高宮は、古代から「高宮郷」として開けた土地で、
戦国時代には市場も立ったというところである。
江戸時代には、多賀神社の門前町として、麻織物の産地として全国に知られ
宿内には名産高宮布を扱う問屋や小売店が軒を連ね,、大いに賑わった、という。
天保十四年(1843)編纂の中山道宿村大概帳には、高宮宿の長さは十五町二十三間(約1.6km)で、 家数は835軒、宿内人口3560人、
本陣1、脇本陣2、問屋場1、旅籠23軒と、あり、
中山道で、本庄宿に次ぐ二番目に大きい宿場であった。
◎ 鳥居本宿から高宮宿
鳥居本宿から高宮宿までは約六キロの距離である。
鳥居本宿の南、彦根道の追分道標から、少し歩くと、道の両側から家がなくなる。
水を張った田圃が一面に広がり、植えられたばかりの稲がうつくしい。
左は山が迫り、名神高速道路、右側の田圃の彼方には新幹線が見える。
道は車一台分の狭さなのに、車が入ってくるので、ところどころで待避し、
すれ違うという形になり、危険きわまりない。
近江路の中山道は、これから先、車が走る生活道路になっているので、
このようなことがしばしばあった。
小野集落(旧小野村)に入ると、左側に 「ここは彦根市小野町」 と書かれた木標が建っている。
土石流危険渓流の小野川を渡り、小野川に沿って進むと、集落がある。
彦根インターから近いという感じを抱かせない古いただづまいを漂わせた集落である。
古い家もある。 左側に、小野こまち会館がある。
地元では、「 小野集落が、小野小町の出生地 」 といいます。
「 小野村は、中世の東山道時代、宿駅であったことから、古宿
(ふるじゅく)と呼ばれました。
小野小町は、六歌仙の一人で、絶世の美女として知られる。
地元に伝わる、郷土芸能・小野町太鼓踊りの中には、 小野小町が謡われており、
この地を誕生地とする伝承が今に残っている。
奥州出羽国の小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、
ここで生後間もない女児に出会った。
美実は、この女児を養女にもらい受け、出羽國へ連れて行きました。
この女児が小町といいます。 」
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道の脇には小川が流れていて、花ショウブの色が鮮やかであった。
本町の池上家は江戸初期まで当地で、代々神授小町丸という赤玉の丸薬を、
製造販売していました。
同家に伝わる宝伝記には、「病気になった小野小町が薬神から授かって快気した薬
を池上家が譲り受けた。」と記されている。
向いの奥に、浄土真宗本願寺派の寶法山安立寺(あんりゅうじ)がある。
慶長六年(1601)に開基という寺院で、山門は鐘楼門であるが、形が変則で、
おもしろいと思った。
集落の外れの左側に地蔵祠がある。
小野は小さな集落なので、あっという間に終わった。
集落を抜けた右側に、八幡神社の参道口があり、八幡神社の大きな石標と、
対の常夜燈がある。
「 社殿はJR東海道新幹線高架をくぐった先に鎮座している。
創建年代は明らかではないが、寛文十二年(1672)銘の鯉口を残している。
現在の本殿は、天保八年(1837)の建立。
檜皮葺一間社流造の構造で、屋根には千鳥破風、軒には唐破風が付き、
組物の間には十二支の彫物が施されている。
当地に伝わる、市指定無形民俗文化財の郷土芸能「小野町太鼓踊り」が奉納されるが、
お囃子には小野小町が謡われている。 」
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集落を過ぎると、人の気配もない寂しいところにでた。
しばらく進むと左側の道脇に、六地蔵祠があり、
この地方特有の地蔵尊が安置されている。
すぐ先の左側の地蔵堂には、十五世紀後半頃に造立された、小野地蔵が安置されている。
(注)小生が訪問後、地蔵堂は建て替えられ、「小野塚」の石碑も建てられた。
「 小町地蔵は、全高1.25mの自然石に、 阿弥陀如来座像が浮彫りにされ、両側面にも彫り込まれている。 」
明治中期頃まで、この辺りに小野前茶屋があり、多賀大社の参詣者で賑わった
という。
JR東海道新幹線のガードをくぐると、緩い下り坂になり、原町に入る。
右に入る小路の辺りに、江戸から百十九里目の原村一里塚があり、
両塚には榎が植えられていたが、標識等はなく、確認はできなかった。
