武佐宿は、近くに近江商人の町である近江八幡町があることから、
物資の往来が盛んに行われ、伊勢に通じる八風街道の追分を控え、
塩や海産物の往来で、賑わった。
天保十四年(1843)編纂の中山道宿村大概帳には、八町二十四間(900m弱)の町並みで、
家数は183軒、宿内人口537人、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠が23軒と記されている。
奥石神社入口となる交叉点を渡ると、「安産守護 交通安全祈願 史跡老蘇の森鎮座 鎌宮奥石神社 →」 の木標と、「中山道 東老蘇」の道標が建っている。
道標の右側面には、「武佐宿へ一里」 と刻まれている。
この道が中山道で、少し行くと、道の左上に「老蘇の森 →」「奥石神社→」の交通標識があり、道の右側には、 「鍬宮 奥石神社」 の標柱と、対の常夜燈が建っている。
ここが奥石神社参道入口である。
参道にそって
常夜燈が並んで建っていて、奥に森が見える。
この森が、国指定史跡の老蘇(おいそ)の森である。
老蘇の森は、昔から文人の間で有名な森で、多くの人が訪れている。
東関紀行の著者は、この森を訪れた印象を
「 おいその森という杉むらあり。 下草深き朝露の、霜にかはらむ
ゆくすえも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。 」 と、綴り、
「 かはらじな 我がもとゆひにおく霜も 名にしおいその 森の下草 」
と、詠んでいる。
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森の入口に、奥石神社の鳥居が建っている。
鳥居の横には、「老蘇の森由来」の説明板が建っている。
説明板「老蘇の森由来」
「 古来老蘇の森一帯は、 蒲生野 と讃えられ、老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺
からなる大森林があった。 今尚近在に、野神さんとして祀れる大杉が、
老蘇の森の樹齢に等しいところからもすでに想像されるが、
現在は奥石神社の鎮守の森として其の名を留むるのみで、
面積は六十反歩を有し、松・杉・桧等が生い茂ってゐる。
奥石神社本紀によれば、昔 此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず、
七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして、
神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ、
不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。
この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠(かくしゃく)と壮者を凌ぐ程であったので、
人呼んで、「老蘇」 と云ひ、この森を老蘇の森と唱えはじめたとある。
又 大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。 」
更に進むと奥石神社の社殿がある。
奥石神社(おいそじんじゃ)は、石辺大連が社壇を築き、
祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。
繖山(きぬがさやま)を御神体とする原始的根元的神社で、
延喜式神名帳に記載がある、古く格式のある式内社である。
三間社流造り桧皮葺きの本殿は、天正九年(1581) 織田信長が寄進し、
柴田勝家が普請奉行を勤めました。
鳥居は、天明四年(1734) 領主の旗本・根来新右衛門が寄進したものである。 」
本殿前に、「史跡老蘇の森鎮座 式内 鎌宮 奥石神社」の説明板が建っている。
説明板「史跡老蘇の森鎮座 式内 鎌宮 奥石神社」
「 景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の御時、弟橘姫命は、
上總の海にて、海神の荒振るを鎮めんとして、
「 我胎内に子存すも尊に代わりてその難を救い奉らん
