愛知川宿は、中世 東山道時代からの宿駅で、 近江麻布の生産及び集散地として栄え、 東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった。 天保十四年(1843)の 「中山道宿村大概帳」 によると、家数199軒、宿内人口 929人(男471人、女458人)、本陣1、脇本陣1、問屋3、旅籠28軒で、 中規模の宿場町であった。
◎ 高宮宿から豊郷町
無賃橋北詰交叉点の先に,高宮橋がある。
下には犬上川(いぬかみがわ)が、南から北へ向かって流れ、琵琶湖へ注いでいる。
「 安藤広重の「高宮」の浮世絵として、松並木を左右に配置し、 西から見た渇水期の犬上川、そして、橋脚だけのむちん橋を中央に、 その先には常夜燈が立ち、高宮宿の街並みが続き、遠景に伊吹山を描いている。 」
橋の手前の右手に、天保三年(1832) 建立の (左面)「無賃橋」(右面)「むちんはし」
と、刻まれた石碑が建っている。
高宮橋は、高宮宿の境に架かる橋で、
江戸時代には、無賃橋(むちんはし) と、呼ばれていた。
説明板「無賃橋」
「 彦根藩は、この地の豪商・藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門等
に架橋を命じました。
彼等は、一般の人々から浄財を募り、天保三年(1832)に竣工させ、橋を架けました。
渡り賃を取らなかったところから、むちん橋と呼ばれました。 」
地蔵堂が川の縁にある。
説明板「むちん橋地蔵尊由来記」
「 昭和五十二年(1977)、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から、
二体の地蔵尊が発掘されました。
近隣の人々と工事関係者は、これこそ、天保三年(1832に)
最初に架橋された橋を架けたむちん橋の礎の地蔵尊に違いないと信じ、
八坂地蔵尊の御託宣を得て、橋畔を永住の地とし、お堂を建て、むちん橋地蔵尊と
名付けて、祀りました。 」
無賃橋歩道橋の渡詰めに、高宮宿側と同種のむちん橋碑と、太い丸太標柱「高宮宿が
あり、高宮宿の京方(西)の入口である。
車道側の渡詰めには「牛頭天王道」の標石がある。
橋の上からは、遠く鈴鹿北部の山並みが見えた。
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橋を渡ると,
二車線(県道542号)になり、道幅が広がり、車の往来が多くなるが、歩きやすくなった。
四の井川の新安田橋を渡ると、高宮から彦根市法土町(旧法士村)になる。
左側に「法土一里塚跡」の標石があり、江戸より百二十里目である。
先に進むと、左側の浄土真宗本願寺派妙行寺前に、「是よりたがミチ」 の道標が
あり、敷地内には法土町自治会館と法土町地蔵堂がある。
法土町(ほうぜちょう)交差点を過ぎた辺りに、松並木がある。
出町までの間、枯れてなくなっているものが多く、
まばらではあるが、 一応、並木として続いている。
葛籠(つづら)町に入る。
昔は、つづら・行李・団扇などが当地の名物の立場であった。
道の右側に小さな山門があるのは月通寺である。
正式名は、真言宗豊山派延命山月通寺で、山門前に、
「不許酒肉五幸入門内」 と、刻まれた石標が建っている。
別名・ 柏原地蔵 とも呼ばれており、本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる
地蔵菩薩が安置されている。
山門は左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し,
屋根は切妻破風造りとなっている薬医門と呼ばれる形式の者である。
平成十年十月に、葛籠町有志一同の山門修復事業により、修復された。
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葛籠の集落は農業が多いのか、昔の茅葺屋根に、トタン板を被せた家が多くある。
月通寺を過ぎた右側に、若宮八幡宮の参道がある。
参道入口に、小屋組みの中に、
石組みの産の宮(うぶのみや)井戸がある。
石製の四角い手水鉢には、「足利氏降誕之霊地」 と刻まれている。
ここから竹林の中の参道を進むと、小さな社があり、これが産の宮である。
若宮八幡宮、あるいは、産の宮と呼ばれ、古来、産の宮として、
安産祈願の参詣客が多いといわれる。
「 南北朝争乱の頃、足利尊氏の子・義詮(よしあきら)が、
文和四年(1355) 後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を奉じて、
