十津川街道は奈良県五条市から十津川村を経て熊野に至る道で、
正式名称は西熊野街道である。
南北に連なる山地を縦貫しているため、道は獣道のようなもので、車は通行できず、陸の孤島化していた。
長い時間をかけて完成した国道168号線は、大雨や台風に襲われると崖崩れを起こし、
しばしば不通になるため、五條新宮道路を建設中だが、完成するのは
いつのことやら。
大学の同窓会で、奈良市に住む友人に、 「 十津川村へ行く!! 」 と言ったら、「 ずいぶん遠い大変なところに行くね !! 私は行ったことないし、 奈良の多くのひとが訪れたことのない辺鄙なところだよ!! 」 と言われた。
十津川街道は五條市から西吉野村、大塔村を経由して、十津川村へ入っていく。
西吉野村(現在は五條市)賀名生(あのう)地区は、賀名生梅林が有名である。
「 小生は、平成十七年(2005)三月十七日に梅林を撮りに訪れた。
その時、訪れたのが、南朝三帝ゆかりの家で、 「賀名生皇居跡」 の説明板がある。
説明板「賀名生皇居跡」
「 延元元年(1336)十二月、足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は、
吉野山へ向かうの途中、当時、 穴生 と呼ばれていた当地に寄られ、
郷士・堀孫太郎信増の邸宅に迎えられた。
また、正平三年(1348)には、後村上天皇が、吉野山より難を逃れて、ここにきました。
正平六年(1361)十月、足利尊氏が南朝に帰順し、
京都の多くの公卿や殿上人が穴生に参候して、北朝が否定されたので、
翌年正月、後村上天皇は、「 願いが叶って目出度い 」、 との思し召しから、
加名生(かなう)と名付けられ、京都に還幸されました。
その後も、堀邸宅は、長慶天皇、後亀山天皇 の 皇居(行宮) となったと伝えられる。
後に加名生は畏れ多いと、賀名生に改められ、明治の初めになって、
「あのう」 に呼び方を統一されました。 」
この近くには、賀名生の里歴史民俗資料館があり、南朝関係の資料を展示している。
、
周辺には、波宝神社・北畠親房の墓・黒木御所跡などの史跡がある。
賀名生梅林は、食べる梅を収穫する為の梅林で、
高低差のある山の斜面に、広範囲に展開していた。
当日は、五條市内を抜けた頃から霧雨になったので、
アップダウンのきつい山道を滑りながら、
梅林を撮影してきた。
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十津川村に入るには、天辻峠を越える必要がある。
「 十津川郷から見れば北方の関門にあたる峠は、 東西に尾根が走る九百九十三メートルの乗鞍岳の西方の鞍部にあたる。 現在は、鳩の首を過ぎたあたりから、トンネルが掘られているので、 トンネルを抜け、阪本に入ることができる。 」
道路が出来るまでは、谷を渡るのに、 「やえん」 と呼ばれる、人力の空中索道を使用していた。
「 やえんは、 谷の上空で鉄線を張りわたし、
辻駕籠のようなものをつるし、
人が一人そこに座って綱をたぐりながら進むもので、
村では野猿という字をあてている。
現在も、観光用として残っている。 」
十津川村にある温泉に予約して、車で国道168号を走るプランを建てた。
「 道路建設は明治末期から始まったが、
村道から県道に昇格したのが大正十二年のことで、
この時点で道路になったのは、わずか十五キロ向こうの旧西吉野村の城戸までだった。
県道になっても、峻険な谷壁が固すぎて、当時の土木技術や資力では克服できず、
そのため、工事は遅々として進まず、
昭和十三年までに十津川村の一角、山崎という渓谷までだった。
戦後、二級国道に昇格し、 昭和三十四年に、着工後半世紀以上かかって、
村の南端まで開通した。
その後も長い時間をかけて、国道168号線は完成した。
しかし、大雨や台風に襲われると、崖崩れを起こし、しばしば不通になるため、
五條新宮道路を建設することになり、工事は進められているが、難工事で、
2024年になっても、完成していない。」
旅行出発の一週間前に、宿から宿泊の確認とともに、
「 山崩れで国道はかなりの部分で決壊し閉鎖されている。
代替道路が狭いため、時間制限の交互交通のため、かなり時間がかかるだろう。 」
という連絡があり、他の道路をとることを勧められた。
この結果、、三重県の伊勢道を経由して、新宮に出て
、国道168号線に入り、北上することにした。
途中、熊野市の花の窟神社に寄り、神体の岩を参拝した。
その後、海岸に沿って進み、新宮から国道168号線に入る。
熊野川を横目に眺めながら、北上をしていく。
五條新宮道路に入ると、七色で、ここから十津川村である。
右手に二津野ダムが見えてくると桑畑だが、ダムに沿って
進み、橋を渡ると十津川村に着いた。
十津川温泉の橋のところの標識に、「上湯温泉」と書かれているのを見つけたが、 人里外れた寂しい場所である。
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旅館に入るのには早いので、
