◎ 鏡神社から守山宿
左側に愛宕大神碑があり、更に進むと左側の祠内に道祖神が祀られている。
旧出町村の西口である。
旧道が国道8号に合流する所のGS跡を過ぎると、 (株)キョウエイ手前に
「平宗盛胴塚→」 の案内板が立っているので、
ここから左に細い草道を百メートル進むと、
「平宗盛卿終焉之地」 と刻まれた石碑と、二躰の石仏が立ち、後ろには小さな塚がある。
この地で平宗盛父子の首がはねられ、父子の胴を葬った宗盛塚である。
「 源義経は、平家最後の総大将・平宗盛(たいらのむねもり、平清盛の三男)を壇ノ浦で破り、宗盛と息子の清宗を捕虜として鎌倉に向かったが、
兄の頼朝は勝手に朝廷から官位を受けた義経に鎌倉の地を踏ませず、腰越で追い返された。
父子は頼朝の引見後、再び京に護送される途中、頼朝の命により、ここで斬首され、
父子の首だけを京都に運び、京の六条河原晒されました。
義経は、父子の情を想い、二人の胴を一緒に埋葬しました。
ゆえに、ここは平家終焉の地といわれます。
宗盛は享年三十九歳、清宗十七歳でした。 」
国道に戻り、国道8号線左(南)側の歩道を歩く。
左下の埋立地は首洗い池跡で、平宗盛父子の首を洗った池跡である。
続いてある池は、あまりにも平宗盛父子が哀れと思い、蛙が泣かなくなったところから、
蛙不鳴池(かわずなかずいけ)と呼ばれている。
大篠原北交差点からは国道右(北)側の歩道に移る。
国道の右側は田畑が連なり、その先に見える三つの小高い丘は向山古墳群である。
光善寺川橋で渡ると下り坂になる。
右側の土手下に、「大篠原の一里塚跡」 の標識があり、江戸より百二十六里目である。
戦前までは大きな松が一本残されていたとある。
国道を下って行くと左側に東池が見えてくる。
東池の奥に見える大きな屋根は浄勝寺である。
「 東池にはハスの葉が群生している。 浄土宗東方山 浄勝寺は文禄三年(1594)の開基で、本堂は街道に背を向けている。 」
中山道は東池の西端の浄勝寺前交差点から右斜めの大篠原旧道に入る。
「 大篠原集落は、東山道時代は宿駅として栄えたが、
鎌倉時代に入ると宿駅は鏡村に移った。
江戸時代の大篠原村は立場となり、旅人や近江商人の往来で賑わった。 」
左側に道祖神が安置された祠があるが、かっての大篠原村の
境に祀られた塞神である。
大篠原旧道は、西池の手前で、国道8号線に合流する。
国道に合流すると左側に篠原堤と呼ばれる長い堤防が現れる。
堤の上に上ると、大きな西池が二つ並んでいるのが見られる。
少し進んだ左側バス停に、「西池」 の説明板がある。
説明板「篠原堤と西池」
「 西池は大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413年頃) 近江国に
四十八個の池を掘らせた時の一つと言われている。 下にある約九十町歩の田畑
の灌漑用に昔から大きな役目を果たしている。
この西池の長い堤が、源平盛衰記に出てくる篠原堤であるとの説もあるが定かでない。
さかなの養殖用や淡水真珠の養殖用に使われたことがある。
野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会 」
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小堤交差点を過ぎると左側に、
明応年間(1492〜1501)中興の浄土真宗本願寺派 正蓮寺がある。
このあたりは小堤集落である。
集落を進むと左側に、「大笹原神社」石標が建っている。
大笹原神社は、国道の大篠原交叉点を横断し、光善寺川を渡ると左側にある。
「 寛和二年(986)に、越知諸実が、社領を寄進し社殿を造営した
と伝えられる神社である。
本殿は、室町時代の応永二十一年(1414) 岩倉城主・馬淵定信が再建したもので、
三間四方に一間の向拝を付けた入母屋造り桧皮葺きである。
特に彫刻が優美で東山文化の粋といわれ、国宝に指定されている。
本殿右手にある寄倍(よるべ)の池は水深が深い底なし沼で、
昔、この辺りが干ばつに見舞われ、二基の神輿を沈めて祈願したところ、
いかなる日照りが続いても池の水は涸れることなく絶えず満水になったといわれる
。 」
大笹原神社の石柱を過ぎると小堤バス停前で、右の狭い道に入って行くのが
中山道の小堤旧道である。
ここまでの国道には歩道がなく、道に細く線が引いて
あるだけなので、本当に恐かった。
用水を渡り、紅殻塗りの塀を横目で見ながら緩い上り坂を進む。
旧道に入って四分、家棟川(やのむねがわ)手前のポケットパークに、
愛宕山の石碑と寛政六年(1794)建立の金毘羅大権現常夜燈が二基建っている。
小生がここを訪れたのは平成十六年(2004)。 この時は新家棟川は天井川として、
鉄道の土手のように聳え、その下がアーチ形トンネル(家棟隧道)になっていた。
「 家棟川の上流の山は風化の進んだ花崗岩質の地質なため、
出水時には大量の土砂が流れ出し、家棟川は河床が周辺地盤より高い天井川を
形成していた。
ここを通行する住民や旅人は一旦堤防に上がり、川を渡り、
