草津本宿の西の入口である、
境川を土橋で渡ると、守山宿の加宿である今宿村に入る。
右側に延久三年(1071)創建の樹下神社が鎮座している。
「 樹下(じゅげ)神社の祭神は稲田姫命(くしなだひめ)である。
その先の大宝神社は本社に当たる。
境内の両側に沢山の常夜塔が並んでいるが、その中に大きなものがある。
当地の旅商人だった伊勢屋佐七が天保弐年(1831)、土橋界隈を往来する
旅人の安全と宿内平穏を祈念して建立した、常夜燈である。
竿石には、大神宮と金毘羅大権現、台石には天下泰平と
宿内安全が刻まれ、商売していた地名や一緒に建立した人の名なども書かれて
いる。
元は土橋の袂にあったが、河川の氾濫などにより、
痛んでいたのを明治二年に修理し、ここに移設された。 守山市の有形文化財である。 」
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右側に、延徳元年(1489)開基の真宗興正派 広大山超勝寺 がある。
、
今宿の町並には重厚な白壁連子格子の旧商家を残している。
少し先の左側には、日蓮宗の寺院・具足山本像寺がある。
「
応長元年(1311)の開基で、本尊は十界曼荼羅である。
本堂前の築山には、寺の草創の由緒を伝える 「石造題目塔」 があり、
貞治六年(1367)の銘がある。
墓地にも、大永四年(1524) の銘の石造題目塔がある。
全国を旅して二千以上の奇石・珍石を収集した、江戸時代の鉱物学者・木内石亭の
墓碑は本堂左前にある。
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今宿町交差点、ここで寄り道をする。
今宿町交差点を左折し、「楓三道」の案内表示のある勝部交叉点を右折する。
少し行くと左側に勝部神社がある。
昭和十六年までは栗太郡物部村だったので、物部神社と称されていた神社である。
説明板「勝部神社由緒」
「 孝徳天皇の大化五年(649)八月十三日、物部宿禰広国は、当時、
勝部村一帯の土地を領有し、その祖神・物部布津神を祀り、物部郷の総社とし、
これを物部大明神と称しました。
「三代実録」には、陽成天皇元慶六年十月、 従五位下の神位階が
授けられた、物部布津社は当社である。
中世武家時代に入り、武家をはじめ、一般の崇敬も一層高まって参りました。
近江守護職・佐々木氏は、深く当社を信仰し、
出陣の旗竿は決まって、当社竹林の竹を使用され、明応六年、佐々木高頼氏は
、大願成就祈願のため、御本殿を造営されました。
元亀年間には織田信長公が
野洲・栗太二郡の起請文六十通を当社に納められ、文禄三年八月、豊臣秀次公は
神田の寄付と御本殿の修理を行いました。 」
本殿の間口は一間三尺、奥行二間一尺で、一棟の中に二神殿が置かれ、
屋根は檜皮葺き、前流れを長くした三間社流造で、国の重要文化財に
指定されている。
街道に戻る。
中山道(県道2号)は車が多くないのでのんびり歩ける。
左側に今宿の一里塚がある。 南だけの片側しか残っていないが、
滋賀県内で唯一残る一里塚で、江戸から百二十八番目である(滋賀県指定史跡)。
塚の上の榎(えのき)は枯れたが、ひこばえから生じた二代目の木が空にむかって
大きく枝を伸ばしていた。
ここから草津宿までは、約一里、四キロの距離である。
焔魔堂町交差点を越すと左側に、「住蓮房母公墓」 の標石があり、
市村家の敷地内に墓がある。
「 住蓮房の母・朝子は、我が子が捕えられた悲しみで、
盲目となり、一目逢いたいと京から馬淵を目指しました。
ところがこの地まで来るとすでに首を打たれたと聞き、最早、
この世に生きながらえる望みなしといい、
当地焔魔堂村の尼ケ池に入水しました。
母公の法名は住然といいます。
市村家は、住蓮房の首を打った刀を所蔵していましたが、
延宝五年(1677) 大宝神社に奉納しました。 」
県道145号の交叉点(焔魔堂町交差点)を越すと、 右側に、「五道山十王寺」 「焔魔法王小野篁御作」 の石碑が建っている、浄土宗鎮西派の五道山十王寺がある。
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十王寺は小野篁の開基である。
門は閉まっていたが、引き戸を引くと中に入ることができた。
境内の閻魔堂に、小野篁が造った閻魔像が安置されている。
「 この閻魔堂は、閻魔堂村(現、焔魔堂町)の地名由来になって
いる。
小野篁(たかむら)は平安時代前期の官人・学者・歌人で、
