名所訪問

「 現存12天守の城 松山城 」


かうんたぁ。


「 松山城は、別名、金亀城(きんきじょう)、 勝山城(かつやまじょう) ともいう。
関ヶ原の戦いの戦功により、伊予国を与えられた 加藤嘉明は、 慶長七年(1602) 松山城の築城を開始し、寛永四年(1627)に完成した。  わが国の築城史上、最長の四半世紀という歳月を要して、完成した城である。 
加藤嘉明は、城造りに着手した翌年 慶長八年(1603)、地名を「松山」改めた。 
、 城は、松山市中心部の、標高百三十二メートルの勝山(城山)に建てられ、 山頂に本丸、麓の西南部に 三の丸と西の丸、その東に二の丸を設けた平山城である。 を設けた、広大な平山城である。 
松山城は、日本三大平山城の一つに数えられ、現存十二天守の一つだが、 天守に葵の瓦があるのは松山城だけである。 
葵があるのは、築城した加藤嘉明が、城の完成をみる前に会津藩へ転封となり、 代わった蒲生忠知も、、参勤交代の途中で亡くなり、蒲生家が継嗣不在断絶となり、  寛永十二年(1635)、久松松平家の松平定行が十五万石で松山藩主になったことによる。 
親藩大名・松平家の居城となり、明治維新までの二百三十五年間続いた。  


松山駅から路面電車に乗り、大街道下車、城山ロープウエイ駅まで歩く。 
坂道を上ると駅に到着。 約5分である。 
城へはロープウエイか、リフトの二方法がある。 
帰りにロープウエイを利用することにして、リフトに乗った。 数分で終点に着いた。 

到着したのは、中腹の長者平である。 
正岡子規の句碑があった。
 「  松山城  松山や 秋より 高き天主閣 子規  」

近くに 「俳句ポスト御案内」の看板があり、松山出身の主なる俳人の名前が表示されていた。

目の前には見上げる程の高石垣がある。

城山リフト      正岡子規の句碑      長者平
城山リフト
正岡子規の句碑
長者平

道なりに進むと紫竹門があった。

説明板「重要文化財・紫竹門」  
「 紫竹門(しちくもん) は、東と西の続塀により、 本丸の大手(正面) と 搦手を仕切る役割を担う高麗門である。 
城郭の大手と搦手の仕切りをなし、 この門の北側に紫竹が植えられていたので、 この名がある。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、嘉永期の再建と見られる。 
昭和十年国宝に指定されたが、 昭和二十五年法の改正により重要文化財になった。 」 

東西の続塀には、弓矢や鉄砲で敵を狙うため正方形や長方形の狭間が設けられている。

説明板「重要文化財・紫竹門東塀」
「 紫竹門東塀は乾門方面から攻撃に備えたものである。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、嘉永期の再建と考えられる。 」 

高麗門の一ノ門は、下が見通せる構造になっていて、敵の様子が確認できた。 
一ノ門やその南櫓と小天守とともに一ノ門前に虎口を形成する役割を担っていた。

「 一ノ門は、国の重要文化財に指定されている。 
天明四年(1784)、 雷火のため、天守閣と共に焼失したが、 天明六年(1786)に再建された。 
一ノ門は、天守に通じる本壇入口を守る重要な門で、 木割も大きく豪放な構えになっている。 
形式は上方からの攻撃が容易な高麗門で、脇戸附。 
二ノ門との間は、枡形 という方形空間となって、 小天守、 一ノ門南櫓、 二ノ門南櫓 や 三ノ門南櫓の四方から、攻撃できる構えになっている。 」

紫竹門
     紫竹門東塀      一ノ門
紫竹門
紫竹門東塀
一ノ門



高麗門の一ノ門をくぐると、薬医門の二ノ門にかけては、四方を囲む枡形になっている。 

「  単層櫓の一ノ門南櫓、 一ノ門東塀、 単層隅櫓 の二ノ門南櫓、 二ノ門東塀、 二ノ門 と 筋鉄門(すじがねもん)、 東塀に接する単層櫓の三ノ門南櫓で、仕切られた枡形になっている。 
筋鉄門東塀は、 大天守正面にある渡塀で、 周囲の櫓等から攻撃して入ってきた敵を丸殺しにできる。 」