再び堤防下に下りるという大変な苦労をしていた。
大正六年(1917) 天井川の下に家棟隧道が開削された。
その後、平成七年(1995)より河川工事が進められ、川床を最大10m掘り下げ、
平成十九年(2007)に、平地河川化が完了し、家棟川に、家棟川新橋が架けられました。 」
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小生は家棟隧道(トンネル)をくぐって、篠原神社参道口に出た。
今は新家棟川を渡ると右側に篠原神社参道口があり、
「村社篠原神社」の石標とその奥に鳥居がある。
「 篠原神社は、餅の宮とも呼ばれ、鏡餅の神が祭られている。
藤原秀郷の二男・田原二郎千時が、平将門平定の軍功により、
栗田野洲二郡を賜った際に社殿を建立したとされる。
この辺りは鏡餅発祥の地といわれ、篠原餅は立場名物であった。
本殿は応永三十二年(1425)建立の一間社隅木入り春日造りで、
国の重要文化財に指定されている。 」
社叢が鬱蒼と茂って、境内は静かなので、汗をひくまで休憩をした。
篠原神社の参道口を過ぎると旧辻村に入る。
村名はこの地が野洲郡から甲賀郡に出る辻であったところに由来する。
信号交差点を越すと右側に子安地蔵堂がある。
「 元は比叡山天台系嘉祥寺に安置されていた地蔵菩薩像で、
平安時代末期(十二世紀)造立の極彩色等身大の半跏趺坐(はんかふざ)像で
秘仏である。
安産祈願の子安地蔵として、近隣の信仰篤く、毎年一月と八月の縁日
に開扉され、遠方から多くの参拝者が訪れる。 」
街道はJR東海道新幹線に接近すると、左側一帯が桜生(さくらばさま)史跡公園である。
園内の国史跡「大岩山古墳群」のうち、六世紀を中心とする
三古墳(甲山古墳、円山古墳、天王山古墳)が自由に見学できる。
JR東海道新幹線高架に沿って進むと左側に甲山古墳がある。
スロープを上り詰めると、甲山古墳の石室内が公開されている。
「 甲山古墳は、標高百十メートルの丘陵先端に造られた六世紀
前半の円墳で、直径約三十メートル、高さ十メートル、西に開口する横穴式石室が
ある。
石室の床には玉石が敷き詰められ、中央に熊本県宇土半島の凝灰岩で
造られた家形石棺を安置している。
なお、発掘調査によって装身具、鉄製の武具、馬具等が出土している。 」
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桜生史跡公園の東南、国道を越えた先にある、野洲市歴史民俗博物館には
銅鐸博物館がある。
説明文よると、
「 桜生は銅鐸の里と呼ばれています。 大岩山古墳群からは、
明治十四年(1881)に、国内最大の高さ134.7cmの
大型銅鐸をはじめ、合計十四基の銅鐸が発見され、
昭和三十七年(1962)にはJR東海道新幹線建設工事現場から、
新たに十基の銅鐸が出土するなどこの辺りはわが国有数の銅鐸出土地として知られています。 この中には近畿地方だけではなく、東海地方で作られたものもある。 」
とあるので立ち寄ることにした。 入場料は二百円と安い。
「
当地で発見された銅鐸がすべて展示されていたが、よく見ると全て模造品
(レプリカ)で、本物はないようだった。
明治時代のものは銅鐸が持つ価値が分からなかったので、売られてしまい、
かなりの数が海外に流出しているようである。
国内では上野の国立博物館
に所蔵されているのが多い。
銅鐸についての基礎知識を得るにはよいが、
現物を見ようすると当てがはずれるというのが見ての感想である。 」
街道に戻って少し歩くと桜生公民館の手前の三叉路に、日吉神社の案内が あったので、左折して国道の下をくぐると右側に宝樹寺があり、その先の左手 に日吉神社がある。
説明板 「日吉神社」
国の重要文化財 昭和十九年九月五日指定
「 日吉神社の歴史は明らかでないが、少なくとも鎌倉時代には造営
されたと考えられる。
祭神は大山咋(おおやまぐい)である。 現在の本殿は鎌倉時代後期に建てられたもので、
形式は一間社の流造。
小規模な本殿であるが
、室内は板扉で内陣(神をまつる部屋)と外陣を区別し、正面に格子戸を建てる。
簡素で一般的形式の本殿であるが、たたずまいの美しい優れた建築である。
昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会 」
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街道に戻ると、左側の桜生公民館入口の庇の上に、銅鐸のレプリカが
乗っている。
傍にあった立て看板には、「中山道銅鐸の里 桜生」 と書かれていた。
中の池川を越えると右側に地蔵堂があり、傍らには石塔がある。
集落は続く中に幾つかの案内板(道標)が立つ先、右側に藍染用の瓶が逆さに
並べている家がある。
伝統工芸の 「ジャパンブルー」 といわれる本藍染 を、滋賀県内では、
ただ一軒だけ伝えている、本藍染 紺九(こんく) である。
この辺りはかって藍染が盛んでした。
ここ森家は明治三年(1870)に創業し、
紺九の屋号で、今日まで本藍染の伝統を守り続けている。
