名所訪問

「 中山道 醒井宿 」  


かうんたぁ。


醒井宿(さめがいしゅく)は、中山道の日本橋から61番目の宿場であった。
東西に目付(番所)が設けられ、宿場の長さは八町二間(876m)で、 天保十四年(1843)編纂の中山道宿村大概帳によると、家数539軒、 宿内人口1843人、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒であった。
醒ケ井の地名は、日本書紀にある、   「 日本武尊(やまとたけるのみこと) 、伊吹山にて大蛇をふみて、 山中の雲霧にあい給ひ、御心地なやましたりしが、 此水をのみて醒めたまひぬとなん 」   に因むものである。 


◎ 柏原宿から醒井宿

柏原宿の西見付付近、は楓や松並木が続く山裾の静かな道になる。 
道の右側に、「北畠具行卿墓→」 の看板があったので、寄り道する。 
草薮の中のじくじくした細い道を通ると林の中に入る。
土の道を登り、短い石段を上り、また、土の道を登ると、入口から四百メートル程で、 「北畠具行卿」と刻まれた大きな石柱と、「←清滝寺徳源院1.km ↑北畠具行卿之墓50m」 「小川の関跡1.2km 中山道醒井宿4.9km→」 の道標がある三叉路にでる。 
右の道を登ると広場が現れ、奥に二米余りの砂岩製の宝しょう印塔の形をした 北畠具行の墓がある。 

説明板  国史跡 「北畠具行(きたばたけともゆき)墓」 昭和五年 十一月十九日指定 
「 権中納言 北畠具行卿 (正応三年(1190)〜元弘二年(1332) は、後醍醐天皇の側近として、 同天皇が鎌倉幕府討伐を計画した正中の変(1324)の中心人物であった。 
しかし、この計画は失敗におわり、具行は幕府に捕らえられ鎌倉に護送される途中、 護送人であった佐々木京極道誉 (京極家第五世高氏) の助命嘆願も及ばず、 幕府の厳命により、元弘二年六月十九日、当地にてその生涯を閉じた。 
(享年四十三歳でした。 )  
この宝きょう印塔は砂岩製で、総高二・〇四メートルを計り、 斬首の年から十六年後に建立したという陰刻名 (貞和三丁亥十一月二十六日) がある。
現在、墓所を含め三九五六平方メートルが、史跡に指定されている。 
   平成三年三月        滋賀県教育委員会       」

明治天皇は、近江路行啓で訪れた際、使者を送って御参りをさせている。 
天皇家の忠臣であるので、明治天皇には後醍醐天皇の心境だったのかも知れない。 

北畠具行卿墓入口    道標    北畠具行の墓
北畠具行卿墓入口
道標
北畠具行の墓


中山道に戻り、歩き始めると、山側に一列に松が植えられている。 
「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹」 の木標があり、 2012年に植えられた若い松である。 
その中に、柏原宿の分間延絵図と、両街道の説明板が建っている。 

説明板  「古道東山道の道筋」  
「 東山道は横河駅があった梓を中山道と同じ道で東に進み、長沢(ながそ)を過ぎ、 ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ、山越えをする。 
徳源院のある清滝へ降り、右に折れ、成菩薩院裏山の北側を東進する。 
JR野瀬踏切に到り、再び、中山道に合流して、県境長久寺に向う。 」 

説明板  「九里半街道」  
「 中山道関ヶ原と番場宿の間は九里半街道と呼ばれた。 
木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、 関ヶ原から中山道に入り、番場宿で、船積みの米原湊道に進む。 
牧田から米原湊までの行程は九里半あった。 
関ヶ原・、今須・柏原・醒井・番場の五宿は、この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。 」 

この説明板の先は三叉路で、中山道は右の道を行く。 
三百メートル歩くと鶯ヶ原の説明板が建っている。 

説明板  「鶯ヶ原」  
「 文化二年(1805) 刊行の木曽名所図会に、「長沢(ながそ)村を過ぎて鶯ヶ原に至り、 柏原の宿に着く」 とあり、 また、太田道灌の江戸より京都への旅日記 「平安紀行」 (文明十二年(1480)) に
 「 鶯の原という所にて、  聞まゝにかすみし春そ しのはるゝ  名されなつかし 鶯の原  」  
道灌は、この旅で、寝物語の里でも一首詠んでいる。 道標にあり。 」   