その先左側に、「かくみや醤油」 の看板を掲げた家がある。
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その先には、原八幡宮参拝口の鳥居がある。
「 原八幡神社は、應神天皇を祀り、
本殿は一間社流造り、間口五尺、奥行四尺で覆屋内に鎮座している。
聖徳太子が物部守屋との戦いで勝利し、その時に被っていた兜が奉納されている。 」
鳥居の下に、「昼寝塚」と「白髪塚」の石柱があるので、鳥居をくぐって、神社に入る。
境内の左奥に、白髪塚と昼寝塚がある。
昼寝塚には、芭蕉の句碑があり、
「 ひるがほに ひるねせうもの とこのやま 」 と彫られて
いる。
説明板「ひるね塚」
「 俳聖・松尾芭蕉が、中山道を往来する旅人が夏の暑い日、
この涼しい境内地で、昼寝などしているつかのまの休息をしている「床」と
「鳥籠山・とこのやま 」 をかけて詠われたものと思われる。 」
左側の白髪塚には、祇川居士(ぎせんこじ) の句碑がある。
「 恥じながら 残す白髪や 秋の風 」
説明板「白髪塚」
「 聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦いの将士達をあわれみ、
蕉風四世・祇川居士(陸奥の人で、芭蕉の門人)が、 師の夏の句に対し、
秋を詠んだ句と思われる。 」
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中山道に戻る。
名神高速彦根ICの進入路の手前・右側緑地に、二基の石碑が建っている。
手前は天保十五年(1828)建立の 「天寧寺 五百らかん 江 七丁」 の石標、
奥は昭和二十九年(1954)建立の 「はらみち」 と、彫られた道標である。
「中山道 原町」 と、刻まれた新しい石標も建っている。
中山道は直進だが、ここを右折して北西へ一キロ行き、更に右へ三百メートル入ると
丘陵に曹洞宗萬年山天寧寺がある。
「 天寧寺は。十一代彦根藩主・井伊直中(なおなか)による創建で、
本堂は文化八年(1811)の建立である。
直中に仕える腰元・若竹が不義の子を身ごもったと知り、
激怒した直中はこれを手打ちにした。
後に、その不義の相手が自身の嫡子・直清であったことを知り、
深く嘆き、若竹と初孫の菩提を弔うために、天寧寺を建立して、手厚く供養した。
文政十一年(1828)建立の仏殿(羅漢堂)には、本尊の釈迦如来像・十大弟子像・
十六羅漢像。五百羅漢像の計五百二十七躯が安置されている。
五百羅漢像に詣でると、必ず、思慕する故人の面影を見い出せるといわれる。
境内に井伊直弼公供養塔がある。
大老であった井伊直弼は、江戸城桜田門外で暗殺された。
供養塔には、直弼が流した血が染みこんだ土や、
血染め衣装類を納めた四斗樽が埋められている。 」
中山道は名神高速のガードを二ケ所くぐる。
中山道と中濠東西通りが交差する正法寺町交差点手前の左側に、
多賀大社の常夜燈がある。
この常夜燈は、多賀神社東参詣近道のしるべとして、
多賀町中川原住人の野村善左衛門が発願し、
慶応三年(1867)二月、野村善七が建立寄進したものである。
この常夜燈の周りには、「是より多賀みち」 の道標の他、
近くの寺院の道標も置かれている。
正法寺町の交差点を横断し、進んでいくと、「県道528」「彦根市地蔵町」「彦根環状線」の標識があり、地蔵町に入る。
右手にせり出している感じの深い社叢があり、常夜灯と、「春日神社」の石標と、
鳥居がある。
「 春日神社は、地蔵町の鎮守で、由緒創祀年代等不詳である。
本殿は一間社流造りで、宇多天皇を祀っている。
奥深いところに社殿があり、名は分からないが、大きな木が聳えていた。
その前には溜池が有り、地蔵池という。 」
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フレンドマートを過ぎると、右奥に矢除地蔵堂がある。
地蔵菩薩と聖徳太子が祀られている。
この地蔵尊が地蔵町の地名由来になっている。
「 日本に仏教が渡来すると聖徳太子は庇護者となりました。
しかし、聖徳太子は仏教を排斥すべきとする物部守屋に追われ、この地に逃れ
身を隠しましたが、ついに発見され太子は矢を射かけられました。
すると、金色に輝く地蔵菩薩が現れ、敵方を撃退し、後には右肩に矢が射込まれ、
血の流れた跡がある、小さな地蔵が立っていました。
これが、聖徳太子を救った矢除地蔵です。 」
