成田街道は、成田詣で盛んになったため、
佐倉道(さくらみち)が成田山まで延長になった道である。
佐倉道は、下総国佐倉藩主が参勤交代につかった道で、
日本橋から船橋宿を経由して佐倉城に通じていた。
最初は日光街道の浅草橋から両国橋を渡り、竪川通りを東進し、
旧中川の逆井の渡しから四股、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩に出て、船橋へのルートだった。
しかし、日光街道に千住宿が開設されると、千住経由に変わり、
水戸街道の新宿から小岩に出るルートになった。
この二つの街道は「佐倉道」と呼ばれたが、両者を区別するため、古い道は元佐倉道と呼ばれた。
江戸中期以降、成田詣でが盛んになると、街道は成田まで延長され、
その頃から成田街道と呼ばれるようになった。
◎ 千住から水戸街道・新宿
北千住の宿場町通りを北にぬけると、千住四丁目と五丁目の境に大きな交差点がある。
江戸時代、ここが奥州・日光街道と水戸街道の追分であった。
水戸・佐倉街道は東側の右の細い道に入る。
千代田線・常磐線のガードをくぐると清亮寺があり、
東武線のガードをくぐると荒川の堤防に突き当たる。
「 昔はここに弥五郎橋が架って、千住宿と小菅村を結んでいた。
明治四十四年に荒川放水路の工事が始まり、川の形が変わり、橋もなくなったという。 」
土手に登ってみると幾つもの鉄橋が並んで建っていた。
しょうがないので、千住新橋に向い、橋を渡って向う側に出た。
橋を渡りきると、右折して中央環状線の高架下に降り、千代田線・常磐線のガードと東武線のガードをくぐる。
左側に東武・地下鉄日比谷線の小菅駅がある。
それを横目で通り過ぎると、左側に「万葉公園」という小さな公園があった。
「 公園を流れる細い水路は古隅田川で、ここから中川まで五キロにわたって残っていて、足立区と葛飾区の境界線をなしている。 」
公園が出来た時期は分らないが、水路に沿って設置された説明板の画面が禿げ落ちていて、
読むのが困難になっていた。
説明板には
「 小菅ろの 浦吹く風の 何(あ)ど為為(すす)か 愛(かな)しけ児ろを 思い過(すご)さむ (万葉集・巻14東歌3564)
という歌があり、これが万葉公園の名の由来のようである。
また、説明板には以下のようにと書かれていた。
「 小菅には江戸の初め関東郡代伊那忠治の一万八千余坪にのぼる広大な下屋敷がありました。
元文元年(1736)、八代将軍吉宗の命により、屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩の際の休息所として利用されました。
御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
さらに小菅籾蔵跡には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれて行きます。 」
![]() |
![]() |
|
荒川土手 | 万葉公園 |
その先の右手信号を渡って、土手に上ってみたが、川幅も広く、
江戸時代の風景とはかけ離れているのだろうと思った。
万葉公園まで戻ると、南に東京拘置所があるが、当然といったら当然であるが、警戒が厳重である。
守衛のいる門の手前の左側に案内板があり、鉄格子の向こうに灯籠が建っていた。
葛飾区教育委員会の建てた説明板
「 旧小菅御殿石灯籠 所在地 葛飾区小菅一丁目35番 登録年月日 平成元年(1989)3月20日
円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、
四角形の笠をおき宝寿珠を頂いた総高210cmの御影石製の石灯籠です。
もとは数行の刻銘があったとみられますが、削られていて由緒は明確でなく、また銘を削った理由も詳かではありません。
ただし当地は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、
小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっていることから、
灯籠の造立は江戸時代中期以降と考えられます。
もとは裏庭にありましたが、現在は手水鉢・庭石とともに、拘置所正門脇に移して保存されています。
なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後、江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。
寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。
後にそこは、将軍の鷹狩りの際の休息所にあてられ、
元文元年(1736)には頻繁に狩をした吉宗の命により小菅御殿が造られた。
明治にはいって一時小菅県庁が置かれたこともある。
その後曲折を経て東京拘置所となった。 」
拘置所の南側を歩いていくと、左側にモダンな拘置所の建物が一望できた。
塀の前に 「 小菅御殿と江戸町会所の籾倉 」 という白い紙が板に貼られた説明板があった。
説明板「小菅御殿と江戸町会所の籾倉」
