続日本100名城 (198) 知覧城(ちらんじょう)






知覧城跡は知覧特攻平和会館と続日本100名城のあるミュージアム知覧の南東の森の中にある。 

「 知覧城は鹿児島県南九州市知覧町永里にあった中世の城で、 シラス台地を利用した南北八百メートル、東西九百メートル、 面積四十五万平方メートルという壮大な城郭であった。 シラス台地のへりにできた浸食された大きな谷を利用して空堀とし、 十余りの曲輪(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、 築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。 
中核となる本丸の他、今城、蔵之城、弓場城などの曲輪と 式部殿城、児城、東之栫、西之栫、南之栫、伊豆殿屋敷等の出城から成り立っていた。 
本丸以外の曲輪は二重の深い空堀で更に囲まれていた。  十六代当主、佐多久達の時、知覧城は原因不明の出火で炎上し、廃城となった。 
火災のために当時の建造物は全く残っていないが、 その後ほとんど手が入れられなかったため、 南九州中世城郭の典型例を残しているといわれる。 」

知覧城図
知覧城図




知覧城跡は民家から少し離れた森の中にあった。 
道路脇に車を停めると、「国指定史跡 知覧城跡」の標柱があり、その脇に 「知覧城跡」の説明板が立っている。 
城の歴史の詳細や上記の城図などが記されていた。

「 鎌倉時代の始め、源頼朝の命によってできた建久八年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、 当地は知覧院と呼ばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治めていたところに、 地頭として島津忠久(島津氏初代)が乗り出してきた。   その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、 郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦しましたが、 ともに没落してしまう。  島津宗家四代当主忠宗の三男(五代島津貞久の弟)忠光は、大隅国佐多村を領有していたことから、 佐多氏を名乗り、初代佐多忠光となる。  文和二年(1353)、足利尊氏が軍功を賞して、郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、 これ以後、薩摩国知覧は佐多氏の領地となりました。  室町時代初め、知覧は、そのころ南薩摩に勢力を張っていた伊集院氏の一族、 今給黎久俊が押領して、島津氏八代目久豊に反抗していましたが、 応永二十七年(1420)、ついに降伏しました。  山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城と呼ばれてました)に入ると、 あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏四代佐多親久に与えました。  これが知覧城に関する最も古い記録となっています。  その後、天正十九年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、 隣村川辺宮村に領地が移されました。 十年後にまた知覧に復帰しましたが、 その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。  元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、 それをまつまでもなく知覧城は廃城となったものと思われます。 
なお、佐多氏は江戸時代より薩摩藩一所持の家格となる。  十六代久逵は薩摩藩二代藩主、島津光久の子で、 四代藩主、島津吉貴より島津庶流知覧家として、長男家のみであるが、島津姓を代々名乗ることを許され、この後の知覧領主は島津を名乗っている。 」  

道路の右側が本丸などのある城郭跡である。  そこに向って少し道路を歩くと、右側が開けているので中に入って行く。  ここは小谷大手口である。 
「←今城・弓場城」「本丸・蔵之城→」の道標が立っていた。
このあたりには、かって、やぐら台と土橋があったようであるが、形跡は残っていない。 

知覧城跡説明板
     知覧城のある森      道標
知覧城跡説明板
知覧城のある森(小谷大手口)
道標



本丸へ向かって進むと「空堀」の標木があった。 
  南九州の城はシラス台地に曲輪が造られ、雨で削られつくられた谷は空掘として利用され、 平時は通路として利用された。 
ここも両脇は丘稜になっていて、その上に曲輪があった。
その先に「←主郭部入口」の道標がある。 
この先は左に曲がる枡形虎口で、右側は本丸、左側は蔵之城で、地面に「枡形」の標木がある。

空掘
     主郭部入口      枡形虎口
空掘
主郭部入口
枡形虎口



枡形の階段を上ると道は左に曲がり、右側には階段がある。 
ここは本丸へ入る玄関口で枡形になっている。
  道の両側は開けたところに出た。 右側の樹木の間に階段が見える。
階段は右にカーブし、その先に「枡形」、そして、「虎口」の標板が現れた。

枡形道
     本丸登城道      本丸虎口
枡形道
本丸登城道
本丸虎口



上った先には「知覧城址」の石碑があり、背後の桜は満開で美しかった。
この空地が本丸跡で、土地の一部が盛り上っていたが、何かがあった場所なのだろうか?
北側に「土塁」の標木がある。 草が生い茂っているので、確認はむずかしいが、 横に土塁が続いているのだろう、と思った。
下に降り、反対側の階段を上る。 階段の手前に「蔵之城」の道標がある。 

