水前寺公園の正式名称は、水前寺成趣園である。
熊本藩初代藩主の細川忠利が、清水が湧く地に茶屋を作事したのが始まりとされる
大名庭園である。
三代藩主・綱利により、回遊式庭園が作庭された。
熊本駅前から熊本電鉄市内戦に乗り、水前寺公園停留場で降りる。
徒歩六分、500m位歩くと入口へ到着し、400円を支払い、中に入る。
左側に社務所があり、 水前寺成趣園 の説明板が立っている。
説明板 「 水前寺成趣園」
「 寛永九年(1632)、細川忠利公は、加藤家の改易により、
肥後細川家はじめての熊本藩主となります。
小倉からの国替えに際して、熊本城東南の湧水地に、
豊前 (大分県中津市) 羅漢寺から熊本に来ていた、住職・玄宅のために、一寺を設けて、
「水前寺」 と号します。
また、同地に数寄屋風の御茶屋を建て、「水前寺茶屋」 と呼ばれるようになります。
これが、水前寺成趣園の始まりです。
その後、二代熊本藩主 光尚公、三代 綱利公の三代にわたり、作庭が行われ、一六七一年に、
現在とほぼ同じ規模の庭園ができあがり、
陶渕明の詩に由来する 「成趣園」 と名付けられます。
阿蘇の伏流水の泉水を中心とする回遊式庭園で、
昭和四年(1929)に、国の名勝・史跡に指定されています。
陶渕明の詩 (帰去來辞) の一文 「 園日二渉以成ス趣 」 より
面積 約七三、〇〇〇平方メートル (池の面積 約一一、〇〇〇平方メートル
(以下省略) 」
入った先の右手の建物の前に、「古今伝授の間」 と書かれた石柱が建っている。
「 近世細川家の祖で、
忠利の祖父・細川藤孝(幽斉) が、後陽成天皇の弟 ・ 八条宮智仁親王 に、
「古今和歌集」 の奥義を伝授したといわれる古今伝授の間がある。
当初、八条家の本邸にあったが、長岡天満宮に移され、
桂宮家から 明治四年(1871) に細川家に贈られ、
大正元年(1912) に酔月亭の跡地に移築されたものである。
杉戸の雲龍は 狩野永徳の筆、 襖絵は海北友松の画とされる。 」
ここからは広々とした湖面が広がっていて、霧雨の中に少しかすんでいた。
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池の周りを右に回って行くと、芝生の奥に、能楽堂がある。
説明板「能楽殿」
「 能は武家社会で重んじられ、行事のたびに演能が行われました。
それにともない能面、能装束といった道具類も凝った豪華なものが作られました。
大名家の中でも、細川家では能をたしなわないものはいなかったといわれています。
藤孝(幽斉)公も能を好み、太鼓の名手であったといわれ、
忠興(三斎)公、忠利公と代々受け継がれ、戦前まで細川家では能が愛好されました。
明治十一年(1878)、出水神社の創建と同時に、能楽堂がこの地に建てられましたが、
昭和四十年(1965)に火災で焼失しました。
現在の能楽堂は、昭和天皇御在位六十年を記念し、旧八代城主松井家より、
昭和六十一年(1986) に元のこの場所に移築されたものです。
(以下略) 」
その先に築山がある。
山の形をしたものが幾つかあり、
富士山の形をしたものが秀逸である。
太鼓橋がある泉水庭園。
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桃山式の優美な回遊式庭園ができたのは、三代藩主・細川綱利の時代である。
「 水前寺は玄宅禅師が豊州に帰って後、廃寺となり、
寺領と御茶屋は熊本藩により、没収となった。
細川綱利の時代になると、新たな御茶屋を設けた、大規模な作庭が行われて、
桃山式の回遊式庭園が完成した。
元禄時代には、東屋が沢山でき、 成趣園十景 を選んで楽しまれた。
宝暦時代に入ると、細川重賢公により、質素のため、酔月亭一つを除き、建物は撤去され、
樹木も松だけを残した、質素なものになった。 」
