中山道は、近江鉄道八日市線武佐駅を過ぎるとT字路を左折し、
近江鉄道の踏切を渡る。
ここから西宿町になる。
右手の奥に、寛弘八年(1011)創建の若宮神社がある。
本殿は、一間社流造りで、西宿地区の鎮守である。
隣の広大な空き地は、伊庭貞剛(いばていごう)邸跡である。
屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷だったが、
今は街道に面し、楠の巨木を残すのみである。
「 伊庭家は、近江守護・佐々木家の流れを汲む名家で、 貞剛は、弘化四年(1847)に、ここで生まれ、尊王攘夷に奔走し、 維新後は裁判所判事を経て、住友財閥に入社し、明治二十七年(1894) 四国の別子銅山精錬所に於ける亜硫酸ガスによる煙害問題の解決に尽力し、 住友家中興の祖といわれた。 」
先に進むと右側に、火伏の愛宕信仰である小さな献燈と、
鎮火霊璽(ちんかれいじ)がある。
突当りを右折し、すぐの西宿町交差点を左折して、国号8号を進む。
国道8号は歩道が設置されていない。
その状態は野洲で国道と別れるまで続く。
六百メートル歩いて、六枚橋交差点で、国道と分かれ、左折し六枚橋を渡る。
「 六枚橋は、寛永二十年(1643)、時の領主が架けた橋が六枚の板橋であったところ に由来する。 」
橋を渡ると、千僧供町(せんぞくちょう)である。
中山道は一本目を右折する。
ここには、南無妙法蓮華経題目碑がある。
直進すると左手に曹洞宗大岩山冷泉禅寺がある。
千僧供の地名は、その昔、
この寺に、千人の僧を集めて、悪疫退散の祈祷を行ったところに由来する。
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冷泉寺には寄らず、題目碑を右折すると、左側の六枚橋バス停の手前に、
「住蓮房 安楽房 御墓 是より三丁」 の道標がある。
これは住蓮坊古墳への道標であるが、今は道がないようである。
焼肉味楽亭の手前に小公園があり、園内に涸れてしまった、住蓮坊首洗い池がある。
傍らに 「住蓮房首洗池」 の石碑が建っている。
住蓮坊がこの池のほとりで斬首され、その首を洗った池である。
旧道は再び国道8号に合流する。
最初の交叉点を左折すると右側に住蓮坊古墳がある。
円墳の塚の上に、江戸時代に作られた住蓮坊、安楽坊の墓がある。
国道8号に架かる千僧供橋で、白鳥川を渡ると馬淵町になる。
信号交差点の右手に八幡社がある。
参道口に「高札所跡」の標石があるが、真淵村の高札場跡である。
「 源義家が、奥州遠征の途次、愛馬が熱病を患い、
この地で水を飲ませると、たちまち平癒したところから、
ここに応神天皇の霊を勧請し、武運長久を祈願しました。
後に、この地の守護職で、馬淵氏と称した、佐々木広綱が社殿を建立した。
本殿は、元亀二年(1571)織田信長の兵火で焼失し、
現在の総丹塗り桧皮葺きの本殿は、文禄五年(1596)に再建されたもので、国の
重要文化財に指定されている。 」
旧中山道は、八幡神社前から右斜めの道へ入って行く。
馬淵町集落を過ぎ、途中、茅葺屋根の民家が一軒のみ建つ田園地帯を進む。
「東横関町交差点」から七百メートル歩くと、日野川(旧横関川)の土手に出る。
「横関川渡し」 の跡で、往時はここから対岸まで舟渡しであった。
「 文化三年(1806) 幕府が作成した、「中山道分間延絵図」 には、
「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トシテ往来ヲ通ス」 と注記されて
いることから、平常 旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた
二艘の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。
日野川のこの場所に、橋が架かったのは、明治8年(1875)のことで、
明治十九年(1886)には、無賃通行となり、明治二十六年(1893)に新調されたが、
道路は中山道から国道8号となり、その新道として昭和十二年(1937)に、
近代的な横関橋がこの上流に架橋され、ここに架けられた橋は二年程後に撤去された。
現在も、ここから日野川をはさむ両側には、かつての中山道の道筋が旧道として残って
