寝物語の里にある、「近江美濃両国境寝物語」と書かれた石標が、美濃路と近江路の分岐点である。
落合宿から歩いてきた、約九十キロの美濃路の旅はここで終る。
ここから、近江路で、最初の宿場は柏原宿である。
柏原宿は、伊吹山の南麓に位置し、
宿場の長さ一・四キロで、東町・市場町・今川町・西町の四つの町で、構成されていた。
天保十四年(1832)編纂の「中山道宿村内大概帳」によると、家数344軒、宿内人口1468人、
本陣1、脇本陣1、旅籠22軒とあり、中山道六十九宿の中で、
宿内人口や家数は東の加納宿、西の高宮宿に次ぐ大きな宿場であった。
◎ 寝物語の里から柏原宿
ここ、長久寺の地名は昔この辺りにあった両国山長久寺に由来している。
長久寺集会所先の右手奥に、春日神社がある。
祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、応永十三年(1406)の創祀である。
集落にはベンガラ塗りの家が多い。
「水利と農村文化探訪マップ」 に、ベンガラの町並の解説があった。
「 ベンガラとは、木造建築の柱など、木造部分を朱色に塗る顔料の慣用名である。
西日本全域に分布していますが、滋賀県では湖北地方に多く見られます。
赤いベンガラで塗った家は柏原から長久寺までが圧倒的に多く、
美濃に入ると特殊の場合を除いて見ることはなくなります。
滋賀県と岐阜県の県境にあたるこの場所が境界線となっており、
地域の伝統的な農村集落景観を形成しているといわれます。 」
ゆるい上り坂を進み、集落を抜けると右側が山になり、楓(かえで)並木になる。
これは明治に入って植栽されたもので、往時は松並木であったといわれる。
右側に、「弘法大師御侘水」 の碑があるが、碑のみで痕跡は残っていない。
先に進むと右側に車道に沿って旧道あり、「←江戸後期大和郡山領
柏原宿 寝物語の里 長久寺→」 の 歴史街道中山道碑 の先で、車道に合流する。
この合流点に、長比城跡登り口標石がある。
元亀元年(1570) 織田信長に反旗を翻した小谷城主・浅井長政が、
信長の近江侵攻に備えて、國境を固める為に、築城した山城である。
登り口を横断すると、「神明神社 天神宮 秋葉宮 参道」 の標柱と鳥居と山燈籠が
建っている。
山燈籠脇に、「旧東山道」 の石柱と説明板が建っている。
説明板
「 神明神社は、延宝五年(1677)に創建された柏原宿の総社で、祭神は天照大神である。
鳥居前の灯篭は、右は寛政十二年(1800)、
左は享和三年(1803)に建立されたもの。 」
その傍らの案内に「旧東山道」 とあったので、入って行くと、 JRの線路までの僅かな部分しか残っていない。
「 國境よりここまでの中山道は、古道の東山道の上に敷設されたが、 その先は廃道になり、野瀬踏切を渡り、柏原宿に入る道が新設された。 」
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◎ 柏原宿
神明神社から先は緩い野瀬坂を下る。
街道は左折してJRの野瀬踏切を渡り、直進する。
右に回り込んだ先の右手に、白清水(しらしょうず)がある。
「 古事記に、倭建命(日本武尊) が伊吹山の神に悩まされ、 この泉で正気づいたところから、玉の井 と呼ばれ、又、照手姫の白粉(おしろい)で 清水が白く濁ったところから、白清水とも呼ばれました。 」
踏切を渡って左の道に入るとすぐ、「柏原宿」 の石碑が建っている。
その中に、柏原宿分間延絵図が描かれている。
また、鎌倉時代から明治時代の柏原宿の略史が
記された解説板もある。
柏原宿の石碑のすぐ先の右側に照手姫笠懸地蔵を祀る地蔵堂がある。
地蔵堂の中には二体の石仏が祀られている。
右側の背の低い石像が照手姫笠懸地蔵である。
左の地蔵尊は、昭和の代に奉納された安産地蔵である。
説明板 「照手姫笠地蔵と蘇生寺」
「 地蔵堂正面に向かって、右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を
照手姫笠地蔵と云う。
現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、
神明神社鳥居の東側平地に在った蘇生寺の本尊ということから、「蘇生寺笠地蔵」
ともいう。
中世の仏教説話集 「小栗判官照手姫」 にまつわる伝承の地蔵である。
