今治城は、全国的にも珍しい海水を引き入れた海岸平城で、
日本三大水城の一つに数えられ、 藤堂高虎の代表作である。
今治城は、慶長七年(1602)から六年をかけて造られた大規模な平城で、
三重の堀に海水を引き入れた特異な構造をしており、
別名 吹揚城(ふきあげじょう) ともいわれる。
JR予讃線の今治駅から、せとうちバスの今治営業所行きに乗る。
約10分で、今治城前で下車、徒歩約五分で、今治城へ到着した。
今治城の歴史
「 藤堂高虎は慶長七年(1602)、関ヶ原の戦いの功により、
伊予半国(現在の愛媛県の半分) 二十万石を与えられ、
瀬戸内海の交易利権や監視する上からもメリットのある、
海から堀へ直接船で入ることができる城を目指し、
瀬戸内海に面した海岸に海砂をかき集め、
瀬戸内海に面した海岸に築城したのが今治城である。
軟弱な地盤(砂浜)にも関わらず、 二十万石にふさわしい城郭を技術の粋を結集して、
慶長十三年(1608)、長方形を組み合わせたような直線的な城壁に囲まれた曲輪に、
高い石垣と広大な三重の水掘を巡られた画期的な水城(平城)を完成させた。
藤堂高虎が、慶長十四年(1609年)に、伊勢国津へ転封となった後、
養子の高吉が飛び地として残った今治二万石に居城した。
寛永十二年(1635)、高吉も、伊賀国名張に転封になり、
代わって、伊勢国長島城より、譜代大名・久松松平氏の松平定房が入城する。
以後、その子孫が、明治維新まで、今治藩の藩主を続けた。 」
今治城は、外堀の内に、侍屋敷、城門が九ヶ所、櫓は合計二十と、広大な城郭だったが、
廃城令施行前の明治二年(1869)に廃城となり、 ほとんどの建物が破却され、
周囲が埋め立てられ、 遺跡としては、内堀と主郭部の石垣が残るだけである。
現在の城の姿は、昭和五十五年以降に、再建されたものである。
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城に向って、内掘に架かる立派な道を進むと、 正面と左右は多聞櫓がある石垣で囲まれている。
「 今治城は、外掘、中堀、内堀と、三つの堀に囲まれた海城だったが、
埋められず残っているのは内掘だけである。
内掘の幅は、五十メートルから七十メートルで、
多聞櫓や武具櫓の石垣は九メートル〜十三メートルで、野面積みで築かれている。
石垣の下には、細長い土地が石垣に沿って続いているが、
これは、藤堂高虎が行った地盤強化策の 犬走り と呼ばれるものである。
海岸に城を築くには、軟弱な地盤だったので、
石垣の下に、細長い面積を設け、補強したのである。 」
江戸時代には、橋を渡ったところに高麗門があり、 門をくぐると右に曲がる枡形構造になっていて、 右側に、三の丸表門である鉄御門があった。
「 多聞櫓と鉄御門に囲まれた枡形により、
敵は四方から攻撃を受けて壊滅するしくみだった。
鉄御門(くろがねごもん)は楼門といわれる構造も規模もしっかりしていた門で、
守りの堅い枡形虎口を守っていた。
現在の門は平成十九年(2007)に江戸時代の史実に基づき、
門と石垣そして隣接する東多聞櫓五棟ともに復元されたものである。 」
発掘調査で、二つの礎石は検出された。
「 二つの礎石は、鉄御門の正面鏡柱と背面控柱を支える礎石で、 梁間寸法五・七十メートルあった。 建て替える際、その石は脆いので使用せず、脇に展示した。 」
鉄御門をくぐると、正面に階段があり、 二の丸北隅の武具櫓に入れるようになっていた。
「 武具櫓は、明治二年(1869)の廃城の際には残されたが、 明治四年(1871)に発生した火災の際、 内部にあった火薬に引火し、 爆発炎上し、 破壊されてしまった。 現在の武具櫓は、昭和五十五年(1980)に再建したものである。 」
木造建築の内部に入ると、格子窓は敵兵が頭を入れない大きさながら、
内部からは鉄砲や弓矢で攻撃できる幅になっていて、石落しも備えていた。
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今治城の説明板があり、広場になっているところに、藤堂高虎の像が建っている。
高虎の像が建っている広場が三の丸で、左側(東側)には、
側近の武士の屋敷があったようである。
その奥、吹揚神社の社務所のあたりが二の丸で、藩主の館が建っていた。
本丸跡には、吹揚神社の社殿や猿田彦神社、吹揚稲荷神社の祠が建っている。
説明板「吹揚神社」
「 廃城後、 市内より、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮を城内に合祀し遷座、
明治五年に旧城名をとり、 吹揚神社と称した。
後に、藤堂高虎と久松家祖神の平松定房を奉遷した。 」
「今治城の特徴は」 という説明板があった。
@ 今治城の別名は吹揚城という。
城が築かれた場所が砂が吹き揚げた砂浜だったからである。
A 堀と石垣の間に犬走りがある。
犬が走れる程度の狭い空間という意味である。
敵に攻め込まれる時、足場にされる欠点があるが、
軟弱な地盤の上に高石垣を築く場合には、石垣の基礎部分を固める有効な土木技術上の工夫である。
B 堀の水は海水である。