薬医門の二ノ門は、左手の石段の上にある。 
堅固な面堅板製で、突破するのは苦労するだろう。 

そこを通り抜けると、また、枡形である。 本壇の東北隅には、天神櫓がある。 

説明板「重要文化財・天神櫓」
「 天神櫓は、鬼門(北東)に建てられた櫓で、不浄門とも呼ばれた。
本壇東北隅に位置し、 艮櫓、 艮門 および 小筒櫓を防衛する。 
この櫓は、 松平家の先祖である、 菅原道真(天満天神)像を安置し、 城の安全を祈ったのでこの名がある。 
昭和二十年 戦災により焼失したので、昭和五十五年に、古い資料に基づいて再建された。  本壇上の北から西かけての北東面の防衛ラインの拠点にあり、 艮門の状況を把握する役割を持っていた。  社寺建築に用いられる正面扉様式である、蔀戸(しとみど) を持つ本壇天神櫓は、 全国的にもあまり例はないといわれる。 」

二ノ門から三ノ門へは、Uターンして進む。  天守は目の前に見えるがすぐには着かない。 
天守からの攻撃に耐えながら先に進むと、三ノ門がある。

説明板「重要文化財・三ノ門」
「 本壇における第三番目の門で、高麗門の形式を持つ。  三ノ門南櫓・天守閣から射撃される構えになっている。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854) に再建された。  本壇内庭の東側の防備を固める三ノ門は、脇戸を省略した高麗門で、 三ノ門東塀とともに、二ノ門内側や天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めていた。 」 

二ノ門
     天神櫓      三ノ門
二ノ門
天神櫓
三ノ門

三ノ門南櫓は、国の重要文化財に指定されている。

説明板「三ノ門南櫓」
「 一ノ門、 二ノ門、 三ノ門を防衛する役目を持つ一重櫓である。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854) に再建された。 」

三ノ門を通過すると、大天守正面と、国の重要文化財に指定されている筋鉄門東塀に挟まれた通路に至る。 
ここも枡形で、四方から攻撃を受ける構造になっている。

「 筋鉄門東塀は、大天守正面にある渡塀で、 一ノ門や一ノ門南櫓と小天守とともに、 一ノ門前に虎口を形成する役割を担い、 一ノ門南櫓、 二ノ門、 小天守閣を防衛していた。 
天明四年(1784) 雷火のため、 天守閣と共に焼失し、 安政元年(1854) に再建された。 」

天守に入るには、櫓門の筋鉄門を突破しなければならない。
筋鉄門は、天守中庭を防衛する重要な門で、 大天守と玄関多聞を繋ぐ内門とともに、内庭防備の櫓門として、設けられたものである。 
この門の櫓は、大天守と小天守を繋ぎ、 三の門から侵入する敵の正面を攻撃する構えになっている。 

説明板「重要文化財・筋鉄門」
「 脇戸付きの櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。 
櫓は、天守閣と小天守閣の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。 
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 
昭和八年に放火により焼失した。 昭和四十三年もとの姿に復元された。 」 

三ノ門南櫓
     筋鉄門東塀      筋鉄門
三ノ門南櫓
筋鉄門東塀
筋鉄門


鉄張りの分厚い筋鉄門をくぐると、本壇の内庭に出る。 
左に南隅櫓、 右に天守閣と小天守で、四方を囲まれたスペースで、 四方から攻撃される構造になっている。 /p>

正面にあるのは内門、 右側には、現在の天守への入場口になっている。 
江戸時代の天守への入口は、玄関多聞からだったが、 現在は天守閣の下の穀物倉からになっている。 

説明板「内 門」
「 天守閣の西側に位置し、仕切門との間は枡形になっている。 
上の櫓は天守閣と玄関多聞の通路である。 
天守閣および玄関多聞の戦力によって防衛される。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 
昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。 」 

南隅櫓の方向へ歩くと、玄関多聞と南隅櫓がある。

説明板「南隅櫓」
「 南隅櫓は、二重二階の建物で、天明四年(1784) 雷火のため天守閣と共に焼失し、 安政元年(1854)に再建された。  昭和八年に放火によって焼失したが、 昭和四十三年に復元された。 」

南隅櫓と北隅櫓は、多聞櫓形式である十間廊下で結ばれている。 
天守における搦手方面の拠点となっており、 二階の窓には、格式を高めるため飾りの高欄がある。 
玄関多聞は、内庭の北面にあり、 向唐破風屋根で妻入りの建物である。 

説明板「玄関多聞」
「 南隅櫓と小天守閣とを連結する建物で、南隅櫓と紫竹門を防衛する。 
天明四年(1784) 雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 
昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。 」 