「 昔、常磐国(茨城県)小栗の城主・小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながら、
飢餓阿弥となり、一命を取り止める。
これを悲しんだ愛妾の照手姫は、夫・助重を車に乗せ、狂女のようになり、
懸命に車を引っ張って、ここ野瀬まで辿りついた。
そして、野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見付け、自分の笠を懸けて、
一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。
「 立ちかえり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ 」
勇気をえた姫は喜んで熊野へ行き、療養の甲斐あって、夫は全快したことから、
再び当地を訪れ、お礼に寺を建てて、石地蔵を本尊として祀った。 これを蘇生寺という。
近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが、
慶長の兵火で焼失、その後、再興されることはなく、石地蔵のみが残り、
「照手の笠地蔵」 として親しまれてきた。
この辺りには照手姫に関わる伝承地として、
道中の大字長久寺に 「狂女谷」 が地名として残り、
姫の白粉のため水が白く濁ったという 「白清水」 などがある。
(以下略) 」
地蔵堂の先の床屋の前に、「東目付跡」 の表示があり、説明板がある。
説明板 「東目付跡」
「 道の両脇に喰い違いの形で、土手(土塁)が築かれていた。
見付とは本来城門のことで、宿場用語になった。 見付は宿場西口にもあった。
東口の土手は古図に幅二間半、奥行二間半、土手上面に灌木が描かれている。
宿東西の目付は貴人の当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。 」
ここから柏原宿である。
「 柏原宿は、伊吹山の南麓に位置する、中山道六十番目の宿場町である。
江戸から約百十二里、京へは約二十一里のところにあり、
宿場の長さは十三丁(1420m)と長く、
東町・市場町・今川町・西町の四つの町で構成されていた。
天保十四年(1832)編纂の中山道宿村内大概帳によると、家数344軒、宿内人口1468人、
本陣1、脇本陣1、旅籠22軒とあり、中山道六十九宿の中で宿高は四番目、
宿内人口や家数では東の加納宿、西の高宮宿に次ぐ、大きな宿場であった。
旅籠は22軒と少ないように見えるが、隣宿との距離が近いためである。 」
太田南畝の壬戒紀行に、 「 柏原の駅につく。 駅舎のさまにぎはいし。
・・・・ 」 と、その繁盛振りが記されている。
しかし、今回訪れた町の姿は、し〜んと静まり返って、
往年の賑わいはとても想像できなかった。
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東目付付近は東町である。
右側には 「竜宝院跡」 の石柱があり、奥まったところにお堂が建っている。
「 竜宝院は、
嘉吉元年(1441) 妙達法印による開基であるが、昭和十年(1935)に廃寺となった。
残された二体の地蔵尊は照手姫笠掛地蔵の祠内に移されている。 」
その先右側に、天元二年(979) 創建の八幡神社があり、石燈籠の後ろに、 芭蕉句碑が建っている。
「 芭蕉は柏原宿を三回、西から東へ歩いている。
三回目は、元禄二年(2689)の奥の細道で、 敦賀から結びの大垣へ、伊吹山を左手に
見ながら北国脇往還を歩いた。
句碑には、大垣の門人・高岡斜嶺(しゃれい)宅の句会で、詠まれた句が記されている。
「 戸を開けはにし 山有いふきという 花にもよらす雪にもよらす 只これ孤山の穂あり
基まゝよ 月もたのまし 伊吹山 桃青 」
(註) 伊吹山は花や雪や月の借景がなくとも、ただ単に聳え立つ弧山だけで、
立派に眺め賞し得る山容を備えていると、賞賛した句である。
言外に句会の主人斜嶺の人柄は、伊吹山のようだ、と詠んだものである。 」
八幡神社前交差点を越すと、右手奥に、薬師如来を安置する東薬師がある。
街道の右側に、旧屋号札 「旅籠屋 大和郡山藩坂田郡内取締大工 惣左衛門」
があり、宿内の随所にこの様な旧屋号札が掲げられている。
