鳥居本宿(とりいもとしゅく)は、
下矢倉村境から小野村境までの十三町(約1.4km)であった。
天保十四年(1843)編纂の中山道宿村大概帳によると、家数は293軒、宿内人口1448人、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠35軒とある。
旅籠の数は三十五軒で、近江路では最大であった。
番場宿と鳥居本宿の間に、磨針峠があり、登りつめると、眼下に琵琶湖が一望できる。
ここに建つ望湖堂は、彦根藩が建てた公式接待所で、朝鮮通信使・公家・大名を始め、
明治天皇や皇女和宮が休憩された茶屋本陣であった。 、
◎ 磨針峠
番場を出ると、道は緩やかな坂道になる。
小摺針の入口には二、三戸の家がある。
中山道は、名神高速道路工事時に壊されて、今はない。
名神高速道路に沿って付けられた道を歩いていく。
上り坂をグングン進むと、名神高速道路の米原トンネルの上になる。
ここが標高197mの小摺針峠の頂上である。
ここは、米原市と彦根市の境でもある。
左側の金網越しに、名神高速道路を走る車が見える。
下りになると右側に小さな祠(地蔵堂)と、泰平水という、湧き水があり、
旅人の道中安全を見守り、喉を潤してきた。
左右にうねる下り坂を進むとと三叉路で、ここを右折する。
この分岐点には、新しい道標「右 中山道」「左 中山道」と、古い道標があり、
古い道標の正面に 「摺針峠 彦根」、左面に 「番場 醒井」、
右面に「中山道 鳥居本」と刻まれている。
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三叉路は右に行く道は広く、左は狭い。
分岐点からは再び上り坂になり、右側に、江戸より百十八里目の
「磨針一里塚跡」 の標石がある。
数軒ある集落に入ると上り勾配は更に強くなる。
左側にあるのは、、正徳元年(1711) 開基の浄土真宗本願寺派平野山称名寺である。
参道口に地蔵堂がある。
更に上っていくと、道が少し険しくなった所で、
左の小高いところに民家と鳥居もある。
鳥居の前を通過するが、ここが標高百八十メートルの摺(磨)針峠
(すりはりとうげ)の頂上である。
鳥居は、神明宮(摺針大明神)のもので、摺針峠の地名の由来になった老婆を祀っている。
「 摺針峠の由来 」
「 その昔、諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになって、
この峠を通りかかったとき、 大切な一本の針を折ってしまったので、
石で斧を摺(す)って、針にしようとしている老婆を見て、
老婆の苦労に比べたら、自分の修行はまだまだ甘かったことを悟り、
心を入れ替えて修行した。
青年僧はのちの弘法大師である。
弘法大師は、その後再び、峠を訪れ、摺針大明神宮に、栃餅を供え、杉の若木を植え、
「 道はなお学ぶることの難からむ 斧を針とせし人もこそあれ 」 と、
呼んだと伝えられます。
この後、この峠は摺(磨)針峠と呼ばれるようになりました。 」
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鳥居の右脇に、復元された望湖堂が建っている。
その前に、 「明治天皇磨針峠御小休所」 の石柱が建っている。
「 望湖堂は、彦根藩が建てた公式接待所である。
朝鮮通信使・公家・大名を始め、
明治天皇や皇女和宮が休憩された茶屋本陣である。
望湖堂の名は、朝鮮通信使の一員真狂(しんきょう)の揮毫した書に由来する。 」
説明板 「望湖堂跡」
「 江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。
峠に行き交う旅人はここで絶景を楽しみながら、「するはり餅」 に舌鼓を打った。
参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も、当所に立ち寄っており、
茶屋といいながら、建物は本陣構えで、「御小休本陣」 と自称するほどであった。
その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿、番場宿の本陣が、寛政七年(1795)八月、
奉行宛てに連署で、望湖堂の本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも、
推測される。
この望湖堂は、往時の姿をよく留め、
参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、
近年の火災(平成三年1991年)で、焼失してしまったのが惜しまれる。 」
摺針峠には、立場茶屋が多くあって、するはり餅が名物だった。
広重の描いた木曽海道六十九次「鳥居本宿」にも、中山道の絶景の一つとして、
摺針峠が描かれている。
遠くに琵琶湖、手前には立派な茶屋の建物が描かれていて、
旅人が 「するはり餅」 を頬ばりながら、眼下の風景を楽しんでいる図である。
当日は湖面にもやがあり、竹生島などを見ることができなかった。
