名所訪問

「 中山道 番場宿 」  


かうんたぁ。


番場宿(ばんばしゅく) は、中山道の日本橋から62番目の宿場である。
番場宿の長さは七町三十七間で、 天保十四年(1843)編纂の「中山道宿村内大概帳」によると 、 人口808人(男389人、女419人)、家数178軒、本陣1、脇本陣1、問屋6、旅籠10軒と、 記されている。


◎  醒ヶ井宿から番場宿

JR醒ヶ井駅から、醒井宿の京方(西)入口に向う。<br> そこには、中央に「中山道醒井宿」 右側に「番場宿へ一里」と刻まれた道標が建っている。
ここから県道17号を枡形状に右折して進む。 
街道を進むと右側に「六軒茶屋跡」の木標が建っている。 

「 江戸時代には、六軒茶屋と呼ばれた茶屋があった。
六軒町は少し賑やかに民家が並んでいる。 
十年前までは松並木が一部残っていたようだが、今は見あたらない。 
また、昭和三十年頃までは茶屋だった六軒の茅葺建物が軒を連ねていたが、 今は一軒のみとなり、屋根は茅葺きからトタン葺きに変わっている。 」

説明板 「六軒茶屋」  
「 幕府の天領であった醒井宿は、享保九年(1724) 大和郡山領の飛び地となった。 
藩主・柳沢侯は、彦根領の枝折との境界を明示するため、  中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。 
この六軒茶屋は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。 」  

先に進むと、中山道は国道21号に吸収され、国道に歩道がないので、気を付けて歩く。 
少し進むと左側に小さな地蔵尊が祀られている。 
次いで右側に、「一類狐魂等衆碑」が建っている。 

「  江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、 一人の旅の老人が、「母親の乳が飲みたい・・・  」 と、つぶやいていた。 
人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い 「私の乳でよかったら」 と、自身の乳房をふくませてやりました。 
老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ 「有り難うございました、 本当の母親に会えたような気がします。」 といい、 「懐に七十両の金があるので貴方に差し上げます」 といい終わると、 母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生を遂げました。 
この母親は、お金は頂くことはできないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、 「一類狐魂等衆」 の碑を建て、供養したと伝えられています。  」  

醒井宿・番場道標      六軒茶屋跡      一類狐魂等衆碑
醒井宿・番場道標
六軒茶屋跡
一類狐魂等衆碑

丹生川(にゅうがわ)の丹生川橋を渡る。
橋の手前の右側に、「壬申の乱・横河の古戦場跡」 の説明板がある。 

説明板「壬申の乱・横河の古戦場跡」
「  壬申の乱は、天智天皇の死後、長子の大友皇子を擁する近江朝廷に対し、 吉野に籠っていた皇弟の大海人皇子が、皇位の継承をめぐり、 壬申の年(672)に起こした、わが国の歴史上最大の内乱です。  
七月七日 大海人皇子軍の本隊と大友皇子軍の本隊が、 初めて 息長(おきなが)横河で激突、激戦の末、大友皇子軍が敗れた古戦場跡です。  」  

中山道は河南交差点で、国道と分かれ、右斜めの道に入って行く。  
  この分岐点には、木製の 「中山道河南(かわなみ)」 の標識がある。 
先に進むと右側の覆屋の中に、地蔵堂が安置されている。  

すぐ先を左に入ると、真宗大谷派百寶山徳法寺がある。 
左側の地蔵堂を過ぎると、左側に茶屋道館いっぷく場がある。 

「  空家になった旧家を自治会が買い取り、当地の地名・茶屋道 と名付け、 歴史的資料を集めると共に、 中山道醒ケ井宿と番場宿の中間に位置するところから、 中山道散策者のいっぷく場として、中山道四百周年事業を記念して開館された施設である。 」