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八幡神社前交叉点の次が柏原駅入口で、右手にJRの柏原駅がある。
柏原宿は東町、市場町、今川町と西町で構成されている。
東町、中町、西町で構成されている宿場が多いが、ここは中町がなく、
市場町と今川町がそれにあたるわけである。
市場町が宿場の中心であった。
「蝋燭屋 助三郎」 と書かれた木札が張られている家の格子のつくりは、すばらしい。
左側に「問屋役杉野重左衛門」の木札が掲げられている家が、問屋場の跡である。
説明文 「問屋場跡」
「 問屋とは街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。
公用の荷物と幕府のご用状の両隣宿までの運送を継立(駅伝輸送)で行っていた。
宿屋の斡旋も仕事である。
柏原宿では江戸後期に六軒の問屋があり、東西に三軒づつに分かれ、自宅で十日
交代で勤めた。
中山道の人足、役馬は五十人、五十疋が義務づけられ、下役には帳付、馬指、人足指が居た。
村年寄りが問屋役を補佐した。
人足・馬を出し、問屋業を補佐した助郷村は、近隣十六ヶ村、彦根藩村々の離脱から
五十一ヶ村かつ遠方からが多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。 」
隣りの はびろ会館 が東の荷蔵跡で、この蔵は東蔵とも呼ばれた。
会館の前に説明板ががある。
説明文 「柏原宿荷蔵跡」
「 宿場業務の重要な公用の荷物引継のための荷蔵(一時保管用)のあった場所、
東西に一棟づつ建っていた。
荷蔵は運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、
当日中に出来ない場合に荷物を蔵に保管した。
東蔵はまた大垣藩の年貢米集荷の郷蔵でもありました。 」
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柏原を詠った歌で、
( 一条兼良 ) 「 ふく風は まだ来ぬ秋を 柏原 はびろが下の
名には隠れず 」
( 冷泉為相 ) 「 おいくだる 山の裾のの 柏原 もどつ葉交り
茂るころかは 」
とあるが、この中の はびろ とはなにか?
山東柏原郵便局の隣の民家の壁に、「脇本陣・問屋役年寄 南部源左衛門」 と 書いた木札が貼られていて、説明板がある。
説明板 「脇本陣跡」
「 脇本陣は大名、幕府役人、官家、公家、高僧他貴人が本陣を利用できない時の
公的休泊施設である。
柏原宿は、南部本陣の別家が本陣同様、江戸時代を通じて勤めていた。
間口はこの民家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は二百三十八坪、
建坪七十三坪あった。 」
滋賀銀行の隣りに、「旅籠屋京丸屋五兵衛」 の屋号の木札が掲げられている。
榊原宿の旅籠は、ここ市場町と、西部の御茶屋御殿辺に集中していたようである。
脇に旅篭屋の説明板がある。
説明文「旅篭屋」
「 天保十四年(1843)の記録によると、宿内には二十二軒の旅籠と下記の業種が
ありました。
もぐさ屋 九軒( 屋号の頭は、どこもみな亀屋)
造り酒屋 三 請負酒屋 十 炭売茶屋 十二
豆腐屋 九 他商人 二十八 大工 十
鍛冶屋 一 諸職人 十三 医師 一軒 でした。 」
向いが、造り酒屋西川瀬左衛門跡で、年寄りを勤めました。
隣が問屋場跡で、奥まった家の前には 「問屋役年寄吉村逸平」と、
「 映画監督 ・ 吉村公三郎の実家 」 の木札がある。
当家は映画監督吉村公三郎の実家で、
吉村逸平が問屋役を勤め、宿場役人の年寄りを兼ねました。
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その隣に、「東の庄屋 吉村武右衛門」 の木札のある家がある。
吉村武右衛門は吉村公三郎の祖父で、柏原宿最後の庄屋を務めたという。
吉村公三郎の実家から三軒目が本陣跡で、南部辰右衛門が勤め、年寄を兼ねました。
説明文 「本陣跡」
「 本陣は大名、幕府役人、官家、公家、高僧他貴人が本陣を利用できない時の
公的休泊施設である。
柏原宿は江戸時代を通じ、南部家が本陣を務めている。
間口は両隣を合わせた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪百三十八坪あった。