西江州で戦い、湖北を経て、大垣を平定し、翌五年、京へ帰ることになりました。
その時、義詮に同行した妻妾が産気づき、ここで男子を出産しました。
付け人として、家臣九名がこの地に残り、保護したが、君子は幼くして亡くなりました。
生母は悲しみのあまり髪を下ろして、醒悟(せいご)と称して尼となり、
この地に、一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔いました。
ここに土着した家臣九名は、竹と藤蔓(ふじづる)でつくった葛籠(つづら)を生業とするようになり、松寺の北方に一社を祀ったのがこの宮です。
以来、産の宮と呼ばれ、安産祈願に参詣する人が絶えなかったといいます。
家臣の葛籠作りが、葛籠村の村名の由来です。 」
集落が途切れると、街道は松並木になり、田園風景が広がる。
車が比較的多くないのでのんびり歩ける。
新幹線が走っていく姿の先に、鈴鹿連山が霞んで見えた。
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出町交差点では、右側の大東電材の向いに「中山道葛籠町」の標石があり、
左側に、彦根市のモニュメントがある。
三本の石柱の上に、麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして、近江商人の像が乗っている。
彦根市から出る側には 「またおいで」、入る側には 「おいでやす彦根市」
と刻まれている。
出町交差点を横断すると左側に、「中山道出町」 の標石がある。
出町に入ると、左手に日枝神社があり、対の常夜燈の奥に、明神系台輪鳥居が建っている。
本殿は、小さな造りで、出町の鎮守である。
道の右側に水車のあるあづまや風の公園があったので、 少しの休憩した。
豊郷町に入ると、大きな工場が点在している。
四十九院交差点の右側に、「縣社阿自岐神社」の石標と対の常夜燈、
「是従本屋社六丁」 の道標、その奥に、鳥居が建っている。
ここから右(西)に約780m進むと阿自岐神社がある。
「 応神天皇の時代に、この地を開発した、百済の渡来人・
阿自岐(あじき)氏が、祖神を祀ったものである。
三間社流造りの本殿は、文政二年(1819)の建立である。
犬上川の伏流水が湧き出る池泉多島式阿自岐庭園は、阿自岐氏の邸跡で、
日本最古の名園といわれる。 」
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道から少し入ったところに、大きな風格のある伽藍と、整備された庭がある、唯念寺 がある。
「 正式名は、真宗大谷派兜率山(とうりつざん)四十九院照光坊唯念寺である。
四十九院は、行基が天平三年(731)この地に、四十九の寺院を建てたことに由来する。
唯念寺は、その四十九番目で、行基作の阿弥陀如来像と弥勒菩薩像が、
本尊として安置している。
文和四〜五年(1355〜1356)頃、北朝の後光嚴天皇が行在された寺で、
山号の額、宸斡などを賜ったと伝えられる。 」
四十九院公民館先を左に入ると、先人を偲ぶ館があり、
豊郷に生まれ全国で活躍した八人の傑人の業績や生い立ち、成功への道程を紹介している。
街道に戻って進むと、左側に「春日神社」と刻まれた石標と鳥居がある。
「
春日神社は、開化天皇の子孫・恵知王によって、創建された神社で、
行基が四十九院の創建時に、伽藍鎮護の守護神として祀ったものである。
明治になって、愛知神社 と改称された。 」
唯念寺から石畑集落に入り、数百メートル歩くと、左側に豊郷小学校旧校舎が ある。
「 昭和十二年(1937)、丸紅専務、古川鉄次郎の寄付により
建てられた鉄筋造りの校舎は、ウイリアム メレルヴォーリズの設計によるもので、
東洋一といわれた。
鉄次郎は、伊藤忠兵衛の元で丁稚奉公からの叩き上げで、忠兵衛の右腕となって
活躍。
身の回りは質素で通し、公共の福祉には大金を惜しまなかったところから、
近江商人の鑑といわれました。
豊郷小学校旧校舎は、当時の町長が新校舎を強硬に建築し、旧校舎を壊す恐れがあり、
住民が法廷闘争を起し、話題になった。
今は複合施設となって保存されている。 」
豊郷小学校の向いに、「やりこの郷」 の碑があり、 碑には弓矢があしらわれている。
説明板「やりこの由来」
「 安食南には、古くから 矢り木(やりこ)という地名があり、
昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れてしまって、
