続日本100名城 (195) 延岡城(のべおかじょう)
延岡城は宮崎県延岡市本小路に江戸時代初期、高橋元種により築かれた平山城で、
築城当初は縣城(あがたじょう)と呼ばれたが、後に延岡城へ改称された。
別名は亀井城である。
延岡駅の南西約千二百メートルの延岡地方裁判所の西側にあり、
城址公園になっている。
「 高橋元種は筑前の戦国大名、秋月種実の次男として生まれ、天正六年(1578)に高橋鑑種の養子となる。
天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に五万三千石が与えられた。
関ヶ原の戦いでは西軍だったが、東軍に内応し、徳川家康から所領を安堵され、縣藩が誕生した。
慶長六年(1601)、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた中州と中央の独立丘陵(延岡山、
現在の城山)に、神田壱岐守による縄張りで築城を開始する。
五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、城山の周辺に内堀と石垣を築き、
本城と西の丸の二郭を造り、本城は本丸、二の丸、三の丸の三つからなり、
慶長八年(1603)の秋に完成した。 」
高橋元種は城下町づくりに着手し、侍屋敷として
本小路、北小路、桜小路、天神小路を整備し、城の東側に南町、中町、北町の城下町を配した。
また、越中屋、大坂屋、大和屋、石見屋、志摩屋など、全国から商人を招き、藩政の基礎を固めることに尽力し、
縣藩、後の延岡藩の政庁、臼杵郡地域の拠点となった。
「 高橋元種は慶長十八年(1613)に罪人を匿ったとして改易され、
慶長十九年(1614)、肥前国日野江藩より有馬直純が五万三千石で入封した。
第二代藩主、有馬康純は、承応元年(1652)、縣城の修復に取りかかり、
石垣普請から始め、翌年の承応二年(1653)に三階櫓、二階櫓、二階門櫓の建設に着手し、
明暦元年(1655)六月、縣城を完成させた。
また、城下町を整備し、康純の統治三十八年間に今日の城下町、延岡の原型が完成した。
延岡藩の後は三浦氏、牧野氏と続き、内藤氏支配で幕末を迎えた。
明治三年(1870)に廃城となり、西の丸は内藤記念館として利用されたが、
太平洋戦争時の昭和二十年(1945)の空襲により焼失した。 」
有馬康純は、明暦二年(1656)に今山八幡宮に梵鐘を寄進、
それには 「 明暦二年丙申六月吉日 … 日州延岡城主有馬左衛門佐 … 藤原朝臣康純 」と記されていて、
延岡の地名が始めて現れる。
この鐘は初代城山の鐘として、内藤記念館に所蔵されている。
明暦元年(1655)、有馬康純により建られた天守代用の三階櫓は、
天和二年(1683)に焼失したが、以後再建されなかった。
明治三年(1870)に廃城となり、西の丸は内藤記念館として利用されたが、
太平洋戦争時の昭和二十年(1945)の空襲により焼失した。
この城の特徴は二の丸の石垣で、千人殺しと呼ばれるものである。
「 その名は石を一つ外すと高く長い石垣が一気に全壊し崩れ落ち、
大勢の敵軍を殺すことができると言われることから名づけられた。 」
北大手門は平成五年に復元されたもので、北口の登城門で、二の丸への入口になっている。
天主台跡に鐘付き堂があり、明治十一年から今日まで一日に六回、
市民に時刻を告げていて、歌人若山牧水もその様子を歌に詠んでいる。
所在地:宮崎県延岡市東本小路他
JR日豊本線の延岡駅から徒歩約20分
延岡駅からバスで市役所前下車徒歩10分
延岡城のスタンプは二の丸広場管理事務所入口(24時間押印可)にて
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