霊魂は飛去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし 」 と誓い給ひて、
その侭身を海中に投じ給ふ云々とあり、爾来 安産の宮として 祈願する諸人多し。 」
説明板「奥石神社本殿」
国指定重要文化財 三間社流造 檜皮葺 桃山時代
「 三間社流造の庇の間に建具を設けて前室とし、
さらに向拝(こうはい)をつける形式は滋賀県に中世の遺構が多く、
古式の流造がひときわ優美に発達したものである。
この本殿は天正九年の再建で、庇の間は開放としているが、
中世に発達した形式を踏襲しており、唐草文様を透彫りした蟇股や、
彫刻をほどこした手挟(てばさみ)、
あるいは母屋の腰廻りの嵌板(はめいた)に配列した格挟間(こうざま)など、
各所に華麗な装飾をつけた当代第一級の本殿建築である。
本殿の再建は、織田信長が城下町を形成する施策に関連したものと考えられ、
棟札はその考証の好資料となるので、銘文を左記に記載した。
棟札銘文(棟札表)
江州佐々木御庄内老蘇村御社建、天正九年正月廿六日
願主者柴田新左衛門尉家久美州西方池尻住人也、天正九年辛巳書之畢
(棟札裏)
大工 西之庄左衛門三郎 筆者 観音寺住僧圓王院定長
八日市藤左衛門内口七是也
平成十年十二月 安土町教育委員会 」
境内には賀茂真淵と本居宣長(右写真)の歌を刻んだ歌碑が建っていた。
「 夜半ならば その森の郭公 今もなかまし 忍び音のころ 」
(本居宣長)
「 身をよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 」
(賀茂真淵)
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神社の境内には、誰もいなく、しーんと静まり返り、不気味なくらいだった。
上を見上げると、大きく成長した杉の巨木が聳えていた。
しかし、老蘇の森も、今や、奥石神社の境内とその隣接地が残っているだけになってしまった。
それでも幽玄で、手が加えられていない、自然のままなのはよかった。
森を出て、街道を西に向かう。
東老蘇公民組合前に、「←陣屋小路」 の道標がある。
向いの陣屋小路を進むと、「根来陣屋跡」 の石碑と説明板がある。
説明板「根来陣屋跡」
「 中山道沿いの東老蘇公民館前の小路を古くから、陣屋小路 と呼んでいる。
その突き当りの当地に、江戸時代、根来陣屋があった。
鉄砲の根来衆で有名な根来家始祖・盛重は、
和泉国熊取谷(熊取町) 中左近家出身で、根来寺の僧であった。
秀吉の根来寺焼き討ち後、家康の家臣となる。
数々の戦功をたて、大和・近江・関東に、領地(知行所)を拝領し、三四五〇石の大旗本となる。
当地が根来家の知行所となったのは、寛永十年(1633) 東老蘇六八六石と、
西老蘇十三石であった。
元禄十一年(1698) 領地替で、
関東の一五〇〇石と愛知郡上中野・下中野八八六石、野洲郡五条・
安治・富波沢七〇〇石と交換、この時期、当地に陣屋が設置され、代官所を置いた。
江戸期の絵図に陣屋が描かれている。
東老蘇は、代々坪田恒右衛門家が在地代官を勤めた。
元禄十三年(1700) 四代正国は、奥石神社旧拝殿と鎧・兜(現存)を、
天明四年(1784) 九代正武は、参道の大鳥居(現存)を寄進する。
福生寺の本堂は陣屋の書院を移築したものといわれている。
幕末、各大名・旗本は財政的に破綻し、江戸幕府は大政奉還し、明治維新を迎える事となる。
江戸時代の東老蘇の一端を後世に遺すため、中山道道標二基とともに、
この所に根来陣屋跡碑を建立した。
平成十四年十月吉日 東老蘇町づくり実行委員会 」
その先の左側に、天正十六年(1588)の開基、浄土宗老蘇山福生寺がある。
本尊は鎌倉中期作の木造阿弥陀三尊像で、本堂は根来陣屋の書院を移築したもの
という。
境内の轟地蔵堂には、小幡人形による千体仏が安置されていて、
安産に御利益ありと伝えられている。
轟川に架かる轟橋を渡る。
往時の轟川の川幅は狭く、三枚の石によって架橋されていたという。
その橋石は、 現在、奥石神社公園地内に保存されている。
轟橋手前の右側に、「轟地蔵跡」 の標石と説明板がある。