天守本壇の建物群は、天守丸の石垣とともに、幕末に再建されたことから、 各所に親藩としての格式を重んじた居住化傾向が顕れているといわれる。 

小天守閣
     多聞      玄関多聞
正面内門 ( 右側に天守への入口 )
多聞櫓
玄関多聞


松山城は、山頂の本丸北部に、「本壇」 という、天守曲輪があり、 その上に、 大天守と小天守 ・ 南隅櫓 ・北隅櫓gが建ち、 三棟の渡櫓(廊下)で、連結されている。 連立式天守といわれるものである。

「 加藤嘉明が建てた大天守は五層五階であったが、 その後城主になった松平定行により、 寛永十九年(1642)、三層三階回廊付きの天守に改修された。 
改修理由は、はっきりしないが、本壇は二つの山の谷を埋めたてて造られたといわれ、 地盤が弱かったからとも、 武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれている。 
寛永十九年(1642)に建てた三重天守は、天明四年(1784)の落雷で、 本壇の主要建物とともに焼失した。 」

現在ある大天守は、嘉永五年(1852)に石垣普請とともに再建工事が完了し、 安政元年(1854)に落成した三代目の天守である。

「  天守は連立式三重三階地下一階構造の層塔型天守である。 
高さ八・三メートルの本壇(天守台)の上に、 高さ二十メートルの大天守が建っている。 
八間 × 十間 の切込みハギの石積み天守台の内側に、地下一階が造られていて、 江戸時代には穀物倉として使用されていた。 
建築材料には樟や欅また栂など、一級と呼ばれる木材が使用された。 
外部は 一階、 二階に、 黒塗下見板張り、 塗籠角格子の窓には、 突上げ板戸などを配し、 屋根には、 千鳥破風や軒唐破風が付れられている。 
三階は 白漆喰塗りで、 格子がない引戸窓の外には、外廻縁と高欄が付けられている。  また、 天守内部の各階に武者走りがあり、 その内側の 身舎(もや) には天井を張り、 鴨居と敷居で仕切られた畳が敷ける床板張りで、 床の間が付けられていた。 
破風部屋には、二つの鉄砲破風が付けられていた。  なお、鯱を含め、屋根は瓦葺で、 屋根瓦には、建造主の家紋である三つ葉葵が付けられている。 」

南隅櫓と北隅櫓を結ぶ廊下は、 「十間廊下」 と呼ばれ、 多くの狭間が設けられていた。

「 北隅櫓は、城兵の刀や槍が保管するのに使われていたという。 
南隅櫓と小天守との間には、白漆喰が塗られた分厚い戸があるが、 敵の襲撃に備えた他、 類焼を防ぐ目的があったという。 」  

大天守
     武者走り      十間廊下
大天守
武者走り
十間廊下


小天守は、 一の門の枡形虎口を見下ろす位置にあるとともに、 本丸大手方面や紫竹門を監視する役割があり、 二階全部と一階上部が、塗籠め白漆喰の外壁仕様となっている。 

説明板「小天守」
「 天守閣につぐ重要な二層二階の櫓で、大手、搦め手を防衛する絶好の位置にある。 
純白の外壁が天守閣の黒塗りの板壁と対比して美しい。 
慶長年間創建当時は、着見櫓といわれていた。  天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  国宝に指定される直前の昭和八年に、放火によって焼失した。  昭和四十三年に、昔日の姿に復元された。 」 

大天守の最上階からは、三百六十度眺望がひらけ、 松山平野や瀬戸内海などを見渡すことができた。 

下を見ると、十間廊下の渡櫓や北隅櫓、玄関多聞が見えた。 
天守には松山城に関する資料や武器などの展示があった。 

小天守
     眼下の風景      仕切門内塀
小天守
眼下の風景
十間廊下、北隅櫓、玄関多聞


下に降りて、内門から外に出ると、右側に白壁の塀がある。 
重要文化財の仕切門内塀である。 
仕切門内塀は、本壇北側の石垣に面するとともに、 南に折れ曲がり玄関多聞櫓まで達している。

説明板「重要文化財・仕切門内塀」
「 乾門方面に対し、側防の構えとなっている。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 
昭和十年に国宝に指定されたが、 昭和二十五年に法が改正され、 重要文化財になった。 」

天守の南西にあるこの塀をよく見ると、 土台が木で出来ていて、 有事には切り倒して、 外側に塀を落し、 本丸北曲輪や北隅櫓下の石垣を上ってくる兵を壊滅させる役割を持つ、 凄い塀なのである。