「 寛政六年(1794)に取り壊された小菅御殿の跡地の一部に天保三年(1832)に江戸町会所の籾倉が建てられた。
大飢饉や大水、火災などの災害に備えたもので、老中松平定信の建議によるものだった。 」
![]() |
![]() |
|
旧小菅御殿石灯籠 | 東京拘置所 |
T字路で右折すると、左側に「松原児童遊園」という小さな遊び場があり、
右側には赤い柵に囲まれた小菅稲荷大明神の小祠があった。
ここにも白い紙が板に貼られた 「小菅稲荷神社と小菅御殿の狐穴」 という説明板があった。
説明板
「 小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていたが、昭和に現在地に移された。 ・・・ (以下省略)」
この広い道は、小菅御殿の正門から水戸街道に出る御成道で、 以前は見事な松の並木が続いていたようだが、今は松原通りの名に残るだけである。
松原通りから左に細い道を入り、草津湯の前を通り過ぎた先に西小菅小学校がある。
校庭に「銭座跡」と刻まれた石柱があるというが、中に入れないので、見付けられなかった。
校門脇の左側の草藪に、葛飾区教育委員会の建てた「小菅銭座跡」の説明板がある。
説明板「小菅銭座(ぜにざ)跡」
所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号 西小菅小学校 指定年月日 昭和58年(1983)2月21日
安政6年(1859)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。
この吹替のため幕府は安政6年8月に小菅銭座を設けました。
小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(15,000u 約4,600坪)を持ち、
この西小菅小学校の辺りがその中心地であったと思われます。
ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。
今その頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。 」
![]() |
![]() |
|
小菅稲荷神社 | 小菅銭座跡の説明板 |
郵便局を過ぎると、頭上に高架橋があり、それをくぐると道は突き当たりになった。
、
右側に 「水戸橋跡地」 の説明板があった。
綾瀬川に架かる水戸橋は以前はここに架かっていたようだが、
今は左に歩いた先にコンクリートの新しい橋が架かっている。
説明板
「 水戸橋は水戸黄門と縁があるようで、昔、川に架かる橋のたもとに妖怪が出没。
水戸黄門が橋のたもとで妖怪を退治し、 「 後日再び悪行を重ねることのなきよう、
橋に我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである 」 と自ら筆をとったといわれている。 」
左手には鵜乃森橋があるが、流れているのは古隅田川で、両側はウッドデッキの遊歩道として整備されていた。
右側に小菅交番がある交叉点を直進すると道幅が広くなり、きれいに舗装された道が真っ直ぐに延びている。
左側の蓮昌寺を過ぎると、小菅三丁目交叉点に出た。
道路標識には 「←四つ木、↑西亀有 綾瀬→、」 とあるが、
左右の道は都道314号、直進は都道308号である。
![]() |
![]() |
|
現在の水戸橋 | 鵜乃森橋 |
交叉点を直進すると、程なく左斜めに入っていく道がでてきた。
左の電柱下に 「旧水戸街道 旧水戸佐倉街道 →」 の標示があり、これが旧道である。
ここからは西亀有地区で、商店や会社はまばらに存在するだけで、住宅地である。
道は北東に延びているが、道なりに進むとJR常磐線の高架橋が見えてきた。
そのまま進むと高架橋の手前で突き当たったので、右折して線路に沿って歩く。
交叉点を越えると駅もないのに高架下にはミニスーパーのE-MART亀有店があったので、
アイスクリームを買った。
この日は雲一つない快晴なので、大変に暑かった。 食べながら歩く。
三叉路を過ぎると道は線路を離れ、大きく蛇行して信号交叉点に出る。
交叉点を越えると左にカーブして、西亀有三丁目交差点に出た。
「
左手に砂原第二公園があるが、西亀有は古くは葛西郡砂原村だったのである。
砂原の地名はかって隅田川が蛇のようにくねって流れていて、その南方に砂原が広がっていて出来た土地からだろう? 」
![]() |
![]() |
|
旧水戸佐倉街道入口 | 常磐線高架下 |
西亀有三丁目交差点からの道は都道467号で、道幅も広く急に都会化してきた。
ここから亀有で、江戸時代には水戸街道と水路とが交差する交通の要所だった。
都道467号を亀有四丁目交叉点、道上小東交差点と進み、次の信号交叉点に来ると、
右手に 「曳舟古上水橋」 の石柱と「曳舟親水公園」 の石碑があり、
「曳舟川の由来」の看板があった。
「看板の説明文」
「 曳舟川は明暦三年(1657)の大火の後、
開発された本所・深川の新市街地へ飲料水を供給する目的に開発された水路である。
成立は万治二年(1659)といわれ、亀有上水とか本所上水、小梅上水とも呼ばれていた。
享保七年(1722)に亀有上水は廃止され、小梅より南部は埋め立てられたが、