説明板の隣に、愛宕山常夜燈が建っている。
説明板「轟地蔵旧跡と轟橋」
「 現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は、中山道分間延絵図(重文 1806年)には、
この場所に画かれている。
平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに、「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥ 」 と、歌われ、その轟にあやかって、名付けられた。
轟地蔵は、小幡人形の可愛いい千体仏で、安産祈願のお地蔵さんである。
慶応元年(1865) の福生寺の絵図には、轟地蔵の記載がなく、
恐らく明治以後、橋改修時に移したものと考えられる。
往時轟川の川巾は狭く、三枚の石橋が架かっていた。
轟橋と呼ばれ、その橋石は現在、奥石神社公園地内に保存されている。
近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首
堀川百首 わきも子に近江なりせばさりと我文も見てまし 轟の橋 兼昌
夫木集 旅人も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし 覚盛
古 歌 あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋 読人不知
この案内板及び轟橋の欄干は「創意と工夫の郷づくり事業」で設置された
ものである。 」
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橋を渡った左側には、文化十一年(1814) 建立の金毘羅大権現常夜燈がある。
安土老蘇郵便局を越すと右側に、小祠があり、太いしめ縄が飾られて、
傍らの木札には、「風雨災励 五穀豊穣」 と記されている。
信号交差点手前の右側に新設の「中山道大連寺橋」道標が建っている。
右面に 「内野道 右観音正寺 左十三仏」、
左面に 「内野道 右八日市 左安土」 と刻まれている。
その先の左側の広場には、御神燈と、「奥石神社御旅所」 の標石がある。
御旅所は、奥石神社の祭礼の際、神輿を仮に鎮座しておく場所である。
右の家並みの奥に、林が見えると、 西老蘇地区である。
大きなお宮は、西老蘇の鎮守・鎌若宮神社である。
本殿は一間社流造りで、 寛政三年(1791)の暴風雨で本殿は破損し、
同年再建された。
その先の右側の東光寺の門前に、「建部伝内之遺跡」 と刻まれた石碑がある。
「 浄土宗円通山東光寺は、豊臣秀吉の祐筆だった、建部伝内の寓居跡である。
伝内堂には、元禄八年(1695)造立の建部伝内の木像が安置されている。
元は清水鼻にあり、六角氏ゆかりの寺でしたが、観音寺城が落城すると、
この地に移つりました。 」
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◎ 武佐宿
亀川交差点を越えると、安土町西老蘇から 西生来 (にししょうらい) 町になる。
そこから少し先で、用水路を渡るる。
その右側に、「泡子延命地蔵尊御遺跡」の石碑と、「大根不洗い川」 の石碑があり、
説明板には、醒井宿の泡子塚と同じ伝説が書かれている。
「 茶屋の娘が、旅の僧に一目惚れし、僧が飲み残した茶を飲んだところ、
妊娠し男の子を出産しました。
三年の時が経ち、子を抱いて、川で大根を洗っていると、旅僧が再び現れて、
「、嗚呼不思議なるかな、この子の泣き声が、お経を読んでいるように聞こえる 」
、という。
娘が振り向いて旅僧を眺めると、三年前に恋をした僧でした。
娘が仔細を話すと、僧が男の子にフッと息を吹きかけたとたん、
泡となり消えてしまった。
僧は、 「 西方のあら井の池の中に尊き地蔵あり、この子のためにお堂を建て安置
せよ 」 といって立ち去った。
その地蔵尊があった所です。 」
西生来中バス停を過ぎると右側に、 天正五年(1577)開基の浄土宗圓明山西福寺
がある。
山門脇の地蔵堂は、泡子の僧が「泡と消えた子のために、あら井の延命
地蔵尊をお堂を建て安置せよ」との告げにより建立された地蔵堂である。