三代目は人間国宝でした。
その先の交叉点手前の左側に、中之池地蔵堂がある。
堂内の祠に、中之池地蔵尊が祀られている。
街道を進むと左側に、「稲荷神社」 の標石と大きな山燈籠が
左右にあり、奥に石造鳥居がある。
街道から少し入り、国道8号を越えた、野洲中学の隣に、小篠原稲荷神社がある。
二千坪という広い境内である。
説明板 「小篠原稲荷神社」
「 御祭神は、宇迦之御魂神ほか八柱の神(五穀豊穣、商売繁盛の神)
ご由緒 天暦二年(948)の創立と伝える。 京都の伏見稲荷大社より勧請。
当神社はもと志礼(しれ)の地(今のお旅所 現在地より南西へ約五百米) にあり、
この地には元禄十六年(1703)に遷座された。
これより先、延宝七年(1679)には
時の領主・伊達政宗公(仙台藩主)より約二千坪の土地が寄進せられた。 」
国道に面した鳥居をくぐると、正面に拝殿があり、右側に社務所と泉水、その
奥に末社薬弘稲荷、左側には末社の愛宕神社がある。
拝殿の奥に柵と神門で囲まれた中に、三つの社があり、
中央が稲荷神社の本殿、右側が末社の若宮神社、
そして、左が末社の古宮神社である。 」
本殿は一間社流造りで小篠原村の氏神である。
末社の古宮神社の本殿が国重要文化財である。
説明板「稲荷神社境内社古宮神社本殿」
「 一間社流造り、こけら葺。 室町時代
古宮神社の草創は鎌倉時代で、本殿はもとは近くの福林寺境内にあった十二所
神社の建物を大正三年に稲荷神社の境内に移築されたものである。
本殿は組物や頭貫の木鼻、向拝の蟇股などの意匠よりみて、
室町時代の建立と考えられる。
昭和十七年の解体修理によって、覆屋の中に荒廃していたものが、
現在のような端正な姿に復原整備された。
この建物は中規模な一間社で、
頭貫に禅宗様建築の細部である木鼻をつけ、母屋正面の鴨居うえ欄間や向拝
の蟇股に唐草文様の彫刻を入れるなど意匠に優れた本殿である。
平成六年三月 滋賀県教育委員会 」
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街道に戻ると、
右側に「小篠原村庄屋苗村邸跡」の石碑があり、その先に養専寺がある。
文明九年(1477)の開基の浄土真宗本願寺派の寺で、境内には大イチョウが聳えている。
その先の右側に、慶長年間創業の茅葺き屋根の暁酒造がある。
中山道は新幹線高架をくぐると交叉点で左折する。
車両進入禁止の標識がある一方通行の道を進む。
住宅の立ち並ぶ道を道なりに進むと、五叉路に出る。
大きな道が交差している左側に、野洲病院がある。
大きな道を渡り、野洲小学校の裏手を通ると、野洲小学校の前に、
外和木(そとわぎ) の標(しるべ) があり、常夜燈風の道標がある。
「中山道野洲」と刻まれ、「守山宿← →武佐宿」のプレートが組み込まれている。
その先の先の逆Y字路が朝鮮人街道の追分である。
鳥居本宿の追分で分かれた
朝鮮人街道が、彦根・近江八幡を経由して、約四十キロ先のここで、合流した訳である。
「 この追分にあった享保四年(1719)建立の追分道標は、
この先の蓮照寺の境内に移設されている。
前述の「外和木」 は、朝鮮人街道との追分の地名が、小篠原字外和木
ということである。 写真は振り返って写したもの。
京都方面からは、中山道は右側、小学校の裏の道で、朝鮮人街道は左の道
(小学校の前を通る)である。 」
小篠原から行畑(ゆきはた)に入ると、 信号交差点手前の左側にふれあい広場があり、「背競地蔵堂」 と書かれたお堂の中には 二体の石佛が祀られている。
「 左の大きい地像尊は阿弥陀如来立像で、背の低い
像が背くらべ地蔵である。
共に鎌倉期の造立で野洲町指定文化財で、
東山道が通っていた時代から街道を歩く旅人をお守りしてきた地蔵尊である。
子を持つ親たちは我が子も地蔵さんの背くらいになれば一人前と背比べをさせる
ようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになりました。 」
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街道は交叉点を直進するが、左折すると左側に行事神社がある。
「 神亀元年(724) 御上神社の神託を受けた三上宿禰(すくね)
が勧請したところから、 三上別宮 とも称された。
本殿は一間社流造りで、 中畑・行合(現在の行畑) 二ケ村の総鎮守である。
鳥居をくぐると、魔除けの「勧請縄」 と呼ばれる独特な注連縄が吊り下がって
いる。
「
これは、「道切り」 という習俗で、全国では少なくなったが、
滋賀県の湖東・湖南、奈良県の一部、千葉県房総地方に残る。
道切りとは、村に悪霊が入ってこないように、村の境界に縄を張り、
あるいは、境を守る標として、道祖神・御幣・蛇やむかでの藁細工を置いた。
この地方では、勧請縄あるいは勧請吊りと称し、注連縄とは違い、
太くて長い藁縄に、杉。榊などの葉を組み込んだ縄を吊るすもので、
神社により、形状や吊るすものが違うようである。 」
交差点を渡ると行畑商店街となる。
