名所訪問

「 中山道 愛知川宿から老蘇の森 」  


かうんたぁ。


五個荘町は、近江商人発祥の地で、金堂からも多くの商人が輩出しました。 
明治十三年(1880)には、全戸数の三分の一に当たる六十七軒が呉服・太物 など繊維製品を扱う商業に従事し、うち十三軒は県外に出店を有していました。 


愛知川宿から五個荘町を経て、奥石神社のある老蘇の森に向う。

愛知川宿の西端の竹平楼を過ぎると、不飲川が流れている。 
水の量が少ないので、気がつかないほどの川だが、 中山道が国道と合流する信号交差点には、「不飲橋」 の標示がある。 

「 不飲川(のまずかわ)は、滋賀県愛知郡愛知川町と彦根市を流れ、 琵琶湖に注ぐ川である。
源流は、不飲池(野間津池)である。 
井伊直弼が、安政六年に通船水路を開削し、年貢米の運送に使ったという川で、 東海道本線が開通するまでは、人の輸送にも使われ、琵琶湖を横断し、 大津への近道であった。 
愛智川郡史には 、「 不飲池より発し愛知川を経て、柳川に至り、琵琶湖に注いでいる。 
不飲池は、往古にこの池で激戦があり、池水、血を流すに至る。 
地人忌みて之を飲まず、よって名づくという。  或いはガスを含む毒水ならん。 」 と、ある。
実際には、湧き水が出ていたようで、毒水が流れていた訳ではない。 
現在は、湧き水もなく、小さなため池のようになり、とても飲めるものではないとのこと。 
藤原秀郷が、平将門の首を京へ持ち帰る際に、将門の首を洗ったところ、 血で水が濁ってしまった為、この川の水を飲まなくなったと云うことから、 名が付いた、という説もある。  」  

不飲川橋を渡ると、中山道愛知川宿のゲートが建っている。
不飲橋の信号交叉点で、中山道は国道8号に合流する。 
合流した先の右手駐車場の奥に、一里塚跡の標石があり、愛知川の一里塚跡である。 
江戸より百二十二里目である。  
御幸橋の手前、左の祇園神社前の道を進むのが、中山道である。  

「 祇園神社は、かって、八幡神社の脇に、 山王社として鎮座したが、天保九年(1838)、愛知川の河畔に、 無賃橋の橋神(守護神)として遷座し、祇園社 と改称された。 
毎年七月中旬の祇園納涼祭りでは、湯立神楽が行われ、 明治初期より、近江鉄道と東海道新幹線の間の愛知川河川敷にて、 勇壮な手筒花火が奉納される。 」 

旧道を進むと、祇園神社の脇に、弘化三年(1846) 地元有志によって建立された、 愛知川の渡しの常夜燈(睨み灯籠) がある。  この常夜燈は、愛知川を挟んで、対岸の常夜燈と対になっていて、 この間が愛知川の渡し場跡であり、無賃橋の架橋跡である。 

「 弘化三年(1846)、川を照らすことにより、 旅人の水難防止と安全を守るため、 地元の有志が金を出し合って、 高さ四メートル三十五センチの大きな常夜燈を建てた。 
橋はその後、何度も場所を変えたようで、そのたびに常夜燈の位置も変わったらしいが、 現在は 祇園神社の境内にある。 」 

不飲橋交叉点      祇園神社      睨み灯籠
不飲橋交叉点
祇園神社
睨み灯籠


愛知川に出ると、右手の御幸橋を渡る。 

「  愛知川は、恵智川・越知川・愛智川とも書かれ、近江一の大河である。
鈴鹿山系に源を発し、琵琶湖に注ぐ。 
この川は、別名 人取川とも呼ばれ、出水の度に多くの人命を奪ってきた。 」

御幸橋は、明治天皇巡幸に際し、馬車を通すために板橋が新設されたことから, 御幸橋 と命名された。 

「 現在の橋は、昭和三十六年、国道8号の開通に伴い、 愛知川に架けられたものである。
明治十一年に架設された木橋が、明治天皇巡幸を記念して、 「御幸橋」と名付けられたので、その名を踏襲した。 
木橋からは、四代目になる橋である。 
それ以前の橋は、「むちん橋」 と呼ばれていた。 
江戸時代、幕府の政策で、橋を架けることを原則として禁じていたので、 渡しか、川を歩いて渡っていたため、水難事故は絶えず、 大洪水のたびに、溺死者を出してきた。 
文政十二年(1829)、 愛知川宿の成宮弥次右衛門と、五個荘の四人が 彦根藩に申し出て、私財を拠出し、数年の歳月をかけ、天保二年(1831)に竣工した。 
この橋は渡り賃を取らないところから、無賃橋(むちんばし) と呼ばれた。   」