堀は北側の海と繋がっていて、海水の満ち引きによって、堀の水位が変わる。
鯛やヒラメ、よく目にするのはチヌとボラで、サヨリやうなぎ、海老類が生息する。
天守と接続する再建された門をくぐると、目の前に天守閣が現れた。
日本100名城の公式ガイドブックには下記のように記されている。
「 今治城の本丸には日本初の層塔型の五重天守が建てられた。
飾りの破風をもたず、各階を規則的に逓減させ、
内部には攻撃用の武者走りを巡らせた当時最新式の天守であった。
高虎が転封になった時、天守は解体され、徳川家に献上されて、丹波亀山城天守となった。
現在の天守は昭和五十五年(1980)に市政六十周年を記念して、
五層六階の鉄筋コンクリートで建てられたもので、
内部は歴史資料館と自然科学館になっている。
亀山城天守の外観を参考にしたとされるが、
亀山城天守が層塔型の構造で最上重の唐破風と入母屋破風のみであるのに対し、
再建天守は望楼型の構造で大入母屋破風を基部としており、
張り出しや出窓など亀山城にはない意匠が施されている。 」
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今治城の天守については、建てられなかったという説もあり、論争になっている。
「 建設派は、藤堂家の家譜「国史」巻二に、
「 城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き 」 という記述があるのを根拠とする。
非建設派は、、天守は 天守台と呼ばれる基壇を造り、 その上に建てられるもののため、
城内に天守台の遺構が確認されないことから、天守は存在しなかったという説を唱える。
その主張に対し、 天守台を築かず本丸中央付近の地盤に直に基礎を敷き、
建てることで、 より整形された矩形を造る必要があった層塔型天守の建造を可能にした、という説もある。
建造された後、 天守が亀山城へ移築されたとする説は 「寛政重修諸家譜」 の
「 慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、
かの城にうつす 」という記述が根拠になっている。
このため、存在したとしても、慶長九年(1604)に竣工し、
慶長十五年(1610)頃に、亀山城に移されているので、
最長でも六年程しか存在していなかったことになる。 」
天守の最上階からは、内掘 その先に 今治市街、 しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、 瀬戸内海を眺望することができる。 また、反対側には西日本最高峰の石槌山もあった。
「 江戸時代の二百二十年間、
天守のない今治城の本丸には、天守の代用とされた北隅櫓が建っていた。
千鳥破風が一つだけ付けられた北隅櫓は、天守を意識した外観になっていたという。
本丸には、北隅櫓の他に、二基の二重隅櫓が建てられ、
多門櫓によって連結されていたといわれる。
築城時の天守の位置は、本丸の中央付近にあったと推定されるが、
再建天守は、その北隅櫓跡に建てられている。 」
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二の丸の東隅に建つ二重櫓は、御金櫓(おかねやぐら) と呼ばれた東隅櫓で、 昭和六十年(1985)に再建された。
「 御金櫓の名称は、
今治城の古絵図に、「東隅櫓の中に御金蔵という蔵が併設されていた」 ことによる。
外観は、今治藩医の半井梧庵が残した写真をもとに、復元されているが、
再建時に本来なかった石垣の反りが施されてしまっているといわれる。
御金櫓の内部は、郷土出身作家による現代美術館になっていた。 」
二の丸の北西隅に向うと、櫓門があり、それに接続する山里櫓がある。
「 山里櫓は、平成二年(1990)に再建されたもので、 武具や古美術品の展示場になっている。 」
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今治城の搦手には馬出があり、 城に入る橋は木の橋で、 敵が攻め込んできた時には、橋を落すことができるようになっていた。
三の丸の入口には山里門があった。
現在、再建された高麗門があるが、江戸時代には枡形になっていて、
その先の楼門と付櫓、山里櫓で守っていた、と思われる。
山里櫓の前にある椰子があるあたりに、江戸時代には、山里 という庭園があり、 これが櫓の名前の由来のようである。
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橋を渡り内掘の外に出て振り返ると、下記のような、風景が見られる。
楼門に多門櫓がつながり、その右に再建された天守閣と、それにつながる多聞櫓がある。
また、内掘から海につながる水路も確認できた。
間違いなく、海城である。
以上で今治城の見学は終わる。
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今治城へはJR今治駅から、瀬戸内バスで約10分、今治城前で下車、徒歩約5分
旅をした日 平成三十年(2018)三月五日