信号交差点左の手前に、「金毘羅大権現是ヨリ十丁」 の道標がある。
大堀町に入ると、左側に標高150mの大堀山あり、芹川の橋に着く。
左側の小山は大堀山という名だが、鳥籠山(とこのやま) という説があり、
そばを流れる芹川は、万葉時代には不知哉川(いさやがわ)と呼ばれた。
芹川に架かる大堀橋手前の左下に、万葉歌碑が建っている。
「 犬上の 鳥籠の山なる 不知也川 不知とを聞こせ わが名
告(の)らすな 」 (万葉集巻十一・2710)
「 淡海(おうみ)路の 鳥籠の山なる 不知哉川 日のころごろは 恋つつ
もあらむ 」 (万葉集巻四・487)
上記の歌は、不知哉川を読んだものである。
芹川を大堀橋で渡る。 往時は徒歩渡しでした。
大堀交差点を横断すると右手の丘が旭森公園である。
公園前に、「中山道旧跡床の山」 の石碑がある。
側面に、芭蕉の句 「ひるがおに 昼ねせうもの 床の山」 が、刻まれている。
もう一面には、「鳥籠山につきましては、往々異説がありますが、
旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立しました。」 と、刻まれている。
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次いで、右側に地蔵堂がある。
亀甲山の斜面に、多数の地蔵尊が祀られていて、
色どりのよだれかけが印象的だった。
数歩歩くと、右側に常夜燈があり、
左側には 「 是より多賀みち 二丁」 の道標がある。
多賀みちとは、多賀神社(多賀大社)への参道である。
「
多賀神社の歴史は古く、 和銅五年に撰上された古事記に、 「 伊邪那岐大神は
淡海の多賀に座す 」 とあり、それ以前にあったと思われる古い神社である。
伊勢参拝が盛になった江戸後期には、「 お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀様
へは月詣り 」 と謡われ、お伊勢さんの帰りには、ここへ立ち寄る人が多かった
。
前述の俗謡は、伊勢神宮の祭神が天照大神、多賀神社の祭神は天照大神の親にあたる、
伊邪那岐神であることから、出ている。
昭和二十二年、それまでの「多賀神社」から、「多賀大社」に改称した。
多賀神社では、八月三日〜五日の午後七時〜十時、万灯祭が行われる。
写真は数年前の八月三日に訪れたときのものである。
提灯に寄進者の名が記されているが、芸能人の名もあった。
夜までいなかった
ので、提灯に照らされる幻想的な風景には出会えなかったが、
すごいスケールのものだと、感心した思い出がある。 」
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道の右側に「石清水神社」の石柱と大きい常夜燈が建っている。
説明板「石清水神社」
「 石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する石清水神社は、
古く飛鳥時代から、この地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、
また、安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。
祭神の神功皇后は、応神天皇を胎内に宿しながら、三韓との戦いに出陣、
肥後国(佐賀、長崎県)松浦で、無事安産されたといういわれから
安産祈願「鈴の緒」を拝受する人が多い。
本殿の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築。
大祭は春(4月)秋(10月)である。
大堀町史跡顕彰委員会 」
石段の途中に、「能楽の扇」 を埋めたといわれる扇塚がある。
説明板「扇塚」
「 能楽喜多流(北流)は、江戸時代の井伊藩の手厚い保護を受け、
この地で発展した。
9代目家元・健志斎古能(号湖遊)は、隠居したのち、数年間彦根にいて
多くの門人の育成と能楽の発展に力を尽くした。
いよいよ彦根を去り、江戸に帰るとき、門人たちの所望に応じて、
記念に「 面と扇」 をあたえた。
その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を建てた。
もともと一対だったとおもわれるが、面塚の行方は わからない。
右側面 享和元年(1801)酉夏 喜多古能