遣隋使で知られた小野妹子の子孫である。
小野篁は、夜毎井戸を通って地獄に降り、
閻魔大王の元で、裁きの補佐をしたという伝説がある。
五道は人間が修行の結果、善悪の行いによって行き着く五つの場所をあらわしている。
その途中には十の関所があり、十人の王がいます。
これを十王といい、そのひとりが閻魔大王である。 」
十王寺の向いの諏訪神社の街道沿いに、領界石 「従是南淀藩領」 がある。
元は今宿村と閻魔堂村の境にあったもので、閻魔堂村は山城淀藩領でした。
十王寺の先で用水路を渡るが、そこに、「古高俊太郎先生誕生地」 の石碑が 建っている。
古高俊太郎は、京都で新撰組に切られた尊皇攘夷の志士である。
用水を越えると左側に、閻魔堂村境 の 男女双体道祖神 が祀られている。
二町交叉点を過ぎると守山市二町町から栗東市綣(へそ)になる。
「 綣はお腹のヘソではなく、糸を丸めるの意で、はた織機 にかけるために、縒りあわせた麻糸のことをへそという。 」
大宝神社前バス停の左側の森は、大宝神社の境内である。
左側の用水路に沿って進み、脇の鳥居をくぐって大宝公園に入って進むと
左側に、松尾芭蕉の句碑がある。
「 松尾芭蕉が、元禄三年、北陸方面に旅をした帰りにここ(綣村立場)で、
足を留め、惜春の情を詠んだ句である。
「 へそむらの まだ麦青し 春のくれ 」
(句の意) 「 この辺りの麦はまだ青い、寒かったのだろうか、もうまもなく春も
暮れようとしているのに 」
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参道を左に進むと、大宝元年(701)創建の大宝神社がある。
「 大宝神社(だいほうじんじゃ)の祭神は、素盞鳴尊である牛頭天王をである。
近江国守護・佐々木氏、そして、足利将軍や徳川家の庇護を受けて隆盛し、
江戸時代以降は氏子が五十余村にもおよんだ”と言われる神社である。
社域が今でも、約二万七千uにおよぶ神社で、 明治までは、大宝天王宮とか
今宮応天大神宮と呼ばれていた。 」
本殿は、三間社流造りで、弘安元年(1278)の再建である。
境内にあった木造狛犬は重要文化財指定であるが、
現在は京都国立博物館に保管されている。
境内社の追来(おうき)神社本殿は、弘安六年(1283)の棟札が残っていて、
鎌倉時代中期の建築で、国の重要文化財に指定されている。
なお、神社の入口脇には、「大宝村道路元標」 の碑が建っている。
街道を挟んだ向かいに、時宗の大宝山佛眼寺があり、
参道口の地蔵堂には綿被(わたかぶ)り地蔵が安置されている。
寒中に川の中を流れてきた地蔵を拾い上げ、「さぞ寒かっただろう」 と、
頭から綿を被せて祀ったといわれる。
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再び、歩き始める。
綣(へそ)の集落はけっこう広い。
大宝小学校を過ぎると栗東駅西口交差点があり、左折すると正面がJR栗東駅である。
中の井川を百々川橋で渡り、花園交差点で、琵琶湖に通じる浜街道(県道31号)を横断する。
花園交差点 を過ぎると、左側にJRの高架が
大きく弧を描くようにして近寄ってくる。 JR草津線である。
葉山川を渡ると、草津市に変わる。
葉山川橋交差点の先は、東海道本線と草津線の敷設により、中山道は分断されている。
線路に沿って進む。
車道はやがて高架になるが、そちらには上がら
ず、左側を歩き、左側の線路をくぐるトンネル(渋川隧道)を探して、入って行く。
二つ目のトンネルは極端に低いのだが、自転車に乗ったまま器用に走っていくのには驚いた。
この隧道で、JR東海道本線及びJR草津線をくぐり抜ける。
線路の反対側に出るとすぐ右折し、 JR草津線に沿ったグレーチング敷きの細い側道を進む。
これが旧中山道で、以降、JR線に沿って進む。
線路沿いの細道を進むと、旧渋川村に入る。
往時はこの辺りに梅木和中散を商う出店があり、賑わったというが、
今はその痕跡はない。
県道2号を高架でくぐると、左側に伊砂砂(いささ)神社がある。
「 平安の昔に疫病平癒の為に大将軍を祭り、
渋川大将軍社と称し、渋川村の産土神であった。
明治の神仏分離後の明治二年(1869)に祭神五神の内、
石長比売命(いわながひめ)、寒川比古命(さむかわひこ)、
寒川比売命(さむかわひめ) の頭文字を取って、いささ(伊砂砂)神社と改称された。 」
本殿は応仁二年(1468)の建立で、一間社流造檜皮葺きで、国の重要文化財