堂内には泡子延命地蔵尊が安置されている。
西生来の地名の由来でもある。
先に進むと右側の暮らしの衣料三喜屋の脇に、「西生来一里塚跡」 の標石があり、
江戸より百二十四里目の一里塚である。
蛇沢川(いさがわ)を渡ると、
牟佐神社手前の右側に「武佐宿大門跡」の標識がある。
ここが、武佐宿の江戸方(東)の入口である。
「 武佐は牟佐・身狭とも書かかれたが、江戸時代に武佐に統一されました。
武佐宿は。近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、
伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。
武佐宿は八町二十四間(900m弱)の町並みで、天保十四年(1843)編纂の中山道宿村大概帳によると、家数は183軒、宿内人口537人(男272人 女265人)、本陣1、脇本陣1、
問屋2、旅籠が23軒であった。 」
道の右側にある牟佐神社は武佐宿の氏神である。
市神大明神とも呼ばれ、境内に盛大な市が立ちました。
境内の大ケヤキは樹齢三百年以上である。
武佐神社参道口の左側に江戸時代には高札場があったようで、
武佐小学校の卒業生が、十数年前に書いた説明板がその旨を表示していた。
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武佐小学校を過ぎると、右側にある白壁に連子格子の家は、平尾家宿役人跡である。
「 平尾家は、宿場の伝馬人足取締り役人を勤め、庄屋を兼ねました。
足利義満も口にしたと伝わる井戸椿井や、古文書等を今に残している。 」
道の反対、廣済寺の参道口の右側に、「明治天皇武佐行在所跡」 の石碑が建てられている。 <
「 廣済寺の正式名は、浄土真宗本願寺派太子山廣済寺である。
推古天皇二年(694) 聖徳太子による創建で、
元は天台宗でしたが、 嘉禎元年(1235)に改宗しました。
明治十一年(1878)明治天皇巡幸の際、行在所となりました。 」
明治天皇御聖蹟のすぐ先の右側に冠木門があり、左に「武佐町会館」、 右側に「脇本陣跡」の看板がある。
「 武佐町会館は武佐宿脇本陣跡である。
脇本陣は、奥村三郎右衛門が勤め、建坪六十四坪、門構玄関付でした。
敷地内には馬頭観世音文字塔と愛宕大神碑がある。 」
脇本陣跡の斜め向かいにある、旧八幡警察所武佐分署庁舎は、
明治十九年(1868)に建てられた、木造二階建ての洋館で、
文化庁の有形文化財に登録されている。
現在は、隣の魚友楼に払い下げられ、魚友楼の洋館になっている。
なお、魚友楼は明治初期創業の割烹料理屋である。
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武佐町交差点の手前の右側に、武佐宿中山道公園がある。
東屋と武佐宿常夜燈モニュメント、武佐宿の案内板が立っていて、
象の絵が描かれている。
「 享保十三年(1728) 安南国(ベトナム)より、 徳川第八代将軍・吉宗に献上された象は 武佐宿に宿泊し、この先東海道に出て、途中、姫街道を経由して、 江戸まで歩いて運ばれた。 」
武佐町交差点で、国道421号線(八風街道)を横断する。
この八風街道は、近世の新設で、往時の八風街道はまだ先にある。
武佐町交差点を渡ると左側に、休憩所「いっぷく処綿屋があり、御茶が頂け、
トイレがある。
その先に、大橋家(商家・役人宅) の建物がある。
「 大橋家は、米・油等を商い、十五代目金左衛門は、
伝馬所取締役を勤めた。
上述の平尾家役人宅と同じように、
二階は低く虫籠窓、出格子の建物は塗篭壁で造られている。
宿内最古の建物である。 」
対面(右側)の武佐郵便局が、伝馬所(問屋場)跡である。
書状集箱(しょじょうあつめばこ)が復元されている。
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武佐郵便局の左手にある、門がある屋敷が武佐宿本陣跡である。
「 武佐宿本陣は、代々、下川七左衛門が勤めた。
建坪二百六十二坪、門構玄関付で、本陣門と土蔵を残している。
皇女和宮は、下川本陣で昼食を摂りました。 」