さらに三百メートル進むと、先程分かれた三叉路の道と合流するが、 その手前の右側に 「そうじ丁場と並び松」 の説明板が建っている。 

説明板  「そうじ丁場と並び松」  
「 そうじ丁場とは、街道掃除の持ち場、受付区域のこと。 
貴人の通行に備え、街道の路面整備、道路敷の除草と松並木の枯草・倒木の処置・補植。
柏原宿では江戸後期二十一ヶ村が夫役として従事した。 
丁場の小さい所は伊吹上平等村で15m、 大きな所は柏原宿を除き、長浜の加田村で498mもあった。 
江戸時代の柏原宿では、松並木のことを並び松と呼んでいた。  また、東西両隣り (長久寺、梓河内) 村境の街道松の本数は、 明治五年の調査から逆算、幕末には約四百五十本植えられていた。  」  

奥出川を渡り、長沢(ながそ)集落に入ると、山合いの村という感じがした。 
白山神社は応永十三年(1406)の創建で長沢村の鎮守である。 
白山神社の鳥居の脇の小屋に、「長沢惣倉」 と書いた木札が貼られていた。 
鳥居の向かいに、享保二年(1717)建立の 「従是明星山薬師道」 の道標がある。 
この道標は柏原宿内にあったものと同じもので、 道標の正面 「従是明星山薬師道」、 右面「屋久志江乃道」、  左面「やくしへの道」 と、刻まれている。  

長沢集落      白山神社      薬師道道標
長沢(ながそ)集落
白山神社
薬師道道標

集落を抜けると三叉路で、右の小川(こかわ)坂の土道に入る。 
この分岐点には、大きな「小川関跡」の石碑があり、説明板が建っている。 

説明板  「小川の関跡」  
「 坂田郡史に、 稚涼毛両岐王 (わかぬけのふたまたおう) の守りし関屋 (関所の施設、 現存していない) と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定。 
小川・古川・粉川、または横川の転訛せし 地名としている。 
          (以下略)                
古道の山側には整然と区画された屋敷(館)跡を確認できる。 
        米原市米原観光協会  」  

ここには、「歴史街道 柏原宿枝郷 長沢(ながそ) 左←中山道 右→旧中山道」  の道標がある。 
また、「天の野川源流菖蒲池跡」 の石碑もある。 

説明板  「菖蒲池跡」  
 君がながしき例(ため)に 長沢の池のあやめは 今日も引かるる 大納言俊光  
享保十九年(1734)「近江興地志略」には、  「 此の地の芹 名産なり 相伝う 今昔二町(218m)四方の池なりと。 今は多く 田地となりて、漸く二十間(36m)計りの池となれり。 」
その後、天保十四年(1843)の「中山道宿内大概帳」には、  「菖蒲池と申し伝へ候 旧地ここに有り」とあるので 江戸後期には消滅したようである。 「近江坂田郡志」では、この地が天野川の水源だったと述べている。 」  

右側の道には金網の柵があり、扉を開閉して出入りするようになっている。
入ってすぐに、 「館跡 小黒谷遺跡」  とある。 
林の中の土道を歩くと、「歴史街道  江戸後期旗本西郷氏領  梓河内村(東地先)」 の石碑が建っている。 
その先に、梓河内バス停があり、その傍に道路工事などで集められたと思われる 石仏が並んだお堂が二つある。 
ここで先程分かれた舗装道路と合流する。 
舗装道路を少し戻ったところの道脇に、「集落跡 番の面遺跡」 の小さな石柱と、 説明板がある。 

説明板の内容を要約すると、 
「 番の面遺跡は、昭和30年に後方の小高い丘陵から発掘された遺跡である。
縄文時代中期(約四千年前)の竪穴住宅跡と、多数の土器・石器などが発見された。 
竪穴住居は一辺の長さが四メートル前後の方形で、 四本の柱の穴と中央に炉の跡と思われるくぼみ (0.7X0.5m) が一つあった。   土器は文様から関東地方とかかわりを持つもの、 石鏃は中部山岳産の黒曜石製を含んでいて、広い交流圏を持った遺跡といえる。 」 
とあった。 