に指定されている。
当社には伝統芸能古式花踊りが伝わっている。
「 応仁三年(1469) 旱魃のため、村人が雨乞いの祈願を
行ったところ、御神助により雨が降り、幸い豊作にななった。
このため、神前に御礼の踊りを奉納して祝ったのが始まりという。 」
街道に沿う伊砂砂神社の平積石垣は、自然石の珍しい平積みで、
錬倉時代の作と伝えられる。
伊佐々川を伊佐々川橋で渡る。
この川は、伊砂砂神社の参拝者が体を清め、手を洗い、
口をそそいだ御手洗川(みたらしがわ)であった。
信号交差点を越えると右側に、明応二年(1493)開基の真宗大谷派の秀月山行圓寺があり、
並びの奥に真宗興正派の大放山光明寺がある。
「 光明寺は、貞永元年(1232) 天台宗の道場として創建されたが、
蓮如上人の教化により浄土真宗に改宗しました。
その先の左側の家屋内に地蔵大菩薩を安置した祠が祀られている。」
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大路交差点を越すと正面に、きたなかアーケードが現れる。
手前の交差点左側の中央分離帯に、手作りの一里塚跡標識がある。
草津の一里塚跡で、大路井の一里塚とも呼ばれた。
塚木はエノキで、江戸より百二十九里目の一里塚で、そして中山道最後の一里塚である。
北中町商店街には八百屋、酒屋、洋品店などの店がある。
きたなかアーケードを進み、左折して、県道143号に入ると、
左側に、浄土宗三光山覚善寺がある。
寺の前の道(県道143号)は,\、明治時代に造られた東海道の新道である。
門前に、明治十九年(1886)に建てられた、 「 右東海道 」、「 左中山道 」 と、
刻まれた大きな石柱の道標が建っている。
「 東海道の新道は明治になり、草津川(砂川)の下にトンネルが
掘られ出来たものである。
それ以降、東海道は新道に変わり、新追分もできたのである。 」
この道を更に進むと、左側に貞観五年(863)創建の女体権現・小汐井(おしおい)神社
(水天宮)がある。
中山道第一の宮として旅人からも篤い信仰を受けました。
近隣の氏子からは安産の神として今も篤く信仰されている。
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アーケード道に戻って進む。
正面に草津川隧道が口を開けているが、くぐらず、その先のY字路を左に進み、
上り坂は草津川の土手道に出る。
「
草津川は往時から天井川で、中山道の通行の人々は土手を上り、草津川を越えました。
緩い上り坂の右側に、草津川の川越しの安全を見守ってきた地蔵尊が祀られている。」
草津川に架かる橋は渡らず、土手道をUターンする。
土手道を進み途中から、右の砂利道を下って、河川敷の中央に進む。
「 天井川の草津川は、平成十四年(2002)に廃川となりました。
河川敷は、現在、草津川跡地公園になっている。
江戸時代の草津川は、通常、水量が少ない為、仮橋が架けられていた。
広重は、「草津追分」 として、この仮橋を画面の手前に描いている。
廃川になった草津川の中央に、この仮橋が復元されている。 」
仮橋を渡り、対岸の砂利の上り坂を進み、土手道に出る。
途中に、「草津川渡し」の説明板がある。
説明板「草津川渡し」
「 通常水なしで、徒歩渡し。 水嵩により、三〜三十二文の橋銭を払っていた。
当時は少し東側で渡っていた。」
土手道をわずかに進み、右手の階段を下りる。
階段を下り切ると突当りが草津追分で、左側が草津川隧道の西口である。
ここが中山道の終点である。
追分の突当りに、文化十三年(1816)に建立された、火袋付石造道標が建っている。
この常夜燈には、「右 東海道いせみち」 「左 中仙道美のぢ」 と刻まれている。
また、手前の左側に、延命地蔵尊(追分地蔵尊)があり、並びに、
縮小版の高札場が復元されている。
江戸時代、高札場は草津川の堤防が決壊する恐れがある場合には立木神社に移動されたという。
中山道はここで終り、ここから京三条大橋までは、東海道を歩いて行くことになる。
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守山宿 滋賀県守山市守山 JR東海道本線守山駅下車。
草津宿 滋賀県草津市草津 JR東海道本線草津駅下車。
(所要時間)
武佐宿 → (4時間20分) → 守山宿 → (30分) → 大宝神社 → (1時間30分) → 草津宿 (草津追分)