その先にあるのが仕切門である。
この門は、本壇内庭の北側の防備を固める高麗門で、 天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。

説明板「重要文化財・仕切門」
「 脇戸付高麗門であって、天守閣の北側に位置し、内門との間が枡形になっている。 
天守閣、玄関多聞によって、防衛される仕組みである。 
天明四年(1784) 雷火のため、天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。 
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年に法が改正され、重要文化財になった。 」 

仕切門を出て、本壇の北東にある天神櫓の脇の石段を降りる。 
振り返ると、大天守と、小天守が並んで見えた。 

仕切門内塀
     天神櫓      大天守と小天守
仕切門内塀
天神櫓
大天守と小天守



右手に、 艮櫓(うしとらやぐら) と 艮門東続櫓 がある。 

「 天神櫓は本壇の北東、艮門は本壇の東に位置する。 
艮櫓と艮櫓続櫓は、東面の防備を担当するとともに、 虎口として、寄手から長者ヶ平から搦木戸門に、 あるいはまた絡手の乾門方面に敵兵がせまった時、 この門から出撃し、寄手の側面をつく戦法を考慮していたものである。  これらの建物は天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失したが、 昭和五十九年(1984)に、古い資料に基づいて、昔日の姿に復元した。 」  

ここからUターンして本壇を回って、本壇の西北部にある野原櫓に向う。 

野原櫓は、本壇の西北石垣に面して建てられ、 大入母屋屋根の中ほどに、 二間半の二階を載せていて、 石落とし、狭間など、 加藤嘉明の築城当時の仕様が、ほぼそのまま残る建物である。  
  大屋根の上に造られた物見櫓から、天守建築が始まったとする、 望楼型天守の論拠となる構造物で、 日本で唯一現存している、望楼型二重櫓 (ぼうろうがたにじゅうやぐら) である。

説明板「重要文化財・野原櫓」
「 本丸の西北方および北側を防衛する重要な二重櫓で、騎馬櫓ともいわれた。 
慶長年間の建造物で、その構造は戦国時代における望楼の面影を偲ぶ遺構として注目される。 
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年の法の改正により重要文化財となった。 」 

その先には 乾門(いぬいもん)がある。
門に続く乾門東続櫓、 同西塀があり、 右手には乾櫓がある。 
乾門とその続櫓は、本丸搦手防衛の重要な拠点で、 重要文化財の乾櫓とともに強力な防衛ラインを構築している。  また、搦手から本丸下の東側通路に侵入しようとする敵のために前述した野原櫓が築かれている。
乾門は、慶長七年(602)、伊予国正木城城主十万石の大名だった加藤嘉明が、 関ヶ原の戦いでの戦功により、 二十万石に加増され、 松山城の築城に着手したが、 その際、正木城から移築した門である。

説明板「重要文化財・乾門」
「 搦手からのなかで最も重要な構えを持つ脇門付きの櫓門である。 
慶長年間築城の際、正木城(伊予郡松前町)から移築されたといわれる。 
昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災で焼失したので、 昭和五十七年に古い資料に基づき復元した。 」 

乾櫓は、古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、 本丸搦手(からめて : 裏側) 方面の防備のための二重の隅櫓で、 本丸の乾(北西)の隅の鈍角の石垣の上に建てられた鈍角の櫓である。 

「 窓は格子、 突上げ構造で、 腰袴式ではなく、 出窓式の石落としが設けられている。
乾門からは、石垣と塀、南櫓と、小天守が迫るように見える。 
敵兵は乾門を突破しても、そこから攻撃を受ける仕掛けである。 」

艮櫓と艮櫓続櫓
     野原櫓      乾門と続塀、乾櫓
艮櫓と艮櫓続櫓
野原櫓
乾門と続塀、乾櫓


乾門から、 東に北隅櫓、十間廊下、南隅櫓が石垣の上に、一線上に繋がり、壮観である。 

紫竹門まで来ると、天守閣を中心に、一周したことになる。 
本壇は、 紫竹門から北が半分で、 南側には細長く、空地が続いている。 

馬具櫓は、太鼓櫓とともに、二之丸方面を防御する二層櫓である。

「 昭和九年に国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災により焼失した。 
昭和三十三年に鉄筋で復元し、 今は松山城防災施設の総合操作室として使用されている。 」