「 摺針峠は、琵琶湖から約百五十メートルの高さにあり、
琵琶湖・彦根を見下ろす絶景の地として、江戸時代のほとんどの案内記に記述がある。
「近江輿地志略」 には 「 眼前好風景なり。 山を巡て湖水あり。 島あり。 船あり。 遠村あり。 竹生島は乾の方に見ゆる。 画にもかかまほしき景色なり。 」 とある。
「木曽路名所図会」 には、「 此嶺(みね)の茶店より見下せば眼下に、磯崎・
筑摩の祠(やしろ)・朝妻の里・長浜、はるかに向ふを見れば、竹生嶋・奥嶋(おき
のしま)・多景嶋(たけしま) 、・・
湖水洋々たる中に、行きかふ船見へて、風色の美観なり 」 と著されている。 」
神明宮の鳥居の上には、森があり、その中に小さなお堂があるので御参りに寄る。
鳥居をくぐり、石段を登って行くと、 石段途中に、「弘法大師のお手植え杉」
と刻まれた石標がある。
千二百年生き永らえた古杉だったが、落雷により切り倒されたようで、
周囲が八米にも及ぶ大きな切り口だけが残っていた。
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神明宮(摺針大明神)の社殿は、祠程度の大きさであった。
お祈りを済ませ、坂道を下ると、先程分岐した車道に合流する。
ここが摺針峠西口である。
峠からの下りは曲がりくねったかなり急な坂道の車道である。
車道を下る方法もあるが、旧道が最近整備された。
右に大きく下ると左手に落石注意、動物注意の交通標識がある。
その先の左側に、「旧中山道・鳥居本宿」 の木製案内板が建っていて、
青い手摺りの付いた石段を下ると、車道に合流するので、左に進む。
すぐ先右の土道に入る。
ここには、木柱の中山道道標がある。
車道は大きくUターンするが、旧道はこれをショートカットして、
直線的に下る。
急坂を下り、小さな木橋、次いで、丸太橋を渡ると竹林になる。
摺針中継ポンプ場脇を抜けると、右手に国道8号線が見えてくる。
ここでは国道に出ず、摺針峠からの車道を横断する。
分岐点には、中山道の道標がある。
横断すると下矢倉旧道である。
この旧道はすぐ矢倉川に突当り、この先は通行不可なので、
川に突き当たったところで、少し戻るようにして国道に出る。
この分岐点には、「右中山道 摺針 番場 下矢倉町」の石柱道標がある。
鳥居本宿までは二キロ弱である。
国道8号線は江戸時代の北国街道で、
長浜を経て越前へ向かう道である。
大型トラックや乗用車などがびゅうびゅう飛ばしていき、道の向こうには新幹線も見える。
国道を彦根方面に歩き、矢倉川を渡る。
中山道は橋を渡ると左側に、 「右中山道」 の石柱道標があるので、
三叉路で左斜めの道に入っていく。
ここが鳥居本東口である。
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◎ 鳥居本宿
旧道に入ると左側に大きな石柱が三本立っていて、
正面の石柱には、「 おいでやす 彦根市へ 」 と刻まれ、
各々の石柱の上には、近江商人・旅人・虚無僧の像が乗っている。
京方面側には、「 またおいでやす 」 と刻まれている。
道の右手を見ると、松並木の松が二本あり、
左側に、「 彦根八景旅しぐれ 中山道松並木(平成7年5月1日制定) 」
の看板があるが、それはおおげさで、松は若く、本数も少ない。
右側に、「中山道 鳥居本町」 の標石が建っている。
この辺りが、鳥居本宿の江戸方(東)の入口である。
「 鳥居本宿は、下矢倉村境から小野村境までの十三町(約1400m)で、 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には、 家数は293軒、宿内人口1448人(男726人、 女722人)、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠35軒と、記されている。 」
鳥居本町に入ると、古い建物が増える。
左側に卯建を上げた虫籠窓を残している旧家がある。
左側に茅葺きの旧家があり、「棒屋跡」 の木札を掲げている。
農耕具等の棒柄の製作や修理を生業にしていた家である。
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街道を少し歩くと道が左にカーブしているところにきた。
その左側にある家は白い漆喰の格子のある家で、かなり古いのではと思った。
「
中山道開設当初は、西隣にある東山道以来の宿場(小野村)でした。
彦根城が完成し、城下に通じる街道が開通すると、宿場が小野村から鳥居本村に移され、
鳥居本宿が誕生した。
朝鮮人街道や北国街道の追分と、近くに彦根藩があったことから、
旅籠の数は三十五軒と、近江路では最大であった。
琵琶湖と伊吹山の影響で、雨が多く、また、関ヶ原に抜ける山道に差し掛かる場所だった
ことも、宿泊者が多かった一因である。
鳥居本の地名は、かつて宿内にあった、多賀大社の鳥居に由来する。
鳥居本宿の名物は、赤玉・西瓜・合羽(柿渋の赤)は、三赤(さんあか)といわれた。 」
