鞠智城は、熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる、台地状の丘陵に築かれた、
古代山城(朝鮮式山城)である。
築城当初は大宰府が統轄した軍事施設として、大野城、基肄城等とともに、
北部九州の防衛拠点であり、
兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどであった。
しかし、 時代と共に、使用目的が変わって行った。
平成十六年(2004)に、国の史跡に指定された。
熊本駅前から、車で、県道28号、飛田バイパス、県道18号を経由して、約30km、 1時間余りで、温故創生館の駐車場に到着した。
「 鞠智城は、福岡県大宰府の南約六十二キロに位置する。
標高約九十メートル〜百七十一メートルの米原台地上にあり、
城壁の周長は、自然地形の崖を含めて、約三・五キロ、
城の面積は約五十五ヘクタールである。
ここは、有明海に注ぐ菊池川の河口の東北東 約三十キロの内陸部で、
流域は肥沃な平野が広がる。
また、城の南側は、 古代官道が通る交通の要衝にあった。 」
駐車場に設置されている銅像は、「温故創生之碑」 といわれるもので、 平成八年に造られた。
「 正面の中央に防人、 前面に防人の妻子、
西側に築城を指導したとされる百済の貴族、
東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、 北側に一対の鳳凰が立っている。
台座には、万葉集から防人の歌と、鞠智城の歴史を解説した、六枚のレリーフが貼られている。」
鞠智城跡は現在、県営の歴史公園になっていて、 跡地に建つ温故創生館では、展示や映像により、 鞠智城の歴史や構造 について、詳しく説明している。
「 鞠智城は、古代山城(朝鮮式山城)である。
七世紀後半(約1300年前)、 白村江(はくすきのえ) の戦いで、
唐と新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)は、 連合軍の日本侵攻に備えて、
大野城(福岡県)、 基肄城(佐賀県・福岡県)、金田城(長崎県) などを築いた。
鞠智城は、 大和朝廷が、九州のこれらの城に、
食糧や武器、兵士などを補給する支援基地として、築いた城郭である。
発掘調査により、 国内の古代山城で唯一の八角形建物跡二棟 など、
合計 七十二棟の建物跡が発見され、 三か所の城門跡、土塁、水門、貯水池など、
当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見されました。 」
温故創生館の手前にある 長者館 は、地場物産館だった。
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温故創生館を出ると、 右手の駐車場の先に、八角形の建物・鼓楼が建っている。
説明文「八角形鼓楼」
「 鞠智城では、国内の古代山城では似かよった例を見ない、
四基の八角形建物跡が見つかっています。
韓国の 二聖(イーソン) 山城でも同じものがあり、注目されます。
特別な性格の施設であったことをうかがわせる、
八角形という特殊な形であったことから、
鼓の音で時を知らせたり、
見張りをしたりするための 「八角形鼓楼」 として復元しました。
復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重さ約76トンの瓦が載る建物です。
一帯に響いた古代の鼓の音、
遠く故郷を離れた防人たちの姿を感じてみてはいかがですか。 」
この奥にあるのは 米倉で、 手前の柱石群は、 発掘時の柱跡である。
「 鞠智城では、石を規則正しく並べて土台にした、
21棟の礎石建物跡が見つかっている。
その中の一棟の建物跡は、 重い荷物に耐える造りであり、
かつ周りから大量の炭化した米が見つかったことから、
食料である米を蓄えるための 「米倉」 と断定した。 」
復元された米倉の足元に、説明板があった。
説明板「米倉復元建物(20号建物跡)
「 平成3年度の調査で見つかりました。
20個の礎石 (土台石)全部に柱を建てた総柱建物です。
調査時に多量の炭化米と瓦が出土しました。
間口8.6m、奥行き11m、床高は1.6m。 壁材は、内側が平板で、
外側の断面は三角形になるように加工されています。
この長い材木を横方向に積み上げて壁にしたのが校倉造りです。
床端には鼠返しの工夫がなされています。
材質は樹齢100年〜140年の県産杉で、扉のみヒバ材を使用しました。
瓦葺き屋根で、使用した瓦の枚数は平瓦2870枚、丸瓦1800枚、瓦の総重量は約32トン。
多量の炭化米が出土したことにより、米を保管する倉であったことがわかります。
米俵に換算して1200俵の米を収納できる大きさです。 」
「ねずみ返し」 は、 右下写真の赤字で、囲まれた部分である。
木を張り出させて、ねずみが登れなくしていた。
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大陸からの進攻の危機が去ると、 各地に造られた城の価値は減り、 地元との結びつきが強くなり、 やがて廃城に追い込まれる。
「 築城当初は、大宰府と連動した軍事施設で、
大野城、基肄城などとともに、北部九州の防衛拠点であり、
兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどであった。