本丸跡
     土塁      蔵之城入口
本丸跡
土塁
蔵之城入口



階段は左に折れ、右にカーブし上ると、左側に「虎口」の標板があり、 かっては蔵之城の入口の虎口を形成していた。
ここは、現存する虎口で、屈折している。 
発掘調査で別の虎口が発見された。 これは以前に築かれたもので、 直進して入城するようになっていた。 
蔵之城は正方形に近い形をしていて、南側に柱跡が縦横に沢山配置されている。  これは大型掘立柱建物跡の表示で、 この曲輪には兵士が多く滞在できるようになっていた様子である。

説明板「 掘立柱建物跡」
「 発掘調査によって、桁行きが6.5尺(約1.97m)の東西4間(約7.9m)X 南北4間(約9m)の東・南・西側に庇がつく(3間3面ひさし)建物跡と考えられる柱穴が、 出土している。 柱の大きさは約15センチ〜約20センチ(5寸〜6寸)ほどであることが発掘調査で 分った。 室町時代の建物跡と考えられる。  」

「国史跡 知覧城跡 蔵之城跡」の説明板が地面にあった。

「 知覧城は知覧麓の武家屋敷群から、 南西に約1.2キロ、シラス台地の自然地形を利用して、深い空掘で区画され、 独立した大規模な丘稜を形成した中世佐多氏の居城である。  城の中心に位置する蔵之城は、平成13年(2001)から16年(2004)に発掘調査が実施された。  掘立柱の建物跡、虎口(城の入口)などの施設跡が見つかった。  遺物には15世紀・16世紀代を中心とした中国(明)やタイ(シャム)などの青磁や白磁、染付けの皿、碗、瓶、それに茶つぼ、茶入れ、甕など、多数の陶磁器片がある。  また、硯や碁石、かんざし、鉄クギ、金銅製の十一面観音菩薩立像などが出土した。  曲輪(平坦地)の南側には、掘立柱建物が密集して建っていたのに対して、 北側には木炭を含んだ施設の跡や炉跡などがみつかっていることから、 北側は作業場や炊事場で、南側は、武士たちの居住の場として区別されていたのだろうか。  当時の城でのくらしがしのばれる。 」

虎口跡
     大型掘立柱建物跡      説明板
虎口跡
大型掘立柱建物跡
説明板



土塁は南側と東側に残っている。 土塁は土製の壁のことで、 もともとあった火山灰の地層を掘り出して築いている。  本来はもっと高かったと思われる。
蔵之城からは、使途不明な12基の竪穴が発見されている。

竪穴遺構(土坑)
「 中には3mを超える深い穴や直径約1m、円形で深さ約2m、底には、 15世紀代の青磁碗やイノシシの骨、貝殻片などが入った穴もあった。  排水を兼ねたゴミ溜めの穴、トイレ、あるいは何らかの儀式に使われた穴だったのか、 これに似た穴は、本丸跡からも1基発見されている。 」

下に降りると、「本丸・蔵之城→」「↑今城・弓場城」の道標があったので、今城方面に向う。 
その先には「弓場城→」「←今城」の道標がある。
今城方面の階段を上ると、周りは樹木が繁っている平場(広場)がある。 
これが今城跡で、横に少し長い形状をしていた。

土塁
     道標      今城跡
土塁
道標
今城跡



今度は弓場城の道標の矢印に沿って弓場城へ行く。
こちらの道は自然のままという感じで、林の樹木の間を行く。 
林を抜けると弓場城跡があった。 これまでの三つの曲輪より小さく、 横に長い五角形のような形をしていた。 
奥にはしっかりした高い土塁が残っている。
以上が知覧城の中核部分でその外に拵という出城や殿屋敷、蔵屋敷があったようであるが、 訪問はしなかった。 
ミュージアム知覧で続日本100名城をスタンプを押した。 

弓場城への道
     弓場城跡      ミュージアム知覧
弓場城への道
弓場城跡
ミュージアム知覧



所在地:鹿児島県南九州市知覧町永里  
JR鹿児島中央駅から鹿児島交通バス特攻観音入口(知覧)行きで1時間14分、 中郡バス停で下車、南東へ徒歩15分 
JR指宿枕崎線喜入駅からバスで薩南工業高校バス停で下車、徒歩15分 
九州自動車道(または指宿スカイライン) 谷山ICから約45分   
知覧城のスタンプはミュージアム知覧(南九州市知覧町平和公園内 0993−83−4433 9時〜17時 水休 12/29-12/31 7/1-7/3休) にて  



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かうんたぁ。