建物は皇女和宮通行に際して、新築されました。
明治になり、柏原小学校の前身の開文学校がここに創設され、
その後、建物は明治中期に、岐阜県垂井町の南宮神社の宮司宅に移築されました。 」
建物の右側の板壁に宿泊した人の宿札(関札)が貼られている。
「明治天皇行在所」の石碑と、「歴史街道 皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」と
書かれた、新しい石碑が建っている。
「 皇女和宮は、南部本陣にて、四日目の夜を過ごしました。
皇女和宮の婚礼道具は厳しい中部山岳地帯を避け、垂井より美濃路に入り、
東海道にて江戸まで搬送されました。
皇女和宮の夫君の徳川十四代将軍家茂は
慶応元年(1865)第二次長州征伐の途上、当本陣に宿泊しました。
翌年、大阪城にて病に倒れ、死去しました。 享年二十一歳。
明治の世になると、明治天皇行在所となりました。 」
市場川手前の右側に、文化十二年(1815)建立の秋葉常夜燈がある。
ここが高札場跡で、説明板が立っている。
説明文 「高札場跡」
「 高札場とは幕府がお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。
高札は江戸中期以降幕末まで、正徳高札6枚、明和高札1枚、
その時の両隣宿迄の運賃添高札1枚、計8枚が懸っていた。
高札場は、道沿いの長さは4.86m、高さは0.91mの石垣を
築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。
なお、宿には出町(小字)長沢にも小さな高札があった。 」
高札場があったことから、 札の辻 と呼ばれ、
市場橋を渡ると左側の橋詰に、番所があった。
橋を渡ると江戸時代には今川町。
左側にある大きな古い家は、艾(もぐさ)屋の亀屋伊吹堂である。
江戸時代には艾の販売の他、茶屋と旅籠を経営していた。
「 旅といえば、てくてく歩くしかなかった江戸時代に、
旅の疲れをとるにはお灸が最高で、艾(もぐさ)はその必需品であった。
伊吹山は古くから薬草の宝庫として知られ、もぐさの原料であるヨモギを産したが、
麓に近い柏原では伊吹山でとれたもぐさを加工し、全国に販売していた。
最盛期には十数軒の伊吹もぐさ屋が、「亀屋」 の屋号で、軒を連ねていました。
中山道最大の宿場名物になっており、
参勤交代の大名行列もお土産に購入したといわれる。
現在営業するのは伊吹堂亀屋佐京商店 、この店だけである。 」
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安藤広重は木曽海道六十九次之内の「柏原」として、この亀屋の商い風景を描き、 右端に福助人形を配している。
「
江戸や大坂の大消費地で宣伝をおこなって繁盛させたのがこの店の六代目松浦七兵衛である。
、
「 江洲柏原 伊吹山のふもと 亀屋佐京のきりもぐさ 」 と
吉原の遊女に歌わせたというから、現在のコマシャルソングの草分けといえよう。
亀屋のシンボル・福助人形は、働き者の番頭がモデルで、店を繁盛させた功労者という。 」
亀屋の向いに、 「造り酒屋 年寄 巌佐九兵衛」 の木札の上に、「造り酒屋跡」 の 説明板が貼られている。
「 造り酒屋は宿場内に四軒、米一五〇石が割当てられていた。
現在一軒もない。 この家もその内の一軒である。
柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株(さけかぶ)は宿内合せ、百五十石が許可されていた。
ここは宿場役人の年寄りを勤めた、造り酒屋巌佐九兵衛跡跡で、 、
慶長年間(1596〜1615)の酒造りの記録を残しているという。
隣りは造り酒屋山根庄太郎跡である。 」
隣の旧柏原村役場跡には立派な公衆トイレがある。
柏原歴史館は残念ながら 当日は休館日であった。
「 歴史館の建物は、大正六年(1917)に、 松浦久一郎(伊吹もぐさ亀屋左京商店の分家)により建てられたもので、 仏間・備後の中継ぎの畳・栂の柱など、贅沢な造りで、 平成十二年(2000)に国登録有形文化財に指定された。 」
次いで、右側の日枝神社は、元暦元年(1184)の創建で、山王権現と呼ばれ、
本殿は一間社流造茅葺きである。