村人たちは大変困っていました。
村人たちは、阿自岐神社の神様に雨を降らしていただくようお願いしたところ、
「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」
とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、
阿自岐神社の東の地面につきささりました。
その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた大地をうるおし、
農作物は大豊作となって、その清水を 「矢池」 と名付けました。
この矢をはなった大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって、「やりこ」 と
言われるようになったと思われます。
今日、その大木の生えていたところが、「矢り木」 という地名になって伝わって
おり、はるか昔の名残をとどめています。
平成七年二月 安食南区 」
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豊郷小学校のすぐ先左側の八幡神社境内に、中山道一里塚の「郷石畑」の石柱
があり、一里塚が縮小されて、復元されている。
石畑の一里塚跡で、江戸より百二十一里目である。
「←高宮宿 石畑(間の宿) 愛知川宿→」 の道標と、「石畑」の説明板がある。
説明板「石畑」
「 石畑は、高宮宿と愛知川宿の中間に位置し、間の宿として発展し、
立場茶屋がありました。
石畑の地は、文治元年(1185) 屋島の合戦で、弓の名手として名を馳せた、
那須与一の次男・石畠民武大輔宗信が、那須城を築き、この地を支配しました。 」
一里塚の奥にある八幡神社は、宗信が延応元年(1230)に、男山八幡宮を勧請した
ものである。
また、八幡神社の奥に、浄土真宗本願寺派引誓山称名寺があるが、
正嘉二年(1258) 那須与一の次男・宗信が、創建した寺である。
街道(県道542号)を進むと、左側に豊郷町役場がある。
交差点を越えた左側に、「くれない園」 と、刻まれた石碑が建つ公園がある。
「 この公園は、昭和十年、伊藤忠商事・丸紅商店の創始者である、 伊藤忠兵衛を記念して造られたもので、 公園中央には、肖像がはめ込まれた伊藤忠兵衛翁碑がある。 」
公園の隣の駐車場の脇に、「伊藤長兵衛住宅跡」 の石碑が建っている。
説明板「七代目(1868〜1941) 伊藤長兵衛翁の偉業」
「 犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の二男として生まれ、幼名は長次郎。
16歳で伊藤長兵衛商店にはいり、22歳のとき、六代目伊藤長兵衛の養子となり、
1892年 その次女やすと結婚、その翌年 七代目長兵衛を襲名した。
そして。先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、
1921年 これに伊藤忠商店を合併して。株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。
翁は仏教の信仰心厚く、人間愛また深く、正義・公正・質素・倹約を生活信条として、
企業家としても成功し、1925年 自ら巨額の浄財と敷地の大部分を寄付して、
豊郷病院を創設した篤志の人としても、世の尊敬を集めた。
この駐車場はそのご子孫の所有地であったが、
1997年に、財団法人豊郷病院へ寄付されたものである。
財団法人 豊郷病院 」
くれない公園前バス停で、左折すると、豊郷病院と、近江鉄道豊郷駅がある。
街道を進むと、五十メートル先の左側に、伊藤忠兵衛記念館がある。
この建物は伊藤忠兵衛屋敷跡である。
説明板「伊藤忠兵衛記念館」
「 伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代 伊藤忠兵衛の100回忌を記念して、
初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれた、豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館
と命名して、一般公開することになりました。
初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して、
繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃、そのままの形で残され、