橋を架けた成宮家には、西園寺藤原実丈(さねたけ)が詠んだ歌 
  「  旅人の あわれみかけて むちんばし  ふかき心を 流す衛知川(えちがわ)」が、また、愛知川に架かる橋をつくり上げていく過程が、 精密な描写で描かれている 「愛知河架橋絵巻」 が、家宝として残されている。 

安藤広重の木曽街道六拾九次の内 「恵智川宿」 には、 愛知川の宿場風景ではなく、郊外の愛知川に架かる橋を描いている。  

「 無賃橋を画面中央に、そして、画面左側奥(遠景)に、西国三十三所の三十二番札所の観音正寺がある観音寺山を、右側の橋の袂の標柱には  「むちんはし はし銭いらす」  と記されている。
橋上には、天秤を担ぐ近江商人などを描いている。       」

橋を渡ると、近江商人の発祥の地といわれる五個荘町(ごかしょうちょう)。  渡り詰めの簗瀬北交差点を左折し、川沿いの道に入り、近江鉄道の愛知川南踏切 を渡る。
右側に、「太神宮」 その下に、「講中 」 と刻まれた常夜燈が建っている。 
これは、文政八年(1825)建立の大神宮常夜燈で、 愛知川対岸と対をなす睨み灯籠である。 

御幸橋      広重の愛知川宿      大神宮常夜燈
御幸橋
広重の愛知川宿
大神宮常夜燈(睨み灯籠)

常夜燈がある簗瀬北交叉点を左折し、県道52号に入り、一本目を右折する。 左側に秋葉山永代常夜燈がある。 
この道が、中山道の旧道で、国道とほぼ平行しているが、車の通行はほとんどなく、 人も歩いていない道である。 
このあたりは、東近江市五個荘中町である。
静かな集落で、右側に、かっては茅葺だったと思われる、トタン屋根の軒に、 火災予防の「水」 と、書かれた、魔よけがある家がある。 
家の構造からは農家のように思われるのだが、どうであろうか? 
街道を進むと、右側に 「東嶺禅師御誕生地」の石碑が建っている。  

「 東嶺(とうれい)禅師は、京都妙心寺の高僧・白隠禅師の弟子で、 東嶺円慈禅師のことである。 
享保六年(1721) ここで誕生し、九歳で出家、駿河の白隠禅師の元で修行し、 臨済宗中興の祖となり、寛政四年(1792)七十二歳で没しました。
生涯の大半は、静岡県三島市の竜澤寺(りゅうたくじ)で送り、晩年、この地に戻り、 齢仙寺でなくなった。 
滋賀県日野町川原の臥竜山妙楽寺には、禅の大悟を得たという遺跡や、 開悟偈文(げもん)が残る。  」  

秋葉山常夜燈      静かな集落      誕生地碑
秋葉山常夜燈
静かな集落(五個荘中町)
誕生地碑

電気店前を左に入ると、草分け地蔵があり、更に奥に進むと、左側に厳島神社がある。 
厳島神社の境内に、芭蕉の句碑がある。
 「   八九間(はっくけん)    空で雨降る   柳かな   」
元禄七年(1694) 芭蕉五十一歳の時の句で、 春雨が止んだのに、八九間もある柳から、雨滴が落ちてくる様を詠んでいる。 
うしろに、芭蕉句碑を建てた市河公風の句碑がある。
 「   果寿美かと     思ふほどなり    初霞 」 
街道に戻り、近江鉄道の小幡踏切を渡る。 
小幡新町バス停を過ぎると、右側に 「聖徳太子御旧蹟跡 法皇山善住寺」と、 刻まれた石柱があり、その奥に、延文二年(1357) 創建の浄土宗法皇山善住寺がある。 
その先の右側には、「小幡神社御旅所」 と刻まれた、大きな石柱が建っている。 
御旅所とは、祭礼の際に御神体を乗せた神輿が、休憩または宿泊する場所である。 
境内の奥には山王神社が祀られている。  
すぐ先の右側に、元禄年間(1688〜1704) 創建の浄土宗小幡山長寶寺がある。 
その先の小幡バス停前の交叉点は五差路になっていて、左側はY字路になっている。 
このY字路は、左に進むと近江鉄道の五個荘駅で、右の道は御代参街道である。 