左側面 豊かなる時に あふぎのしるしとして ここにもきたの名を残しおく
大堀町史跡顕彰委員会 」
神社の駐車場に、鉄板で蓋をされたコンクリートの丸い井戸がある。
説明板「かどや」跡地と井戸の由来」
「 石清水神社前に、「かどや」という 「お休み処」 があった。
およそ200年前に建てられ、用材は欅を「チョンノ」(鉋かんなの一種)で削り、
くぎは使われていない。
内部は幾組もの客が休憩できるように多くの小部屋に分かれていた。
井戸は岩を掘り下げて、井戸側はなく、岩の間からにじみ出た水で
文字どうり「石清水」であった。
江戸時代、旅人達が、この石清水を沸かしたお茶で喉を潤し、
一夜の宿で旅の疲れを休めた。 」
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街道を進むと、右側に、浄土真宗本願寺派の鳥籠山唯称寺がある。
説明板「鳥籠山唯称寺(ちょうろうざんゆいしょうじ)」
「 室町時代以前は、天台宗で唯称庵と呼ばれていたが、
室町時代の永正年間(1504〜21)に改宗、浄土真宗の末寺となり、
唯称寺と改まる。
寛永二年(1625)に火災により、本堂・庫裏焼失するも、
元文弐年(1737)に、第7世・釈浄航によって再建され、今日に至る。
開基は相州南湖村(神奈川県)の出身で、俗名山下、通称次郎輔正義と名乗り、真宗に帰依し、山科御本廟修復の際、自ら陣頭に立ち、工事にあたった、
その功績によって、蓮如上人より、「六字名号」と法名「釈浄休」を賜る。
後に、この地で、真言安心の法義を説き、唯称寺弟一世住職となる。
現在は弟15世釈道彦である。
当寺には、彦根市指定文化財の絹本着色浄土変相図と、
刺繍阿弥陀来迎図の二幅の軸がある。 」
先に進むと右側の角に、「右彦根道 左すぐ中山道」の道標があり、
この道を進むと彦根口に出る。
その先の右側に大堀家地蔵堂がある。
「 建久元年(1190) 上洛する源頼朝は芹川の渡しあたりで 体調を崩し、久我弥九郎宅(現大堀家)で療養し、病平癒を願い、地蔵菩薩祈願 の壇を築いたといわれる。 」
近江鉄道本線踏切手前の右側に、多賀大社常夜燈と、中山道道標 が建っている。
古い石柱に、「中山道高宮宿」とあり、横の木板に「←高宮の街 鳥居本町→」とあるのが、中山道道標である。
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◎ 高宮宿 (たかみやしゅく)
近江鉄道の踏み切りの手前にある「中山道 高宮宿」の石柱あたりが、 高宮宿の江戸方(東)入口である。
「
高宮宿は、犬上川の右岸に位置し、古代から「高宮郷」として開けた土地で、
戦国時代には市場も立ったというところである。
江戸時代に入ると、多賀神社の門前町として参詣者を集めただけでなく、
麻織物の産地として全国に知られ
宿内には名産高宮布を扱う問屋や小売店が軒を連ね、大いに賑わった。
天保十四年(1843)編纂の中山道宿村大概帳には、と高宮宿の長さは十五町二十三間
(約1.6km)、家数は835軒、宿内人口3560人(男1755人、女1805人)、
本陣1、脇本陣2、問屋場1、旅籠23軒と、しるされている。
中山道では本庄宿に次ぐ二番目の大きい宿場であった。 」
近江鉄道本線を中仙道踏切で横断すると、高宮町大北交差点に出る。
右はJR東海道本線南彦根駅、左は近江鉄道本線高宮駅で、中山道は直進する。
交差点を横断すると,、右側に明治三十三年(1900)造立の 「大北の地蔵尊」 が祀られている。
説明板「木之本分身地蔵(大北の地蔵さん)」
「 お地蔵様は石造が一般的であるが、この大北地蔵は、めずらしく木彫りに
彩色されたものである。
側には明治三十三年四月の記で、「木之本分身地蔵菩薩」 と、書かれた石柱があり、
木之本の淨信寺にある、眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれている。
しかし、その由来等についての古文書は残念ながら不明である。
高宮街づくり委員会 」
この先には古い家並みが続いている。
右側には高宮神社がある。
「 高宮神社は、鎌倉時代中期に建てられたと伝えられる古い神社である。
古くは十禅師宮とか、山王権現と呼ばれた。
明治五年に現在の高宮神社と改称された。
本殿は延宝六年(1678)の建立、随身門は嘉永二年(1849)のものである。