いる。 」
現在は川を渡る橋が無いので、三百メートルほど上流の国道8号線の横関橋まで行く。
横関橋で日野川を渡り、右側の小さな道に入る。
道は左にカーブし、西横関の集落に入っていく。
これが旧中山道であるが、十分ほど歩くと、また、国道と一緒になる。
西横関町交差点の一角に、 「是よりいせみち」 「ミ津くち道」 の道標がある。
ここは東海道の水口宿を経由して行く、伊勢街道の追分である。 なお、津は変体仮名になっていた。
善光寺川を渡ると、道はやや登り坂になり、斜め左に入って行く道がある。
ここから急坂になる。
この一帯は鏡(かがみ)集落である。
東山道時代には、「鏡の里」 として、八十六の宿駅(うまや)の一つになっていた。
旧道沿いに、「旅籠屋跡」 の標板が三ヶ所建っている。
その一つは集落の入口に、
「 江戸時代鏡の宿(中山道) 旅籠亀屋跡 」 の標板があり、下には道祖神が祀られ
ている。
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鏡集落は、徳川幕府が制定した中山道の宿場にはなれなかったが、
守山と武佐の間が三里半と長かったので、 間(あい)の宿として 、立場茶屋が置かれた。
地元でいただいた資料には、 「 本陣、脇本陣が置かれ、特に紀州侯の定宿で、
将軍家の御名代をはじめ、多くの武士や旅人の休憩、泊の宿場であった。 」
とある。
鏡集落には丹塗りの壁と煙出しの屋根の付いた家がある。
これは近江地方独特のものである。
右側の新聞配達店前に、「旅篭富田屋跡」 の標板がある。
国道に合流する手前右側の 鏡東草の根ハウス の敷地内に、
前掛けを掛けた小さな石仏群が祀られている。
中山道は、鏡口交差点にでて、国道8号に合流する。
合流点には、愛宕山常夜燈、愛宕大神、そして、「↑鏡神社 義経元服池 0.7km」 の道路標識がある。
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鏡宿には、本陣や脇本陣、旅籠などの建物は残っていないものの、
元旅籠などを表示した標板が立てられている。
鏡口交差点を横断すると右側に、「旅篭吉田屋跡」 の標板がある。
次いで右側に、天台真盛宗月鏡山真照寺がある。
「 真照寺には、額田王(ぬかたのおおきみ)の父・鏡王の墓がある。
鏡王は、鏡神社の神官で、万葉集女流歌人・額田王を育てた。
壬申の乱で天武天皇側につき戦死し、この寺に葬られた。 」
その向かいの「鏡口」バス停の脇に吉野家跡、その先右側空地に桝屋跡。
桝屋跡のすぐ先左側には大願寺がある。
寺の標柱の後ろに、「徳化学校跡」 の説明板が建っている。
説明板「徳化学校跡」
「 学校制度ができ、明治八年十一月二十二日、大願寺徳化学校が開かれ、
鏡村・横関村の子供が教育を受けられるようになった。
のち、明治十一年 鏡神社の東隣に専用の校舎を新築し移転した。
平成二十年十二月 鏡の里保存会 」
徳化学校跡の向かい側に、鏡郵便局取扱所跡の説明板が建っている。
「 明治七年(1874)に設立され、同十九年(1866)鏡郵便局と 改称され、同四十三年(1910)に廃止されました。 」
少し進むと右側の広場奥に、「源義経宿泊の館跡」 の石碑が建っている。
説明板 「義経宿泊の館」
「 沢弥伝と称し、駅長(うまやのおさ)を勤め、屋号を白木屋と呼んでいた。
(承安四年(1174) 鞍馬寺を脱出した)牛若丸(源義経)は、この白木屋に投宿した。
義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが、
現在では、鏡神社宮司林氏が保存している。
西隣は、所謂 本陣で 元祖を林惣右衛門則之と称し、新羅三郎義光の後裔である。
その前方国道を隔てて、脇本陣白井弥惣兵衛である。
鏡景勝会建立 」
林惣右衛門則之が勤めた本陣は、紀伊徳川家の定宿で、
皇女和宮も当本陣にて休息している。
本来、宿場以外の宿泊施設は御法度でしたが、間の宿の鏡は堂々と旅人を宿泊させたため、
守山宿や武佐宿から、道中奉行へ異議の申立が行われていた。
先の右側に、「旅篭加賀屋跡」 の標板がある。
右側の公園に、「徳化学校跡」 標石があるが、
前述の大願寺に開かれた徳化学校が明治十一年(1878)ここに移転し、