その佇まいからは、近江商人忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりや、
それを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。また、
ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、
国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。
近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて、
世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、
そして、八重夫人のルーツにふれながら、
その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。 」
伊藤忠兵衛の生家は、火・木・土の週三日、十〜十六時、無料公開されている。
建物や敷地などは我々の家と違い大きいが、明治の成功者の家という割には、
かなり質素なものだった。
家の間取りは商家としてつくりになっていて、
庭には咲き終わったつつじの花びらが散っていた。
庭の灯篭や庭石の組み方などには感心した。
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伊藤忠兵衛記念館の手前の左奥に、犬上神社がある。
祭神は、犬上の君の始祖・稲神(いねがみ)といわれ、
この地は、百済から入植した帰化人が開いた土地である。
「 その王は、農耕を振興したところから、
稲神(いねがみ) と呼ばれ、これが転化して、犬上になったといいます。
伝説によると、犬上の君の飼い犬が、激しく君に吠えかかり、
これに怒った君が犬の首を刎ねると、首は宙を飛び、松の木の上で君を狙っていた、
大蛇の喉を喰い破りました。
君は哀れに思い、胴を埋葬し、頭を持ち帰り、犬頭明神ととし、犬上神社に祀りました。 」
街道を進むと、右手の奥に、天雅彦神社(あめわかひこじんじゃ)がある。
天応元年(781) の創建で、この地の総鎮守である。
説明板「天雅彦神社」
「 戦国時代、佐々木京極氏の家臣で、この地を支配した、高野瀬氏の信仰が篤く、
この地を通る武将は天稚大明神に神饌を供し、勝運を祈願したといいます。
今も勝運の強い神として、受験生や選挙の候補者に崇拝され、又、
厄除け商売繁盛の神として霊験あらたかといわれています。 」
伊藤忠兵衛記念館から五分程行くと、ニシキ会館の前に、
井戸のモニュメントがある。
左側の石の説明板の柱部分には、「水の香る郷 四谷」 と刻まれ、
右側には、「西沢新平家邸跡」 なる石標が建っている。
説明板「金田池」
「 この地より北約五十米の処、大字澤一番地に、金田池 と称する湧水があり、
田の用水に、中山道を旅する人達の喉をうるおしてきた。
近年の地殻変化により、出水しなくなり、埋め立てられたが、
当区の最上流で永年名水として親しまれた池ゆえに、それを模して再現した。 」
下枝(しもえだ)地区に入り、日枝郵便局を過ぎると、
右側に又十屋敷があり、豪商・藤野喜兵衛屋敷跡である。
何故か一里塚跡の碑が立っている。
「 又十とは、江戸時代から明治時代にかけて、
根室を中心とする道東・千島の漁場を取り仕切った、藤野喜兵衛という人物である。
豊郷から蝦夷に渡り、財をなした郷里の英雄。
北海道における商人資本の漁場開拓者として位置づけられる人物であるが、
先住民のアイヌから見ると、許しがたい支配者であった。
藤野家は、昭和の初めには、北海道に完全に移住していき、
残された屋敷は日吉村役場になっていた時期もあったが、
現在は、地元有志による会館として維持されている。
説明板「資料民芸館 豊会館(又十屋敷)」
「 当館は、江戸末期より、蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した、
近江商人・藤野家本宅跡です。
明治初期に入ると、我国初めての鮭缶の製造を始め、
五稜北辰の商標「星印」で販売した所、人気を博しました。
今日では、「アケボノ缶詰」として受け継がれています。
亦、天保の大飢饉には住民救済の為行われた、又十の飢饉普請は有名で、
江州音頭発祥の地・千樹寺の再建と、当家の建造物及び、
湖国百選に紹介されている名庭園「松前の庭」勝本宗益作等、
何れも当時の原形を今日までほどよく保存されています。