左側に延暦二十四年(805)の開基の茅葺の浄土宗佛牙山唯心寺があり、山門前に「釋尊身御舎利」の石碑が建っている。
唯心寺の先の突当り、丸万を枡形状に進むと、右側に浄土真宗本願寺派清流山
蓮照寺がある。
寛永元年(1624)の開基で、本尊は阿弥陀如来である。
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蓮照寺の境内は広くはないが、手入れが行き届いている。
鬼瓦や石仏が目立たないところに置かれている。
道標二つと領界石は草花に囲まれるように建っていた。
道標と領界石は他から移設されたものである。
「左 八まんみち」 「右 中山道」 とある道標は、
朝鮮人街道追分道標である。
前述の逆Y字路に立っていたものをここに移設した。
「従是北淀藩領」とあるのは淀藩が建てた領界石である。
自是錦織寺迄四十五町」 とある道標は、ここから約五キロ北の中主(ちょうず)町木部(きべ)にある、浄土真宗木辺派の本山・錦織寺(きんしょくじ)への道標である。
蓮照寺を過ぎると左側に、行畑愛宕地蔵堂がある。
行畑から野洲に入ると野洲本町商店街の看板が掲がる街道には「玉の春」 という銘柄
の醸造元宇野勝酒造や古い家が残っていた。
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東海道本線のガードをくぐり緩い上り坂を進むと、右側に明暦三年(1657)開基 の黄檗宗百足山十輪院がある。
「 往時、日が暮れると野洲川を渡る旅人の為に、
境内の天明五年(1785)建立の常夜燈に火を灯していました。
この為、八石八斗が除地でした。
本堂脇に、芭蕉句碑 「 野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす」 がある。
野洲晒(さらし)は、麻布を白くさらす工程に布晒があり、冬の川の中に据えた臼に
布を入れ、杵で突く作業で、過酷な重労働でした。 」
十輪院の向かいには、夥しい数の石仏石塔が集められ整然と安置されている。
野洲川東詰交差点を過ぎると、野洲川にでる。
「 近江国では最も大きい川で、
奥は甲賀、信楽そして、東海道水口・土山、その先の鈴鹿山中に発している。
野洲川は、その昔、河口に八つの洲があり、八洲川と呼ばれ、
これが転じて、野洲川となりました。
通常は仮橋、増水時は舟渡し、朝鮮通信使通行の際は仮土橋が架橋されました。 」
川に架かる野洲川橋を渡っていく。
振り返ると、東海道本線と新幹線の鉄橋の先に、 近江富士と呼ばれる三上山が見える。
「
三上山は、標高は四百三十二米と
高くはないが、俵藤太秀郷の「百足退治」の伝説がある山である。
古来、信仰の対象とされてきた山だが、近畿の山歩きをする人には人気のある山である。
紫式部は、 「 打ち出でて 三上の山を詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの 」と詠んでいる。
又、三上山は平将門を討取った俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治で知られ、
百足山とも呼ばれました。 」
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野洲川橋を渡ると、守山市吉身(よしみ)になる。
「 江戸時代に、守山が宿場に指定されると、
吉身はその西の今宿とともに、守山本宿の加宿として、宿場の役割を分担した。
京からの東下がりの場合、初日は守山泊りが一般的だったというから、
初日は三十数キロを歩き、守山宿に泊まった訳だが、京や浪速に入る客で混雑
する草津宿(東海道と合流する)を避けたいと思うのは人情。
守山が宿場に追加されたのもそのあたりの事情だろう。 」
街道を進むと右側に、「式内馬路石邊(うまじいそべ)神社」 の標石があるので、
寄ることにした。
参道は奥に続いていて、本殿までは三百四十メートルの距離である、徒歩五分。
本殿は三間社流造りで、文久元年(1862)の建立である。
社名の馬路は、この地に宿駅が置かれていたことに由来する。
「 馬路石邊神社は、白鳳三年(663)創建されたいう神社で、
延喜式神名帳に記載がある式内社である。
祭神は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)と大己貴命(おおなこちのみこと)と、
馬道郷を拠点とする古代の豪族・石辺君氏を氏神として祭っている。
戌年に創建されたことによるのか、神の使いは白犬である。
荘園時代には、馬路郷田中荘(今の吉身、守山、金森など)の総鎮守となっていたので、
田中大明神と称されるようになった。
元亀・天正の頃、戦火により燃失。
現在の建物は、江戸末期の文久元年(1862)の建立である。 」
街道に戻る。
吉身三丁目交叉点を過ぎると吉身小学校南交差点手前の左側に、
「益須(やす)寺跡」と「中山道」の説明板がある。
説明板「益須寺跡 中山道」
「 益須寺は、「日本書記」 持統天皇七年(692)十一月の条に、