緩やかな下り坂を進むと、右側に地蔵祠があり、多数の地蔵が安置されている。 
このあたりは交通の要路で、左側の上に名神高速道路、下は国道21号となっている。 

小川の関跡    番の面遺跡    地蔵祠
小川の関跡
番の面遺跡
地蔵祠

国道21号線の脇に出ると、左側に自然石道標「左中仙道」と標石「墓跡 黒谷遺跡」が建っている。 
次いで、右側に歴史街道 中山道の 「 ←東山道横河駅跡 梓   柏原宿 江戸後期大和 郡山領→ 」  の道標が建っている。  
信号機に、「梓河内」 と表示があり、バス停は多くの車が走る国道と中山道 が接近したところにある。 
中山道は、国道21号とは合流せず、右側に平行して続く道となっている。 
右側には川が流れ、川の向こうに並ぶ家並みが梓集落である。 
小さな梓川橋を渡ると、旗本西郷氏が領した、旧梓河内村に入る。 
梓川は鈴鹿山脈の北端雲仙山に源を発し、醒ケ井の先で天野川に落合い、 琵琶湖に注いでいる。 
宝暦五年(1755)刊の木曽路巡覧記に、 「 あんさ川あなたこなたとわたり、柏原迄の間に三度渡るなり 」 と著されている。   

梓川と国道に挟まれた旧道は桜並木そして松並木になり、のどかな街道となる。 
この辺りは東山道横川駅(うまや)跡で、 古代律令時代には、三十里に一駅が配されていた。 
横川駅は、美濃國不破駅と近江國鳥籠(とこ)駅の中間にあたり、 梓関所があった。
松並木は中山道でこれまで見た松と比べるとかなり大きな木が残っている。 
ラブホテルが数軒並んでいる前を過ぎると国道に合流する。 
頃合いをみて国道左側の歩道に移る。 
国道を五百メートル歩くと道の左側に「中山道左」 と刻まれた、大きな石碑が現れるので、 三叉路で左側の道に入る。 
これが中山道である。 

墓跡 黒谷遺跡      松並木      中山道石碑
墓跡 黒谷遺跡
松並木
中山道石碑


◎ 醒井宿(さめがいしゅく)

うっそうとした林のような場所を通りすぎると民家が増えてくる。 
右側に八幡神社があり、境内の御神木の大杉は、目通り一丈六尺 (約4.9m)で、樹齢五百余年である。 
街道の地蔵祠には、小さな地蔵尊が安置され、花が供えられている。 
八幡神社前を過ぎ、二百メートルも行くと、左に名神高速道路が接近してくる。
ここに、新しい半円形の 「中山道一里塚跡」 の石碑が建っている。 
江戸より百十六里目の中山道の一色一里塚跡である。 
岐蘇路安見絵図には、両塚共に、榎が三本づつ描かれている。 
次いで、右側に真宗大谷派長尾山等倫寺がある。 
道はゆるい下り坂になり、一里塚跡から五百メートル進むと、左側段上に地蔵堂がある。
この辺りは高台で、右手に展望が開けるところがあり、右側に仏心水の祠があり、 説明板がある。 

説明板 「仏心水」   
「 仏教用語で、仏心とは仏のこころ、大慈悲のことをいいます。 
中山道、馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願して、 江戸後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸には旅人の喉を潤すだけでなく、 御仏の慈悲のもとで、旅の安全を祈願したような意味があると考えます。 
他に例がないことから非常に貴重なものと思われます。 
   地縁団体 一色区             」   

坂を下って行く途中の高速道の壁に、「鶯ヶ端」の説明板がある。 
ここからは特に西方の眺めが良く、はるか山間には京の空が望めると有名で、 旅人はみな足を止めて休息したといわれる。  

説明板 「鶯ヶ端跡」   
「 平安時代の三十六歌仙の一人・能因法師が、
   「  旅やどり   ゆめ醒井の  かたほとり   初音のたかし   鶯の端   」 
という句を詠んでいる。 
狩野派の絵師が、ここで、扇に鶯を描き、「生あらば鳴いてみよ」  というと、 扇の鶯は飛び立ち、梅の枝に止まり鳴いたといいます。  」  