少し行くと枡形になり、右に大きくカーブした右側に 万治元年(1658)創業の赤玉神教丸の有川薬局がある。
説明板「赤玉神教丸本舗」
「 万治元年(1658) 創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。
有川家の先祖は、磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、
有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、
有川姓を名乗るようになりました。
近江名所図会に描かれたように、店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は
競って、赤玉神教丸を買い求めました。
現在の建物は、宝暦年間(1751〜1764)に建てられたもので、
右手の建物は、明治十一年(1878) 明治天皇北陸巡幸の時に増築され、
ご休憩所となりました。
彦根市指定文化財 」
店内に入ると赤玉神教丸が並べられている。
「続膝栗毛」 の 弥次さん喜多さんは
ここに立ち寄り、
狂歌 「 もろもろの 病の毒を 消すとかや この赤玉の 珊瑚珠(さんごじゅ)の色 」
と捻っている。
江戸後期の道中案内である 「 木曾路名所図会 」 に、
「 此駅の名物神教丸、 俗に鳥居本赤玉という。 此店多し ・・・ 」
と書かれている。
赤玉は、直径六ミリほどの丸薬で、腹痛や下痢止め薬で、一回十五粒を
服用するものだが、三百年以上も前から作っていたという記録が残る。 」
建物右側の門は、本陣門に匹敵する立派な門である。
門の前に、 「明治天皇鳥居本御小休所」 の石碑があり、
右手の建物は、明治十一年(1878) 明治天皇北陸巡幸の際に増築され、
休息所となりました。
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有川家の左横から、真直ぐ路地に入ると、国道を渡った所に、上品寺の鐘楼がある。
説明板 「上品寺と法海坊」
「 古くは天台宗に属していましたが、明暦二年(1651) 浄土真宗本願寺派になりました
。
鐘楼に吊られている鐘は、七代の了海(法海坊) が、
江戸市中を托鉢して作ったもので、
周囲には新吉原の遊女・花里・花緑姉妹 等、協力した人々の名前が刻まれています。
了海の托鉢の様子は、歌舞伎のモデルにある程有名で、
第二次世界大戦でも供出されることはありませんでした。 」
街道に戻ると、旧商家が多数残されている。
左側に、旅籠米屋跡がある。
説明板 「湖東焼自然斎旧宅」
「 江戸時代、米屋という屋号の旅籠で、ここに住む岩根治右衛門は若い頃より
井伊直弼の絵の師匠である中島安泰に学び、直弼から自分に自然であるように
と自燃斎(じねんさい)の号を賜り、絵付け師として精進してきました。
安政三年(1856)に、普請方の許可を得て、民間で湖東焼の絵付けを行っていましたが、
街道の往来が少なくなった明治初期に安曇川に移り、
明治十年(1877)に亡くなりました。
建物内にはかつての旅籠の風情を残しています。 」
右側に、合羽所木綿屋跡がある。
「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」 という合羽を形取った看板を、軒下に吊り下げている。
「 合羽(かっぱ)は、享保五年(1720)
馬場弥五郎が創業したことに始まる。
楮(こうぞ)を原料とした和紙に、柿渋を塗り込め、防水性を高めた合羽は、
人気が高く、鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が、
雨具として買い求め、文化文政年間(1804〜30)には、十五軒の合羽所があった。
天保三年(1832)創業の木綿屋は、鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、
江戸や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として、
大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していた。
合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存している。 」
大田南畝は壬戌紀行の中で 、「 此駅にまた雨つゝみの合羽ひさぐ家多し 」 と 記している。
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すぐ先の左側に、「中山道 鳥居本宿 本陣跡」 の木札が金網に掲げ られている。
「 鳥居本宿の本陣を代々勤めた寺村家は、
観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、
小野宿の本陣役を勤めました。
佐和山城落城後、小野宿は廃止され、鳥居本に宿場が移されると、
鳥居本宿本陣役となりました。