説明板「御代参街道」  
「 御代参街道は、多賀から伊勢への近道で、 八日市や日野を経て東海道の土山宿に続き、伊勢や多賀大社への参詣道である。 
退位した天皇(上皇)が、伊勢神宮や多賀大社に御参りに行くならわしになっていたのが、 何時ごろからか、貴族に命じて代参させるようになり、また、 大名や家臣たちも、それをまねて御参りするようになったので、 そう呼ばれるようになったのである。 
また、近江商人が、伊勢方面へ商いに出かけるのに使用した道でもあった処から  市場通り とも、呼ばれました。 
寛永十七年(1640) 、春日局は、二代将軍秀忠の病気平癒祈願の為、 伊勢神宮から多賀大社へ通行した時も使われました。  」   

善住寺      小幡神社御旅所      三叉路
善住寺
小幡神社御旅所
御代参街道 の 三叉路

御代参街道の追分道標は、二又に分かれる家の垣根の中にある。 
享保三年に建立されたもので、「右 京みち 」・左 いせ ひの 八日市みち」 と 刻まれている。 
このあたりはもとの小畑村である。 
道はまた、三叉路になるが、この手前を右折する。 
この角は、旧中仙道ポケットパークで、明治五年(1872)建立の 大神宮常夜燈 が建っている。 
右折すると右側に、臨済宗妙心寺派慈光山正眼寺がある。  

「 建武年間(1334〜36)の創建で、 国指定重要美術品の安南国書(あんなんこくしょ)と呼ばれる御朱印状 が残されている。 
これは、近江商人が安南(ベトナム)と朱印船交易をした証というものである。 」 

大同川の砥心橋を渡り、突き当たりを左折すると、 五個荘小幡から東近江市宮荘町に入る。 
これから先は、五個荘の近江商人の家があるところである。 
道は広くなり、左側には川が流れていた。 

追分道標      小幡神社御旅所      宮荘町に入る
追分道標
大神宮常夜燈
宮荘町に入る

五個荘竜田町を進むと、右側の東近江市役所支所の前に、名残の松がある。 
右側に、堂々とした地蔵堂があり、 ここから先の街道筋には趣のある旧家や紅殻塗りの塀を数多く残している。 
すぐ先の左側のポケットパークには、幕府が文化三年(1806)に作成した中仙道分間 延絵図の五個荘部分が掲げられている。  
五個荘三俣町に入ると右側、に松居家住宅がある。 

「  大正十四年(1925)に竣工した木造二階建。
外装はモルタル仕上げになっていて、昭和三十九年(1964)まで、 五個荘郵便局として使用された。 
国の有形文化財になっている。     」

その向いに西澤梵鐘鋳造所があり、門前に鐘が置かれている。 
当家は九代三百年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきた。 
梵鐘の鋳型造りに野洲の粘土や琵琶湖の砂が適しているという。 
中山道は直進するのだが、折角来たので、近江商人の屋敷をみることにする。 
三俣バス停の先の交叉点を右折する。
国道を越えて進むと左側に、てんびんの里文化学習センターがあり、 三階に近江商人博物館がある。 