坂を下り切ると醒井東バス停に出る。 
此処は醒ヶ井宿の入口で、宿場特有の枡形があり、道は右へカーブし、 すぐに一時停止の交通標識を左折すると東の枡形である。 
左折した左側に、「醒ヶ井宿」の石碑と、「分間絵図」があり、醒井宿に到着である。 
ここが醒ヶ井宿の江戸方入口である。 
醒ヶ井宿の東西に、目付(番所)が設けられていた。

「  醒ヶ井宿の長さは八町二間(876m)で、天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には、 家数539軒、宿内人口1843人、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒とある。 
醒ケ井の地名は、日本書紀の「 日本武尊(やまとたけるのみこと)  、 伊吹山にて大蛇をふみて、 山中の雲霧にあい給ひ、 御心地なやましたりしが、 此水をのみて醒めたまひぬとなん  」  に因むものである。 
また、  「 川となる  すゑまで清し  岩間より  余りていづる  さめが 井の水 (夫木集) 」
とあるように、古来から名水の誉れ高い。  」 

歩いていくと、醒ヶ井宿には古い家が多く残っている。 

地蔵祠    一里塚跡    醒井宿
地蔵祠
一里塚跡
醒井宿

左手の山が迫り出してくるところに、加茂神社の鳥居がある。
かなり急な石段を登っていくと、加茂神社の社殿がある。
本殿は一間社流造、拝殿は入母屋造である。 
当初、天の川加茂が淵に創建されたところから、加茂神社と称している。  

社殿の上に聳えているのは名神高速道路である。
右下を見下ろすと、宿場がカーブして、京側に続いているのが一望できる。 

遷宮記念碑には
「 昭和三十四年の名神高速道路建設に伴い、 敷地と建物が道路予定地に組み込まれたため、移転のやむなきに至った。 
翌年、社殿を解体移転し、現在の場所に復元した。 」 とある。 

階段をおり、街道に戻る。
左手にある加茂神社の前の池には、石垣からこんこんと清水が湧き出ている。 

「 醒井宿三名水の一つである、居醒(いさめ)の清水である。
日本武尊(やまとたける)が伊吹山の大蛇を退治した際、 蛇の毒によって気を失い、この清水で身体や脚を冷やすと痛みがとれ、 目が醒めたところから、 居醒の清水 と呼ばれ、これが地名の由来となりました。 」

加茂神社      宿場一望      居醒の清水
加茂神社
宿場一望
居醒(いさめ)の清水


池の中に、「蟹石」 という石があり、池の周りを散策できるようになっている。 

「木曾路名所図会」には、 「 此駅に三水四石の名所あり、  町中に流れありて至て清し、 寒暑にも増減な し」 と書かれている。 
四石とは、鞍掛け石・腰掛け石・影向石と蟹石を指す。 
美濃にあった霊泉に棲む巨大蟹を持ち帰る途中、蟹に水を飲ませる為に、 この清水に放したところ、石になったといわれる。 
鞍掛け石は日本武尊が鞍を掛けて休まれた石。 
腰掛け石は武尊が腰を掛けて、清流で伊吹山の毒気を清められた場所である。  
影向石は源海寺の竹林にあったが、名神高速道路の工事で池の周りに移された。  

池のまわりに、右手を高々とさし挙げた、日本武尊像が建っている。 

「  古代には、伊吹山を中心とした勢力があり、これに手を焼いた大和朝廷が鎮圧した歴史 があり、記紀にある日本武尊の話はそれを美化した話だとすれば、ロマン溢れる 物語である。 」

石仏群のあるところから、清い泉が涌いていて、柄杓が置いてあった。
これを使わせていただき、水を飲んだ。 透明感のあるうまい水だった。 
その近くに、雨宮芳州の歌碑がある。 
 「  水清き  人の心を  さめが井や  底のさざれも  玉とみるまで  」 

「 雨宮芳州は、滋賀県高月町の出身の江戸時代の儒学者・ 教育者・外交家である。
二十六才の時、木下順庵の推挙により、対馬に渡る。 
以来、朝鮮や中国との外交に尽くし、特に、朝鮮通信使との折衝、応接に貢献。  
その善隣友好、後計対等の外交姿勢は現在も高く評価させている。 
八十一才で一万首の歌を よむ決意をした芳州は古今和歌集を千回も復読したという。  この歌もその中に一つである。 」  