「 奈良の都から僧二人を遣わして、近江国益須郡の醴泉(れいせんを飲ませた飲ませた。 」 ことや、翌八年には、「 醴(こさけ)の泉が近江の益須郡の都賀山から湧き、
病人が益須寺に宿泊して治療した 」、「 泉の水が病気に効果があったので、
水田四町、布六十端を寺に献上した。 ・・・・ 」 という、記事が見られる寺院である。
益須寺の位置については、江戸時代から検討されてきたが、昭和四十年以降の発掘調査で、
七世紀後半の瓦が吉見町の上野(野神)を中心として、周辺で多量に出土することから、
現在ではこの交叉点の東側約百メートルあたりで、二百メートル四方の範囲が有力である。
瓦は奈良県法隆寺式の素弁蓮華文や、複弁蓮華文などの軒丸瓦や、
唐草文、重弧文の軒平瓦や、布目のある瓦がある。 」
説明板「中山道」
「 中山道は、東山道と呼ばれた古い道を、織田信長や豊臣秀吉が修理した後、
徳川家康が整備したものである。
正徳六年(1717)までは、中仙道と表記していたが、以後中山道と記述された。
起点の江戸日本橋から守山宿まで、中山道は六十七宿であった。
この交差点あたりは吉身村で、守山宿の加宿の東端にあたり、松並木が
あったが、昭和三十年代に伐採された。
平成六年、道路改良工事に伴って
中山道の両側を発掘調査したが、中山道の幅は現在の道幅とほぼ同じと推定され、
その両側には水田が広がっていた事がわかっている。
平成七年四月 守山市 」
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吉身小南交差点を越えた、すぐ先の変則五叉路で、
旧中山道は、水路(伊勢戸川)を渡り、やや右カーブする。
この水路の手前右側に、「中山道」の標柱と、「吉身」の説明板と、「高札場跡」の説明板が建っている。
説明板「吉身(吉水郷)」
「 この辺り一帯を吉身という。
古くは、吉水郷(よしみずごう)と称し、
ゆたかな森林ときれいな水に恵まれた天下の景勝地であった。
元暦元年(1184)九月に発行された 「近江国注進(ちゅうしん)風土記」 には、
近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。
南側は、都賀山の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、
東に有名な益須寺があった。
そして、この街道は中山道である。
古えの東山道にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。
鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで、守山が重要な駅路(宿駅)となり、
江戸時代に、江戸の日本橋から数えて、六十七番目の宿場に指定されたとき、
吉身はその西の今宿とともに守山本宿の加宿として宿場の役割を分担した。
ここは吉身加宿の高札が立っていた所である。
本宿と加宿の境には川が流されてその標とした。 流れるこの川を伊勢戸川(伊勢殿川)という。
野洲川の伏流と
湧水を戴く宮城川の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水
としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。 里中に
しては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類のさかなたちを育み、同時に
「ゲンジボタル」の発生の川としても親しまれてきた。
昭和三十年代後半以降
約四十年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り
戻しはじめた。
その証としてゲンジボタルがその佳麗な姿を見せてきたことを
啓示とし、地元自治会が「川をいつもきれいに」する動きを始めた。
時あたか
も守山市が市制三十周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、
いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、「ホタルが住みよい吉身」のまち
づ<りを目ざしている。
平成十三年(2001)早春 吉身中町自治会 「水とホタル推進
委員会 」
説明板「中山道高札場跡、稲妻型道路」
「 帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道
(伊勢道)が分岐する。
遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川
幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場
が設けられていた。
中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。
また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場