地蔵堂      街道の家並      てんびんの里文化学習センター
地蔵堂
街道の家並
てんびんの里 文化学習センター

五個荘小学校で左折し、文化学習センター駐車場の先を右折すると、 右側に、「近江商人のふるさと」 の看板と常夜燈・お堂、左に「金堂」 の標示板がある。 

説明板「金堂の町並み」  
「 五個荘町は、湖東地方のほぼ中央に位置し、北に和田山、西に繖山、南に 箕作山が囲み、残る東は愛知川が流れています。 
平野部には古代の条里制を遺す水田が広がる田園地帯で、金堂はこの真中にあります。 
江戸時代、金堂は、はじめは幕府領でしたが、貞亨二年(1685)以降、明治四年(1871) までは大和郡山藩領地で、元禄六年(1693)には金堂に陣屋が置かれました。 
金堂の町割は、条里制地割を基礎に、集落中心に陣屋、その三方に弘誓寺・ 勝徳寺・安福寺が配され、周辺に農家が集まり、集落東側に大城神社が鎮座し、 更にその外側には条里制水田の景観が広がる集落構成が出来上がりました。 
五個荘町は、近江商人発祥の地で、金堂からも多くの商人が輩出しました。 
明治十三年(1880)には、全戸数の三分の一に当たる六十七軒が呉服・太物 など繊維製品を扱う商業に従事し、うち十三軒は県外に出店を有していました。 
商人の本宅は、広大な敷地を板塀で囲み、内部に切妻や入母屋造りの主屋を中心に、 数奇屋風の離れや土蔵・納屋を建て、池や築山を配した大きな日本庭園が特徴です。 
農家住宅は、切妻もしくは寄棟造平屋の草葺屋根の主屋と納屋を持つ 伝統的な形式です。 
以上、金堂の町並は湖東平野を代表する農村集落で、 加えて近江商人が築いた意匠の優れた伝統的な建造物群として、 歴史的景観を保存しています。 
平成十年十二月二十五日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。  
         平成十二年三月  五個荘町教育委員会   」  

道幅が広がり、その先の右側に大城神社、左側に日若宮神社がある。 
大城神社の主祭神は、高皇産霊大神、菅原道真公で、歴史のある神社である。 

説明板「大城神社 社歴」  
「 第三十四代推古天皇二十九年(621)、厩戸皇子大臣が 小野妹子に命じて当地に金堂寺を建立せしめられしに創り、其の護法鎮守の為、 字・大城の地をトして、社檀を造営勧請奉斎せられたるを創始とす。 
後 嘉応二年(1170)に至り、西南続きたる現地に社殿を改造し、 天満天王八幡大神を勧請し同殿に合祀し当山の前五箇荘総本社と崇敬せり。  天満宮の称は蓋しこの頃より始まりしものなり。 
文亀三年(1503)には、地頭職那須与一の末(裔)が金堂修理と社宇を加造し以って、家運長久を祈願せり。 
祭礼は卯月吉辰勤行の恒例とせり。 
佐々木氏観音城を繖山に築くに至り、城の艮位に方れるを以て守護神として崇敬、 特に篤く神田を寄進し、年々幣物を喬し際しせられしが、元亀年間(1570年頃) 度々織田氏の兵火に罹り、佐々木氏の没落と共に当社の旧記塔も紛失す。 
徳川の世となり、大和郡山候柳沢氏領となり、代官陣屋を当地に設けられるや、 年々一月三日藩侯代参の儀あり、神楽を献ぜられ、撒下の供物を贈進する例となり、 例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し、以って明治に及べり。 
天和二年(1682)三月故あって、大梵天王を七里村に分祀す。 五箇神社是なり。 
安政二年(1855)四月 八幡大神を川並村塚本村に分祀す、結神社八幡神社是なり。 
明治九年(1876)に村社に被制定、同十四年郷社に加列せらる。  」 

少し行くと、金堂の中心地に到着。 
右側の空き地奥にあるのが金堂始まりの寺といわれる安福寺。 
間口三間奥行四間のお堂で、境内には五輪塔がある。 
この五輪塔は、総高百九十七センチの七尺塔。 
四方に四門の梵字を配し、地輪に「正安二庚子二月日」・ 「願主沙や蓮口口之」 と刻まれている。 
正安二年は西暦千三百年で、在銘塔としては、県下最古の五輪塔である。 

金堂地区      大城神社      安福寺
常夜燈とお堂
大城神社
安福寺

右折すると、道が狭くなり、寺前・鯉通りで、軒の立派な屋敷が見える。 
これらはみな、元近江商人の屋敷である。 
この通りには、近江商人屋敷の 旧外村繁家 、 旧外村宇兵衛家などがあり、 五百円で見学できる。 
五個荘商人を代表する、外村宇兵衛家は、橋を渡った右側にある。 