池の脇には地蔵堂があり、一丈一尺(1.6m)の地蔵菩薩坐像が祀られている。 

「 延命地蔵尊は、 花崗岩を丸彫りした半伽像(坐像で片膝を立てている)で、 鎌倉時代後半の作と推定される。
始めは水中に安置されていたので、「尻冷やし地蔵」 と呼ばれていたが、 慶長十三年(1608)、大垣城主の石川日向守が霊験に感謝し、 佛恩に報いるため、砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立し、安置した。 」

説明文 「醒井延命地蔵尊縁起」 
「 嵯峨天皇の時代の弘仁八年(817)、百日越える旱魃が続いたことがあった。 
田畑が干上がり、農民が難儀したのを心配した嵯峨天皇は、伝教大師に命じ、 比叡山根本中堂で護摩を焚き、雨乞いの加持祈祷をさせた。 
最澄の夢の中に、薬師如来が現れ、 「ここより東方数十里行ったところに、清涼な水のいずるところがある。 
そこへ行って雨を求めよ」と告げられた。 
伝教大師が水をたずねてこの地にくると、 白髪の老翁が突然現れ「、 私はこの水の神である。  ここに衆生済度、福寿円満の地蔵尊の像を刻み安置すれば、 雨が降り草木も生き返るだろう」 と言って、水の中に消えた。 
早速、石工を集めて坐像を刻んで祈念したところ、 大雨が三日降り続き緑は戻ったという伝説が残っている。 
それ以来、地元の人々は伝教大師(最澄)が刻んだとされる地蔵を大事にしてきた。 」 

蟹石      鞍掛け石      地蔵堂
蟹石
鞍掛け石
地蔵堂

街道の左側には居醒の清水を源泉とする、地蔵川が流れている。
流れには、梅花藻(バイカモ)とハリヨが棲息している。 
バイカモは、水が澄んで美しい清流しか育たないと言われるが、ここには多くある。
夏にはは、梅に似た小さな白い可憐な花を咲かせる。 
訪れた時、満開の花が、水の中で、揺れながら咲いている姿を見ることができた。
水の中でゆれる白いバイカモの花は優雅なものである。 
また、冷たい湧水を好むハリヨという小魚も生息している。 
川は地元の人々の手できれい保たれていて、さといもの皮をむく、という、小さな水車が 回っていた。

地蔵川      梅花藻の花      小さな水車
地蔵川
梅花藻(バイカモ)の花
小さな水車

街道の左側に、「本陣跡」 の標柱が建っている。

「  地蔵川を渡った奥に、日本料理本陣樋口山がある。 
ここが、代々、江龍家が勤めた本陣跡で、建坪は百七十八坪で、 往時の関札が玄関に掲げられている。 
なお、樋口山では醒井の水で育った虹鱒が賞味できる。 」

本陣向いの公文滋賀醒ケ井教室及び駐車場辺りが、土屋脇本陣跡であるが、 標識等はなかった。 
本陣の並びにある米原市醒井宿資料館は、江戸時代、問屋場を営んでいた旧川口家 住宅である。

「  十七世紀中期〜後期の建築で、木造平屋建である。
建物は修復されたものである。  
なお、醒井宿には七軒の問屋場があり、その内の一軒である。 」

街道を進むと右側に、 二階白壁の軒卯建をあげた、白壁虫籠窓の商家がある。

「   明治三十九年(1906)創業の醤油屋喜代治商店で、ヤマキ醤油は居醒の清水仕込み である。 」

本陣跡      問屋跡      ヤマキ醤油
本陣跡
問屋跡 (醒井宿資料館)
醤油屋喜代治商店

その先の右側に立派な門構えのある屋敷がある。
門前には、 「明治天皇御駐輦所」 の碑が建っている。 

「 この屋敷は江龍宗左衛門家である。
長期に渡り、醒井宿の問屋や庄屋を務めていた家である。
本陣や脇本陣同等の規模を誇る屋敷でした。 」

江龍家向いの筋に入ると、右側に真宗大谷派清流山源海寺がある。
ここに、醒井四名石の一つ、影向石(うごうせき)があったが、 埋没してしまったという。 
紅梅が美しかったので写真に収めた。 