本陣屋敷の建坪は百三十七坪で、合計二百一畳もある広い屋敷でした。
明治になって、大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、
住居部分が、昭和十年(1935)頃、ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。
敷地内の倉庫の扉は、本陣門の門扉を流用したものです。 」
本陣の向いに、沢山脇本陣があったが、早くに消滅。
本陣跡の先の右手に、近江鉄道本線鳥居本駅がある。
この角の民家前辺りが高札場跡であるが、標識等はありません。
その向いが、鳥居本宿脇本陣跡である。
民家の庭に、「脇本陣跡」 の木札が置かれていた。
「 高橋家が脇本陣を勤め、問屋を兼ねました。 建坪は八十九坪でした。
残されている絵画によると、間口の左三分の一ほどに、塀があり、
その中央の棟門は、脇本陣の施設で、屋敷の南半分が人馬継立を行う問屋場で、
人足五十人、馬五十疋が常備されていました。 」
その先の左側に、文政八年(1825)創業の合羽所松屋がある。
合羽形の庵看板を掲げている。
ビニールやナイロンの出現により、鳥居本での合羽の製造は
1970年代に終焉し、今では看板のみが、産地の歴史を伝えている。
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南に向かって歩いていくと、信号交差点の右側に立派な常夜燈がある。
礎石の上に、木造の常夜燈が乗っていて、桧皮葺き屋根は唐破風の寺院造りで、
屋根中央には擬宝珠を乗せた見事なものである。
この交差点を右に入ると右側に、塞神社(さいのかみしゃ)がある。
道祖神であり男の神様で、縁結び・安産・夫婦和合に霊験あらたかといわれる。
このあたりには、漆喰壁の家や卯達を揚げた家が点在しており、
近江路で古い家が一番残っているところである。
交叉点の先の右側に、鳥居本宿交流館「さんあか」がある。
その先の右側には、紅殻塗りで虫籠窓の旧家があるが、元呉服屋である。
紅殻塗りの旧家が点在する中を進み、左側の彦根警察駐在所を過ぎると、
右側に、「長浜地蔵尊」 と大きく書いた、スチールハウスが建ち、
その中に小さな祠が祀られている。
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右側に、浄土真宗本願寺派洞泉山専宗寺がある。
「 文亀二年(1502)及び天文五年(1536)の裏書のある開祖仏
を有する古寺で、聖徳太子が開祖と伝えられている。
山門前に、「聖徳太子舊跡」 の石碑、境内には聖徳太子堂がある。
聖徳太子は、渡来の仏教を庇護し、布教したところから仏教の父と呼ばれました。
かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していたが、
寛永十七年(1640)に、洞泉山専宗寺と改め、その後この地に移転しました。
山門の右隣りに二階建ての太鼓門がある。
太鼓門の天井は、石田三成の居城であった佐和山城の遺構と伝わっています。 」
この先にも、卯建の上がった白漆喰の家がある。
彦根鳥居本郵便局を過ぎると、三叉路の右側に、大きな道標が建っている。
右側の道は彦根道で、まっすぐが中山道である。 ここは彦根への追分である。
道の角に、文政十年(1827)建立の道標 「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」 があり、
ここから彦根城下迄は約一里である。
「 彦根道は。二代目彦根藩主・井伊直孝の時代に、
中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されたもので、
彦根から近江八幡を経て野洲に至る街道である。
徳川家康が関ヶ原合戦に勝利し凱旋した街道で、その後の上洛に使用
されたところから上洛道と呼ばれ、参勤大名の通行は禁じられていた。
唯、一許された朝鮮通信使が通ったところから、
「朝鮮人街道」とか「朝鮮人来朝道」ととも呼ばれました。
朝鮮通信使は、永和元年(1375) 足利義満が派遣した日本国王使に対して、
李氏朝鮮が、 「信(よしみ)を通わす使者として」 派遣したのが始まりです。
秀吉の朝鮮征伐で朝鮮通信使の派遣は一時途絶えましたが、家康が修復し、
慶長十二年(1607)に再開し、江戸時代に十二回来日しています。 」
彦根道追分辺りは、鳥居本宿のもっとも南に位置する。
ここは百々村((どどむら)と呼ばれていた。
室町時代には百々氏の居館があり、江戸時代の記録では百々氏の祖・百々盛通の菩提寺、百々山本照寺が建立されていた。
彦根道追分の先で、鳥居本の街並みは終わり、鳥居本宿はここで終わりになる。
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鳥居本宿 滋賀県彦根市鳥居本町 近江鉄道鳥居本駅下車。
(所要時間)
番場宿 → (1時間20分) →摺針峠 → (40分 )→ 鳥居本宿
→ (2時間) → 高宮宿