向いのJAは、近江源氏京極道誉が設置した、中世柏原宿箕浦代官屋敷跡である。
明治十一年(1878)に、滋賀県下三番目に創立された柏原小学校跡である。
更に行くと、左手に柏原福祉交流センターがある。
ここは西の荷蔵跡で、明治に入り、柏原銀行が設立されました。
隣に漆喰の大きな屋敷は、艾屋亀屋山根為義跡で、
正面玄関に、「東部デイサービスセンターはびろ」 の看板が架かり、
塀の中には、「柏原銀行跡」と、「西荷蔵跡」の説明板が建っている。
説明板 「西荷蔵跡」
「 運送荷物の東西両隣宿へ継立(駅伝輸送)が当日中処理出来ない場合、
荷物を蔵に預かった。
この蔵は西荷蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿東部にもあった。
なお、当宿は寺院の数が中山道二番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、
柏原宿は大名通行定番の宿泊地となった。 」
説明文 「柏原銀行跡」
「 明治34年(1901)、江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は同業・旅籠屋・呉服屋で
あった五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。
中世、江戸期を通じ、
大きな宿場として栄えた柏原村はその当時も多くの商店が立ち並び、
国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と、岐阜県隣村今須村地域の中心地であった。
柏原銀行の支店、出張所は米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色、隣村の今須も設置された。
その後、米原・野一色は閉鎖されたが、昭和十八年(1943)、滋賀銀行に合併する迄
の四十二年間、この地方の産業活動を支援してきた功績は大きい。 」
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西荷蔵跡のすぐ先左側に、「従是明星山薬師道」 と彫られた石の道標と、 説明板がある。
説明板 「薬師道道標」
「 (弘仁六年(815)に、最澄が創立したという、明星山明星輪寺(みょうじょうりん
じ)泉明院への道しるべである。
宿内東に同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、
西やくし道とも呼んだ。
太平洋戦争までは眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、
今は往年の面影がない。
この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、
横二面が平仮名、変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。
出町(小字)長沢にも同型の道標がある。 」
ここを左に入ると、延暦年間(782〜806) 創建の 浄土真宗本願寺派弘宣山教誓寺
(きょうせんじ)がある。
街道を進むと右側の黒板塀の旧家が問屋場跡で、山根甚左衛門が勤め、年寄を兼ねていた。
少しいくと広い交叉点にでるが、左手前角にふれあい会館、その後ろに火の見
櫓が立っている。
交叉点を右に行くのが清滝道である。
「 清滝道は 清瀧寺徳源院への一キロほどの道である。
清瀧寺は京極家の墓所で、二十数の印塔と湖北唯一の三重塔がある寺である。 」
交叉点を越えた右角の公園の中に、「御茶屋御殿跡」 の説明板がある。
説明板 「御茶屋御殿跡」
「 江戸時代、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊、休憩の目的で、
街道の各所に設けられた館で、近江では柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿
を合わせて、近江三御殿 と称されてきた。
天正十六年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息し、
以後、中山道通過の際休泊するのが慣例になっていた。
通過が頻繁になったため、元和九年(1623)