下川家屋敷は、十字路まで続き、そこから右の道を見ると更に奥まで 屋敷が続き、さすが本陣家だけに広大な敷地であることが分かる。
旧本陣前にある料理旅館・中村屋は中山道近江路で唯一、
現在も営業を続ける旅籠であった。
小生が訪れた時はあったが2010年12月10日に、
漏電による火事で全焼してしまったとのことである。
武佐宿が開かれた当初から創業していたと云う由緒ある建物だったので惜しい
限りである。
本陣先の交叉点を右折すると、八幡町への道である。
交叉点の手前左に、文政四年(1821)建立の道標がある。
「
江戸時代の八幡町には朝鮮街道が通り、商人の町として、大変賑わっていた。
道標には、「いせ 三な口 ひの 八日市 道」 、と刻まれていて、
八風街道追分道標である。
八風街道は、八日市、鈴鹿山系の八風峠を越えて、伊勢に通じる街道である。 」
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交叉点を越えると右側に、「安土浄厳院道」 の道標があり、 安土道の追分でもある。
「 浄厳院は、天正五年(1577)
織田信長が、伊賀と近江の浄土宗総本山として再興した寺院である。
浄華宗と浄土宗との間で争われた 「安土問答」 で有名である。 」
交叉点を越えた左側は、松平周防守陣屋跡である。
武佐の地は、川越藩の松平家の飛び地領でした。
陣屋跡の並びに、愛宕山常夜燈と愛宕山碑がある。
ここに、西の高札場があった。
先に進むと左側に、「武佐寺長光 従是三丁」 の道標がある。
ここで、街道からはずれて、長光寺に寄ることにした。
ここを左折し、法性寺前を通る。
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近江鉄道八日市線を越し、左に進むと右側に長光寺の参道があり、奥に山門が見えてくる。
「 長光寺は、高野山真言宗補陀洛山長光寺が正式名称である。
推古天皇時代(592〜628) 聖徳太子が建立した四十九院の一つで、
武佐寺と呼ばれました。
本尊は、聖徳太子の手による千手子安観世音菩薩で、
今も安産の仏様として親しまれている。
秘仏で五十年に一度の御開帳。
聖徳太子が、妃(きさき)と共に、老蘇の森を仮宮とした時、
俄に妃が産気付き難産に陥った。
そこで、ひたすら仏を祈ると、千手観音の遣いの童子が現れ、安産に導きました。
童子が去った方角に八尺の香木があり、その根元に五色に輝く霊石がありました。
この香木で、千手観音を刻み本尊とし、霊石の上に、本堂を建立したのが武佐寺の始まりである。 」
太平記に、「 足利尊氏は後光厳天皇を奉じて、武佐寺に逃れた 」 とあるので、
昔はかなり大きな寺院だったと思われるが、今は小さな建物である。
武佐寺から長光寺になったのはいつか分からないが、
このあたりを長光寺村といったことを考えると、江戸時代なのだろうか?
東関紀行に、「 ゆき暮れぬれば、むさ寺といふ山寺のあたりにとまりぬ。 」
と書かれている。
「東関紀行」 の著者は、
「 まばらなるとこの秋風、 夜ふくるまゝに身にしみて、
都にはいつし かひきかえたる心ちす。 枕にちかき鐘の聲、 曉の空に音づれて、
かの遺愛寺の邊の草の庵の寢覺もかくやありけむと哀なり。 」
と、秋の暮の寂しさをつづり、
「 都いでゝ いくかもあらぬ 今夜だに 片しきわびぬ 床の秋風
」 と詠んでいる。
境内のハナノキは。樹齢六百年の大きな木である。
春先には葉に先立って花が咲く珍しい木である。
武佐寺建立時に、聖徳太子が手植えしたと伝わる伝説の木である。
街道に戻り、中山道を進むと右側に、愛宕山常夜燈と愛宕山碑がある。
ここは西の高札場跡である。
突当りの近江鉄道八日市線を右折するが、ここは枡形になっている。
この辺りが、武佐宿の西見付跡で、武佐宿の京方(西)の入口である。
今日の旅はこれで終わり、近江鉄道の武佐駅から帰宅した。
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武佐宿 滋賀県近江八幡市武佐町・長光寺町 近江鉄道武佐駅下車。
(所要時間)
愛知川宿 → (1時間50分) → 奥石神社 → (1時間10分) →武佐宿