樋口集落には比較的古そうな家が点在している。 
江戸時代の樋口村は餡餅や饅頭が名物の立場だった。 
樋口交差点で国道と交差するが、中山道は直進する。 

地蔵堂      茶屋道館      樋口交差点
地蔵堂
(左側)茶屋道館
樋口交差点

狭い道に入っていくと三吉地区である。 
和佐川を越えると、左側の長屋門の先の右側に、真宗大谷派竹林山敬永寺がある。 

説明板
「  古くは天台宗でしたが、顕如上人の頃に改宗しました。 
寛文十三年(1673) 東本願寺宣如上人より、木仏御本尊を、後には一如上人より 親鸞聖人御影をそれぞれ下付されています。 」  

敬永寺角を左に入ると八幡神社がある。 
祭神は誉田別尊・素戔嗚命で、江戸時代は門根村の産土神であった。
中山道分間延絵図には、若宮八幡と記載されて いる。 
右側に、息郷(おきさと)簡易郵便局、次いで、 米原市米原地域福祉センターゆめホールをを過ぎると、 県道240号の三叉路に突き当たる。 
三吉分岐で、この分岐点には木製の中北道標がある。 
三吉分岐を右に行くと米原ICだが、中山道は左折する。
北陸高速道路の高架の下をくぐるとすぐ右折し、三叉路を左に進む。
左側の小公園を回り込む。 
小公園には、「中山道一里塚跡」 の大きな自然石の石碑と、 一本の木が植えられていて、手前に休憩ができるテーブルとベンチが置かれている。 

説明板 「久禮の一里塚」  
「 江戸へ約百十七里(459.5キロ)、 京三条へ約十九里(74.6キロ) 
江戸時代には三十六町を一里とし、一里毎道の両側に盛土して塚が築かれていました。 
川柳に、 「 くたびれた やつが見付ける 一里塚 」 とありますが、 旅人が腰を下ろして一息し憩の場としたことでしょう。 
久禮の一里塚には右側(の塚)にとねり木、左側(の塚)に榎が植えられていました。 
     平成七年七月     米原町史談会      」  

中山道は一里塚を回るように、右の細い道である。
車道を離れてそちらに入る。久礼(くれ)分岐である。 
街道沿いの左側に、「中山道久礼」 と記された木製標識がある。 

三吉分岐      久禮の一里塚跡      「中山道久礼」の標識
三吉分岐
久禮の一里塚跡
「中山道久礼」の標識


◎ 番場宿

右側には山が迫ってきていて、左右にくねくねと曲がりながら道が 続いている。 
このあたりは久礼集落で、道の両脇には家はあるが、数えられる程である。 
少し歩くと左側には家はなくなり、田畑が続く。 
高速道路が近づいてくる。 
樹齢百数十年のしだれ桜が街道の脇にあり、「今でも春になると見事な花を咲かせ 楽しませてくれる」  と、地元の人が話してくれた。 
一里塚から一キロ位か、人家が現れると、右側の水準点脇に、 手作り木製案内 「ここは番場宿です」 がある。 
ここが番場宿の東見付跡で、番場宿の江戸方(東)の入口である。 

広重は木曽海道六十九次の中で番場としてこの東見付から見た宿内を描いて いる。 
右側の郵便ポストのある家の壁に「中山道番場宿よ!!」と書かれた木標が ある。 
道が少し曲がっているところの右側に、「中山道番場宿問屋場跡」 の 新しい石標が、民家の低いブロック塀の上に乗っている。 
その先左にカーブしている右側民家の塀の前にも、  「中山道番場宿問屋場跡」 の石標が建っている。
少し歩くと車道が現れた。 
交差点右角の道標には、  「 米原 汽車 汽船道 」 と刻まれているので、 琵琶湖線 (現東海道線) が開通した、明治二十二年(1889)以降に、 建立されたものである。 

「 車道は、県道241号であるが、もともとは慶長年間に 開削された深坂道である。 
慶長年間に入り、北村源十郎が米原に湊を築くと、 中山道から米原へ通じる道が開削され、ここから米原へ出、 湖岸を大津や塩津まで、船便が使わうことができるようになった。 
これが深坂道である。 
現在は 道幅も広がり、中山道に代わり、米原へ通じる地元の生活道路になっている。 」