説明板 「井戸」  
「 南北二つの峰を埋め立てて、本丸の敷地をつくった時、 この地にあった泉を井戸として残したと伝えられる。 
井戸の直径は二メートル、 深さ四十二メートル、 城郭の飲料水として使用された。 
上屋は昭和二十年の戦災で焼失、昭和二十七年に復元された。 」 

 

北隅櫓、十間廊下、南隅櫓
     馬具櫓      本丸の井戸
北隅櫓、十間廊下、南隅櫓
馬具櫓
本丸の井戸


その先には、太鼓櫓と太鼓門、 同南北続櫓、 巽櫓(たつみやぐら) が、 高さ五メートルの石垣に一線上に構築され、 筒井門から、本丸南城郭に侵入してくる敵に備える本丸防衛ラインを構築している。
太鼓櫓と同続櫓、 巽櫓、 巽櫓西塀は、 昭和二十年の戦災で焼失したのを昭和六十一年(1986)に復元された。

「 本丸の南西に位置する太鼓櫓は、 大手方面の眺めのよいところに建てられており、 戦の合図のための太鼓が置かれたことから、この名がある。  太鼓櫓と太鼓門との間には、二十四メートルの渡塀があり、 二十一の狭間と二つの石落しが用意されていて、 敵の襲撃に迎え討つ体制は十分である。 
大手口から侵入してきた敵は、正面の渡塀から射撃されるが、 本丸に行くには塀の前で、右折し進む。 
その先にあるのが、本丸の南東にある太鼓門と巽櫓である。 
太鼓門は、脇戸付の櫓門で、 南と北に続櫓がある。 
巽櫓は、 本丸下の東側通路の監視とともに、 太鼓門に到達した敵の背後を攻撃できる位置に建てられている。 
太鼓門の前は、 巽櫓と太鼓門南北続櫓で、 枡形を形成し、 敵の攻撃を防衛するようになっている。 」

その南西にあるのは、筒井門、 筒井門東続櫓、 筒井門西続櫓である。
これらの建物は昭和四十六年(1971)に復元されたものである。

「 櫓門である筒井門は大手から本丸への通路にある重要な門で、その守りを固めるため、 東と西に続櫓が置かれている。 
筒井門は、築城の際、正木城から移築されたと伝えられ、松山城最大の門である。 
三之丸、 二之丸から、本丸に向う敵への大手の固めを構成する重要な門で、 城中最重要かつ堅固な所となっている。 」

筒井門の右側石垣で写真では見えないが、 その奥に、 国の重要文化財に指定されている 隠門(かくれもん) と 筒井門続櫓 がある。

「 隠門と筒井門続櫓は、 筒井門の奥の石垣の陰に隠されている、 埋門(うずみもん)形式の櫓門で、 戸無門から筒井門に迫る敵を背後から急襲する構えとなっている。 
隠門は、 脇戸を持たず、 扉の鉄板張りの中に潜戸を仕組など、 規模は小さいが豪放な構えで、 門の上の続櫓外部の下見張板や、格子窓形式の突揚け戸などとともに、 築城当時の面影を見ることができる。 」 

筒井門の西側にあるのは、国の重要文化財に指定されている、戸無門(となしもん)である。

「  戸無門は高麗門で、慶長の創建当初から門扉がないので、その名がある。 
道は筒井門から左折し、突き当たりを右に行くと戸無門で、そこをくぐるとまたUターンすることになる。 
そこは太鼓櫓の下で、江戸時代には中の門があった。 
ここは、三又路になっていて、右への道は乾門方面だが、歩いて行くと行止まりになる。 
敵が下から攻めてきた時、この中の門で、 この道と戸無門方面の道とに分散させる仕組みになっていた。 」

中の門跡の先にある両側の大きな石垣は、大手門の跡である。 
江戸時代には近くに待合番所があり、揚木戸門があった。 

以上で松山城の本丸の見学は終了。 
築城した加藤高明は、朝鮮の役での経験から、このような堅固な仕組みを構築したといい、 これまで訪れた城で、一番堅固 と思った。 

太鼓櫓、同続櫓、巽櫓
     筒井門      戸無門
(右)太鼓櫓、同続櫓、(左)巽櫓
筒井門(見えないが奥に埋門がある)
戸無門


JR松山駅から、伊予鉄道「道後温泉行き」 で、約10分「大街道」で下車、徒歩約5分、 城山ロープウエイで約2分、山頂駅から天守まで徒歩約10分   

訪問日    平成三十年(2018)三月六日



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