また、館内には千数点に及ぶ美術・工芸品等が展示されています。 」
説明板「一里塚跡碑について」
「 一里塚は、元々、此の地より北八百米豊郷町役場付近にあったと謂われ、
三間四面に盛土をして塚を造り、木を植え里程標とし、また、
車馬賃の目安ともなった。
尚、石畑は中山道の高宮宿と愛知川宿の丁度中間点で間の宿と呼ばれ、
八幡神社付近には立場茶屋があり、中山道往来の旅人で賑わったようで、
石畑は一里塚のさと と呼ばれる所以であらう。 」
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豊会館は豊郷町下枝、道の反対は上枝地区である。
古い家の屋根上に、小さな屋根が付いている家を見たので、
不思議に思い、住民に聞くと、 「 家で火をたいたときの煙出し用に設けられたもので、
古い家だけに付いている。 」 ということだった。
豊会館から二百メートル弱の右側に、日吉山千樹寺がある。
右側の門前に、「江州音頭発祥地」 の石碑と、「伝統芸能扇踊り日傘踊り中山道千枝の郷」 の石碑が建っている。
二つの石碑の間に、石製の下記説明文がある。
説明碑「観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源」
「 天正十四年(西暦1586年)今から四百五年前、藤野太郎衛門常実が
兵火(永禄十一年五月七日織田信長の) 後の観音堂を再建して、
其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦七月十七日であった。
当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又 仏教弘道の一手段として、
地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、
文句は羯諦羯諦波羅羯諦(かっていかっていはらかってい)、
波羅僧羯諦(はらそうかってい)、等(時の住職根與上人)経文の二、三句を
節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り、
踊らせ、来観の群衆もあまりの楽しさに参加して、踊ったと伝えられる。
その後、毎年七月十七日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で、
益々多くなった。
弘化三年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、
その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、
種々の花傘とか、華美なる扇子を持ちて踊らせ、
音頭(音頭取・桜川大竜) も、陣新なる文句を作り、
益々好評を博し、その後、他村の社寺は勿論、他共同の祝事には、
此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年八月十七日 観音盆には扇踊り、
日傘踊りを踊り、好評を博している。
竣工 平成三年十月 」
中に入ると、千樹寺の観音堂があった。
「 千樹寺の正式名は、
臨済宗永源寺派日吉山千樹寺である。
行基が創建した四十九院の一寺で、観音堂とも呼ばれている。
信長の兵火に遭い、焼失したが、天正十四年(1586)
藤野喜兵衛の先祖・藤野太郎右衛門が再建した。
その落慶法要で、時の住職が境内に人形をたくさん並べ、お経に音頭の節をつけて唱い、
手振り、足振り拍子を揃え踊り出したのが、江州音頭の始まりである。
これが毎年八月十七日の観音盆の伝統芸能絵日傘踊り、扇踊りとして今に伝えられ
ている。 」
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◎ 豊郷町から愛知川宿
道が少し上り坂になると、宇曽川(うそがわ)があり、歌詰橋という変った名前
の橋が架かっている。
江戸時代の橋は、数本の長い丸太棒を土台にして、
その上に土を被せた土橋だったというが、今は歩道橋は別という、
しっかりしたコンクリートの橋になっていた。
また、橋を渡った右側土手に、「宇曽川と歌詰橋」 の説明板が建っている。
説明板「宇曽川と歌詰橋」
「 宇曽川
宇曽川は、秦川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て、琵琶湖に注いでいる。
この川は、古い時代から、水量が豊富であったため、舟運が盛んで、
