小学校で、右折して進むと、京成金町線の線路に突き当たる。
右の八幡神社の境内を抜けて、線路を渡ると柴又帝釈天前交叉点に出た。
対面から出てきた大型バスが交叉点をギリギリに右折していった。
直進し、右の道に入ると帝釈天の門の前に出た。
「 日光東照宮陽明門を模したといわれる二天門は、総ヒノキ造りに、 壮麗な彫刻を施した重厚な山門である。 」
門をくぐると、瑞竜の松が枝を拡げ、正面に帝釈堂の偉容が現れる。
中には見事な彫刻があり、内外二重のガラス張りの回廊が設けられ、
ガラス越しに、彫刻美を鑑賞することが出来る。
「 柴又帝釈天の正式名称は、経栄山題経寺で、
寛永六年(1629)、禅那院日忠と題経院日栄という僧によって、
開創された日蓮宗の寺院である。
九世住職の日敬の頃から、当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、
柴又帝釈天として、知られるようになった。
全国的に知れ渡るようになったのは、渥美清演じるトラさんの 「 男はつらいよ 」の 映画による。 」
参道には、映画に出てくる、 「 草だんご、寅さん煎餅、うなぎの蒲焼 など、 」食べ物屋が多い。
近くには 「 寅さん記念館 」 や、 「 山田洋二記念館 」 などがある。
もと来た道に戻り、直進すると江戸川堤防にぶつかり、 土手をおりて広い河川敷公園をよこぎると、矢切の渡しにでる。
「 江戸時代初期、地元民の生活向けに設けられた渡し場で、
現在も運行されている数少ない渡しである。
対岸に渡り、北に向うと、映画のなった伊藤左千夫の 「 野菊の墓 」 の文学碑がある。 」
映画「 野菊の墓 」 は,
小生が高校の頃、上映された作品で、
十五歳の政夫と二つ年上の従姉・
民子との純真可憐な恋物語である。
悲恋に終わるストーリーには多感な時期だった小生も涙が止まらなかった思い出がある。
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柴又帝釈天二天門 | 矢切の渡し |
崇福寺まで戻り、街道を行くと高砂商店街へ入って行き、高砂八丁目交差点に出た。
京成金町線の踏切を渡り進むと、右側に京成ドライブスクール、
左側に桜道中学校がある。
学校を過ぎた路傍に、「さくらみち」「旧佐倉街道」 の 新しい石標が建っていた。
七福神を乗せた宝船の浮き彫りを施した下に、
「 佐倉藩主をはじめ、房総十数藩の大名が通った他、成田へ通じる参詣道であり、
成田千葉寺道とも呼ばれた。 」 などの街道の説明付きである。
七福神は、葛飾七福神めぐりの道 ということらしい。
桜道というだけあって、桜並木が続き、左右は住宅地である。
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さくら道の道標 | 桜並木のある道 |
北総鉄道の高架の左手には新柴又駅がある。
その北方に、題経寺があり、
境内に 「浅間山噴火川流溺死者供養塔」 が建っている。
「
天明三年(1793)七月、浅間山が大爆発を起こした時、
利根川上流の吾妻川が、山津波と皇降灰で出来たダムが決壊し、
下流は大洪水となり、死者は二千余人に及んだ。
最下流にある柴又も同様で、上流からの川流溺死者も漂着した。
供養塔は、当時の柴又の人々が供養のため、建てたものである。 」
北総鉄道の高架をくぐると、柴又街道と交差する柴又五丁目交叉点に出る。
ここは昔は柴又村と鎌倉新田の境界だった。
成田街道を歩くと、柴又街道と何回か交叉する。
少し歩くと、「江戸川区北小岩」 の標示に変わる。
江戸時代、北小岩は伊与田村だった。
「さくら道」 の道標に代わり、
江戸川区は 「親水さくらかいどう」 の道標が建っている。
道の右側半分が車道で、左側は並木と、細い水路を配した遊歩道に、整備されている。
元は道沿いに、利根川から引いていた農業用水路が流れていたらしいが、
それに変わる水路である。
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浅間山噴火川流溺死者供養塔 | 親水さくらかいどう道標 |
静かな住宅街をとおりすぎると、江戸川の土手に突き当たるが、 一つ手前の信号交叉点の南には小岩公園があり、力石がある。
「
力石は、地域の青年たちが力比べの道具として使用したもので、江戸中頃から始まり、
明治・大正と続いたが、二十世紀に入ると廃れていった。
右の石には「六十五貫目」とあるので、244kg、
左の石には「四十八貫目」とあるので、180kgである。 」
江戸川の土手に突き当る右側に「小岩親水緑道」 の標示があったので、 中に入ると、水神碑と水が流れている。
「説明文」
「 かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかった。
明治時代、上小岩村の石井善兵衛を中心に、運動を進めた結果、
明治十一年(1878)に取水口が完成し、善兵衛樋 と命名された。
大正十三年(1924)、地元の人達が、
その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったのが水神碑である。 」
水が滝のように流れているのは、善兵衛樋 であることを知った。
善兵衛樋は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、
流れ落ちる仕組みになっている。
まるで滝のようで、その背後の見上げるような土手の向こうには、
江戸川からの取水口と流れがそのまま残っている。
その裏に祠があり、馬頭観音碑と地蔵菩薩が祀られていた。
右側の地蔵菩薩は「慈恩寺道」 の道標になっていて、
右面に 「是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 是より左千手道 新宿迄壱里
千手迄弐里半 」 とあり、岩槻と千住の二方向と距離が示されている。
正徳三年(1713)に建立されたもので、埼玉県の慈恩寺まで行く旅人によって、
大事な道しるべだった。
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力石 | 慈恩寺道道標 |
街道は江戸川の土手道を歩いてもいいが、車道の下の狭い道を右に進むと坂になり、