その後、軍事施設に加え、 食料の備蓄施設の拠点になったが、
大陸からの進攻の恐れがなくなると、 役所機能のある肥後北部の拠点に改修され、
南九州支配の拠点などの役割や機能などが与えられた。
八世紀の終わり頃になると、 鞠智城の機能は大きく変わり、
食糧等の貯蔵施設としての役割が大きくなる。
太宰府との関連は認めらられなくなり、
在地(地元)との結び付きが強くなっていたようである。
九世紀の終わりになると、大型の倉庫群が建ち並ぶ貯蔵施設としての機能が、
役割の中心となり、 十世紀中頃までには、 約三百年続いた鞠智城は廃城となった。 」
芝生が広がる中に、礎石を復元し、区画されたところがあり、 地面に 「Aゾーン (長者原地区:中央部)」 の説明板があった。
説明板
「 掘立柱建物跡が見つかりました。 北域には、大型の3棟があります。
並立するのは2棟は、同時期に建てられたと考えられます。
縦長の側柱建物で、土間づくりであったことから「兵舎」として復元しました。 」
兵舎は、米倉の右手奥にあり、足元に説明板があった。
説明板「兵舎復元建物(16号建物跡)」
「 平成2年度の第12次調査で発見された側柱のみの掘立柱建物跡です。
3間X10間の規模で、大型の建物に属します。
柱径は30cm程度です。 同規模の建物群が2基並んでいるうちの1基を復元しました。
構造 間口8.0m、奥行き26.8mで、土間面積は213.6m。
屋根までの高さは6.3m。 茅葺き屋根で、3枚の厚板を重ね合わせて葺かれています。
壁は土壁で、突き上げ窓がついています。
防人(さきもり) と呼ばれた兵士が寝起きしていた 「かまぼこ製の兵舎」 です。
建物規模から、50人程の兵士が生活していたと考えられます。 」
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その先に建つのは、板倉である。
「戦いに備えた 板倉」
「 鞠智城跡では、柱穴を建物の内側まで配置した、
総柱の掘立柱建物群が見つかっています。
その中の1棟の建物跡を、荷物を保管するための高床の造りであり、
防人たちが生活していた 「兵舎」 の近くにあったことから、
武器や武具などを保管するための倉庫として復元し、「板倉」 と呼びました。
復元した「板倉」は、 長さ6.9m、 幅12.0m の 3間 X 4間の建物です。
茅葺の屋根、側柱に彫った溝に板を落し込んで壁を造る 「落しはめ技法」 など、
今日ではなかなか見かけない古代の技を感じて、いかがですか。 」
その近くに、平成十一年十月に、天皇皇后陛下が訪問された際、植えられた樹木が
大きく育っていた。
板倉の先は長者山で、 その麓の三叉路を右折して、 山に沿って進むと、
右手に 宮野礎石群 がある。
鞠智城の中で、一番大規模な礎石建物で、
「長倉(ちょうぞう)」 と呼ばれる倉庫だったと考えられ、
当時の礎石をそのままの姿で、復元している。
説明板 「宮野礎石群(49号建物跡)」
「 昭和57年度に県指定となった、 3間 X 9間 の総柱の礎石建物跡です。
もともとの礎石は、40個でありましたが、7個が消失しています。
120cm X 90cm 程度の花崗岩を使用し、柱間は梁・桁ともに 240cm、
調査時に平瓦、丸瓦などが検出され、瓦葺き屋根であったことがわかります。
瓦には焼けた痕があり、建物が焼失した可能性が考えられます。
このような大型倉庫は、「長倉(ちょうそう)」 と呼ばれています。
3間(7.2m) X 9間(21.6m) の規模を誇ります。 」
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宮野礎石群の後ろの道を登っていくと、
両側の丘の間に道が続き、 その上に橋が架けられている。
橋の下の道は、丘を削って造った切り通しの道である。
左側階段を上ると、左側の丘に建物が見えるが、 この山は長者山で、 展望広場休憩所である。
「展望広場休憩所」
「 南側への展望が抜群の小高い長者山の頂上に建てられた休憩所です。
古代建物の意匠を採り入れたもので、復元建物ではありませんが、
鞠智城時代と同じ時代の建築技法に触れることができます。
また、鞠智城跡の映像解説ビデオを見ることができます。 」
右側の階段を上っていくが、けっこう急である。
距離は短いので、途中で息を継ぎ進むと、灰塚 に到着した。
突端には金属製の展望デッキが設けられている。
「展望デッキ」
「 城内の全貌はもちろん、 周囲の雄大な風景を一望できるデッキである。
天気の良い日は、 遥か遠くに長崎普賢岳を見ることができます。 」
灰塚の頂上に、方位と見える風景 の表示がある。
灰塚の西側には、涼みヶ御所や西側土塁があるが、
そちらは樹木で見えなくなっていて、どのへんか、確認は出来なかった。
「 西側土塁にはワクド石がある。
横から見ると、 蛙そっくりに見えることから、 その名で呼ばれています。
昔から地元の人の信仰の対象になっていたようです。 」
以上で鞠智城の探勝は終えた。
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鞠智城へは、JR熊本駅から菊池プラザ行きで、熊本交通ターミナル経由で約80分、
菊池プラザで下車し、タクシーで約5分
熊本空港からは車で約40分
訪問日 令和三年(2021)八月二十七日