後に鏡小学校となりました。
坂の頂上近くの右側、鏡神社の参道の左側に、大きな根(切り株)がある。
、
これは、源義経が元服したとき帽子をかけたといわれる烏帽子掛松である。
明治六年の台風で倒れたため、株上二.七メートルを残し、
その上に仮屋根をつけて保存されているものである。
謡曲に、源義経にまつわる、烏帽子折(えぼしおり)というのがある。
「 承安四年(1174)三月三日、 鏡の宿で元服した牛若丸は、
この松に烏帽子を掛け、鏡神社へ参拝し、源九郎義経と名乗りをあげ、
源氏の再興と武運長久を祈願しました。
この松は、明治六年(1873)十月三日の台風により折損したため、
幹の部分を残して保存されています。 」
鏡神社は、陶芸や金工を業とする、天日槍の従人の末裔が、
天日槍を祖神として祀ったことに始まる。
その後、この地を支配した近江源氏の佐々木氏一族の鏡氏が護持したと伝えられる。
石段を上ると朱塗りの鳥居がある。
扁額の上に、唐破風の屋根を持つ珍しい造りで、さらに笠木は瓦葺きになっている。
現在の本殿は、室町時代に再建された三間社流造りで、
屋根はこけら葺きの貴重な建築様式は、国の重要文化財である。
神社の主祭神は天日槍で、相殿神は天津彦根命と天目一箇神である。
「鏡神社由緒」
「 当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は、
日本書紀による、新羅國の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC31)来朝し、
多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に、
近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。
天日槍は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから、「鏡」の地名が生まれ、
書記にも 「 近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり 」 と記されている。
鏡山の麓は 渡来集団に関わる地名も多く、
須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。
延喜の御世には、大誉会に鏡餅を献上した火鑽の里であり、
鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、
宮廷巫女の歌人・額田王や、鏡王女に所縁の地である。
現社殿は、室町時代に再建された三間社流れ造りにして、
屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
承安四年(1174) 牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬
から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み
自ら烏帽子をつけ元服した。 鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは
源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の最高と武運長久を祈願した武将元服の
地である。 以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。
義経公を偲ぶ「とがらい祭り」は十一月二の午夕刻に男児を主役に斎行される。
大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社
宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。 以後宮山を御幸山と称し、
自然公園として管理される。 飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を
祀り七月十日を例祭とする。 」
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「東関紀行」の作者は、