源海寺先の左手に浄土真宗本願寺派宝仙山光顕寺がある。 
街道に戻り、木彫美術館の先を右に入ると、 浄土真宗本願派石龍山了徳寺(りょうとくじ)がある。 

「  元は天台宗寺院であったが、文明年間(1469〜86)に浄土真宗に改宗。 
境内に昭和四年に天然記念物に指定された御葉付銀杏(おはつきいちょう)の木がある。 
樹齢約百五十年で、周囲約2.5m、高さ約12m、葉面上に銀杏の実を 付ける珍しいイチョウである。
全国に約二十本ほどの存在が知られ、 生きている化石ともいわれる地球上たった一族一種の貴重な植物である。 」

江龍家表門      源海寺の紅梅      御葉付銀杏
江龍家表門
源海寺の紅梅
了徳寺の御葉付銀杏

街道に戻ると、左側に流れる地蔵川の中に、「十王水」と刻まれた石灯籠がある。
灯籠の奥から、こんこんと清水が涌いている。 

説明板「十王水」
「 平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が、諸国遍歴の途中、 この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられている。 
もとより、浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったところから 「十王水」と呼ばれるようになったという。  」 

これが醒井宿三水の二つ目である。 
三叉路の右側の道が中山道で、右側の道はJR醒井駅を経て、醒ヶ井大橋に至る。
三叉路の先に、地蔵川に架かる地蔵小橋がある。
左の中山道を行くと、道の左側に、「米原市醒井字西町236番地」 という木柱があり、 頭上には 「泡子塚 西行水 ←」 の標示があるので、奥に入っていく。

十王水      地蔵川三叉路      西行水入口
十王水
地蔵川三叉路(地蔵小橋)
西行水入口

その奥には、岩がコンクリート壁の前に岩が数メートル高さに積まれていて、 岩の間に、石塔と石仏が祀られ、 岩の下には水が湧き出し、水の上に、小さい常夜燈と木の祠があり、 水の中に小さな石仏が複数祀られている。

「 岩の上にあるのは、仁安三年(1163)に建立の五輪塔である。
塔には、 「一煎一期終即今端的雲脚泡」と刻まれている。 
これが泡子塚である。  
「西行伝説(泡子塚)」  
「 西行法師が東遊のとき、ここに立ち寄り、水の畔で休憩していたら、 茶屋の娘が西行に恋をし、西行が立ち去った後、 西行の飲み残したお茶を飲んだところ、懐妊し男の子を出産した。 
関東からの帰途、西行はこの茶屋で休憩し、娘より一部始終を聞いた。 
西行は、児を熟視して、
「 今一滴の泡変じてこれ児になる。 もし我が子ならば元の泡に帰れ 」 、と祈り
   「  水上は  清き流れの  醒ケ井は  浮世の垢を  すすぎてやまん  」
と詠ったところ、児はたちまち消えて、元の泡になった。 
西行は、 「  実の我が子なり!! 」 と、この場所に石塔を建てた。 」 という。  今もこの地名(小字)は 児醒井 である。  

岩の間から清水が湧き出している。
この水が醒井宿三名水の三つ目西行水である。
三叉路まで戻り、右の居醒橋を渡って進むと、右側に旧醒井郵便局がある。

「 この建物は、大正四年(1915)、  米国のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による、 木造二階建ての擬洋風建物である。
国の登録文化財に指定されている。 
昭和四十八年(1973)まで使用されていたが、現在は醒井宿資料館になっていて、 庄屋と問屋を勤めた江龍宗左衛門家に伝わる古文書等を展示している。 」

その先に、JR東海道本線醒ケ井駅があるので、柏原宿から歩いてきた、 醒井宿の旅はここで終わった。 

醒井宿  滋賀県米原市醒井  JR東海道本線醒ヶ井駅下車。

(所要時間) 
   柏原宿 → (1時間) → 醒井宿 → 1時間) → 番場宿

泡子塚      西行水      醒井宿資料館
西行法師の泡子塚
西行水
醒井宿資料館

旅した日    平成十六年(2004)三月二十三日
(再訪)   平成二十年(2008)七月十七日



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