二代将軍・秀忠が御殿を新築、以後、御殿番を置いて守護してきた。
その後、徳川幕府の勢力増大につれて、将軍上洛は減少。
元禄二年(1689)の徳川五代将軍・綱吉の代に御茶屋御殿は廃止された。
家康の頃から約百年、殿舎建築から六十五年の歳月が流れた。
この間、記録にあるだけで、併せて、十四回使用されている。
元禄四年の記録では、総敷地壱町九畝余、その他御守殿跡一畝八歩とある。
勝専寺の門が御殿の門と伝えられる。 」
次いで、左側の黒塀の古い家は加藤家で、柏原宿で一軒現存する郷宿(ごうやど)跡である。
郷宿とは、脇本陣と旅籠の中間で、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用された。
少し歩くと家並みが無くなる。
王子神社、王子古墳などを案内した看板を過ぎると、右手にこんもりした山が見えてくる。
中井川を中井川橋で渡る。 橋の袂に「ホタル・幼虫・カワニナをとらないで」の注意板がある。
数軒の家が建つところの右側に、石造りの「金比羅常夜灯」が建っているが、
文化十二年(1815)に建立された古いものである。
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仲井川橋、続いて丸山橋を渡ると、右側の山は迫ってきて、左側には田畑が広がる。
左側の柏原仲井町バス停の脇に、「柏原一里塚跡」の標石と説明板がある。
奥出川の対岸には、江戸より百十五里目の柏原の一里塚が復元されている。
説明板 「(復元)柏原一里塚」
「 一里塚は旅人の里程(みちのり)の目安、駕籠や馬の乗り賃の目安、旅人の休息場
として生まれた。
慶長九年(1604) 徳川家康の命を受け、秀忠はまず東海道、中山道、
北陸道での一里塚の築造に着手した。
そして、奉行には永井弥太衛門進元、本多佐太夫光重を任命、
江戸は町年寄の樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門、
街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。
工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は五間(9m)四方に盛土して、一本又は数本の木が植えられた。
おもに榎が選ばれた。 成長が早く、根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。
柏原一里塚は江戸日本橋から数えて百十五番目で、
柏原宿内の西見付付近に街道を挟んで、北塚と南塚があった(両塚とも現存しない)
北塚は街道に沿い北側で、
愛宕神社参道の石段東側(現中井集会所)の場所にあった。
南塚は街道を横切る接近した二つの川筋のため、
やむを得ず、東岸の川岸で街道より奥まった所に築かれた
(現在では大幅な河川工事が行われているので、この地点から東寄りの河床の位置に
なる)
なお、江戸時代刊行の道中記などを見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。 」
右上の山に愛宕神社が祀られているが、柏原宿の京口にあって、悪霊の侵入と
防災の守護でした。
一里塚から四百メートル歩くと、「西見付跡」 の説明板が建っている。
説明板 「西見付跡」
「 柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。
見付の語源は城門で、宿場用語になった。
この地点の海抜標高は174m(磨針峠は154.2mで、
ここより低い)彦根城と比較すると、天守の上に天守が更に一つ、
大垣城では何と六つ積み上げないと、ここの高さに届かない。
柏原宿は東見付まで十三町(1.4km)長い高地の町並が続く。 」
柏原宿の長さは千四百メートルと長く、近江路(柏原〜草津宿)では最長、
中山道全体でも十番目の長さだった。
西見付を過ぎると杉並木になり、「ここは中山道柏原宿」の石標があり、ここで
長かった柏原宿は終わる。
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柏原宿 滋賀県米原市柏原 JR東海道本線柏原駅下車
(所要時間)
今須宿→(1時間)→柏原宿→(1時間)→醒井宿