東見付跡      番場集落      米原道標
東見付跡
番場集落 
米原道標


交差点の右角に。ポケットパークがあり、「中山道番場宿」 の石碑と、 右側に、「中山道分間延絵図番場宿レリーフもあり、 そこは座って休憩できるようになっていた。 

「 番場宿は下町・仲町、・町の三町で構成されていた。
天保十四年(1843)の中山道宿村内大概帳には 、町並みは七町三十七間、 上下番場を合わせて、人口808人(男389人、女419人)、家数178軒、本陣1、脇本陣1、 問屋6、旅籠10軒であった。 」

このあたりは、宿場の中心の中町である。
中町は一町余りと、記録にあるので、百数十メートルという短さだったようである。 

「 慶長八年(1603) 、番場宿本陣を勤める北村源十郎は、 彦根藩の命により、琵琶湖に米原湊を築き、次いで、 同十六年(1611)  湊と中山道を結ぶ米原道を開削した。 
これにより、番場宿は、九里半街道の終点として大いに賑わった。 
大田南畝は、壬戌紀行の中で、「此駅にかっけ(脚気)の薬、あしのいたみに妙薬 などいへる看板多し」と著している。 」  

交叉点の先、右側の民家前に、「中山道番場宿脇本陣跡」 の標石が建っている。
隣の民家前に、「中山道番場宿問屋場跡」 の標石があるが、ここが脇本陣跡である。 

「 脇本陣は、高尾家が勤め、問屋を兼ねていて、 建坪は八十四坪でした。 」

そのまた隣の民家前に、「中山道番場宿本陣跡」、 その又隣の民家前に、 「中山道番場宿問屋場跡」と、 「明治天皇番場宿小休所」 の石碑、そのまた隣の民家前に、 「「中山道番場宿問屋場跡」の標石が並んでいる。 

「  北村家が本陣を勤め、問屋を兼ねました。 
本陣の建坪は百五十六坪、門構え玄関付きでした。 
本陣を勤めた北村源十郎が米原湊を開発しました。 」

街道を挟んで向かいの車庫脇に欠けてしまった、「中山道番場宿問屋場跡」 の標石 がある。 
番場宿の本陣・脇本陣・問屋場は、いずれも標石のみで、遺構は残されていない。 

最後の問屋場跡を過ぎると左奥に続く蓮華寺の参道口があり、 その左角に、「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」、 「瞼の母番場の忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場 蓮華寺」、 右角に「史跡 蓮華寺」の石柱が建っている。 

中山道番場宿碑      番場宿本陣跡      蓮華寺参道口
「中山道番場宿碑 分間絵図
番場宿本陣跡
蓮華寺参道口


◎ 蓮華寺

名神高速道の高架をくぐると、蓮華寺の勅使門(山門)がある。
勅使門の左側、参詣者入口前に石を敷き詰めた短くて小さな溝脇に、「血の川」  の立札が建っている。 

説明板「血の川」  
「 元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時公は、 北朝の天子・光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、 東国へ落ちのびるために中山道を下る途中 当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず、戦いに敗れ、 本堂前庭にて、四百三十余名自刃す。 
鮮血滴り流れて川の如し。 故に 「血の川」 と称す。 
時に元弘三年五月九日のことである。 」  

勅使門前の右側が駐車場で、参詣者は勅使門の左側の細道から入る。 
本堂の正面に掲げられている寺額「蓮華寺」は、後水尾天皇直筆の勅額で、 元禄五年十一月十六日御下賜されたものである。 
本堂の前に、「聖徳太子叡願の紅梅」 の立札があり、紅梅が咲いていた。 
隣に、「 一族の果てし自刃もかくあらん 紅梅散り敷く蓮華寺の庭  」 の立札 があった。 

「 蓮華寺は、千三百年前の昔(西暦655年)、 推古天皇の命により、聖徳太子が創建し、法隆寺 と称していたが、 建治二年(1276)雷火にかかり焼失した。 
鎌倉時代になり、弘安七年(1284)、 一向上人(法然上人の法曾孫)が、鎌刃城主・土岐三郎元頼の帰依を受け、 堂宇を再興し、八葉山蓮華寺と改称して、時宗一向派大本山として、隆盛しました。 
その後、幾多の変遷を経て、現在は浄土宗になっている。 」 