上流部は用水として残され、古上水掘と称された。
篠原村(現四つ木)と亀有村間二十八町(約3q)の水路は人を載せた小舟を引っ張り運ぶ曳舟が行われたことから、
曳舟川と呼ばれるようになった。 」
曳船川は越谷市の逆川から引かれた用水で、正式名は東京葛西用水だが、
今は暗渠となり、四つ木までの約3kmを区が曳船川親水公園として整備したもの。
左側に木造の船着場休憩所、右側に小川の流れを配し、
水道水をろ過、滅菌して秒速10cmで循環しているという。
休憩所は何か所かあり、公園というより遊歩道である。
![]() |
![]() |
|
曳舟古上水橋碑 | 曳舟親水公園 |
曳舟川親水公園のある交叉点を渡ると、 「旧水戸街道 亀有上宿」 の石柱があった。
街道を少し進むと、右側に老人ホームの大きなビルがあるが、その手前のマンション前に、
水戸黄門と助さん、格さんの像と水戸街道一里塚跡を一つにした石碑があった。
車道側に 「 旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。
平成14年4月吉日 葛飾区 亀有上宿商店会 」 とあり、最近建てたものである。
また、区が建てた説明板には、 「 亀有一里塚は千住宿から一里、江戸日本橋から三里に位置し、明治末までは一里塚の跡は残っていた。
一里塚は現在地より東に約10mのところにあった。 」
とあった。
亀有二丁目交叉点の左右の道は都道318号、通称環状7号線である。
水戸街道は直進するが、左手にはイトーヨーカドーの大きなモールが聳えていた。
ここは日本板紙の工場跡地だと思うが・・・
![]() |
![]() |
|
旧水戸街道 亀有上宿碑 | 水戸黄門主従と一里塚の碑 |
◎ 新宿(あらじゅく・にいじく)
その先にあるのは中川に架かる中川橋である。
「 家康が江戸に入った当時は利根川と荒川の本流の川が流れていたため、
度々水害にあったため、
家康の命令で関東郡代伊奈氏が利根川の流れを銚子に変える工事を行なった。
その際、荒川を西に移す工事が行われたが、完成した後に残った流れが中川で、
工事前には中川という川はなかったのである。
また、幕府は江戸への侵略を防ぐため、橋を架けるのを禁止した。
中川橋が架けられたのは明治十七年で、地元の有志らの寄付金で木橋が掛けられた。
二代目は昭和八年に架けたものだが、
老朽化により平成二十年(2008)に現在の橋に架け替えられた。
橋の長さは百二十メートル、車幅を拡幅し、さらに橋の両側に歩道が設けられている。 」
中川は程よい川幅で眺めのよい川。 のんびり歩くがすぐに渡り終えた。
渡り終えた先は小田原北条氏によって作られたといわれる新宿(江戸時代」にはあらじゅく・ 現在の地名はにいじゅく)である。
「 天保十四年の宿村人別帳によると、
総戸数百七十四軒、旅籠屋大二軒、小二軒、人口は九百五十六人である。
新宿は、参勤交代で十四藩の大名に利用されたが、千住宿と松戸宿の間にあったため、
休憩だけで、本陣や脇本陣は置れなかった。
名物は中川で獲れた鯉や鱸で、
藤屋・中川屋・亀屋などの料理屋が店を並べていたというが、
今は、宿場の面影は残っていない。 」
中川橋東詰交叉点を越えた先の信号交叉点左手に宝蓮寺がある。
「 宝蓮寺は天文元年(1532)に栄源により開基されたと伝えられる寺で、 本堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊し、明治三年に改築されたものである。 」
水戸街道最初の宿である新宿は、江戸側から、上町・仲町、屈折し、
南に南下すると下町で構成されていた、という。
宿場に入る道は桝形構造になっているので、信号交叉点を右折し、
少し進むと右側に「西念寺」の標柱の先に山門が見えた。
「 西念寺は浄土宗の寺院で江戸時代には門末七カ寺を擁する本寺だったという。 」
直進すると右側に日枝神社山王保育園があり、街道はここで左折する。
そのまま直進すると、新宿日枝神社がある。
「 当初はやや西方にあったが、享保十四年(1729)にの中川が改修された時、 現在地に遷座されたといい、新宿(にいじゅく)の鎮守社である。 平成二十年(2008年)に本殿、神楽殿、山門鳥居などを一新された。 」
![]() |
![]() |
|
宝蓮寺 | 西念寺の山門 |
左右に新宿一里塚というバス停があるが、江戸時代にはこのあたりに一里塚があったのだろうか?
その先の左側に 「金阿弥橋」 と書かれた埋め立てられた橋の欄干が残っていた。
その先は区画整理が行われているのか?と思いながら、街道を探す。
三叉路には「↑水元 水戸街道→」 の大きな標識がある。
水元は水元公園があるところだが、水戸街道は右である。
右に行くと中川大橋東交差点に出た。
道の左右の大きな道は国道6号線である。
「 数年前までは「あづまや」 という蕎麦屋の角に道標があり、 ここで佐倉水戸街道は佐倉と水戸の二街道に分かれたというが、 蕎麦屋も道標もなくなっていた。 」
成田街道は、千住からここまでは水戸街道を歩いてきたが、 この後は水戸街道と別れて歩いていく。
![]() |
![]() |
|
金阿弥橋の欄干 | 水元 水戸街道の標識 |
訪問日 平成二十六年(2014)五月二十六日