人や物資のみでなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。
また、木材は、丸太のまま上流から流したという。
このことから、「運槽川」 と呼ばれていたが、
中世になって、うそ川 となまったようである。 」
「 歌詰橋
宇曽川に架けられていたこの橋は、かつては十数本の長い丸太棒を土台にして、
その上に土を塗りこめた土橋であった。
天慶三年(960) 平将門は、藤原秀郷によって、東国で殺され、首級をあげられた。
秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、
目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して、歌を一首といい、
いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。
そこがこの土橋であったとの伝説がある。
以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになった。 」
橋を渡ると豊郷町上枝から愛荘町石橋になる。
愛知川宿は、一.五キロほど先である。
歌詰橋を渡った次の交叉点の左側に、浄土真宗本願寺派普門院がある。
本堂裏に将門首塚がある。
塚に小さな祠が乗っているが、実際は円墳の山塚古墳である。
次いで、石橋から沓掛に入る。
歌詰橋から20分ほど歩くと左手奥に、石部神社がある。
「 石を扱う石作部(いしつくりべ)に由来する神社である。
延喜式に記載されている古社で、本殿は一間社流造りである。 」
街道の左側に、「式内石部神社」の標石と対の常夜燈があり、
その奥に、石造神明鳥居があり、参道には石灯籠が並んでいた。
宿場入口の沓掛の三叉路には、「旗神豊満豊満大社」 の道標があり、左に行くと
豊満神社で、中山道は右である。
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豊満神社(とよみつ) に立ち寄る。
神社の森が見えてきて、神社に入る両脇には常夜燈が点在している。
道標から千五百メートル程か? 正面には国の重要文化財である、四脚門がある。
説明板 重要文化財 「豊満神社四脚門(よつあしもん)」
「 豊満神社は、古くより軍旗の守護神として崇敬され、
祭神は大国主命・足仲彦命・息長足姫命・誉田別命の四神を祀る。
現在の四脚門は、鎌倉時代後期に建てられ、
形式は本柱の前後に四本の控柱があることから、四脚門と呼ぶ。
屋根は入母屋造りで、葺材料は檜皮とこけら板を交互に葺いた 「よろい葺き」 の
珍しい工法である。
建物は柱を太くして、力強さと安定感を持たせる反面、
柱上の組物・軒垂木は繊細に作り、巧妙な均整美をつくる。
また 軒反りを強くし、屋根勾配をゆるくおさえて、軽快感をもたせた、
県内の代表的な四脚門である。
昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会 」
「 ポイ捨てに注意!! 」 などの注意書きがあり、門の周りがてすりで
囲まれていた。
神社の境内に脇門から入ると、広い敷地で、立派な社殿がある。
「 豊満神社は、籏神豊満大社ともいい、 地元では、 旗神さん 、 御旗さん
という呼び名で、親しまれている。
境内の竹を切って旗竿にすると戦いに勝つと、源頼朝を初め、多くの武将が崇拝しました。 」
御参りを済ませてから、少し休憩し、神社を後にした。
三叉路に戻り、沓掛と中宿の境を流れる小川を左(西)に入ると、井上神社がある。
愛知川小学校を過ぎると右側に、河脇神社の台輪鳥居が聳えている。
河脇大明神と称し、愛知川筋の上に御河辺神社、中は当社、下には川桁神社の三社が祀られている。
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愛知川小学校前を通って、次の交叉点(県道214号と交差)を左折する。
近江鉄道愛知川駅までは二百六十メートルである。
駅舎のトイレ前の郵便ポストは、この地の残る伝統工芸・びんてまりを形どったものである。
交叉点を越えると、「中山道 愛知川宿」 と書かれた、木のゲートが道路にまたがって、
建っている。
ゲートをくぐると、左側にある白漆喰の家が、文化庁登録有形文化財の田中
新左衛門旧本宅である。
「 田源の屋号で、呉服・蚊帳・麻織物を商った近江商人の豪商で、 現在は、湖魚季節料理の近江商人亭三角屋中宿店になっている。 」