出水神社の鳥居があり、その奥に、社殿が建っている。
「 明治十年の西南の役後、旧細川藩士を中心に、
藩主の霊を祀る神社として、出水神社がこの地に創建された。
創建時は、細川藤孝ほか三柱を斎鎮、
後に、歴代の藩主十柱及び忠興の妻・ガルシャ夫人を配祀した。
第二次世界大戦で社殿が焼失、現在の社殿は昭和四十八年に再建したものである。 」
手洗い場の脇の柱に、「 見るが如く 仰げ神代の鏡山 けふあらたま乃 春の光を
幽斉公御歌 」
と書かれた板が貼られていた。
また、鳥居の近くに、夏目漱石のの句碑があった。
「 しめ縄や 春の水湧く 水前寺 」
この句は、明治三十年四月十八日、夏目漱石が、正岡子規に送った、直筆五十一句の一句である。
以上で、水前寺公園の見学を終了。
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水前寺公園へは熊本電鉄市内線で水前寺公園前下車徒歩約5分
市バスで、水前寺公園前下車 徒歩8分
◎ 手取天満宮と小泉八雲旧居
手取天満宮と小泉八雲旧居は、熊本市中央区手取本町にある。
市電水道町停車場近くの小路を右折すると、手取天満宮がある。
説明板「手取天満宮」
「 御祭神: 菅原道真公
由緒:
後光明天皇の御代の承応年間(西暦1650年頃) 、
手取被分町の住人 ・ 肥後藩士 平井勘右衛門正恒は、
かねてより天満宮を崇敬し、或る夜管公が夢枕に立たれ、
平井家の井戸にきていることを告げられ、
翌朝、邸内の井底より、尺余の天神尊像を得て、一宇を創祀し 鎮祭。
宝永五年三月、平井家大火に罹り焼亡の砌、神祠も延焼。
近くの鎮護山長安寺境内の梅の樹より、夜々光明を放つ微があった。
寺僧之を怪しみ 梅の樹の下に至れば 天神様の尊像厳然として出現された。
僧 かしこみて使いを出し、平井氏は年来の信徒達を率いて来たが、
その奇瑞を感じ、元の如く邸内に復祭を議れしが 火災を遁れて此の地に来られし故に、
長安寺境内に鎮祭されることとなった。
その後、七十余年月を経て、安永七年七月二十八日、再び大火が起こり、
寺塔悉く回禄となりしも 神祠はこれを免れた。
明治の初め、神社区画改正の際、熊本五小区中の氏神社に定められ、
大正の御代に 地方宮より市内幣饌料供進の神社に指定された。
昭和二十年七月一日の熊本大空襲では戦災にあうことなく、厳として残り奇しき由来多く、
学業成就、厄除開運、鎮火の神として、
城東校区の氏子を始め、多くの崇敬者に崇敬されている。
昭和初期までは毎年一月二十五日の初天神の祭典には管公出現の井より若水がお供えされていた。
平成十四年十月二十五日 管公壱千百年大祭斎行。
境内に徳富蘇峰揮毫碑二基、汗かき地蔵堂あり。 」
御参りを済ませると車道に出て、道の反対にある、つるやデパートの二つの建物前に出る。
その間の道を南に進み、右折すると左側に、小泉八雲が住んでいた家がある。
説明板 「小泉八雲熊本旧居」
「 小泉八雲 (こいずみやくも) 別名 ラフカデイオ・ハーンは、
怪談 「耳なし芳一」、 「雪女」、「むじな」 などの作者として、知られています。
この小泉八雲熊本旧居は、明治24年(1891)、
第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師として熊本に赴任した際、
最初の一年を過ごした住居です。
八雲の日本に関する最初の著書である 「知られざる日本の面影」 は、
ここで執筆されたといわれています。
昭和35年、解体の危機にさらされましたが、小泉八雲熊本旧居保存会が結成され、
翌年、旧居は現在地に移築、保存されました。 」
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訪問日 令和三年(2021)八月二十六日(木)