庫裏の前に、大きな斉藤茂吉の歌碑が建っている。  
  「  松風のおと聴く時はいにしえの 聖のごとく我は寂しむ  茂吉  」  
斉藤茂吉は、四十九世の和尚の門弟で、再三、寺に訪れたようである。 

本堂の右側に、重要文化財の宝篋印塔が一基建っている。 
これはこの寺の開基である、鎌刃城主(九万三千貫領主)土肥三郎元頼公の墓である。  

「 土岐元頼は、室町時代の武将で、土岐成頼の三男である。 
石丸利光に擁立され、明応三年(1494)、舟田の乱を起こし、 兄の九代守護となった土岐政房と対立して、翌年六月、政房と戦い、 加納城を包囲するが敗れ、明応五年(1496) 城田寺城を包囲され、自刃したと伝えられる。 」  

蓮華寺勅使門      蓮華寺本堂      土肥元頼の墓
蓮華寺勅使門
蓮華寺本堂
土肥元頼の墓

本堂右手の山道を少し登ると、北条仲時以下四百三十二人の五輪塔が整然と 並んでいて、見るものを圧倒させる。 

説明板「北条仲時公並に四百三十余名の墓」 
「 元弘三年五月七日(約六百三十余年前)、 京都合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時公は、 北朝の天子・光厳天皇・後伏見華園二上皇を奉じて、中仙道を下って、 番場の宿についた時、南朝軍の重囲に堕り、止むなく、玉輦を蓮華寺に移し、 大いに戦いたるも、衆寡敵せず、再び戦いに敗れ、 遂に本堂前庭に於て、仲時公以下随士四百三十余名悉く自釼す。 
時の住職・三代同阿上人深く同情し、鄭重に葬ひ、 その姓名と年令法名を一巻の過去帳に留め、更に、一々その墓を建立して、その冥福を弔ふ。 
その墓はこの奥にあり、過去帳は重要文化財として、宝物館に収蔵せられてゐる。
       米原教育委員会・菊華会      」

本堂に戻る。
蓮華寺の梵鐘は、銘文によると、 「 弘安七年(1284)に、 蓮華寺の二法師が諸檀家を廻って勧進し、大檀家道日(土肥三郎元頼)の援助を得て、 鋳造された。 」 というもので、国の重要文化財に指定されている。 
    本堂内部は立派で、厨子内に双像が安置され、 その裏にある宝物館には国重文の「陸波羅南北過去帳」、曼荼羅などが展示されている。
  本堂の裏には、浪花節などで有名になった、番場の忠太郎の地蔵が祀られている。 

「 戯曲「瞼の母」を書いた作家の長谷川伸が、 昭和三十三年に、「 南無帰命頂礼 親をたづぬる子には親を子をたづねる親には子をめぐり合わせ給へ 」 と、祈願して、建立された地蔵尊である。
愛知岡崎の成瀬大吉の製作。 
番場の忠太郎は、時代劇、母を訪ねての股旅もののヒロインで、 この宿場の旅籠のせがれという設定になっている。 
地蔵尊や墓まで建てられているので、実在の人物と思ったが、違っていた。 」  

再びガードをくぐって、中山道に戻る。
右側に、延宝六年(1678)の開基の真宗大谷派松風山法雲寺がある。 
その先を右に入ると、直孝神社がある。 
藩主、井伊直孝を慕って、寛永二十年に祭神として祀った神社である。 
街道を進むと左側に地蔵堂があり、その先の左側の路傍には二体の地蔵尊が 祀られている。 
ここには、 「←約2.0km 鎌刃城跡」 の標識があり、 その先に長く延びる道がある。 
  そのまま街道を進み、菜種川を渡ると、西番場に入る。 

四百三十余名の墓      蓮華寺梵鐘      菜種川
六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓
蓮華寺梵鐘
菜種川