高宮神社の春期例大祭は、高宮の太鼓祭として知られ、毎年四月に行われる。
高宮十七町より、一町が神輿、八町が太鼓、全町が鉦(かね)を繰り出す。
なかでも、胴回り6メートルの大太鼓は圧巻です。 」
随神門横の笠砂園に、嘉永三年(1850)建立の芭蕉句碑が建っている。
「 をりをりに 伊吹を見てや 冬籠 」
(句の意味) ここで冬を迎える為、雪囲いを立て、風除けを作って冬籠り(ふゆごもり)
をしました。
「 この句は、芭蕉四十八歳の時、伊吹山麓にあった、 大垣藩士で門人の宮崎千用(せんよう)宅に立ち寄った時に詠んだ句である。 」
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神社の前の建物は、高宮布の問屋であった、 旧布惣 (ぬのそう、現、座・楽庵) である。
説明板「高宮布の布惣跡」
「 高宮布は、高宮の周辺で産出された麻布のことで、
室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。
高宮細美(さいみ)とも、近江上布(じょうふ)とも呼ばれ、
江戸時代になってからも、高宮はますます麻布の集散地として栄えました。
布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、
それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。
現在、五つの蔵が残っており、当時の高宮嶋の看板も現存しています。 」
このあたりは宮町、次いて、高橋町の表示にかわった。 古い家並みが残っている。
歩いて行くと、正面に滋賀銀行、そして、左に鳥居が見えた。
手前の右側に、提灯を製造販売している馬場提灯店があり、
「中山道高宮宿」と描かれた提灯を店先に掲げている。
店頭の提灯がいろいろな色彩や形でおもしろかった。
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高宮宿のほぼ中央部・高宮鳥居前交差点の左(東)へまっすぐのびている道
は多賀大社への表参道である。
多賀道と呼ばれ、中山道との角に、多賀大社の大鳥居が聳えている。
鳥居は高さ十一米、 柱の直径一.二米、柱間八米という大きさの石造鳥居である。
説明板「多賀大社鳥居(一の鳥居)」滋賀県指定有形文化財(昭和40年8月9日指定)
「 多賀大社から西方約四キロメートルの表参道の面して位置する石造明神鳥居
は、同社の旧境界域を示している。
多賀大社の創立は、奈良時代に完成した
「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。
一の鳥居は、社蔵文書に、「寛永十二年三月鳥居着工」 の記述があり、
社殿が元和元年(1615)の火災の後、寛永年間に造営されているので、
この時に建立されたものと考えられる。
この鳥居は、円柱を内転びに建て、頂上に反り返り付きの島木と
その上に笠木をのせ、やや下がったところに、貫を通して、
中央に額束を据える明神鳥居形式で、現存する鳥居の中で最も多い形式の一つである。
県下の石造鳥居としては、構成する部材は太く、均整がとれて古式を示し、また、
最大のものであって、建立年次が明らかな点で貴重な遺構である。
平成十三年三月 滋賀県教育委員会 」
「木曽路名所図会」にも、一の鳥居の姿が載せられており、寛永十二年(1635)
に建立されたものであることはまちがいないだろう。
傍らには、 「 是より多賀みち 」 と、刻まれた道標がある。
また、尚白の句碑が建っている。
「 みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな 」
尚白は、松尾芭蕉の弟子で、大津の医師のようである。
鳥居をくぐった右側には、大きな常夜燈があり、
常夜燈の背には、石階段が設置されていて、灯火を入れにゆくためと思うが、
めずらしいと思った。
鳥居から多賀道を少し入った右側に、妙蓮寺がある。
「 初めは天台宗であったが、教如(真宗大谷派初代門跡)が、関東からの帰途、
関ヶ原で石田三成に阻まれ、危機に瀕していたところを、道場の信者に保護された。
その恩賞として、慶長十六年(1611)道場から寺院にとりたてられた、と伝えられる。
本堂は文教三年(1820)の建立で、敷地は広い。 」
