続日本100名城 (200) 勝連城(かつれんぐすく)
勝連城は琉球王国の王権が安定していく過程で、
国王に最後まで抵抗した有力按司・阿麻和利(あまわり)が居住した城である。
「 勝連城は五つの郭(曲輪)からなり、
南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。
勝連城は琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した
有力按司・阿麻和利(あまわり)が居住した城である。
伝承によると、英祖王系二代目大成王の五男、勝連按司により築城されたといい、
五代続いたが、跡継ぎがなく、伊波按司の六男を養子に迎え、
七、八代目は浜川按司、九代目は茂知附按司という。
茂知附按司は圧政を敷いたことから人々の信頼を失い、
クーデターにより阿麻和利にとって代わられたと伝えられる。
阿麻和利は北谷間切屋良(嘉手納町)の生まれで、勝連按司に仕えた。
領民の信望を得た阿麻和利は、九代茂知附按司に代って城主になると、
本土をはじめとする対外貿易を活発に行い、勝連を大いに繁栄させた。
沖縄最古の歌謡集である「おもろさつし」に勝連城や城主(按司)について、数多く謡われていて、
勝連は「きむたか(肝高)」と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられる程繁栄したとあり、
阿麻和利も「千年もこの勝連をおさめよ 勝連の名高き王」と讃えている。
阿麻和利は、国王の重臣で中城城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、
さらに王権の奪取を目指して国王の居城である首里城を攻めたが、大敗し、勝連城は廃城になった。 」
」
勝連城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に五つの郭(曲輪)を築き、
南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。
「 奥に見えるのは北城で、手前の城壁が欠けているのが中間の内で、
左手が南城と思われるが、説明がないので確認できなかった。 」
北城はかなり急な階段で構成されていて、
石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、
一の郭が最も高く標高約百メートルの丘陵上にある。
石段を上ると広い広場になっている三の曲輪に出る。
説明板「三の曲輪」
「 発掘調査で時代の移り変わりの様子が分かった。
古い時代は掘立柱の建物が立ち並び、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構が中央部で見つかっている。
これは水を貯める施設と考えられる。
新しい時代になると、この三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし、
儀式などを行う広場に変わっていった。
その後、城が滅んでからは祭祀の場として使用され、中央西側に肝高の御嶽、
その近くに神人たちが祭祀の際に休憩する「トウヌムトウ」と呼ばれる石列などが残されている。 」
三の曲輪から石段を上ると二の曲輪である。
説明板「二の曲輪」
「 この曲輪では正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡が発見された。
礎石のあるしっかりした建物で、屋根に板または草葺きだったと考えられるが、
周囲から大和系瓦が発見されているので、一部瓦葺きだった可能性がある。
建物の四隅には長方形の石灰岩による石積が発見させた。
この曲輪の西側には地元で火の神と呼ばれている場所がある。 」
北西側の洞穴は「ウシヌジガマ」と呼ばれるもので、
的に攻められた時に身をしのぐ場所と考えられる。
石段を上ると、一の曲輪に出る。
説明板「一の曲輪」
「 一の曲輪は発掘調査の結果、岩盤を削って平坦にするなど、
大がかりな土木工事を行い、瓦葺きの建物があったことが分かっている。
多くのグスクの中で、
瓦葺きの建物は今のところ、勝連城のほかには首里城と浦添城だけである。
出入口の門付近から唐草様の浮彫のついたアーチ石の一部が発見され、
装飾の施された豪壮なアーチ門であった可能性がある。 」
一の曲輪は海抜百メートルの高さにあるので、
北は金武湾を囲む山々や太平洋の島々が望まれ、南は知念半島から中城湾、
それをへだてて護佐丸の城である中城城が一望できる景勝地である。
城内からは中国、元代の染付陶磁器が出土しており、
中国貿易がさかんに行われたことが感じられた。
民俗学者の柳田国男は、「勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと
「おもろそうし」にあるように、
浦添、首里、那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか? 」、
と推測している。
所在地:沖縄県うるま市勝連南風原3908
那覇バスターミナル52番与勝線で約2時間、勝連城跡前下車、すぐ
那覇バスターミナル29番屋慶名線で約2時間、西原下車、徒歩約10分
中城城跡から仲順バス停から与勝線で約1時間、勝連城跡前下車、すぐ
勝連城のスタンプはあまわりパーク観光案内所(9時〜18時 年中無休) に設置されている
うるま市勝連南風原3807−2 098−978−7373
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