右側に、郡分(ぐんわけ)延命地蔵尊のお堂がある。
地蔵堂脇には、エプロンを掛けた多数の地蔵や道祖神が集められている。
地蔵堂脇を流れる中の橋川は、中宿と堺町の境であり、神崎郡と愛知郡の境である。
これが、郡分地蔵の由来である。
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郡分地蔵堂前に、「愛知川宿北入口」の標石があり、愛知川宿に到着である。
「
愛知川宿は、中世の東山道時代からの宿駅で、近江麻布の生産及び集散地として栄え、
東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった。
天保十四年(1843)編纂の 「中山道宿村大概帳」 によると、家数199軒、宿内人口
929人(男471人、女458人)、本陣1、脇本陣1、問屋3、旅籠28軒で、
中規模の宿場町であった。 」
街道を進み、信号交差点にて、県道214号を横断すると、 左側にポケットパークがある。
「 園内には、むちん橋由来、 広重画恵智川 レリーフがある。
明治四年(1871) 郵便事業創業時に使われた、書状集箱(しょじょうあつめばこ、
黒ポスト) が再現されていて、この書状集箱は現役である。 」
ここから泉町になる。
右側に、「親鸞聖人御旧跡」 の標柱があり、奥に、真宗大谷派負別山宝満寺がある。
「 宝満寺は、昔は豊満寺といわれ、豊満神社の別当寺とされ、
江戸時代には愛知郡内他に、二十五寺の末寺をもつ大寺院でした。
宝満寺には、親鸞手植えの紅梅や直筆の掛け軸がある。
当寺は、本願寺中興の祖といわれる、蓮如上人御影道中の定宿として知られている。
御影道中とは、蓮如上人没後、北陸での教化の苦労とその徳を偲んで、
京都東本願寺と吉崎御坊(現福井県あわら市、吉崎別院)間を徒歩で往復する行事である。
毎年五月七日の晩に、愛知川宿の家々は提灯を掲げ、御影道中の一行を迎えます。
宝暦二年(1752)から継続しています。 」
街道に戻ると、右側の日本生命愛知川営業部の辺りが、西沢本陣跡である。
建坪百四十二坪で、門構玄関付で、皇女和宮三日目の宿所となりました。
源町を進むと、右側に八幡神社がある。
「
養老年中(717〜23)に宝満寺のあったところに、居館があった愛智氏の守護神として、
勧進された、と伝えられる神社である。
聖徳太子が、物部守屋との戦いで、身の安全を祈願したところ、
神託によりこの八幡神社に身を潜めて難を免れた。
太子は報養に田園を奉納した。 それ以来、皇室の崇敬が篤かった。
本殿は寛文十一年(1671)頃に建立されたと推定され、県の有形文化財に指定されている.。 」
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八幡神社の参道口左側の常夜燈横に、「高札場標石があり、
ここが愛知川宿の高札場跡である。
八幡神社参道の常夜燈の先に、白い洋館と、紅殻塗りの家(伊吹正化学工業) の間に
、「脇本陣跡」 の標石が置かれていた。
藤屋脇本陣の跡で、脇本陣は建坪百三十一坪で門構玄関付でした。
また、右側の 時計メガネ宝石のタカダ の向いに、「問屋跡」の標石があり、
ここに問屋場がありました。
その先は御幸町で、左側に割烹旅館・竹平楼(たけへいろう)がある。
門の右側には、「明治天皇御聖蹟」の石柱が建っている。
門を入った玄関脇には、明治天皇が休憩した説明板が掲げられている。
説明板「史蹟」
「 明治天皇 明治十一年北陸東山御巡行の際、
十月十二日及び同月二十一日の両度にわたり、当邸に御小憩あらせられた。
當時の御座所は、平屋建瓦葺で八畳の間に六畳二間を連接し、
今尚よく舊規(きゅうき)を存している。
竹平楼 」
(補足) 竹平楼は、宝暦八年(1758)、初代平八が「竹の子屋」の屋号で、
旅籠を営んだことに始まり、四代目平八の時に竹平楼と改めた。
明治十一年(1878)の明治天皇北陸東山道巡幸には、
侍従長の岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟等が随行した。
二百四十五年の歴史がある老舗で、建物は文化庁登録有形文化財である。
鯉のあめ煮が名物である。
この先で愛知川宿は終わる。
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愛知川宿 滋賀県愛荘町中宿 近江鉄道愛知川駅下車。
(所要時間)
高宮宿 → (1時間30分) → 伊藤忠兵衛生家→ (1時間) →愛知川宿 → (3時間) →
武佐宿