鳥居から少し歩いた右側の小林家住宅前に、 「俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚」 の石碑が
建っている。
松尾芭蕉は、貞享元年(1684)の冬、寺に泊まる予定であったが、
予定が変わり、縁あって 現在、小林家が住んでおられる家に一泊した。
説明板「芭蕉の紙子塚」
「 たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 」
貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、
自分が横になっている姿の絵を描いて、この句を詠んだ。
紙子とは、紙で作った衣服のこと。
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り、古い紙子を収めて紙子塚と名付けた。
高宮街づくり委員会 」
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紙子塚の少し先、円照寺の手前にある、やや小ぶりの連子格子の家が、 塩谷脇本陣跡である。
説明板「脇本陣跡」
「 江戸時代高宮宿には、二軒の脇本陣があり、その一つがこの地におかれた。
門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244uであったという。
門前は、領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。
ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり、
慶長十三年(1608)からは人馬の継立・休泊・飛脚・街道の維持管理を
行う問屋を兼ねており、問屋場とも呼ばれていた。
高宮街づくり委員会 」
すぐ先の左側には旧本陣の小林家で、表門のみが遺構として残っている。
住居の隣は貸駐車場になっていたので、広さは実感できた。
説明板「本陣跡」
「 江戸時代の参勤交代により、
大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。
構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・
奥書院・上段の間と、連続した間取りであった。
高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396uであったという。 現在では表門
のみが遺存されている。
高宮街づくり委員会 」
向いに、明治天皇が宿泊されたという、円照寺がある。
正式名は、浄土真宗本願寺派三光山円照寺。
山門前に、明治天皇行在所聖跡碑がある。
説明板「円照寺」
「 明應七年(1498)、高宮氏の重臣・北川九兵衛が剃度して、釈明道となり、
仏堂を建立したのが起源。
元文五年(1740)には、火災で本堂は焼失したが、九年の歳月を費やし再建された。
境内には、明治天皇ゆかりの 「止鑾松 」と呼ばれる、
松の木(二代目)や、老紅梅の垣の中に、徳川家康が腰掛けたとされる、「家康腰懸石」 がある。
高宮街づくり委員会 」
「止鑾松(しらんのまつ)」
「 明治天皇が、北陸東山御巡行帰途の明治11年11月11日に、
円照寺に宿泊された。
ところが、松の木が邪魔して乗り物が通れなくなり、
木を切ることになった。
その時、住職が松の木の命を惜しんで抵抗したので、天皇にお伺いを立てると、
「歩くことなどいとわない」 と返事され、その前で乗り物を止め、
御座所まで歩かれた。
住職は、この松が天皇の乗り物の 鑾(らん) を止めたので
止鑾松と名付けた。 現在の松は二代目である。 」
「家康腰懸石」
「 境内には、家康が元和元年(1615)大阪夏の陣に向かう途中、このお寺に寄り、
腰を下ろしたといわれる腰懸石がある。
小さな石で、名石でもなんでもないが、家康が偶然座ったことで、
今日まであるのは偶然といえば偶然と思った。 」
もう一つあった脇本陣は、この先にあったようだが、
どこかなのか確認できなかった。
この先で、高宮宿は終わる。
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高宮宿 滋賀県彦根市高宮町 近江鉄道高宮駅下車。
(所要時間)
鳥居本宿 → (1時間) →小野集落 → (1時間) → 高宮宿 → (2時間30分) → 愛知川宿