説明板「近江商人屋敷 外村宇兵衛家」  
「 五個荘商人を代表する外村宇兵衛家は、近江商人として活躍していた 外村与左兵衛門浄秋(六代目)の末子・嘉久が、享和二年(1802)に分家して、 宇兵衛家を興したものです。 
文化十年には独立して商いを始め、努力の末に東京・横浜・京都・福井などに支店を有し、 呉服木綿類の販売を中心に商圏を広げました。 
明治期には、全国長者番付に名を連ねるなど、近江を代表する豪商として の地位を築きました。
屋敷は家業の隆盛とともに数次にわたる新増築が重ねられ、 主屋・書院・大蔵など、十数棟にわたる建物が建てられていました。 
また、庭は作庭当時、神崎郡内一番の庭と評せられる程、立派なものでした。 
しかし残念ながら、建物や庭の半分ほどが取壊され、旧状を損なっていました。 
そこで、五個荘町が、茶室・四阿の復元、主屋・庭の改修や整備を行い、 明治期の姿に修復し、てんびんの里伝統的家屋博物館として公開するものです。 
五個荘商人の本家の生活文化にふれてみてください。   
   平成六年六月     東近江市五個荘近江商人屋敷 外村宇兵衛邸  」  

中江家は、明治三十八年(1905) 三中井(みなかい)商店を発足し、 朝鮮・中国に二十余の百貨店を展開しました。 しかし、敗戦と共に終焉を迎えました。 
邸宅には隆盛を極めた往時の三中井を偲ぶことができる。 
旧外村繁家は、金堂集落の中心に位置し、隣地には稲荷神社、金堂陣屋跡がある。 
澪標(みおつくし) の作家・外村繁の生家で、外村繁文学館になっている。  

説明板「近江商人屋敷 旧外村繁家」  
「 外村繁家は、隣家の外村宇兵衛家の分家にあたり、明治四〇年当主吉太郎が 本家の勤めから独立、東京に呉服木綿問屋を開き近江商人として活躍しました。 
外村繁(本名 茂)は、明治三十五年に三男として生まれ、京都第三高等学校を経て、 東京帝国大学に進み文学を志しました。 
父の死後一時家業を継ぎましたが、再び文学の道に入り、 芥川賞候補や池谷賞、野間文芸賞等を受賞し数多くの作品を遺し、 昭和三十六年、五十八歳で永眠しました。 
遺族の御協力により、近江商人屋敷作家外村繁の生家として、永久に保存するものです。   
  平成二年四月   東近江市五個荘近江商人屋敷 外村繁邸   」  

 
寺前・鯉通り      外村宇兵衛家       外村繁文学館
寺前・鯉通り
(右側) 外村宇兵衛家
旧外村繁家 (外村繁文学館)

寺前・鯉通りを引き返すと、突き当たりに 弘誓寺(ぐぜいじ)がある。 
なお、隣に淨栄寺がある。

「 山門は、元禄五年(1692)の建立で、本堂は入母屋造り、 本瓦葺き、間口十八間、奥行二十間で、国重要文化財に指定されている。 」  

街道に戻る途中に 、「観音寺へ 1.5km」 の表示がある。
右折して進むと突き当たりが観音寺山の麓の石寺の集落である。 

「 石寺集落は、近江源氏の佐々木氏が守護として勢力を張った所である。
山の中腹に、西国霊場の観音正寺がある。 
西国三十二番札所の観音正寺は、聖徳太子の建立と伝わる古刹で、 万事吉祥の縁結びの祈祷道場である。 
観音寺城は、永禄十一年(1568)、織田信長の上洛を阻止すべく戦った、 六角承貞(佐々木氏の分流)の城で、落城の時、観音正寺と共に焼き尽くされた。  」 

街道に戻ると、 北町屋町の標識の手前左側の小路に、 天保十五年(1844)建立の常夜燈があり、 「右京道 左いせ ひの 八日市」 と刻まれ、御代参街道道標を兼ねている。 
信号交差点を越すと左側のポケットパーク内に、「明治天皇北町屋御小休所」 の 石碑がある。
明治十一年(1878) 北陸東海巡行の際、向いの市田家で、御休息された。 
邸内には、元帥伯爵・東郷平八郎謹書による、「明治天皇御聖蹟碑」がある。 
右側に真宗仏光寺派慈照山蓮光寺がある。
そ先の右側に、市田庄兵衛家の本宅がある。 
当家は、江戸時代から呉服繊維商として、京都、大阪で活躍した。 
建物は明治初期の建築で、奥に細長い京町家風の建築様式である。 
平成十三年(2001)に北町屋町が屋敷を購入し、保存、活用している。 
道の右側に、大きな「大郡神社」の社標があり、その奥に常夜燈と鳥居がある。
大郡神社の石柱に、「東郷平八郎謹書」 とあり、 上述の明治天皇御聖蹟碑の建立と同時期に建てられたのだろう。 