までの街道は本町と同じように、 「稲妻型道路」 となっていた。
街道に面する民家
は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。
宿場の治安維持
を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところ
は大変珍しい。
現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察することができる。
平成十三年 守山市教育委員会 」
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ここから百メートル程先の左手にある慈眼寺までの街道に面する民家は、
直線的に並列せず、一戸毎に段違いにする屋敷割りをした 「稲妻型道路」 になっていたと
あるが、 現在ではあまり分からなくなってしまっている。
左側に「慈眼寺」 の寺標があり、各面に、「帆柱観世音 慈眼寺」「本はし羅可んせおん」
「薬師如来」 と刻まれている。
「
慈眼寺は、天台宗の寺で、本尊は伝教大師の作
と伝えられ、秘仏とされていて、通称、帆柱観音 の名で親しまれる。
本堂には薬師如来坐像や日光、月光菩薩坐像が安置されている。
慈眼寺は延暦ニ十三年(804)の創建で、本尊は帆柱観音と呼ばれる、
十一面観世音菩薩立像(秘仏)である。
縁起によれば、傳教大師最澄が
桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰途日本海で、大時化に遭遇すると
突然、観世音菩薩が現れ、風波を鎮め危難から救った。
大師は折れた帆柱で三尺三寸の観音像を自ら彫り、
弘仁元年(810) 水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として、
中山道に沿う吉身の地に安置した。
元亀二年(1571) 織田信長の兵火で本堂は焼失したが、村人たちがご本尊を
地中に埋めて守ったという。
現在の本堂は里人が中心になって、平成二十一年(2009)に、再建したものである。 」
吉身西交差点の先から守山市守山になる。 かっての守山本宿である。
ここで中山道は県道151号から県道2号に変わる。
以前は枡形があったようである。
吉身加宿と守山本宿の境には、
野洲川の伏流水である伊勢戸川が流されている。
水量も多く冷たく清らかだったので、川の水が旅人の飲み水として重宝がられた。
なお、上記の川の名は
吉身自治会によるもので、市教育委員会の看板は三戸津川となっていた。
橋を渡ると守山本宿で、壱千五拾参間とあるから宿場は千九百メートルほどの
長さだったようである。
街路灯の支柱に、「中山道守山宿」 と書かれた、 将棋の駒の形をした行灯(あんどん)がついている。
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◎ 守山宿
守山宿は京を立った東下りの旅人の最初の宿泊地で、
「京立ち守山泊まり」 といわれ、賑わった。
守山宿の長さは十一町五十三間(約1.3q)で、本町・西町・仲町・東町で構成されていた。
天保十四年(1843)に編纂された中山道宿村大概帳には、
守山宿の家数415軒、宿内人口1700人(男837人 女863人)、本陣2、脇本陣1、旅籠30軒、と、記されている。
橋を渡ると左にカーブするのが枡形の跡なのだろう。
その左側に小児科病院があり、三叉路の角に、
「すぐいしべ道」 「高野郷新善光寺道二十五町」
の石柱が建っている。
これは、栗東町にある新善光寺と、石部への道標である。
すぐとは、真直ぐの意である。
「 この道標は、中山道より石部道(伊勢道)として分岐する場所にあり、
旅人にとって 重要なものだった。
その途中に、平重盛(清盛の嫡男)の一族・高野宗定が、
善光寺如来の分身を授かり創建した新善光寺がある。
新善光寺は、長野善光寺と同じ御利益があるところから、善男善女で賑わった。 」
左側に、第七十五代総理大臣・宇野宗佑の実家である、銘酒栄爵の蔵元宇野本家酒造
がある。
小生が訪問したころは営業していたが、平成二十二年(2010)
守山市が宇野家を譲り受け、「守山宿町屋うの家」 として公開している。
すぐ先の右奥に、守山天満宮がある。
当初は天徳三年(959) 東門院の境内に鎮座。
祭神の神像は、菅原道真の肖像と、寛平六年(894)に、公自ら刻んだ木像彫刻である。
裏に回ると、「源内塚」 があり、その脇には、薬師堂が建っている。
説明板「源内塚」
「 平治の乱(1159)に敗れた源義朝が落ちのびてきた際、
この地の土豪・源内兵衛真弘が源氏の落ち武者とみて捕らえようとして、逆討ちにあった。
里人はそれを哀れみ、葬ったのが源内首塚 といわれる。 」
街道に戻ると、鳥居前に説明板「稲妻型屋敷割りの道」がある。
説明板「稲妻型屋敷割りの道」
「 中山道守山宿は、街道筋の距離が、文化十四年の記録では千五十三間、内 民家の
