本佐倉城は、続日本100名城の第121番に選定されている。
千葉氏は、戦国時代に下総国の守護を務めた名家である。
猪鼻城を居城としていた千葉胤直(たねなお)とその子・胤宣(たねのぶ)が、
享徳三年(1454)、叔父の馬加康胤(まぐりやすたね)等に、攻められ、
千田庄で自害したことで、宗家の千葉氏は滅亡した。
馬加康胤は、下総千葉郡馬加村(現 千葉市花見川区幕張町) に居を構えたことから、
馬加氏を名乗っていたが、千葉宗家を滅ぼしたことから、千葉康胤に改名して、
千葉氏十九代当主となった。
子の千葉輔胤(すけたね)は、文明年間(1469-1486)に、
本拠地を猪鼻城から本佐倉城に移した。
戦国時代に入り、北條氏の娘を迎えた千葉邦胤(くにたね)が、天正十三年(1575)、
家臣に殺害される。
北條氏政は、実子直重を養子として送り込み、千葉直重を名乗らせ、
邦胤の子・重胤(しげたね)は人質として小田原に住わせ、
北條氏により、千葉氏の家督は奪われた。
天正十八年(1580)の羽柴秀吉による小田原攻めにより、北條氏は滅亡したが、
千葉氏も命運を共にした。
千葉氏は、その間、九代、百有余年間、この本佐倉城を居城として、
下総国を統治した。 」
本佐倉城があったのは、印旛郡酒々井(しすい)町佐倉である。
京成本線大佐倉駅の南東六百メートル位の城山が、城があったところである。
本佐倉城は、印旛沼を望む標高約三十メートルの半島状台地にあり、
南西面を除く三方は、水田に囲まれる要害の地にあった。
本佐倉城の入口には、「国指定史跡本佐倉城跡」 の標柱が建っていて、
平坦な土地に水仙が植えられているが、
このあたりは、本佐倉城の東山虎口だったところである。
その先の駐車場になっている土地には 「東山馬場」 の石柱が建っている。
また、その傍に、「国指定史跡本佐倉城跡全体図」という看板が立っていた。
駐車場から、小道(堀底道)を上っていくと、
右側の丘陵に、板状のものが並べられている。
ここは、IV郭があった跡で、 板状のものは、千葉氏の家紋の楯を意味する。
説明板
「 平成十九年、二十四年の二回にわたり発掘調査が行われ、門跡の他、
東山虎口から、城山や倉庫跡へ向う通路跡や、分岐点・付随する柵列跡が見つかった。
郭には名前が付いていないが、倉跡の虎口施設にあたる重要な郭と推定させる。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
本佐倉城の総面積は約三十五平方米で、内郭群と外郭群に大きく分かれる。
「 内郭群は、城主の館「城山館跡」、妙見神社を祭る「奥山」を中心に、 倉・馬場・「東山馬場」などで、構成されていた。 」
郭虎口 の右側に、堀跡と堀跡の先に「門跡」が見つかったという説明板があり、
当時の様子が想像できる。
そこを過ぎると三叉路で、突き当たりが奥山、左側は城山である。
道を左にとると、二メートル程の急坂で、その先に「木戸跡」の説明板がある。
説明板「木戸跡」
「 この道は大堀切といい、城山と奥の山を分ける堀切になっていた。
ここに、木戸があった。 」
「城山入口」の案内板で、左側に入って行く道は、
道幅一メートル八十センチ、何度も蛇行して城山虎口に向う。
木戸跡から城山虎口までの高低差は七メートル。
この急な勾配は容易に城山には上らせなかった、という。
訪れた先には、施設の名前や、その範囲を縄で、表示してあった。
おかげで、城山の入口には門があり、門をくぐると城主が客を迎えたり、
宴会したりする郭である主殿や、会所があり、
会所の前には庭があった様子が確認できた。
現場では発掘調査の結果という主殿や、会所、その他四つの建物・櫓跡・門跡・堀跡・通路跡・庭跡の説明板があった。
![]() |
![]() |
![]() | ||
城山から奥の山には,
木橋が架けられ、堀切を渡れっていたようdである。
今は、樹木で覆われ、橋は当然ながら残っていない。
一旦、城山虎口まで降り、「奥の山入口」 の標識に沿って、
上ると「奥の山」に出た。
入口には、「奥の山」の説明板が建っている。
説明板「奥の山」
「 奥の山は、別名、妙見郭 とも呼ばれ、儀式や儀礼のための郭があった。
発掘調査によって、十六メートル四方の基壇が見つかっており、
妙見宮の跡と思われる。
本佐倉城主は、ここで元服しており、妙見様は千葉氏の守護神とされている。 」
奥の山は広い空地で、奥の樹木が並ぶ一角に、「妙見宮跡」の石碑が建っている。
、
その右側に、妙見宮の郭が建っていたようである。
石碑の裏を回るように左に行くと、奥の山の西隣は 「倉跡」で、
この郭は倉庫群になっていたという。
坂を下ると、先程のW郭跡に出る。
左手には、東光寺ビョウがあり、物見台のようなものがあったようである。
「 登って見ると見晴らしがよく、
天気が良い日には筑波山が見えるとあり、
当時の印旛沼は、京成電車の線路付近まであったので、守るのに適していたという。
また、東光寺ビョウには、東山虎口と南奥虎口があり、
道は切り通しの坂で、木戸が設けられていたという。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
駐車場まで降り、
更に、本佐倉城の入口の「国指定史跡本佐倉城跡」の標柱が建っているところから、
右に道をたどる。
城山の反対側に出ると、右側の城山の麓に、妙見社があった。
「 妙見様は、千葉氏の守り神で、 全国にある千葉氏一族が崇拝していたので、 各地にある妙見様は、千葉氏が広めたといわれる。 」
「外郭群」の説明板があった。
説明板「外郭群」
「 本佐倉城の外郭群は、「荒上」・「向根古屋」・「佐倉根古屋」で、
広大な敷地を有し、家臣団の屋敷や軍団の駐屯地もあり、
土塁・空濠には、雄大な「折れ」・「出枡形」・「隅枡形」が明瞭に残り、
戦国時代の郭の特徴を見ることができる。
重要な中世の城郭として、平成十年九月、国史跡に指定された。 」
妙見社の前には、田畑が広がっている。
その先の小山の麓に、公民館のような建物が見えたので、
行ってみると「根古谷の館」 と表示されていた。
このあたりは、向根古谷で、本佐倉城の外郭を形成していたところである。
館の前の説明板には、根古谷と本佐倉城の位置関係がわかる図があった。
そのまま進むと、左の小さな社に、双体道祖神が祀られていて、
その先には庚申塔などの石仏群があった。
以上で、本佐倉城の探勝は終わる。
![]() |
![]() |
![]() | ||
所在地:印旛郡酒々井町佐倉
本佐倉城へは、京成本線大佐倉駅から徒歩約20分(京成本線大佐倉駅の南東六百メートルの城山が城址である)
本佐倉城のスタンプは、酒々井町中央公民館にある。
訪問日 平成二十七年(2015)三月二十五日