「 大郡神社(おおこりじんじゃ)は、北町屋の鎮守で、 社殿は国道8号線を越えた先に鎮座している。 
神社を中心とした東西南北400m程は、奈良・平安時代に、近江國に置かれた 神崎郡役所(郡衙ぐんが)の大郡遺跡である。 
遺跡からは役人(郡司)が使用した土器や硯、庁屋(ちょうおく)の布目瓦等が出土している。 」 

信号交差点で、県道209号を横断すると、右側に茅葺き屋根の旧片山家住宅がある。
角に、天保八年(1837)の建立の立派な金毘羅権現常夜燈が建っている。 
ここは、大名・武家・公家等が休憩した茶屋本陣跡で、ういろうが名物でした。 

弘誓寺      大郡神社入口       茶屋本陣跡
弘誓寺
大郡神社入口
茶屋本陣跡

道脇の農家には、切妻あるいは寄棟造りの茅葺屋根が多く残っている。 
武州路、上州路、信濃路、木曽路、美濃路そして近江路とあるいたが、 これだけ立派な茅葺屋根が残っているところはない。 
すぐ先の町小路バス停右の小路口に、享和三年(1830) 建立の観音正寺道標 「三十二 番かんのん正寺」 がある。
繖山(きぬがささん)観音正寺への道標である。 
その先で国道8号に合流。 合流点に、「てんびんの里」の石碑が建っている。 
国道に合流したら、次の交差点で右折し、すぐの自治会館前を左折する。
国道と並行する一本右の道に入ると、清水鼻の集落である。 
入ってすぐ右側に、屋根に覆われた今も清水の湧き出す井戸がある。 
ここは、清水鼻の名水と呼ばれ、立場もあったところで、 傍に立つ石碑には、「近江ノ国 清水鼻の名水 旧中山道」 と刻まれている。 

説明板「湖東三名水の一つ、清水」  
「 昔から湖東の三名水(湧水)が、旧中山道の町内の道沿いにあります。 
古くは交通の要衝として栄えた当地では、今も湧水が絶えなく、 道行く人達にも潤いを与え、喜ばれています。  
湖東三名水とは、「清水鼻」・「醒井」・「十王村」の三つを指す。
   五個荘清水鼻町自治会  五個荘地区まちづくり協議会       」   

右側の浄敬寺を過ぎると、五個荘清水鼻町から安土町石寺に入る。 
フードショップタケヤスを左折すると右側に、大神宮常夜燈があり、 後ろに愛宕神社の祠がある。 
直進する道は八幡道(八風街道)で、近江八幡に通じている。 
緩い坂を下ると旧道は国道8号線に合流する。
すぐ、右の橋を渡って、国道に並行している水路と田圃の間の道を進む。 
これが旧道。 
その後、国道と新幹線が入れ替わり、新幹線の右側を更に十二分ほど進む。
「石寺営農組合農業倉庫」前に、綺麗な橋が見えてくるので、左折してその橋を渡る。 
右に見えているのが石寺集落で、右折して北西へ進むと、安土城跡に行ける。  
新幹線の高架を潜り、歩道を進み、東老蘇1号橋地下道で、国道8号を横断する。
国道には「←奥石神社 観音正寺→」の道路標識が建っていて、奥石神社入口である。
奥に見えるのが老蘇の森である。

茅葺屋根の家      浄敬寺       奥石神社入口
茅葺屋根の家
浄敬寺
奥石神社入口


五個荘金堂地区(近江商人ゆかりの地)   滋賀県東近江市五個荘金堂町   
     近江鉄道五個荘駅から徒歩30分。
     JR琵琶湖線能登川駅より、バスで10分、ぷらざ三方よしバス停下車、徒歩5分。
老蘇の森(おいその森)   滋賀県近江八幡市安土町東老蘇1615
     JR琵琶湖線安土駅より、徒歩50分、タクシーで10分。 

(所要時間) 
愛知川宿 → (1時間50分) → 奥石神社 → (1時間10分) →武佐宿 



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