ある町並が、五百六十九間という長い街村であった。
宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。
この高札場から東に約四十米には宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。
街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、
高所にあることと、道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。
段違いの長さは一定ではないが、およそ二〜三尺で、間ロの幅には規定
されていないことがわかる。
この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、
守山宿が、守山市(いち)と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、
問屋・庄屋・本陣・市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても
反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。
守山市教育委員会 」
守山市教育委員会の案内板の地図には、天満宮から古井戸までの区間は斜線に囲まれ 、 本陣や問屋場跡付近と表示されていて、江戸時代には本町(中町)であったことが 分かった。
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道の左側の民家の前に、「旅籠甲山跡」 の説明板がある。
説明板「旅籠甲山跡」
「 ここには中世東山道時代に旅籠甲山があった。
元信濃武士だった主人が、旧主の妻子に加勢して仇の望月秋長を討たせ、恩返しをした
いう、謡曲の 「望月」 の舞台になったといわれる。 」
訪れた時には、「甲屋之址」 の石碑と建物があったが、
謡曲望月は架空の創作とのことから、石碑は撤去された。
現在は、この場所に、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されているとして、
「本陣推定地」 の碑が建っている。
説明板「本陣推定地」
「 この場所は本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。
文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁される皇女和宮親子内親王
が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊されています。
この場所は、昭和四十年まで特定郵便局兼局長宅でしたが、
平成十六年(2004)に取り壊されました。 」
小宮山九右衛門は本陣の他、問屋を兼ね、建坪は百七十坪で門構玄関付でし
た。
その他の本陣や脇本陣であるが、
宇野衛門本陣は東町にあり、建坪百九十七坪で門構玄関付でした。
小宮山脇本陣は西町にあり、建坪六十八坪で門構無しでした。
本陣の並びに井戸跡がある。 防火井戸として活躍しました。
説明板「井戸跡」
「 この井戸は、天保四年(1833)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在した
もので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけである。
守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、
宿場の防火や生活用水に使用されたと思われます。
平成二年の市教育委員会と
の合同調査では、井戸は漆喰の枠が六段積み重ねられ、さらに数段が土砂の流入で
埋まっていることがわかりました。
上部の石組は一辺90cmで四角形に組んで
いて、盤石は、後世にのせたようです。 この石組はもともと西に20m程行った
所のコの字型になっている所にありましたが、平成十八年から平成二十一年の
側溝工事に伴い、中山道守山宿歴史文化保存会・中山道ろくはち会・中央商店街
がこの地に移転保存したものです。
守山宿の往時の生活を知る貴重な遺産です。
平成二十二年四月 中山道守山宿歴史文化保存会 」
街道に、「町家ふれあい館 筆忠」「中山道ろくはち会」の看板を掲げた家があった。
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二百メートルほど行くと、三叉路になり、中山道は左に曲がっていく感じに
なる。
ここは、木浜(このはま)道の追分である。
高さ一メートル五十五センチ、一辺三十センチの四角の石柱の追分道標が建っている。
高札場があったところで、
その近くに市神社があった場所でもある。
「 追分道標には、
「左 錦織寺四十五町 こ乃者満ミち(このはまみち)」 「右 中山道 并美濃路」、他の一面には「 江州大津西念寺京大阪大津講中建之 」 と、刻まれている。