上流の谷瀬の吊り橋を見にいくことにした。
十津川温泉までの道は比較的広かったが、この先は走るに比例して道が狭まり、
平均すると1.5車線というところだった。
谷瀬の吊り橋は、道の左側にあった。
「 道の向こうは谷になっていて、対岸に谷瀬という、集落がある。
その間に架けられている吊り橋が、谷瀬の吊橋である。
全長約三百メートルで、鉄線の吊橋としては日本最大のものらしい。
河原の砂地もひろく、大きく天窓がひらかれたようにあかるい。
」
橋畔に、立札があり、「 昭和二十九年に八百万円の工費で出来た。
この大吊橋の利用はむろん十津川郷ぜんたいというわけではない。
谷瀬とその奥のひとびとにかぎられるために、
そのあたりのひとびとが一戸あたり三十万円の負担金を出しあって架橋した。 」
と、あった。
橋畔の案内板は自己負担のことのみが書かれていたが、
私が訪れた平成では、ここは十津川の観光名所になっていた。
吊橋を渡ると、ゆさゆさ揺れるのでそうそうに引き返した。
橋畔の茶屋は平日のせいか、やっていなかった。
谷瀬のつり橋から、国道168号線を少し南下した先に、 「国王神社駐車場」 と書かれた看板があり、 国道から少し下ったところに、 国王神社がある。
説明板「国王神社」
「 ここ国王神社の境内に祀られている長慶天皇は、
文中2年(1373)8月、御位を弟の後亀山天皇に譲られ、
同年10月まで、紀伊国玉川の宮におられたが、
賊徒の襲来を受け、大和の天川村、五色谷行在所へお移りになったところが、
ここでも逆徒に襲われたので、
もはや運命もこれまでと、同所の廻り岩で、御自害なされた。
このとき近侍のものが、 ご遺体を水葬に付したところ、 数日経て御首が、
下流の十津川村上野地字河津の渕 (現在地付近) へ流れ着き、 毎夜水底より、
不思議な一条の光を発した。
これをみつけた村人が、 丁重にこのところへ葬り、 玉石を安置して、
お首塚 と呼んだ。
以上が、南帝陵の十津川村における伝説の概略である。
しかし、歴史上、天皇は弘和2年(1382)まで在位されていたことになっており、
大和誌によると、神社が 長慶天皇の勅願宮 となっていることなどから
、日時が神社創建のときと混同されて伝えられたと思われる。
いずれにしろ、村民が600年来長慶帝の在位を確信し、これを奉祀してきたことに、
十津川村の特殊性がある。 」
新宮川(十津川)をせき止めてできた風屋ダムも、この高津集落を過ぎた野尻あたりで終る。
その後、橋とトンネルが幾つか現れるが、それを過ぎると、温泉地温泉がある湯之谷で、
そこを過ぎると、右側に 道の駅十津川 があった。
「
ここには、昭和五十一年に竣工したクリーム色の村役場があり、村の中心地だろう。
道の駅はその近くにあり、一角には足湯があった。
そこから少し入ったところに、日帰り温泉として利用できる、 滝の湯 があるのだが、
改修中で、利用できなかった。
その代わりに、道の駅で教わった、湯泉地温泉の泉湯に行き、一風呂あびた後で、
宿泊する旅館にむかった。 」
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私が泊まった旅館は、吉乃屋である。
十津川では大きい部類の旅館で、泊まったよかったと思った。
その近くに、「庵の湯」 という、日帰り湯がある。
旅館の下駄を借りて、歩いて入りに行った。
飲用の湯もあり、けっこう楽しめた。
泊まった翌日は、うす曇りで、やや寒い日であった。
旅館から見た、 二津野ダムはところどころに紅葉が見られ、きれいだった。
帰りは国道168号を北上し、高滝で右に入る国道426号を行くことにした。
北上して五條に抜ける選択肢もあったが、交互交通の時間に間に合わないと、
数時間待たなければならないので、この道を選んだ。
旅館の御主人はあまり勧めなかったが、
前日通ってきた人が紅葉がきれいと言っていたから、行く気になったのである。
途中までは、数戸の家がある集落があるが、それもすぐに終り、
後は山裾を縫って続く山岳道路で、対向車がこないことを祈りながら、山の峠を越え、
下北山村へ向かった。
途中には、滝が幾つかあったので、車を止めて撮影した。
十津川村の山容は雨に弱い土壌である。
ぶらタモリで、十津川村を訪れたタモリさんは、くわしく語っている。
明治時代の災害をきっかけとして、北海道に新十津川が誕生している。
「 明治二十二年八月に大豪雨があり、
一夜にして地形が変わるという大惨事になった。
その時、前田正之という十津川人が
北海道移住という発想を得て、北海道庁長官だった永山武四郎に話すと、すぐに了解されて、十月から十一月にかけて移住が行われ、
家が流された戸数とほぼ見合う六百戸、人数は二千六百九十一人が北海道に渡り、
現在の新十津川村を誕生させた。 」
国道426号を走っていると、さもありなんという気になる地形だった。
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旅した日 平成二十年(2008)十一月十四日〜十五日