「 鏡の宿に至りぬれば、昔なゝの翁のよりあひつゝ、
老をいとひて詠みける歌の中に、
「 鏡山 いざ立ちよりて みてゆかむ
年経ぬる身は 老いやしぬると 」
といへるは、この山の事にやとおぼえて、、
宿もからまほしくおぼえけれども、猶おくざまにとふべき所ありてうちすぎぬ。 」
と記し、
「 立ちよらで けふはすぎなむ 鏡山
しらぬ翁の かげは見ずとも 」
と、詠んでいる。
(注) 東関紀行の作者が挙げた歌は、古今集にある句で、
大伴黒主の作といわれる。
鏡山は別名、竜王山と
いう標高三百八十四メートルの山で、古来から都の貴人に名をはせ、
多くの歌が詠われている。
坂の上の国道沿いの道の駅・竜王かがみの里は、一服するにはよい場所である。
道の駅の向かいに、義経元服の池がある。
池の奥に、 「九郎判官源義経元服之池」 の石碑が建っている。
裏山の湧き水がしみ出してきているもので、
水道が普及するまでは地元の飲料水として使用された池で、旅人もここで立ち
止まり、喉を潤していっただろう。
「 鞍馬寺を脱け出した牛若丸は、鏡宿の沢弥伝館に投宿した。
すると、平氏の追手が稚児姿の牛若丸を捜していると聞き、
ならばと元服を決意しました。
そこで、鏡宿の烏帽子屋五郎大夫に、源氏の左折れの烏帽子を仕立てさせ、
鏡池の石清水を使って前髪を落とし、
己の姿を池の水に映したといいます。
鏡神社は。義経が元服に使用した源義経元服の盥(たらい)を所蔵しています。 」
説明板「義経元服の池」
「 父は尾張の露と消え 母は平家に捕へられ 兄は伊豆に流されて
おのれ一人は鞍馬山と歌へれし、不遇の児・牛若丸は、
遮那王と称して鞍馬山に仏道修業していたが 十一歳の時、
母の訓戒により、祖先の系図に感じ、平家を滅ぼし、
父の遺志を達せんと堅い決意を抱いた。
それより後は、昼は書を読み文を習ひ夜は僧正谷にて一心に武術に励み
時の来るのを待っていた。
京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった。
時に奥州と京都を往還する金売商人吉次に語ひ、
承安四年三月三日の暁 (昭和四十一年より七百九十二年前)
住み慣れた鞍馬山に別れを告げ、機を見て兄頼朝に謁せんと、
憂き旅の東下りの途につき、吉次、下総の深栖陵助頼重等と共に、
その夜鏡の宿につき、吉次の常宿白木屋に投宿することになった。
牛若丸つらつら考へるに、道中安全を期するには元服し、東男に粧ふに若くはないと、
吉次、陵助と語り、元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして、
烏帽子を進めた。
其の夜、この池の清淨水を汲み取り、前髪を落飾し、源九郎義経と名乗った。
時に年十六歳 これが元服池の由来である。
かくて、烏帽子を戴き、源氏の武運長久を鏡神社に祈った。
当地こそ武人としての義経出生の地である。
鏡神社勝会建立 」
近くには西光寺跡がある。
ここには、国の重要文化財指定の宝きょう印塔や石灯籠 が残っている。
「 西光寺は、西暦818年、伝教大師(最澄)が夢のお告げで
建立された寺である。
嵯峨天皇の勅願寺で、僧房三百といわれ、源頼朝も往還の時、
たびたび宿泊している。
足利尊氏が、後醍醐天皇に帰順を表明した場所でもある。
しかし、信長の兵火により廃寺になってしまった。 」
道の駅で一休みした後、旅を続ける。
元服池の向いに、「旅篭桃花屋跡」の標板がある。
ここが鏡宿の西外れである。
坂を下り始めるとすぐ左側に狭い道があるので、それに入る。
これが、中山道の出町旧道の東口で、蒲生郡竜王町から野洲市になる。
ここには道祖神が祀られ、この道祖神は村口にあって、悪霊の侵入を見張っている。
左側の奥民家のある中に、小公園があり、公爵・近衛文麿の書による、
明治天皇聖蹟碑が建っている。
明治天皇は、明治十一年(1878) 北陸巡幸の帰途、ここで休息された。
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道の駅・竜王かがみの里 滋賀県竜王町大字鏡1231−2 <
(所要時間)
武佐宿 → (1時間) → 住蓮坊首洗池 → (1時間30分) → 鏡神社(鏡立場) →
(1時間50分) → 守山宿