約四キロ離れた野洲郡中主町にある真宗木辺派総本山・錦織寺への参道の道標
として、二百年以上も前の延亨元年(1774)甲子霜月に、建てられたものである。
こ乃者満ミち(このはまみち)は、琵琶湖の津として賑わっていた、木浜湊へ通じる
道筋である。 」
左に折れると、すぐの右側に、「「田村将軍護持本尊
観音霊場比叡山東門院」 の石柱が建っている。
ここは、近江三十三ヶ所の二番札所・比叡山東門院守山寺である。
「 明治天皇は、中山道巡幸で、明治十一年十月十二日、
恵那宿より来られ、当寺で休憩の上、草津宿へ向かわれた。
又、十月二十一日、東京への帰路にも、
当寺で休憩し、野洲の辻町に向かっている。
寺の脇には、それを記念した
「明治天皇聖蹟」の石碑が建っている。
石碑は明治百年を記念して昭和四十五
年に建立されたものである。 」
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守山寺の仁王門は、東門院最古の建物である。
仁王像は坂上田村麻呂が東征の際、戦勝祈願し、
見事勝利を収めたところから門出仁王と呼ばれている。
「 守山寺は、「近江国興地志略」 に、
「 桓武天皇、叡山御建立の節、当寺へも御行あって、
我が山を守護したてまつる所なればとて、地を守山といひ、寺を守山寺と号す 」
とあり、守山の地名のもとになった寺である。
また、延暦十三年(794)、傳教大師・最澄が延暦寺を開いたとき、
東方の鬼門を守るために建立されたと伝えられる寺で、
一般的に、 「守山観音」 とよばれるのは、
千手観音と十一面観音の両像を本尊にするからである。
十一面観音立像は、「東門院縁起」 に、
「 弘仁元年(810)、琵琶湖の中に光を放つところがあり、網を投げて
これを引き、十一面観音尊像を得たり 」
とある観音で、田村将軍(坂上田村麻呂)
が蝦夷征伐に向かった際に持参した護持本尊でもある。
坂上田村麻呂は、戦勝後、本堂を建立寄進したと伝えられるが、 織田信長の兵火
で燃えてしまった。 」
仁王門をくぐると正面に本堂がある。
「 織田信長の兵火後、再建された建物は、明治天皇や江戸時代の朝鮮通信使が宿泊したことからも、かなり大きな寺だったと思われるが、
昭和六十一年末の火災で、本堂などの多くの建物を燃失しまった。
本堂は平成に入り、建てられたものである。 」
不動堂には、興郷大師の作といわれる、
火災から免れた、木造不動明王坐像が祀られている (国の重要文化財)
なお、鎌倉時代の建立の石造五重塔は、国の重要文化財。
石造宝塔・石造宝篋印塔は、国重要美術品指定である。
昔は、境内に流れる三津川のほとりに柳があり、源氏蛍が多くて、
国の重要文化財に指定される石造り五重塔を青白く浮かび上がらせていたというが、
蛍が飛ぶ姿を想像することはできなかった。
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守山宿は京を立った東下りの旅人の最初の宿泊地で、
「京立ち守山泊まり」 といわれ賑わいました。
守山宿の長さは十一町五十三間(約1.3q)で、本町・西町・仲町・東町で構成されていた。
天保十四年(1843)に編纂された中山道宿村大概帳には、
守山宿の家数415軒、宿内人口1700人(男837人 女863人)、本陣2、脇本陣1、旅籠30軒、と、記されている。
明治天皇聖蹟碑の隣、右側にあるのは、旅籠の堅田屋だった家である。
現在は、門前茶屋かたたやになっている。
平成二十一年に、堅田屋の梁や柱・土壁・格子・虫籠窓・階段箪笥などを残しながら、
最新の技術で耐震性、機能性を高め、門前茶屋かたたやとして、再生したものである。
守山銀座交差点を直進する。 左折すると六百五十メートル先に
JR東海道本線守山駅がある。
守山銀座交差点を越すとすぐ、「土橋(どばし)」 と書れたコンクリートの橋がある。
土橋は本宿の守山宿と加宿の今宿(いまじゅく)の間に架かっていた橋で、
江戸時代には全長二十間(約30数m)、巾二間(3.6m)もあった。
「 徳川幕府は防衛上橋を架けさせなかったが、
瀬田の唐橋とこの橋は例外だったようで、板橋の上に土を乗せたことから、この名がついた。
瀬田の唐橋の古材を使用して架け替えられる公儀御普請の橋だった。 」
安藤広重の守山宿の絵は、今宿側から川を隔てた本宿側の家並みと春爛漫の桜、
そして、遠くに三上山を描いたものである。
当時の川には屋形船が浮かび、両岸には宿屋、茶屋が建ちならび、
おおいに賑わっていたようである。
境川(吉川)は、旧野洲郡守山本宿と、旧栗田郡今宿村の境で、守山宿の京方(西)の
入口である。
守山宿はここで終わる。
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守山宿 滋賀県守山市守山 JR東海道本線守山駅下車。
東門院守山寺 滋賀県守山市守山2丁目2
(所要時間)
武佐宿 → (2時間30分) → 鏡神社(鏡立場) →
(1時間) → 蓮照寺 → (50分) → 守山宿