上ると唐泉寺の脇に出る。
唐泉寺は 「封じ護摩の寺」 と書かれ、赤い幟がはためいていた。
細い道が途切れるので、左の土手に上り、その先の右下に見える細い道の続きを歩く。
少し先のセブンイレブンの看板板のある三叉路で、右に入ると小岩田天祖神社がある。
この道は進入禁止の表示がある一方通行で、そのまま南下すると、
京成江戸川駅の高架下に出る道である。
完全な住宅地で、左に江戸川の土手が見える。
左側にある真言宗真光院には、区文化財の木造閻魔坐像が祀られているという。
寺前の右側に祠があり、祠の前に、青面金剛碑と庚申塔碑、中にも石碑群があったが、
どらえもんの碑は意外だった。
道を進むと右側の公園の奥に、光ヶ嶽観音堂 があり、 里見義豊・義俊の守り本尊と伝えられる、一寸八分(約6cm)の観音像を祀っていた。
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唐泉寺 | 真光院の庚申塔碑等 |
更に進むと左側に若竹寿司があり、店前に二基の道標があった。
「 奥の道標は伊与田村の観世音道石造道標といわれるもので、
正面に 「安政四年(1775)二月吉日 是よりあさくさわん世於ん道 伊与田村中 」
右面に 「右舟ばし迄三里 」 左面に 「にいしく道 」 とある。
あさくさわん世於ん道とは浅草観音への道のことで、旧佐倉街道、にいしく道とは新宿への道で、佐倉街道である。 」
京成江戸川駅の高架下をくぐり抜けると、 右側に旧伊与田村(現 北小岩3・4丁目)の鎮守の北野神社がある。
「 江戸時代にこの地にあった稲荷神社と、北方の北野神社が明治の神社統合令により、 合祀され、現在の北野神社になった、とある。 」
社殿の右手前に、重さ三十八貫目(142.5kg) の力石があった。
江戸時代後期に日本一の力持ちと言われた三ノ宮卯之助が持ち上げたとされるものである。
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観世音道石造道標等 | 北野神社の力石 |
京成本線江戸川駅の高架下をくぐり進むと、向いに中華料理昇龍のある交叉点に出る。
左側の家は、江戸時代旅籠屋だった角屋旅館だが、残念ながら廃業されてしまった。
ブロック塀を背にして、痛みがありよくは見えないが、 「御番所町跡」 の説明板が貼られている。
説明板「御番所町跡」
「 このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先の江戸川河川敷には、
小岩市川の渡しと関所がありました。
小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから、
御番所町と称したと思われます。
江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の 伊予田村 の頃にも、
関所は 「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云うと書かれています。 」
三叉路の右の道を少し進むと、右側に少し引っ込んだところに、 「御番所町慈恩寺道」石造道標が建っていた。
「 安永四年(1775)に、建てられたもので、
正面に 「 右 せんじゅ岩附志おんじ道 左り 江戸本所ミち 」
右面に 「 左り いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 」
左面に 「 右 いち川みち 安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 」
とあり、岩附志おんじとは、これまで数回出てきた、埼玉県岩槻市にある慈恩寺のことで、
せんじゅ岩附志おんじ道は、 水戸街道から下りてきた佐倉道を指す。
また、江戸本所ミちは、浅草橋からの近道、元佐倉道(現在は国道14号・千葉街道)である。
江戸時代には、浅草から来た旧佐倉道と、
水戸街道を下りてきた成田街道(佐倉道)がここで合流し、
左手に降りて、番屋で許可を得て、渡し船で市川に渡っていた。 」
旧佐倉道を少し進むと、右側に宝林寺があり、
境内には小岩市川渡の江戸川岸に建てられていた立派な常灯明が建っていた。
寺の左手には、古い地蔵菩薩や庚申塔が祀られている。
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御番所町慈恩寺道道標 | 江戸川岸に建てられた常灯明 |
中華料理昇龍に戻り、江戸川に向って進み、石段を上って土手にでると、 「小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡」 の説明板があった。
説明板「小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡」
「 江戸時代のはじめ、両国から竪川(たてかわ)の北岸を東にすすみ、
逆井の渡しで、旧中川を渡り、
小岩で現在の江戸川を渡って、房総へむかう道がひらかれました。
元佐倉道と呼ばれ、明治八年(1875)に千葉街道と改称されています。
江戸時代に作られた水戸佐倉道分間延べ絵図には、
「 元佐倉通り逆井道 江戸両国橋え三里 」 と記されています。
江戸から佐倉にむかう道筋には、千住から新宿に至って、水戸街道と分かれ、
小岩に至る佐倉道があり、
江戸時代には、こちらが街道として利用されていました。
江戸を守るために、江戸川には橋が架けられませんでした。
小岩市川の渡し の小岩側に、小岩市川関所 がおかれていました。
常時四人の番士が配属されていました。
上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。
戊辰戦争ではここも戦場になっています。
明治二年に廃止されました。 」
小岩番所の説明板の北よりの河川敷が、
「小岩菖蒲園」として整備されている。
当日は花が咲いていなかったが、菖蒲祭が開催されている時に訪れると、
「小岩菖蒲園」の幟があるところに、見学者がおり、花が咲いていた。
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小岩市川の渡し跡 | 小岩菖蒲園 |
訪問日 平成二十六年(2014)五月二十六日