◎ 西番場

渡り詰めの左側には、「鎌刃城跡 ここより3キロ」 の標識があり、 近くには、「鎌刃城跡」 の立派な説明板がある。 

説明板「鎌刃城跡」  
「 鎌刃城は、滋賀県坂田郡米原町番場の標高384mの山頂に位置する典型的な 戦国時代の山城です。 
ここは戦国時代、江北と江南の境目にあたることから 鎌刃城も、国境を警護する目的として、応仁の乱の頃には築城されていたようです。
城主・堀氏は、浅井氏の家臣でしたが、元亀元年(1570) 織田信長に与したため、 信長軍の最前線基地となります。 
このため、浅井長政や一向一揆勢に度々攻められ、 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉) の援軍によってかろうじて落城が食い止められています。
平成10年より実施された発掘調査で、門柱の礎石を伴う見事な枡形虎口(出入口)や、 御影の礎石をはじめ、中心部の周囲が高さ3mを越える石垣によって築かれていたことが、 明らかとなりました。  
   平成15年3月    米原町教育委員会   」 

緩やかな上り坂を進むと、右側に北野神社がある。 

「 寛平六年(894) 菅原道真が 布施名越両寺へ下向の折、当地に立寄った縁で、死後に祀られた。 
本殿は、三間社流造 軒唐破風付で、間口一間三尺、奥行一間三尺である。  」

参道口の向いに、「中山道 西番場」 の石碑がある。
碑には、「 古代東山道  江州馬場駅(うまや) 」と、刻まれている。 
東山道が通っていたころの馬場だった地名が、時代を経て、番場 と名を変えていったようである。

「 西番場は、古い東山道の時代から、交通の要衡にあり、 東山道の宿駅で、源義経も宿泊している。 
江戸時代には、上番場村だった。  戦国時代までは、鎌刃城の城下町としての機能も果たしていたともいわれる。 
米原に通じる深坂道が出来たことにより、 下番場村(東番場地区) に、 宿場が移された。 」 

鎌刃城跡説明板      北野神社      西番場碑
鎌刃城跡説明板
北野神社
西番場碑"

西番場集落は庭木が植えられた、落ち着いた雰囲気の家並があった。
西番場公民館の敷地内に地蔵堂がある。 
右側に浄土真宗本願寺派楓樹山本授寺がある。 
次いで右側に地蔵祠があり、自然石の地蔵尊が多数安置されている。 
白壁の土蔵と中二階入母屋造りの家は堂々としている。
中山道は、名神高速道路に沿って進む。
人家が途絶えると、左側に「中山道番場」の石碑があり、ここで番場宿は終わる。  

西番場集落      古い家      名神高速道路
西番場集落
古い家
名神高速道路

番場宿   滋賀県米原市番場    JR東海道本線米原駅タクシーで10分。 

(所要時間) 
 醒井宿 → (1時間) →番場宿 → (2時間) → 鳥居本宿 


(ご参考)  「 番場宿の歴史 」  
「 番場宿は東山道が通る交通の要衡として、 鎌倉時代には宿場の機能を果たしていたといわれる。 
東山道は、大和政権が造った古い道で、中山道より東の山を通っていた。 
応仁の乱〜戦国時代に入ると、湖北の覇権をめぐり、 このあたりで多くの戦いが繰り広げられた。
近くにあった鎌刃城(かまはじょう)は、その要(かなめ)の城であったので、 攻防により、幾度も城主が変わった。 
番場は、この時代、鎌刃城の城下町として、機能を果たしていた。 
現在の西番場地区(上番場村といった) が、当時の宿場であった。 
慶長年間になり、北村源十郎が米原に湊を築くと、米原から下番場村 (現在の東番場地区) へ、深坂道が切り開かれた。 
物流の流れが変わったので、寛永年間(1624〜1644)に、問屋・本陣・脇本陣などの宿場の機能を西番場村から、東番場村の、中山道と深坂道の交差点の場所に移し、 中山道の番場宿とした。 」  



名所訪問 目次